星をさずける |
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4 佳介は泣き疲れたのか、そのまま寝入ってしまった。ことんと電池が切れたように床に転がって、静かに寝息を立てている。その頭の下にクッションを入れて、ベッドから布団をはがして、身体を覆うようにかけてやる。 風呂に入る、と言っていたところを伊織が引き留めてしまったので、髪も服も、雨に濡れたまままだ完全に乾ききってはいない。せめて、と思い、洗面所から勝手に拝借したタオルで、髪を拭いてやる。真っ黒な、少し堅い髪質。伊織は柔らかい猫っ毛なので、男らしいその髪が羨ましかった。気が済むまで髪を拭いて、失礼します、と小さく呟いてから、部屋の暖房も付けておく。これで、彼が風邪を引かないといいけれど。 「お邪魔しました。……ゆっくり休んでくださいね」 聞こえていないと思いながらも、そう声をかけて、静かに部屋を出る。ローテーブルの上に鍵があったので、外から施錠して、ドアに付けられた郵便受けの中に滑り込ませておく。 部屋のそとはもう、すっかり暗くなっていた。あんなに降っていた雨はもう止んでいる。ドアの脇に置いたままになっていた傘を手に、佳介のアパートを去る。 指輪を返すのを、忘れてしまった。 (……あぶない) こんな時に、こんな言葉が胸に浮かぶようでは、接客業をなりわいにしている者として失格だ。心の中で自分をなじる。 伊織はいま、純粋に、顧客としての綾瀬佳介のもとを訪れ、忘れ物を届けに来たはずなのに。 指輪が不要になってしまったと肩を落としていた様子が、不穏なものさえ感じさせられたから、心配になった。とりあえずは、無事を確認した。 だから、伊織の出番は、ここまでのはずなのに。 どうしても、この指輪を返すことが出来なかった。そうしてしまうことが、傷ついた彼をまた痛めつけてしまうだろうと考えたら、とてもそんな、残酷なことは出来なかった。 (ほんとに、失格だ……) 無責任に、きっとうまくいく、幸せになれる、と背中を押した伊織のことを、佳介は責めたりしないだろう。決して、相手の多くを知っているわけではない。それでも、その長くもない時間内での印象だけでも、そんなことを考えるような人間ではないだろうことは分かった。彼が責めるなら、伊織でも、相手の女性でも、反対していたという周囲の友人たちでもない。それはきっと、自分自身なのだろう。 透き通って、澄んだ石のようなきれいな涙を思い出す。きらきらと輝く光の残像が、目に焼き付いてしまって心から消えそうになかった。 もっとそばにいたい、と、心が、疼くように痛んだ。 そばにいて、あなたが悪いのではないと、そう言ってひと晩中ずっと、背中を撫でてあげたかった。泣き疲れて眠ってしまったあの大きな身体に寄り添って、雨に濡れて冷えた肌を、あたためてあげられたらいいのに。 そんな願望を、首を振って心から逃がそうとする。そんな予感はしていた。 あの日、緊張しきった面持ちで、店の前をうろうろしていたのを呼び止めた時。こっそり計ってきたんです、と照れくさそうに、手のひらの熱であたためられた小さなワイヤーを差し出されたその時から。 幸せになる人だと、そう思えば、そんなこと、すぐに忘れてしまうことも出来たのに。 (……最低だ) 逃げるように、アパートから足早に遠ざかる。オーナーに連絡をしなければならない。気を落としている様子はあったけれど、大丈夫そうでした、と報告しなければ。指輪を返しそびれてしまったことは、どう言えばいいだろう。……後日改めて、伊織ではなく、同僚の誰かに代わりに届けてもらうよう、頼めるだろうか。 (……あの人が結婚を申し込むことも出来なかったことが、この指輪が、役に立てなかったことが) 少し、嬉しい、なんて。 まっとうな性癖の持ち主である同性に、気持ちを寄せてしまうことへの後ろめたさは、これまでに何度も味わってきた。顔をあげていられなくなるような、苦くてさみしい気持ちは、恋のはじまりにも最中にも、ずっとつきまとってはなれないものだ。 けれど、いま、伊織の胸をじくじくと痛ませているのは、慣れているはずのそれとは、また違う。もっと重たくて、暗い。 慰めてあげたい、と、そう思った。肩を叩いたり、背中を撫でたりして、大丈夫だと言葉をかけるだけでなく。 恋に破れたあの人の大きな手を、この手に重ねて、冷えた肌をあたためることが出来たら、どんなに満たされるだろう。そんなことを思いはじめている自分に、伊織は気付いていた。それは佳介のために、ではなくて、自分のためにそうしたいと思う、単なる欲望だった。 (僕は、最低な人間だ……) これ以上、あの人にかかわってはいけない。手にしている、指輪をおさめた紙袋が、鉄のかたまりでも持ち運んでいるように、急に重たく感じられる。袋の紐を持つ手が、自己嫌悪で小さく震えて、なかなか止めることが出来なかった。 まるで幸せおばけだ、と、そう言われたことがある。入社して、すぐの頃だっただろうか。飲み会の席で、オーナーに言われた言葉だ。 幸せになる人を見ていたい。そうして、彼らに心から「おめでとう」と言える人間でありたい。出会って、恋に落ちたふたりが、ともに生きることを決めたことを、お祝いしたい。 なぜならそれは、伊織には、出来ないことだからだ。 だから、この仕事を選んだ。最初は、ブライダル関係を希望していた。けれど実際にアルバイトをしてみたり、業界研究をしてみて、自分のしたいこととは少し違うのかもしれない、と思うようになった。結婚式は、とても大切な儀式だから。そんな、光がいっぱい当たる明るい場所に、自分が紛れ込んでいてはいけない気がした。 アクセサリーをおさめたガラスケースを、丁寧にひとつひとつ磨くように拭いていく。気分が落ち着かないときや、どうにも気持ちが上向かないときには、時間をかけてこの作業を行うようにしている。単純作業だけれど、確実に、成果が目に見える。 ぴかぴかに透き通ったガラスを通して、中におさめられた石たちが慎ましく輝いているのを見ると、濁ってざわついた心も癒される。 伊織は、きれいな石が好きだった。女性のように、日常的に宝石をあしらったアクセサリーを身につけることは出来ないし、そうしたいと思う願望もあまりなかった。それよりは、きれいだなぁと眺めているほうが、ずっと心が満たされる。 だから、店に出てきて、色とりどりの石たちを前にしているだけで、嬉しくなる。この宝石たちはみんな、誰かを笑顔にしたり、うっとりと惚れ惚れさせることが出来る。お祝いだったり、一生一緒にいようと約束をするときの、誓いの証となったり。 それに携わることで、自分も幸せになりたい、というのが、伊織の面接時の志望動機だった。同性を好きになってしまう性癖を持っている伊織は、将来、結婚というかたちで誰かと結ばれることはない。だからこそ、その分までひとの幸せに関わっていたい、と、正直に話した。 それを聞いたオーナーは、特に驚いた様子も、気分を害したような様子もなく、まるでひとの幸せを食べて生き続ける「幸せおばけ」みたいな奴だな、と言っただけだった。呆れたような口調ではあったけれど、いま彼のひととなりを知ってから改めて考えると、感心されたような言い方だったと思っておくべきなのだろう。 悪気はなかったはずだ。けれどもその時に軽く言われたことが、いまになって、じわじわと水が染みるように頭から離れなくなっている。それを振り払うように、ガラスケースをひたすらに磨く。 「伊織さん」 今日も平日なので、いつものように店内にお客様の姿はない。佳介からは、あの雨の日以来、なんの音沙汰もなかった。それも仕方ないことだとは思う。彼にとっては、もう必要ない、とあの指輪を返してしまったことで、この店との縁はおしまいになったのだろう。 返しそびれた指輪は、伊織がいまでも大切に預かっている。いずれ、自分ではなく、同僚の女性から返してもらえないか頼むつもりでいた。もう、これ以上、会ってはいけないと思っていた。この年になると、自分が行くべきでない方向というものが、ある程度見えてくる。特に、恋愛に関しては。 はあ、とため息をついて手を止める。その間を見計らっていたように、同僚から声をかけられた。 「もう、何回も声かけてるのに……。お客様ですよ、伊織さんに」 お客様、という言葉に、反射的に姿勢を正す。失礼しました、と、掃除用の道具を置く。 「……こんにちは」 伊織の顔を見て、その人は、所在無さ気に頭を下げた。ああ、と、その居心地の悪そうな、それでも凛とした姿勢のよい立ち姿に、自分の考えていたことを見透かされたような後ろめたさを覚える。 「綾瀬さん。お元気でしたか」 「はい。おかげさまで……」 その節はお世話になりました、と、深いお辞儀をされる。指輪を届けに行ったことを同僚は知っているので、きっと、そのことだと思ってくれるだろう。お気になさらず、と首を振る。 「こちらのお店の皆さんには、たいへん、ご迷惑をお掛けしてしまって……」 言葉の終わりが、恥ずかしそうに小さくしぼんでいく。客商売の人間でもなかなかしない、直角に近いほど深く頭を下げたままのお辞儀。耳が真っ赤になっている。その様子に、おそらく彼は、伊織が部屋を訪れたときのことを全部覚えているのだろうと気付く。 「これ、どうか受け取ってください。つまらないもので申し訳ないですが、せめてものお詫びの気持ちです」 そう言いながら、佳介は手にしていた紙袋を差し出してきた。やっと顔を上げてくれたことにほっとしつつも、今度は、お詫びだと渡された袋に戸惑ってしまう。中身をちらりと確認する。どうやら、お菓子のようだった。 「お気遣いいただいて、申し訳ありません」 女性の同僚が、伊織の対応を見守っているのを感じる。時計を見ると、もう閉店時間まで、あとわずかな時間しかない。もう、他のお客様も訪れないだろう。 そう判断して、同僚の彼女の視線を感じながら、肩を小さくして居心地悪そうにしている佳介に微笑む。 「……綾瀬さん、もうあと少しで、閉店時間なんです。もしお忙しくなければ、しばらく、そちらで掛けてお待ちいただけますか」 え、と、驚いたように佳介が顔を上げる。今日はとにかく、謝罪をしなければいけないと思ってここに来たのだろう。生真面目なその表情に、接客用ではない、もっと親しげなひとに向ける顔を見せてしまいそうになって、どうにか、理性でおさえる。 やめておけ、と、頭のなかで冷静な自分がそう囁くのを、聞こえないふりをする。これ以上彼のそばにいたら、きっと。そんな予感が、彼を目の前にしていると、ひしひしと熱を持って確かなものになっていく。そうなる前に、離れなければならないと、頭では分かっているのに。 「よければこのあと、食事をご一緒しませんか」 気が付いたら、そんな風に、誘いかけていた。お店のお客様に対して持ちかける言葉としては、たぶん間違っている。同僚には、内緒にしておいてもらおう。 佳介は今日はじめて、伊織の顔を真っ直ぐに見てくれた。そうして、間をおかずに、はい、と、少しだけ照れたように笑ってから、頷いた。
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