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鬼さんこちら
2

「……話って?」
 さっき、順が巧介になにか言いかけていた。その途中で辰巳が顔を出したから、結局、そこから先になにが語られようとしていたのか、擁には分からずじまいだった。今日は、三人から擁に提案があるから、と、順に誘われたのだ。いつものように自分の家の、自分の部屋に閉じこもっていた擁が、そうやって友人の誘いで外に出ることを、家族はとても喜ぶ。あの事件以来、めっきり閉じこもるようになった擁は、もともとは活発で、じっとしているのなんて嫌いだったからだ。だから、当の本人である擁よりも周囲の方がずっと、その変化に戸惑い、どう接すればいいのか分からないで不安があるのは理解出来る。それでも、腫れ物に触られるように恐る恐る、顔色を見ながら話をされると、こちらもどうすればいいのか分からなかった。家族でさえもそうなのだ。
 だから、それまでと、少なくとも表面上は、以前と変わりなく自然に接してくれる友人たちの存在は、擁にとって何より有難かった。有難いと思わなければならないと、いつでも、そう自分に言い聞かせている。
「なんか、あるんだろ。話」
 擁がぽつりと、隣に座る順に聞こえるくらいの声でそう尋ねると、彼はフォークを持ったままの右手を、言葉に迷っているようにひらひらと小さく揺らした。
「うん、話っていうか。単純に、遊びの誘いなんだけど」
「遊び?」
「そう。夏休みだから、どっか行こうよ、って」
 そういう話をしようと思ったんだけど、と、そこで言葉を切って、順は向かい合いに座る巧介と辰巳を見た。ふたりとも、黙々と食事を続けるだけで、順の言葉に特別反応を見せたりはしない。ということはつまり、順の言う通りなのだろう。
「……でも」
「無理に、とは言わないけどさ。なんか、思ってたより大学の夏休みって長いだろ。宿題もないし、時間が有り余ってるっていうか」
 順がそう言って笑う。それは確かに、擁にとっては当てはまることだ。その長い時間をなにに使う気力もなく、ただ毎日、部屋に閉じこもって、無為に過ごしている。擁にとっては、確かに時間は有り余っているものだ。
 けれども、この友人たちにとっては、それは当てはまらないだろう。
 そんなことを考えたのが、顔に表れたのだろうか。それとも順ならば、例え顔に出ていなくても、擁がそんな風に考えることは、もうお見通しだっただろうか。まったく擁は、と、呆れるように笑われてしまう。
「すぐそれだな。さっきも、そんな風に思う必要ないって言っただろ。サークルは一応、練習とか合宿があるけど、別に毎日あるわけじゃないし。バイトは、来年ぐらいまではする予定じゃないしさ」
「でも、巧介と辰巳は」
 順の、何故か妙に張り切っているその調子に、半ばすがるような気持ちで、向かい合いに座るふたりに話を振る。
「別に、おれも構わねぇよ。バイトばっかなのも嫌だしな。折角の夏休みなんだ、一回くらい、この面子でも遊んどこうぜ」
 しかし巧介も、そんな風に順に賛同する。
「おれも、いい話だと思う。擁には、辛いかもしれないけれど」
「辛いとか、そういうんじゃ、なくて」
 静かにこちらを見た辰巳に、咄嗟にそう言い返す。そういう問題ではないと反論しようとして、擁は黙った。これ以上なにかを言おうとすると、自分の、外に出たくないという気持ちを見破られそうで嫌だった。そして、そのことを、表だっては言わず、あくまで、友人たちの都合の悪い存在になりたくない、と、そんな偽善的な言葉で伝えようとしていることも。だから、黙り込んで、うつむく。
「遊びに行くって言ってもさ、擁」
 そんな擁を気遣うように、順が優しく付け加える。
「旅行に行くとか、なんか、人の多いところに行こうとか、そういうんじゃなくてさ。自然に帰ろうっていうか」
「……自然に帰る?」
「まあ、なんていったらいいのか、その。空気が美味しくて、景色が綺麗で、そんで、夜には星がよく見えるような。そんな感じのことを提案したいわけなんだけど」
 順がなにを言いたいのか、よく分からなかった。どこに行って、なにをしようと言いたいのだろう。
 何故か言葉に迷っているらしい順を尻目に、呆れたように、巧介が言い放つ。
「だから、キャンプにでも行こうぜ、って、そう言いたいんだよ」
「あ、巧介、おれが敢えて言わなかった単語を……」
「馬鹿、なに格好付けてんだよ、別にいいだろ、キャンプで」
「キャンプってその言い方がいかにも健全で、青少年の遊びって感じー、って、嫌な顔してたのおまえだろ」
「どう思う、擁?」
 よく分からない言い合いをはじめてしまった巧介と順を無視して、辰巳が擁に尋ねてくる。
「太陽の光を浴びるのは、身体に良いのは勿論、精神的にも良いんだ。実際、日照時間の少ない地域の方が、うつ病患者の数の割合が多いという話もある。……だからどうだって話をするつもりはないけど、よければ」
 どうやら三人は、もう、行くつもりでいるらしい。行くつもり、というよりは、擁を連れて行くつもり、というべきだろうか。
 どう答えればいいのか、しばらく迷う。本音で言えば、外には出たくない。眩しく照る太陽は、長袖を着ていても布地を貫通して嫌な熱を肌に刺してくるし、蒸し暑い、熱気に密度を濃くした空気は、呑み込んだら気持ちが悪くて吐きそうになるし、それに、外には、ひとがいる。この三人以外の、他の、人間だ。ひとりの人間にはそれぞれ目がふたつずつある。たとえひとりしかいなくても、ぎょろりと動く目はふたつ、擁の動きを追って、どこまでも着いてくる。ふたりならよっつ。十人いれば、二十個だ。どこまでも、どこまでも追いかけてくる。あれがあの笹村さんの家の、と、喋って、男の子なのに、と、口もないのに笑う目玉。
「……、っ」
 自分でも、顔が青くなっているのが分かった。いまこの場所ではない、違うどこかに集中しかけていた意識を振り払うために、小さく首を振る。氷の溶けた水を、一気に喉に流し込む。
 こんな風に、意見を問われることが苦手だった。聞かれたことだけを単純に考えて、ただ、そのことだけを答えればいいのに、それが出来なかった。なにかを考えようとすると、頭の中にそういう道筋がすっかり出来上がってしまっているかのように、自然と、いつも、違うたくさんのことが浮かんできて、心も頭もいっぱいに占領するまで、止まらなくなる。それは他の擁の悪い癖と同じように、あの夏の日から、いつまでたっても直らなかった。
「慌てて返事しなくてもいいよ」
 なにも答えられない擁に、順が、慰めるように、そっと肩に手を置く。その接触に、わずかに身体が震えたことに気付かれただろうか。順は一度、ぽん、と擁の肩を叩いて、いつものように笑う。
「まだ、はっきりと決めたわけじゃないしさ。でもほら、今年からは、車だって出せるだろ。いままで行けなかったところにだって、遊びに行ける。まぁ、車って言っても、初心者マーク付きの、中古の軽だけど」
 冗談めかしたその言い方に、肩の力を緩める。
「……そこ、人、多い?」
「ん? あ、キャンプか。どうだろ、穴場っぽい感じだけどな。どう思う、辰巳?」
「それほど混み合うことはないと思う。いいところだけど、途中の道が悪いからな。多分、おれたちが行くとして、もし他のグループが来ていても、せいぜい一、二組だろう」
 まるで、擁の聞きたがることなど、最初から分かっていたような回答だった。どうしよう、と内心で焦る。このままでは、断れない。 
 じりじりと追いつめられたような気分になる。相手は仲のいい、気を許しているはずの友人だ。それに、今話されていることだって、遊びに行こうという誘いだけで、別に、そんな風に身構える必要などないはずだ。普通ならば、明るく笑って屈託無く頷くか、あるいは気が乗らないのなら、正直にそのままを伝えてしまえばいいだけの話だ。
 それなのに、そんな簡単なことが、どちらも出来なかった。
 答えられないままでいると、突然、違う方向から声が割り込んできた。 
「しばらく考えてみろよ。今、無理矢理返事させて、やっぱり行きたくなかったんだ、って、当日になって嫌な顔されたら困るしな」
 それまでなにも言わずに傍観していた巧介だ。彼はうんざりしたような口ぶりでそう言い、そのまま席を立った。順が尋ねる。
「もう行くのか」
 言い方は乱暴だったけれど、巧介のその言葉で、辰巳も順も、擁の返事を待つのを止めたようだった。彼が意識してなのか、それとも純粋に、擁のはっきりしない様子が勘に障ったからなのかは分からないが、おかげで、今すぐに返事しなければならないような雰囲気からは逃れられた。
 財布から千円紙幣を一枚抜き出し、伝票の上に乗せて、巧介はひらりと手を振る。
「バイト。人手足りないから、早く来てくれって頼まれてんだ。また、なんか決まったら教えろよ」
 そのまま、メールの返信かなにかだろう、携帯をいじりながら、店を出て行ってしまった。
 巧介が友人に紹介されてバイトをしているカフェの店の名前を、擁は知らなかった。知っていたところで、どうなるでもないと思って、巧介も敢えて教えないのだろう。彼の働く姿、というのは興味がないでもないが、それでも、店は結構な評判で、巧介が言うには、訪れる人が途切れることはないらしい。見た目の派手な雰囲気や、物言いの粗暴さからは考えられないほど、巧介は細かいところによく気が付くタイプで、手先も器用だ。一見、真面目で細かそうな辰巳が実際には大雑把で、小さいことにあまり拘らない性格なのと、ちょうど正反対なように。このふたりは高校に入る前からずっと仲がいい。おそらく、そういうところが関係しているのだろうと擁は勝手に考えている。
「……巧介の言う通りだよな。擁、ごめん。ゆっくり考えてくれればいいから」
「ごめん」
 申し訳なさそうに、順がそう謝ってくる。謝らなければならないのはこちらだと思い、擁がぽつりとそう口にすると、気にしないで、と、いつものように順は優しく笑った。それを見たくなくて、目を逸らす。
 その後は残された三人で、適当な話をしながら、食事をした。話すといっても、擁はほとんどが聞くばかりだ。順のサークルの話や、辰巳が先輩から聞いてきた、単位の取りやすい一般教養の授業の話などを聞きながら、心の中で、先程の順たちのキャンプの誘いのことを考えた。
 悪い話では、ないのだろう。もし、擁の両親がこのことを知ったら、きっと、是非行きなさいと背中をぐいぐい押してくるだろう。信頼できる友人たちと一緒に、空気がよくて、夜には星が綺麗な、自然に囲まれる。他人の存在に怯える擁のために、人気の少ないところを、彼らはわざわざ選んでくれた。擁以外の友人や、恋人や、バイトなど、他に時間を費やすべきところは、いくらでもあるだろうに。いい話以外の、なにものでもない。
 ……それでも、何故だか不安で、行きたいと言い出すことが、どうしても出来なかった。

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