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星をさずける
5

 佳介にはパーテーションに区切られた、商談用の応接セットで待っていてもらった。時間になって、いつも通りに閉店業務をしているつもりの伊織に、少し声をひそめた同僚が、「好みのタイプなんですか」と、どこか神妙な声で聞いてきた。そんなつもりではない、と伝えるために笑って首を振る。もしかして、そんな風に受け取ってしまうような雰囲気を出してしまっているのだろうか。
「指輪を、まだお返し出来ていないので」
 佳介に聞こえないよう、伊織も声を小さくする。同僚は、ああ、と、納得したような顔をした。あの指輪は伊織がずっと預かっている。事務所の机の、鍵をかけられる引き出しに、大事に保管していた。それを、言い訳に使ってしまった。罪悪感で、胸がちくりと痛んだ。
 先に店の外で、少しだけ待っていてもらうように頼む。あちこちに厳重に鍵をかけて、警備システムをオンにする。おつかれさまです、と挨拶を交わして、店を出る。
 佳介は店の前で、暗い店内をのぞきこむようにぽつんと立っていた。まるで、せっかく買い物に来たのにもう閉店してしまった、と肩を落としているひとのように見えた。まだ少し、完全に、立ち直れてはいないのだと、その寂しげな立ち姿にそんなことを思う。
「お待たせしました」
 声をかけると、安心したように表情を緩めて、いいえ、と言ってくれる。何を食べましょうか、と話しながら、ひとけもまばらな商店街を歩く。駅前の焼き鳥屋を提案すると、佳介はどこか、ほっとしたようにひとつ息をついた。
「よかった。そこなら、俺でも大丈夫です」
「大丈夫?」
 安堵したらしいその様子が不思議だった。食べられないものがあるのだろうか。
「だって、茅橋さんが行くような店は、俺なんか入ったこともないような、ちゃんとしたところなんだろうなって思ってたから」
 フランス料理とか、懐石料理とか、と、佳介は笑う。どうしてそんな風に思ったのかが分からなかった。伊織は特別高級志向というわけではないし、普段はコンビニのお弁当やファミレスの食事で十分満足出来る、その程度の人間だ。伊織の気持ちが顔に出ていたのか、佳介は、だって、とどこか申し訳なさそうに続ける。
「失礼なこと言ってすいません。茅橋さん、いい服を着てるから」
 それに時計も靴も、と、佳介は続ける。ああ、と、それを聞いて納得する。
「これは制服のようなものですから。僕も、かなり無理して揃えたものなんですよ」
 伊織が売っているのは、世間一般には高級品だと認識されている宝飾類だ。だから、それを売る側の人間が、安い服を着ているのでは示しがつかない。就職してすぐに、それなりのものを買うように言われた。理屈は分かるので、スーツも時計も靴も、仕事の時だけはいいものを身につけるようにしていた。それを見て、気後れする印象を与えてしまったのだろう。
「家に帰ると、すぐに着替えますよ。九八〇円のTシャツに」
「あ、俺もそんな感じです……」
 誤解が解けて、よかった。
 焼き鳥屋ののれんをくぐる。何度か仕事帰りに、飲み会で来たことがある店だった。佳介も訪れたことがあるのか、慣れた様子で、カウンターに座る。
 適当にいくつか注文してから、まずはビールで乾杯をする。佳介が、何か言いたそうな顔をしてそわそわしているのに気付き、どうしましたか、と伊織から聞いてみた。
「……あの。すみませんでした、先日は」
 意を決したように、そう切り出される。アルコールが、少しだけ口を滑らかにしたのかもしれない。まだグラスの中のビールはほとんど減っていないのに、もう目元が少し赤らんでいた。あまり、酒には強くないようだ。
「いいえ、こちらこそ。お家まで押し掛けてしまって」
「あの時、俺、ひどい顔してましたよね。わざわざお店まで行って……」
 言っているうちに恥ずかしくなったのか、ああ、と息を漏らして手で顔を覆い隠してしまう。伊織は何も言わず、ただ、いいえ、と微笑んで首を振った。
「……でも、茅橋さんが来てくれて、俺、嬉しかったです」
 びっくりするほど、素直な言葉だった。言葉だけではない。だいぶん赤くなっている顔も、にこにこと、まるで子どものような邪気のない笑顔だった。
「優しくしてくれて、ありがとうございました」
 それに、どうにか、いいえ、と返す。こんな風に、真っ直ぐ誰かから言葉を向けられるのは、どれだけ久しぶりだろう。混じりけのない、澄んだ、きれいな感情。思わず目を閉じる。出来るなら、その美しさを、心にとどめておきたかった。
「茅橋さんが来てくれなかったら、あんな風に、優しく言ってくれなかったら、俺、たぶんもっと、ひどいことになってたと思う。どうしたらいいのか分からなくて、なにが起こったのか、ちゃんと考えることも出来ないままで……」
 酔っていても、さすがに恥ずかしいと思ったのか、佳介は伊織の顔から目をそらすように、半分以上残っていたグラスの中身を、一気に煽る。
「だけど、泣いていいって茅橋さんが言ってくれたから。ああ、いいんだ、って思って。俺と同じ男の人が、それも俺よりずっとちゃんとしてる人が、そんな風に言ってくれたから、すごく楽になって……いまは、ちゃんと、自分が振られたことも受け入れられてます。茅橋さんのおかげです」
 いいえ、と、もうずっと、同じ反応しか返せていない。佳介はそんなことは全く気にしていない様子で、ありがとうございます、と、改めて、深々と頭を下げられる。
 振られたことを受け入れている、という言葉に、心が弾まなかったといったら嘘になる。それをすぐに、心の中で打ち消そうとする。ちがう。これは、彼がいまも失恋の傷を引きずって、その痛みに苦しんでいるのではないことを知って、安心しただけだ。
 自分自身に言い訳する己を、みっともないと思った。注文していた焼き鳥が、一気に運ばれてくる。いただきます、と手を合わせて、ふたりで次々と串を空にしていく。
 佳介はまだ、茅橋さんありがとうと繰り返していた。そろそろ、こそばゆくなってきたので、雑談を持ちかけることにする。
「綾瀬さんは、なにをなさっていらっしゃるんですか?」
 温厚そうな、真面目そうな印象の彼だから、てっきり会社勤めの人なのだと思っていた。彼のことがもっと知りたい、と、見ていて気持ちよくなるくらい勢いよく焼き鳥を食べ続ける佳介を見ながら、伊織はそんな風に思っていた。
「あ、俺は……まだ、学生なんです」
「学生さんですか」
 予想外の返答に、伊織はグラスを口元に運ぼうとしていた手を止める。少し、意外だった。
 伊織の反応に、佳介は少し恥ずかしそうに微笑んだ。はい、と頷いて、ここからそう遠くないところにある大学名を口にする。遠い昔、受験生だった頃の記憶を引っ張り出してみる。確か、入るのがかなり難しい、偏差値の高いところだったはずだ。
「頭がいいんですね」
 思わず、そんな間の抜けたことを言ってしまう。おそらく、ひとのそんな反応には慣れているのだろう。たいしたことはないですよ、と、佳介は首を振った。
「ご専門はなにを?」
「理工学部の、数研に所属しています」
 すうけん、という耳慣れない言葉に戸惑っていると、数学研究室だと教えてくれる。理系なのだ。大学までずっと文系を貫き通してきた伊織が、最も苦手だったのが数学だ。あんなものを好きで、研究したいと思う人がいるのだ、と思うと、不思議な気分だった。世の中にそうした人間がいるだろうことは理解できた。けれど、実際にそれをしているという人を目の前にしていると、ただただ、不思議な気持ちでいっぱいだった。
「理系の学生さんというと、実験で大変なイメージがありますね。泊まり込みをしたりして」
「そうですね。生化学とか、細菌の面倒をみないといけないところなんかは、そういう感じですけど。俺は、それほどでもないです。院生ですし」
「院生……博士課程とかですか?」
 あまり詳しくないながらも尋ねると、そうです、と佳介は頷いた。自分が将来なにをしたいのかもはっきりと分からないまま、成績と汎用性だけで経済学部を選んだ伊織とは、きっと大学生活の過ごし方も違っているのだろう。
「将来は、大学の先生を目指していらっしゃるんですか」
「そうなれたらいいとは思っています。ただ、いまは厳しい時代なので……、塾講師のアルバイトをしているんですけど、そちらの道に進むのもいいな、とは考えています」
「そこでも数学を教えてるんですね」
「はい。高校生コースで」
 この人に数学を教えてもらう学生さんのことを、少し羨ましいと思ってしまった。こういう人が身近にいれば、学生時代の伊織の数学嫌いも、ちょっとはましになっていただろうか。
 それにしても、数学を研究するというのは一体、どういうことをしているのだろう。聞いたところできっと理解できないだろうとは思ったけれど、気になったので、聞いてみる。
「どんな研究をされているんですか?」
「主に、素数の分布についてです」
 素数ぐらいは分かる。1と、それ以外の数で割りきれない数のことだ。その分布とは一体どういうことだろう。そして、それを研究することでどうなるのだろう。伊織の疑問が顔に出てしまっていたのか、佳介は目を輝かせて、嬉しそうに話を続ける。
「素数分布には、いまなお未解決の問題が多く残されています。つい最近も、素数の間隔について、新しい定理が発見されました。これは、どんなに大きな数でも六〇〇個ごとに区切ると素数が二個含まれることが分かったという、たいへん画期的な、素晴らしい発見です」
 立て板に水、という言葉が頭に浮かぶ。素数の話をしはじめた佳介は、これまでに見たことがないほど、いきいきと活力に満ちた表情をしていた。酒が入っているせいだけではなく、たぶん、この人は数学を心から愛しているのだ。
 彼がそんなにも心を傾けるものに、少しとはいえず興味はあった。しかし同時に、佳介の言っていることは、ほとんど理解が出来ないことだった。ゼータ関数、解析接続、虚の零点。まったく、聞いた覚えもないような専門用語の羅列は、伊織にとっては暗号と同じだった。申し訳ない、と思いながらも、おずおずと口を挟む。
「綾瀬さん、すみません。もう少し、分かりやすく言ってもらってもいいですか。しろうとにも分かるように」
「あ、……はい、すいません。つい、熱くなってしまいました」
 では、と、佳介は照れたように一度はにかんでから、少し声を落とす。ゆっくりと、言葉をひとつひとつ区切りながら、低めの声で続ける。
「たとえば さようそ に よる こゆうちかいしゃく の しゅほうを……」
 神妙な顔つきで、これなら分かってもらえるでしょう、とでも言いたげに、ゆったりと語られたその言葉に、伊織は思わず、吹き出してしまった。ぜんぜん、分かりやすくなっていなかった。ただ話す速度をゆっくりにしただけだ。
 佳介はどうして笑われたのか分からないのか、きょとんとした顔をして伊織を見ている。
「難しいことをされているというのは、よく分かりました」
 笑いがおさまらないまま、彼にそう伝える。からかいではなく、素直に、尊敬するような気持ちを込めたのが伝わったのか、佳介も嬉しそうな顔で笑ってくれた。
 空になったグラスに、瓶からビールをついであげる。恐縮したように、すいませんすいません、と彼は何度も繰り返した。
(だめだな……)
 もう、だめだ。にこにこと楽しそうにしながら、隣でビールを飲んでいるその横顔を盗み見る。予感はずっとあった。だから、これ以上かかわってはいけないと、自分を戒めていたつもりだったのに。
 塾の先生をしている、と佳介は言っていた。たとえば、教え子の高校生たちが、数学の問題で分からないことがあって質問に来たときに、彼はさっきのように、むずかしいことをただゆっくりと話して教えようとするのだろうか。そうやって、先生ちっともわからないよ、と、若い生徒たちに呆れながら笑われている姿が目に浮かんだ。きっと、慕われている良い先生なのだろう。
 その光景を想像してみると、決して胸が痛むようなものではないはずなのに、なぜか、寂しくなった。どうかその輪に、自分も入れてもらえないかと望んでしまう気持ち。そうしてそれが叶わないことを知っているがゆえの、あきらめにも似た寂しさだ。数学が教えて欲しいわけでは、決して、なくて。
(……僕はこの人が、好きだ)
 降参するような思いで、心の中だけで、そっと呟く。
 追加でもっと頼みましょう、と、佳介は油が飛んで汚れたメニューを広げている。はい、とそれに返事を返しながら、伊織は一番最初にこの人が店に訪れた時のことを思い出していた。結婚してください、と、震える声と手で、指輪を小指にはめてもらった時のこと。
 佳介は伊織とは違う。ちゃんと女性を好きになって、その相手に結婚を申し込もうと決意できるような人だ。だから、この恋を自覚したところで、それを、どうすることも出来ない。ここから先に、幸せは、もう待っていない。だからこそ、と、伊織はカウンターの下で、あの時指輪を授けてもらった小指を、そっと撫でる。
 あれはなんて、幸せな瞬間だっただろう。たとえそれが、ほんものではなかったのだとしても。
「もっと飲みましょう、綾瀬さん」
「俺、弱いんですよ……でも、茅橋さんがそう言うなら、はい、わかりました。おつきあいします……」
 弱い、と言っている通り、まだ瓶半分ほどしか飲んでいないはずの佳介は、すでに語尾があやしくなっていた。その背中を、軽く一度叩く。
「大丈夫、送りますから」
 大丈夫、と、心の中でも呟く。ちゃんと忘れる。これまでも、いつも、そうしてきたのだから。
 時間がたつにつれ、店の中は人が増えて、いっそう賑やかになっていく。団体客らしい集団のいるテーブルから、音のかたまりが破裂するような、大きな笑い声が響いてくる。好きだと思う人が隣にいて、とても賑やかな明るい場所にいて、美味しいものを食べている。
 それなのに、伊織だけがひとり、ぽつんと立ちつくしているような、寂しくて悲しい気持ちで、胸がいっぱいだった。


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