星をさずける |
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7 その日の約束は、隣町にある鉄板焼きの店だった。佳介が大学の教授からおすすめしてもらったらしい。伊織と佳介が親しくなって、食事に一緒に行くようになったことを、同僚の女性には知られていない。なので、待ち合わせは店ではなく、駅にしてもらっていた。 おつかれさまです、といつものように閉店作業を終えたあと、挨拶をする。閉店時間になってもお客様の対応をしていたので、余裕を持たせたはずの待ち合わせ時間からも、少し過ぎてしまっている。足早に急ぎながら、携帯で、いまからいきます、とメールを送った。 佳介は几帳面な性格のようで、時間が許すようであれば、いつもメールにはすぐに返事がある。けれど今日は、駅が見えてきても、まだ返事は届かなかった。どうしたんだろう、と、いつもと違うことに、少し不安になる。 待ち合わせをしていたのは、駅舎の前の、大きな木が一本ある広場だった。木のまわりを取り囲む、丸いベンチがある。佳介はいつもそこに座って、タブレット端末でなにかを読みながら伊織を待っていてくれる。今日は、そのベンチには誰もいなかった。鳩が数匹、首を揺らしながらうろついているだけだ。 時計を見る。待ち合わせの時間を、三十分も過ぎてしまった。待ちくたびれて、どこかに行ってしまったのだろうか。それにしても、佳介なら、何か連絡がありそうなものだが。 よくないことが起こったのではないかと、不吉な予感に背筋が震える。電話をしてみようと思って、伊織が携帯を取り出した時だった。 「……だから、そういうのは、俺は無理だから」 知っている声が、ふいに耳に飛び込んでくる。ちょうど、帰宅ラッシュの時間だ。駅舎前の広場も、帰る人と帰ってきた人、たくさんの人の姿がある。その人波の中、聞こえてきた声の主を探そうとして目を凝らす。 「だって、分かってるだろ。そんなのおかしいって」 確かに、知っている声だ。ただ、伊織が、これまでに聞いたことのないような声だった。うっかりすると、気付かなかったかもしれない。彼のはずではない、と、そう判断して通り過ぎてしまったかもしれない。その声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。 まるで人目を避けるように、街灯の光のあたらない暗がりに、ふたつの人影を見つける。背の高い大きな影と、小さな、華奢なもうひとつのシルエット。小さい影の主が、何か言ったらしかった。ふわりと、長い髪が揺れる。何を言ったのかは、伊織の耳では拾えなかった。 「おかしいよ。俺は、そんなこと出来ない」 それをはねつけるような、ぴしゃりと冷たい声。小さい方の人が肩を落としたのが、影を見ていただけで分かった。 見ていられなくなり、つい、声をかけてしまう。 「綾瀬さん」 伊織の声に、ぴたりとふたつの影の動きが止まる。間違いであって欲しかった。人違いですよ、と、怒って追い払われたかった。 「……茅橋さん」 けれど、残念ながら、間違いなかった。 声をかけられて、暗いところにいたふたりは、おずおずと明るい方に少し足を進めてきた。苦々しい表情をしている佳介と、その彼の背中に隠れようとしているような、どこか怯えた様子の、かわいらしい若い女性。きちんと手入れされていることが一見して分かる、艶やかな長い髪。防寒のためにコートを着ているから分からないけれど、きっとほっそりとした、華奢なネックレスが似合う白い首筋の持ち主だ。この人誰、と、怯えるように佳介の腕に添えられた手も、白くてかぼそい。 どんな関係にあるふたりなのかなんて、教えてもらわなくても、嫌というほど分かった。 (……彼女だ) あの指輪を、授けてもらうはずだった人だ。佳介が時間をかけて、喜ばせたい、幸せにしたい、と一生懸命悩んでいた、その相手。 伊織の顔を見て、佳介は、困った顔をした。見られたくなかった、と、何も言わなくてもその顔が十分に伝えてくる。伊織は、いてはいけない場面に、立ち会ってしまったのだ。 「あの、ちょっと待っててください、俺」 佳介が伊織に向けた言葉に、隣にいる彼女が不思議そうな顔をする。自分がいま、大切な話をしているのに、どうしてそんなことを言うのか、と言いたげな様子だった。伊織を頭の先から爪先まで眺めて、よりいっそう納得がいかない表情を見せる。佳介と、どういった関係なのだろうと思っているのだろう。無理もない、と、内心、皮肉るように呟く。服装も、雰囲気も、佳介の友人としては不釣り合いなのだろう。 着替えてくればよかった、と、そんな場合ではないのに思う。今日、鉄板焼きに行くことは、先週から決めていたはずだ。閉店後、どこかで普段着に着替えてきていれば、あんな疑うような目で見られることもなかったかもしれないのに。 「大丈夫です、綾瀬さん」 そんなことを内心でじくじくと考えてしまう自分が、情けなかった。ほんとうは、いまさら彼になんの用なんだ、と、冷たい声で伊織の方から聞いてやりたかった。気を持たせるような態度をとり続けて、善良そのものの彼をのぼせあがらせて。その挙げ句、指輪を差し出された手を、ぴしゃりとはねつけた癖に。 漏れ聞いた会話からすると、佳介から彼女に会おうとしたわけではないようだった。それはつまり、彼女の方から、佳介に何事が伝えたいことがあったということだろう。いまさら、と、もう一度、そんな言葉が胸にあふれる。ひとを傷付ける、黒くて尖った言葉と感情に、自分の胸も痛くなる。 けれど、それは決して、表には出さない。 「僕のことなら、気にしなくて構いませんから」 「大丈夫もなにもないです。俺は茅橋さんと約束してるんだから」 伊織の言いたいことを的確に察してくれたのだろう。とんでもない、とそれを否定するために、佳介は大きく首を振る。明らかに彼女の方はまだ佳介と話をしたがっている。その証拠に、掴んだままの腕から、白い手がまだ離れていなかった。 「……駄目ですよ、綾瀬さん」 分かっていた。この人を好きになっても、決して自分のものにはならない。それが思っていたよりも、ずっと早かっただけだ。 出来るだけ落ち着いて聞こえるよう、少し低めの声で話す。水の中で空気が足りなくてもがくように、年上の友人として、ふさわしい言葉を懸命に探す。 「ちゃんと、話し合わないと。彼女は、まだ、あなたに伝えたいことがあるんじゃないですか。僕との約束なんて、いつだって構わないんですから」 ね、と、子どもに言い聞かせるように、小さく付け加える。佳介は何か言おうとして口を開いたけれど、結局、何も言わなかった。その目が瞬間、伊織を見た。どうして、と伝えてくるような目に、思わず顔を背けてしまう。 「邪魔してしまって、すみませんでした」 じっと成り行きを見つめている彼女に向けて、頭を下げる。佳介の顔を見ることが出来なくて、伊織はそのまま彼らに背を向けた。 改札を抜けて、待ちかまえたようにホームに滑り込んできた電車に乗る。不思議と、心は凪いでいた。分かっていたことだからだ、と、冷静な自分にそう呟く。相手が誰であれ、それは伊織ではない。 差し出した指輪は、勘違いしないで、とはねつけられてしまったと言っていた。けれど、もしかしたら、それにも何か、誤解があったのかもしれない。佳介が彼女のことを想っていたように、彼女もまた、実際には同じだけの深さの想いを持っていたのかもしれない。ひとの関係なんて、簡単に、すれ違ったり壊れてしまったりするものだから。 うまく、いくのかもしれない。 座る気にもならず、立ちつくしたまま、伊織は窓に映り込んだ自分の顔を見ていた。彼らはまた、もとの通りの関係に戻れるのかもしれない。誤解が解けて、佳介が望んでいた通りに、約束と指輪を交わすのだ。 電車を降りて、十分ほどの道を黙々と歩く。借りている部屋の番号の郵便受けを開けて、いくつか届いていた手紙を取り出す。部屋は三階だから、伊織はいつもエレベーターは使わない。待っている時間よりも、階段を使ってしまったほうが早いからだ。 階段の最初の段に足をかけたところで、身体が固まったように動かなくなる。届いた手紙を、ひとつずつ確認していた。ダイレクトメールと、クレジットカードの請求書。見慣れたそれらに混じって、ひとつ、大きめの封書が届いていた。つやつやした手触りの封筒。過去に、何度か同じようなものを受け取ったことがあるので、それが何なのかはすぐに分かった。 重たい足を動かして、階段を登り切る。もう嫌だ、と、そんな情けない弱い気持ちが、勝手に胸に沸いた。 鍵を開けて、暗い玄関に滑り込む。靴も脱がずに、そのまま冷たい床の上に膝をついた。全身の力が抜ける。どうして、重なるのだろう。いま抱えている恋と、ずっと昔に実らなかった恋。どちらも、叶えるつもりなんてなかった。そんな期待なんて、これっぽっちも、抱いたことはなかったはずだったのに。 それなのに、どうしてこんなに、胸が痛いのだろうか。胸だけではなくて、全身がばらばらになってしまいそうだった。自分が自分であることを、伊織自身が嫌がって、もう捨ててしまいたいと、身体の大切な部品ひとつひとつが、自ら壊れてしまおうとしているようだった。期待なんて、したことはなかった。けれど、それならなぜ、こんなに苦しいのだろう。 自分自身にとどめを刺すような気持ちで、白くて立派な封筒を開ける。中から出てきたのは、予想していた通り、結婚式の招待状だった。相手は高校時代からの友人だった。大学進学を機会にこちらに出てきた伊織とは違い、地元に残り、そのまま就職したはずだ。相手の名前にも、見覚えがある。学校は別だったけれど、高校時代から、彼がつきあっていた子だ。 久しぶりに会えるのを楽しみにしています、参加してくれると嬉しいです、と、手書きの文字で、そう書き加えられている。強くて、真っ直ぐな目を持っていた彼の字。佳介も、こんな字を書くだろうか。 招待状を送ってきたのは、伊織の、初恋の相手だった。
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