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鬼さんこちら
3

 あの日も、こんな風に暑い夏の日だった。
 笹村擁には、高校二年生の夏休みの記憶が、ほとんど無かった。期末テストが終わって、その解放感にうかれて順と一緒に遊び回ったことや、前半に一度あった登校日が面倒だったので仮病を使って休んだことは覚えている。夏休みが始まってすぐ、まだ、嫌というほど出ていた宿題のことを少しも考えずに遊んでいられた頃のことは、おぼろげだが、今でも思い出すことが出来た。
 それでも、それ以降、八月の最初の、二週間の記憶が、全く残っていない。それを過ぎると、また、おぼろげではあるが、病院のベッドから見た天井の模様や、心配そうにこちらを覗き込む順や、お見舞いにきれいな花を持ってきてくれた辰巳や、それを活けておくための花瓶を看護師さんから借りてきてくれた巧介のことを思い出すことが出来る。
 その間の、二週間という短い区間だけが、まるで切り取られたように、完全に抜け落ちていた。
 だから、どうしてそんなことになったのか、一体なにがあったのか、当事者である擁には、一切言葉にして説明することは出来なかった。あるのは、ただ擁の身体に残った傷跡と、それ以降の、以前との変化だけだった。
 証拠になるものは、それしかなかった。残された傷は、擁が記憶をなくしたその間に、どんなことをされたかを如実に語ったし、他人との接触に極端に怯え、外界を拒絶するようになった擁の性格の変化は、精神的に受けた傷口の表れだった。
 自分のことであるはずなのに、他人事のように語ることが出来るのは、その記憶がないからだ。笹村擁は夏休みのある日、友人たちと遊んでいたその帰り道に、何者かによって、どこかに連れ去られた、……らしい。頭部に、ひときわ目立つ、大きな打撲傷が残っていたという。その時に、殴られたのだろうとの見解があった。気のせいでしかないと思うが、他人に頭に触られると、今でもそこが痛んだ。
 営利目的の誘拐だと、笹村の家族は慌て、犯人からの連絡を待った。それでも、どこからも、誰からも、何の要求もなかった。笹村の家族は、この地方では大きな、かつては山も土地も多く持っていた、現在でも政治に関わるものを多く輩出している家だ。そのため、営利目的でなければ、そちらの関連で、何らかの恨みを買い、そのために末の息子である擁が狙われたのだという話も出た。擁の祖父はその当時も、そして今でも現役の市議会の議員だし、父親や上の兄も、他の親戚も、大概が公務員だ。実際にそんなことをしているのかは分からないが、恨みを買う、という発想が出てくる辺り、あまり褒められないようなことをやっていると自覚があったのだろうか。
 ……三日経っても、何の連絡もなく、そして擁も戻ってこなかった。
 警察は祖父の頼みで、極めて秘密裏に事件を処理した。だから、もちろん行方不明になった擁の捜索もされたけれど、それは人目に付かない程度の範囲だった。笹村の家は、擁よりも、世間体を選んだ。もともと、あまり勉強が出来ず、幼いころから笹村の家風に馴染めないものを感じていた擁は、祖父のことがあまり好きではなかった。そしてそれは祖父にしても同じようで、いつも、優秀な兄と比較され、鼻で笑われるような扱いしかされてこなかった。だから、その決断は、非常に祖父らしいと、大した怒りも感じることなく、呆れたようにそう思うだけだった。
 擁は二週間の間、まったく消息が知れなかった。
 冷えた家族とは反対に、心配をして、どうにか見つけ出そうとしてくれたのは、友人たちだと言う。毎日のように、なにか捜査に進展はあったかと顔を出して尋ねてくる彼らに、家出かもしれない、と、笹村の家ではそんなことまで言いはじめていた。それを否定して、あまり騒ぎにするのは、と笹村の家の人間たちに眉をひそめられながらも、彼らは懸命に、擁のことを探してくれた。大人や権力に頼れない高校生に出来ることはたかが知れていたけれど、自分たちで思いつく限りのところは探してみたり、探し人のチラシを配ったりすることは厳重に笹村の家に止められていたのでしなかったそうだが、駅前に立ち、改札をくぐる人ひとりひとりに、こんな人を見かけませんでしたか、と、尋ねたりしたそうだ。それでも、擁の行方はまったく分からず、新しい情報が外から入ってくることもなかった。
 その辺りの経緯が、ほんとうはどんな風にもたらされたのかは、擁は詳しく聞いていない。それまでの話の内容はよく覚えているのだから、もしかしたら聞いてはいるのかもしれない。聞いた上で、あまり覚えていたくないような、そんな内容のものだったのかもしれない。いまは、分からない。
 擁が見つかったのは、消息を絶ってから、十五日目のことだった。町外れにある山の、山道の脇に不法に投棄されている粗大ゴミの中で、全身傷だらけで気を失っているところを、市に命じられてゴミを処分しに来た業者に見つかった。子どものころはよく夏になるとカブトムシやセミを捕まえに行った山だったが、擁たちが小学校を卒業する年に、大雨で緩んだ地盤が陥没する事件が起き、それ以来、立ち入り禁止区域になった山だ。だから、足を踏み入れる者も少ない。タイヤを外された軽トラックの荷台の上に、ぼろぼろのマネキン人形が捨てられているのだと、最初に発見したその業者は思ったのだそうだ。
 そうして警察に通報され、どうやら心臓が動いているらしいのですぐに病院に運ばれ、擁は再び、家に戻ってくることが出来た。家族の反応がどんなものだったかなんて、覚えていない。母親はずっと心配していて、他の家のものの冷たさに心を痛め続けていたようだったから、泣いていたかもしれない。
 ほかの友人たちはどうだったかな、と、ふとそんなことを思う。順なら、泣いてくれたかもしれない。あれで意外と情に厚くて、涙もろい巧介も、もしかしたら。辰巳はないだろう。
「……擁、あのさ」
 そんなことをぼんやりと思い出しながら、ずっと黙っていた。だから、ふいに呼びかけられた自分の名前にも、反応が遅れる。
「擁?」
 顔をあげて、こちらを見ていた順を見る。なにか話していたらしいけれど、別のことを考えていて、よく聞いていなかった。
 順はそんな擁の表情を、まるで言いたいことを読み取ろうとでもするようにじっと見て、どうしたんだよ、と、いつものように、優しく笑った。
「別に、なんでもない」
 試しに聞いてみようかと思った。擁が生きて戻ってきて、嬉しかったかどうか。その時に、涙が出たかどうか。それでも、思っただけでやめておく。順は、あの事件について話すのを嫌がる。
 擁が自分が忘れてしまった間のことを、まるで自分が見聞きしたかのように思い出すことが出来るのは、すべて辰巳から聞いた話のおかげだ。巧介にも聞いたことがある。けれど彼は、話すのが別に嫌というわけではないが、説明しているうちに次第に面倒になってくるのか、会話を途中で打ち切ってしまったり、すごく適当に、おおまかにしか話してくれないようなところがあった。もしかしたら、彼のことだから、そんな風に面倒な素振りを見せるだけで、実際には擁の心に与える影響を懸念して、そうやってはぐらかしているのかもしれないが。その点、辰巳は、擁が知りたいことを、すべて淡々と教えてくれた。
 自分のいない間になにが起こっていたのかを知りたいのは、興味があったからではない。
 そうやって他から貰うもので埋めなければ、自分の中にぽっかりと空いた空白が、怖くてたまらなかったからだ。
 いくら思い出そうとしても、自分がどうなっていたのかを思い出すことは出来ない。
 ただ、心はそうでも、皮膚や骨は、どうやら少しはなにかを覚えているらしい。
 それまでに平気だったものが、全く受け付けられなくなったからだ。
「どうしたの、擁。すごくぼーっとしてたみたいだけど。……もしかして」
 辰巳とは、あの後すぐに別れた。また誰かと約束があるらしかったが、あまり気乗りがしないらしく、家に帰って寝たい、と面倒そうだった。たぶん、彼のことだから、さっき会っていたらしい人とはまた別の相手なのだろう。あの調子では、もしかしたら途中で嫌になって、約束もすっぽかすかもしれない。
 擁は順に誘われて、なんとなくそのまま、大学まで来ていた。夏休み中でもそれなりに人がいるのが意外だった。学生食堂も購買も普段通りに営業しているし、一見すると、授業がある日となにも変わらないように見えた。ただそれでも、やはり、そこでたむろしていたり、なにかを楽しげに話し合っているらしい彼らの雰囲気は、休みを楽しんでいるもののように感じた。楽しそうで、眩しかった。
 順は大学に用事があったらしい。それが終わるまでどこか、例えば涼しくてあまり人のいない、図書館の文学全集が置いてある一角で待っているつもりでいた。言いだしそびれて、なんとなく今は彼の後を付いて歩いていて、その挙げ句に昔のことを思い出し、順を心配させてしまった。なにをやっているんだ、と内心で自分自身に舌打ちして、しかしその時、順が言外に、なにかを言いたそうにしているのに気付いた。口では言いにくいようなこと。
 気遣わしげな、まるで擁がどこか怪我をしていて、それが痛むだろうと、そう哀れんでくれているような、優しい目だった。
「もしかして、したい?」
 小さな子どもに聞くような、慎重な柔らかい言い方。
 彼がなにを言おうとしているのか、聞き返さなくても、すぐに分かった。

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