星をさずける |
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6 瓶をふたつ空にして、店を出る。伊織はそれほど酒に弱くはないので、このぐらいなら、すぐにでも仕事に行ける気がするほどだ。対する佳介は、どうにかひとりで立って歩けてはいるものの、その足取りはふらふらとおぼつかなかった。 「茅橋さーん……」 ふにゃっとした声で名前を呼ばれて、はいはい、と、つい小さな子どもを扱っているような気分になる。足元が危ないので、背中に手を添えて、夜の道をふたりでゆっくりと歩く。 これを最後にしよう、と、心の中には、そんな冷たい決意があった。 これ以上、この人とかかわってはいけない。すっかり傾いてしまった心を、気のいい彼に気付かれたくなかった。このきれいな目が、一瞬たりとも、自分への嫌悪感で曇るのを見たくない。 「綾瀬さん、ほら、つきましたよ」 記憶力には自信がある。以前訪れた通りの道を通って、佳介をアパートまで無事に送り届ける。ここまでで去ったほうがいい、とは思ったものの、平地はがんばって歩けていた佳介が、階段をのぼろうとして、一段目から苦労している姿を見てしまい、放っておけなくなってしまった。 自分の足腰が立たないのがおかしいのか、佳介は階段の手すりにつかまって、楽しそうに笑っていた。その肩を支えて、ゆっくり、一緒に階段を登る。 佳介は伊織よりも背が高い。触れている背中から伝わる体温が、酒のせいか、とても熱い。 (きっと……) きっと、彼女と一緒に飲みに行っても、こんなふうには酔っぱらわないのだろう。 確信のような思いがあった。弱いところを、ひとに晒すことを、人一倍嫌うタイプのような気がした。佳介から見た「ちゃんとした大人」である伊織から、泣いてもいい、と言われなければ、ひとりで泣くことすらもこらえてしまう人なのだ。 優越感を覚える自分のことを、浅ましいと思った。 「鍵、あけます……」 どうにか部屋の前までたどりつく。ふらふらになりながら、佳介はポケットから部屋の鍵を取り出す。上手に解錠できそうになかったので、かわりに伊織が受け取り、扉を開ける。 中には入らないつもりだった。扉だけ開けて、そこで佳介を見送ろうとしたのに、去り掛けた伊織の手が、突然掴まれる。大きな手が、酔っているせいか、ひどく熱く感じられた。 「綾瀬さ……」 そのまま強引に手を掴まれて、一緒に部屋の中に入ってしまう。ばたんと伊織の背後で扉が閉まった。 まだ電気のついていない部屋は暗くて、佳介の顔は見えない。どうしたのか、と不審に思い、とりあえず、おとなしくされるままについていく。 佳介が電気をつける。この間と同じように、床にものがほとんど置かれていない、きれいに片づいた部屋だった。本棚に、難しそうな数学の本が何冊も並んでいることに気付く。小説らしきものもあったけれど、数は少ない。 何も言わないまま、佳介は床に座り込んだ。手を掴まれた伊織も、同じようにして彼の隣に座る。 「どうしました、綾瀬さん」 明るい中で見ても、少し顔をうつむけてしまった相手の表情が分からない。何かあったのかと、そっと尋ねる。佳介はそれには答えず、小さく、すみません、と呟くだけだった。 「茅橋さんって」 自分が彼に、道ならぬ思いを抱いてしまっているという自覚があるために、伊織はあまり居心地が良くない。早めに立ち去ろう、と思っているのに、同時に、もっとここにいたい、という気持ちもあった。様子の違う彼を、ひとりで放っておきたくなかった。 「伊織さん、っていうんですね。名前」 佳介はそこで突然、伏せていた顔を上げる。酔って、前後をなくしているのかと思っていた彼の顔は、予想外に穏やかに微笑んでいた。 伊織の名前を、どこで知ったのだろうか。思い当たるとしたら、店で首から提げている名札だけだった。彼がそれを見て、名前を覚えていてくれたことが、嬉しかった。 「きれいな名前ですね。宝石の名前みたいで……」 その言葉に、思わず笑ってしまう。そんなことを言われたのは、はじめてだった。 「ありがとうございます」 「俺、いつも、あの店の前を通ってるんです」 大学に行くときも、バイトに行くときも、いつも。ひとりごとのように、佳介は続ける。少し落ち着いたように見えるけれど、やはり、酔いは深いようだった。話すことに、とりとめがない。 「宝石なんて、てんで縁のない人間だから、あんな店、一生入ることないと思ってた。でも、茅橋さん……伊織さんが店の中にいるのを、よく、見てました」 「僕ですか」 「はい。きれいな人だなって……」 お世辞としか思えない言葉だった。伊織にとってその言葉は、色とりどりの輝石や、それを身につけることの出来る女の人に向けられるものだった。冗談かと思い、微笑んで首を振ろうとする。佳介はまるでそれを見越したように、先を続けた。 「ガラス越しに、よく、あなたを見てました。あんまり立ち止まったりして、あやしい奴だと思われるのは嫌だから、ほんとに通りすがりに。俺にとっては、あなたは、お店に並んでるきれいな石と同じでした」 ガラスケースに収められた、たくさんの宝石たち。店の中と外を隔てるガラスから見ていた伊織が、それと同じだったと、佳介は言った。 「あの時、あなたが声をかけてくれて、ほんとうに、嬉しかった……」 そこまで言って気がすんだのか、佳介は電源が切れたように目を閉じて、そのままの格好で寝てしまった。 伊織だけがひとり、ぽかんと口を開けて、ひとり取り残された気分だった。なんてことを、言われたのだろう。掴まれたままになっていた手を、そっと外す。強い力で掴まれていたと思ったのに、指の跡は付いていなかった。ただ、体温だけが残っていた。 「……そんなこと、言わないでくださいよ」 笑ってみる。声が、少しかすれた。きっと鏡を向けられたら、眉毛が下がっていて、みっともない顔をしているだろう。 そんなことを、言われると。 「期待しそうになっちゃうじゃないですか」 振り切るように笑って、立ち上がる。この間とまったく同じだな、と思いながら、床で寝てしまった佳介に布団を掛けてやり、テーブルの上に置きっぱなしになっていた鍵で外から施錠する。 佳介は、どうしてあんなことを言ったのだろう。一体、どんな感情から、あの言葉を。 忘れろ、と、自分の部屋に帰るまでの道すがら、ただひたすらにその言葉を繰り返す。深い意味なんてない。子どものように素直な心を持っている人の目から見れば、世界はきっと、どんなものでもきらきらと輝いているのだろう。彼にとっては、きっと、ただの石ころだって、価値を持つ。 また、指輪を返しそびれてしまった。 今日こそ、返そうと思った。そうして、この縁も途切れさせてしまうつもりだったのに。思わぬことを、佳介が言い出すものだから。 ぐるぐると考え事をしているうちに、電車を乗り継ぎ、自分の部屋に帰り着く。仕事用の高いスーツを脱いで、ハンガーに掛ける。顔を寄せると、やきとり屋の煙の匂いがした。失敗した、と、思わず苦笑する。早めにクリーニングに出さなくてはいけない。そうたくさん仕事に着ていける数を持っているわけではないのに。楽しくて嬉しくて、少しも、考えなかった。 「まいったな……」 泣きたいのか、笑いたいのか、よく分からなかった。佳介とふたりで並んで座っていた、あの店の空気の匂い。スーツの上着に顔を埋めたまま、伊織はしばらく身動きが出来なかった。 佳介とはそれから、週に一度、食事に行くようになった。どちらから決めたわけでもなく、毎回、じゃあ次は何曜日で、と、必ずそんな話が出る。 ガラス越しに伊織を見ていたという話については、その後、話題には出さなかった。あれはおそらく、酒が入った上で出てきたものだろう。佳介の方からそれに関わる種類のことを何も言ってこないので、伊織からも、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。 指輪は今も返せず、大切に、伊織のデスクの引き出しにしまい込んでいる。あれをどうしましたか、と佳介が聞いてくることもない。 このままではいけない、という気持ちだけが募っていく。指輪のことにしても、佳介のことにしても。伊織ももう若くはないから、十代の頃のように、恋しい相手にどうしても気持ちをぶつけたいと思うような、そんな熱くて激しい感情はない。だから一緒にいることで、そのうちに我慢がきかなくなってしまうようなことは、おそらく無いとは思う。自分を抑える術は、これまでの経験で身につけてきた。伝えないままで終わらせる自信はある。 佳介にとって、伊織は年上の友人なのだろう。彼は数学の研究をして、あまり俗世間のことには興味や関心を持たないようで、まるで仙人のようなストイックな生活をしている。宝石やアクセサリーを売る店なんて、別世界みたいなものに違いない。そこに所属する人間が珍しくて、新鮮なのだ。 きっといずれ、佳介は新しい恋をする。恋愛を結婚に結びつけて考える、健全でまっとうな発想は、出会った時に保証済みだ。次の指輪を伊織に見立ててほしい、というあの約束もまだ有効だろう。だから、近い将来きっと、そうなる。 このままではきっと、自分がつらい思いをすることになる。そんな予感にひしひし怯えながらも、明るく誘いかけてくれる彼の存在を、どうしても振り切ることが出来なかった。
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