星をさずける |
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8 眠れずに迎えた朝は、どんよりと曇っていた。いつもならばカーテンの隙間から差し込んでくるはずの朝日の光もない。いちばん低いところまで落ちた昨日の夜から、地続きの時間にいることを、思い知らされたような気分だった。寝不足の頭がずきずきと痛む。それでも、こんなことぐらいで仕事を休むわけにはいかない。顔を洗って、仕事用の身なりを整える。食欲がないまま、コーヒーだけ飲んで部屋を出た。 佳介からは、何度か、電話があったようだった。夜の遅い時間に、履歴が残っていた。連絡があるかもしれない、と、夜の間ずっと携帯を遠ざけていた。なにか、うまい言葉を考えなくてはいけない。年上の友人として、どんな風に対応すればふさわしいだろう。考えなくてはいけない、と懸命に頭をめぐらせていて、そんな自分に笑ってしまう。どんな言葉を、なんて、決まっている。佳介にも、結婚式を挙げる彼にも、捧げる言葉はひとつしかない。 (おめでとう、だ) 伊織がずっと、練習してきた言葉だ。この時のために、幸せな人たちを祝福して、一緒にその幸せを喜んで、それがずっと続くように祈って。これまで、ずっと、練習してきた。 だから、大丈夫なはずだ。言わなくてはならない。彼にも、佳介にも。 (……お話したいことがあります) 電車に揺られながら、佳介に向けて、メールを送る。都合のいい時でかまいませんので、お会いできればと思います。そんな、他人行儀な言葉をわざと選ぶ。 終わりにしなければいけない、と、心に決める。 佳介からは、ほとんど間を置かず返信があった。『今日、店が閉まるのを、お店の前で待っています』。彼らしい言葉だった。 目を閉じて、彼の姿を思い出す。都合良く、初恋の相手と重ねていたのだと、そう思い込もうとする。佳介が好きだったわけではない。ただ少し、終わったはずの恋を思い出して、懐かしんでいただけなのだと、自分に言い聞かせる。恋じゃない。だから、平気だ。 そうやって、何度も思い込もうとする。けれど、思い浮かべる彼の姿は、少しも、佳介とは似ていなかった。 お客様に笑顔で対応しながら、仕事があってよかった、と、伊織はしみじみ思った。まるで伊織に余計なことを考える隙を与えまいとするように、珍しく店を訪れる人が途切れなかった。伊織の勤めるフォーマルハウトには、販売ノルマこそないものの、月間目標というものが一応ある。一ヶ月分の目標金額に迫る勢いで、次々とお客様に宝石やアクセサリーを手渡していった。 満足に休憩時間も取れなかったおかげで、店を閉める頃には、足元がふらふらだった。 「顔色、悪いですよ」 女性の同僚に、心配されてしまう。それに笑顔で首を振って、黙々と閉店作業を続ける。 「お疲れさまでした」 店を出る前に、忘れずに、デスクの引き出しにしまっていたものを持って出る。これまでは大切に、毎日鍵をかけて帰っていたけれど、もうそれも必要なくなる。 同僚達に手を振って、伊織はひとり、店の前まで戻る。朝からの曇り空は、夜になってもまだ晴れない。暗い夜空は、灰色の雲でいっぱいに覆われていた。商店街も、この時間になると開いている店よりも閉まっている店の方が多い。人気のないフォーマルハウトの前に、大きな影がひとつあった。 「綾瀬さん」 お待たせしました、と明るく声をかける。佳介は振り向いて、どこかほっとしたように表情をゆるめた。 「茅橋さん……昨日は、すいませんでした」 大きな身体を縮めるようにして、頭を下げられる。自分は佳介に謝らせてばかりだな、と、そんなことを思った。鞄の中におさめた小さな紙袋が、存在を主張するように、急に重たく感じられる。 「あの、話って……」 「少し、歩きましょうか」 ここは伊織の職場の目の前だし、いくら人通りが少ないといっても、近くには居酒屋や食堂もある。 佳介はどこか警戒するような表情のまま、伊織の提案に頷いた。何を話されるのか、なんとなく見当がついていて、そのことに身構えているようにも見えた。 どこに行く、とも言わないまま、ふたりで夜の道を歩いた。少しずつ商店街から遠ざかる道を、佳介のアパートとも駅とも違う方向へ、あてもなく歩く。 川沿いの遊歩道に出る。水の流れる音と、時折遠くから聞こえてくる車の音が混じる。この道は街灯がないから、暗くなると人の姿が途絶える。伊織と佳介の他には誰もいなくて、真っ暗の道が不気味なほどだった。 「……あ、星」 佳介がふいに、そんな言葉を漏らす。つられて彼の指さす方を見る。さっきまで青灰色一色だった空に、雲の切れ間が出来ていた。そこに、いくつか星が光っている。まるで取り残されたような、寂しい光に見えた。 「フォーマルハウトって、星の名前ですよね」 話題が見つかってほっとしているように、佳介が言う。その通りです、と伊織も頷く。 「南魚座という星座に含まれる星のことだそうです。僕も、実際に空を見て確認したことはないんですけれど」 店の名前の由来については、展示会の際などに配布するパンフレットや、ホームページ上に書かれている。星の名前を付けたのは、創始者であるオーナーの父親らしい。星が好きな人だったのだ。 「この星座は、秋に見られるそうです。フォーマルハウトは一等星と呼ばれる、とても明るい星です。けれど、その季節というのは、他にあまり明るい星というのが出ていないらしくて」 だからフォーマルハウトは、日本では『南のひとつ星』と呼ばれることもあるそうだ。暗い、寂しい秋の夜空の中、たったひとつ明るく輝いている星。 「宝石は、嗜好品です。本来ならば生活していくのには必要ない。それでも、つらい時や、寂しい時、自分が真っ暗な闇の中にいる気持ちになってしまう時に、ひとを支えられるのは、そういった物ではないかと僕も思います。きれいな石ひとつを持つことで、星がひとつ輝くように、その人の人生にも光をともすことが出来るように。……そんな意味の込められた、名前だそうです」 星が好きな人は、ロマンティストだと思う。先代もきっと、そうだったのだろう。そして、その思想に共鳴を覚える伊織自身もまた。 「数学も同じです」 佳介は生真面目な声で言う。 「そんなもの研究して何になるんだって、俺もよく言われます。何の役に立つか分からないものに時間や金を費やすなんて、無駄だって。もっと地に足を着けて、ちゃんとした人生を送らなくちゃいけないって」 誰にそんなことを言われるのか、佳介は口にしなかった。けれど、聞いたところで意味のないことだと思い、口は挟まないでおく。 「だけど、違う。俺のやってる素数だって、実はいろんなことに関わっているんです。一見、なんの意味もないようなことをやっているように思われるかもしれないけど。……俺にとっても、大事なものなんです」 伊織さんは、素晴らしいお仕事をしていますね、と、最後にそう言って、佳介は笑った。茅橋さん、という呼び方ではなかったことに、胸が弾んで、そうしてすぐに、その喜びは痛みに変わる。 「綾瀬さんに、お返しするものがあります」 鞄から、大切にしまいこんでいたリングケースを取り出す。佳介は不思議そうに、伊織の手のひらを見ていた。濃紺のケースは、暗い中ではそのかたちを見分けにくい。気付いてもらえるよう、手のひらに載せたまま、蓋を開ける。 「……これは」 さすがに、中にあるものは見えたようだった。思わず漏らされた様子の声は、驚きというよりも、戸惑いに揺れたように聞こえた。 「お預かりしていた、あなたの指輪です。あなたが、大切なひとに渡すための」 お返しします、と、佳介に向けて差し出す。佳介は困惑に満ちた表情のまま、しばらく伊織を黙って見ていた。 やがて、心を決めたように口を開く。 「もしかして、伊織さん、なにか勘違いしていませんか。昨日、あんなところを見られたから」 「……おふたりが、どんなお話をされたのかは、僕には知るよしもないことです。確かに僕は、勘違いしているのかもしれませんけれど」 伊織は確かに、勘違いをしている。ちゃんと、女性を好きになって、関係を築くことを望む佳介に恋をしてしまった。何も望まない、と自分を律しているつもりでいたのに、彼が以前の彼女と一緒にいる姿を見た時に、抑えきれない嫉妬と衝撃で胸がいっぱいになってしまった。ほんとうに何も望んでいないのならば、あんな気持ちになるはずがない。自分を抑えているつもりで、いい気になっていた。好きでいるだけなら、誰も傷付けないと思っていた。たぶんそれが、勘違いだった。 「そもそも、僕がこれをお預かりしているのがおかしいことでした。いつかお返ししなければとずっと思っていて、今日まで、渡しそびれてしまいました。すみません」 平静を装って、淡々と伝える。出来るだけ、冷たい声に聞こえるように、わざと低い声を出そうと頑張る。 「何もおかしくないです。俺、言いましたよね。これはあなたにあげますって。他の誰も言ってくれなかったけど、伊織さんだけが、俺のこと応援してくれました。だから、そんなあなたに貰ってほしいって」 「僕が貰うべきものではありません。あなたがもし、もう必要ないと言うなら、買い取りしてくれるところをご紹介しますよ。新品ですし、それなりに良い価格で」 「どうしてそんなことを言うんですか」 佳介の顔を見たくなかった。だから、わざと目を見ずに、彼の首もとに目を落としていた。それを無理矢理引き上げようとするような、強い声だった。 「俺は、あなたにそれを持っていてほしいんです」 「どうしてですか。僕はあなたが好きになったような女の子じゃない。あなたが選んだこの指輪も、僕では身につけることも出来ません。……僕はそれが、もったいないと思います。せっかく、一生懸命選んだのに。少しでも気に入ってもらえるように、喜んでもらえるようにって……。だから、ちゃんとした相手に、これを渡してあげてください」 その相手は、昨日一緒にいたあの女の子ではないのかもしれない。それでも、彼ならきっと、もっとふさわしい相手にすぐに出会える。 「伊織さん、何が言いたいんです」 佳介の言葉は、問いかけのようでいて、そうではなかった。伊織が伝えようとしていることにすでに気付いていて、それに向ける怒りすら込められた声だった。この穏やかな人を、怒らせている。 「僕は、男性を好きになってしまう人間です」 せめてその怒りを、すべてぶつけてもらおうと思った。もう彼と会うことが出来なくなって、どんな言葉も感情も交わすことが出来なくなるのかもしれない。だから、嫌悪でも苛立ちでも、何でもいいから、彼が伊織に与えようとするものを全身で受け取りたかった。 そんな浅ましい気持ちから、言うつもりのなかったことまで、つい、口からこぼれ落ちてしまう。 「……はい?」 怒りにかたく強張っていた佳介の声が、一気にゆるむ。伊織はうつむけていた顔をあげた。佳介の顔も、声と同じように、戸惑いにあふれていた。そこにあるのは、何を急に言い出すのか、というよりも、どうして今それを言うのか、と、そんな戸惑いのように見えた。子どものように無防備な驚き方に、思わず伊織は微笑んでしまう。この人は怒る時も驚く時も、やっぱり真っ直ぐだ。 彼のことが好きだと、改めて、そう思った。 「最初、あなたがはじめて店に来てくれた時、指輪をあげる練習をしましたよね。あれが、いけなかったみたいです」 好きだから、ちゃんと、幸せになってほしい。おめでとうと、みんなに言ってもらえる道を選んでほしい。だから、一緒にいるわけにはいかない。 「綾瀬さんはとても魅力的な人です。そんなあなたと一緒にいると、僕も、調子に乗ってしまいそうになる。……だからもう、お会いしません」 安心してください、と、言葉で言うのは、さすがに止めた。卑屈な言葉だと思ったからだ。 「驚かせて、申し訳ありません」 言葉を失っている佳介に、出来るだけ明るい声を作って笑いかける。立ちつくしている佳介の手を取り、その手に指輪を渡そうとする。伊織の手が触れた瞬間、佳介は弾かれたように、身を退いた。 「す、すみません、突然だったから……」 自分でもその反応に戸惑っているように、佳介は慌てて早口で言う。いいえ、とそれに微笑んで首を振る。気にしていない。似たようなことが、過去に何度かあった。この人なら分かってくれるかもしれない、とうっかり淡い期待をしてしまって、秘密を打ち明けて、失敗してしまった。みんな、優しい人だったから、表だって拒絶したり、ひどい言葉で罵ったりはしなかった。それでも、もう、その人たちには会えなくなってしまった。自然と、遠ざかってしまった。 佳介とも、そうなるだろう。 「……伊織さんは、俺のことが好きなんですか?」 こんなことを聞いてもいいのだろうか、と怯えているような声だった。 暗い夜道でも、彼の目が真っ直ぐにこちらに向けられていることが分かる。その眼差しを感じながら、肯定するでも否定するでもなく、ただ曖昧に笑うしかできなかった。肯定すればきっと、佳介はずっとそれにとらわれる。優しい心が、この先の未来にも影を落とし続けてしまう。かといって、否定することも出来なかった。この真っ直ぐな目を持った人の前で、これ以上うまく嘘を言える自信がなかった。 「もしそうだとしたら、何がいけないんですか」 思いがけない言葉を返されて、伊織も虚をつかれた気になる。飾り気のない言葉に、思わず、同意してしまいそうになる。そうだね、何がいけないんだろうね、と笑えたらいいのに。 「あなたが幸せになれません」 郵便受けに届いていた、立派な招待状のことを思い出す。祝いの場はきっと華やかだ。きれいに着飾った人たちに囲まれて、笑顔を浮かべるふたり。想像して、目を閉じてみる。きらきらと輝く光が、いくつも目蓋の奥にまたたく。ふたりの姿は、何年も会っていない友人ではなく、佳介と、昨日、駅の前で一緒だった彼女の顔になってしまう。 「だから、もうお会いしません。……今日まで楽しかったです。どうか、お元気で」 研究をがんばってください、と付け加えて、また、指輪を差し出す。佳介は何も言わず、黙って伊織を見ていた。真っ直ぐな視線だけは痛いほど感じるけれど、それにどんな感情が乗せられているのかまでは、分からなかった。 「……どうして」 ゆっくりと彼が手を伸ばす。いろいろなものを押し殺しているような、低い声だった。伊織の手のひらの上に乗ったリングケースを、まるで奪い取るように掴む。彼らしくない、乱暴な仕草だった。 「どうして、俺の幸せを、あなたが勝手に決めるんですか!」 鋭い声で叫び、佳介は手のひらにつかみ取ったものを、そのまま川のほうに向けて、放り投げてしまった。遊歩道から川までは、草が好き勝手に伸びている河原が広がっている。おそらく、川までは届かなかったのだろう。かすかに、草の揺れる音が聞こえた気がした。 「なんてことを……」 足元に何かが転がる音に気付き、伊織はそれを拾いあげる。空になったリングケースだった。 「俺はあんなもの、もういりません。ほんとうに、心から、もう必要ないと思ったのに」 伊織は地面にしゃがみ込んだまま、空のケースを手にして呆然としていた。上から、佳介の声が降ってくる。切々とした、訴えるような声。 「伊織さんは」 押し殺そうとしている心が滲むように、その声は震えて揺れていた。彼を見上げる。 「俺には、星をくれないんですね」 街灯のない道は暗い。空には雲がたくさんかかっていて、ほんのわずかな切れ間から、少し星が見えるだけだ。そんなかすかな光では、とても、見上げた彼の表情までは照らしてくれない。 佳介はそう言って、伊織に背を向けた。来た方向とは反対の方へ、走り去って行ってしまう。すごい勢いで小さくなっていく背中は、すぐに闇に溶けて、見えなくなってしまった。 悲しそうな、声だった。ずぶ濡れになって、駄目でした、とうつろな声で呟いていた彼のことを思い出す。透明な、まじりけの一切ない結晶のような涙を零していた、子どものような泣き顔。 これでよかった、と、自分に言い聞かせようとする。もう、会わないと決めたのだから。伊織の望んだ通りの結果になったはずだった。 空っぽのリングケースを手に取る。指輪をおさめていないケースは、他の何にも代用のきかない、小さな四角いかたちをした箱でしかない。空っぽになってしまって、どうしたらいいのか分からない。 まるで、伊織自身のようだった。
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