鬼さんこちら |
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1 耳鳴りがすると思ったら、蝉が鳴いていた。 いつの間に、そんな季節になったのだろう。この間まで毎日雨が降って、じめじめと湿気ていた空気が、気が付けばからりと乾いて軽い。シャツの裾をくすぐる風は、わずかに熱気をはらんでいた。もう、夏なのだ。 笹村擁はふと立ち止まる。夏、という単語を自分の中に浮かべた途端、身体が一瞬硬直した。 「……擁?」 少し先を歩いていた友人が振り向く。自分の名前を呼ぶその声に、ぼんやり遊離しかけた意識を引き戻す。 波崎順は、かすかに眉を寄せて、こちらを見ていた。慌てて、なんでもない、と首を振った。 「いい天気だなと思って」 空を仰いで、想像通りの抜けるようなその青色に、思わず息が詰まる。……雲ひとつないその澄んだ青色が、まるで自分を呑み込もうとしているように感じられて、たまらなく不気味に見えた。 「どうした?」 もしかしたら、そんなことを考えていたのが表情に出てしまったのかもしれない。 「なんでもない」 どこか心配そうな、けれどもそれを、決して分かりやすくは覗かせない順の慎重な言葉に、擁は小さく首を振った。気取られたくなくて、話をそらす。 「辰巳と巧介は? 昨日は、ふたりとも来るみたいなことを言ってたけど」 「ああ、さっきメール入ってた。なんか、用事があるとかで、ふたりとも直接向こうで待ってるって」 そう言って順は笑った。順は地顔がそうなのかと思わされるほど、大抵笑っている。それでも、今日はとりわけ、機嫌が良さそうだった。夏休みが始まったばかりだからだろうか。 「ほんと、今日はいい天気だよなぁ。海とか行きたくなる」 その言葉に、声なく頷きながら、心の中に重く沈むものがあった。 試験は終わり、あっという間に夏休みに入ってしまった。大学生の時間の流れは、これまでと全く違う。なにしろ夏休みなど二ヶ月ほどあるのだ。普通の大学生が、どんな風にその長い夏休みを過ごすものなのか、擁には想像が付かない。サークルにでも入っていれば合宿だとか何かで、また予定も入るものなのだろうが。何にも所属していない擁には、清々しいまでに何もすることがない。 だからいつもは、家から出ない。こうやって、順たちから誘いの言葉がかからなければ、擁はいつでも、いつまでも、屋内に籠もっていられる。それは辛いことでも淋しいことでもなかった。外に出ることへの恐怖感は、以前ほど強くは感じないが、それでも、出ないでいられるなら、その方がよかった。 「……あのさ、順」 順と、他のふたりとは、高校時代からの友人だ。特別、仲良くなるきっかけがあったわけでもなく、気が付いたら、いつでも四人で行動するようになっていた。それ以来、大学も皆、地元の同じところに進学したため、今でも友人付き合いを続けている。大学に入ってから、新しい友人は出来ていない。擁はあまり人見知りするタイプではなく、割合、誰とでもすぐに打ち解けることが出来た。……以前は。今は違う。 けれどもそれは、擁だけの話だ。 「夏休みくらい、おれのこと、放っておけばいいよ」 擁以外の三人が、大学に入ってから新しい人間関係をそれぞれ築いていることは知っている。そのことを妬ましくは思わないし、それが普通なのだと思う。ただ、今の自分には出来ないだけで。 それなのに、彼ら三人は、高校の時と同じように擁に接してくれる。ひとりで食べるのは寂しいだろうからと気を遣って、食事は必ず一緒にと誘ってくれるし、授業と授業の間の時間が空いていて、暇を持て余すような時は、大概、誰かが声をかけて傍にいてくれた。擁がどんな時間割で授業を取っているか、最初の時に聞かれたから、三人はすべてを把握している。ひとりで外に居ることに、いまだに不安を感じる擁には、それがすごく、有難かった、けれども。 それが、甘えであることは分かってた。 「なに言ってるんだよ」 擁の言葉を、順はそんな一言で笑い飛ばす。 「だって、折角の夏休みだし。他になんか、いろいろ、したいことあるだろ」 「特にすることなんてないよ。宿題だってないし。自由すぎて落ち着かないくらいって言うか」 「そんなことないだろ、だって、サークルとか」 真っ直ぐに順の笑顔を見ていられなくて、サークル、と口にする直前で、顔をうつむけてしまった。 言いたいことが、分かっただろうか。 「……ああ、擁、もしかして、気にしてくれてる?」 勘のいい順には、それだけで充分だったようだった。 言葉にしては答えず、かわりに、黙って頷く。しばらく、迷っているような沈黙が流れた。 「あのさ、擁」 ややあって口を開いた順の声は、いつものように優しかった。 「擁の気持ちを無視してるかもしれないけど、おれにとって、一番は擁なんだ。他の何より、優先して考えたいって思ってる」 「……変なこと、言うなよ」 「変かな。……そうかもな。普通の男の言うことじゃないのかも。でも、しょうがないだろ。彼女といたって、どうしても、擁のこと気になっちゃってさ」 「順、おれは」 大丈夫なんだから、と言いかけて、その前に順に割り込まれる。 「だから、他のふたりはともかく、おれはいいんだよ。擁に構うのは、趣味みたいなもんだし」 「でも、辰巳と巧介は、違うだろ」 「ストップ。勝手にひとりでそうやって決めるのは擁の悪い癖。辰巳や巧介が、何か、嫌だって言ってた?」 「それは、言ってない、けど」 たとえそんな風に思っていたとしても、彼らはそれを口にすることはないだろうと思う。決めつけるのは悪い癖だと順は言うが、だからといって、表面上に出ているものだけを真実だと受け止めているのでは、いけない気がするのだ。 「……ふたりはどうだか知らないけど。おれは、擁といれば、楽しいよ」 擁の性格をよく知っている順は、だからこうやって、なんでも言葉に出して伝えてくれることが多い。おれはこうだから、だから擁もおれのことはそういう風に見てくれればいいよ、と教えてくれる。順のそういうところがとても好きだった。いつも一緒にいることが多いとは言っても、いまだに他のふたりには無意識に身構えていてしまうときがある。けれども順だけは違う。 「順は、優しいから、そんな風に言うんだ」 「おれが優しいのは擁にだけだよ」 「それは、おれが」 真面目な調子で恥ずかしいことを言った順に、咄嗟に、普段思っていることそのままに反論しそうになる。しそうになって、でも、危うく、寸前で止めた。だめだ。こんなこと、言っちゃいけない。 順や、他のふたりが擁に優しくしてくれるのは、擁が、そんな風に扱わないとならない存在だと思っているからだ。 たとえば病気や怪我で、弱っている人間と同じだ。健康な人間と同じように扱ってはならない。弱いのだから、怪我が痛んで普通のことも普通に出来ないのだから、優しく慎重に接しなければならない。擁の存在は、たぶん、彼らに、そんな風に思わせてしまうのだろう。たとえ擁自身がそれを望まなくても、また、彼ら自身がそんなことはないよと否定しても。 口に出しても意味はない。そうなってしまったものは、もう、変えられない。 「……擁」 「ごめん、なんでもない」 いくら無かったことにしたいと思っても、二年前の夏の事を、誰も無かったことに出来ないのと同じだ。 順は何も言わなかった。擁の名前を呼ぶ声は、何か言いたそうな響きを秘めていたけれど、それでも、何も言わない。 代わりに、ふと、思い出したように腕時計を見る。 「行こうか。あいつら、もしかしたら先に着いてて、待ってるかもしれないし」 そう笑いかけてくる声が、いつもと同じように柔らかかった。 こうやって優しさを与えられるままでいるだけでは駄目だと思いつつも、擁はそれに頷き返すことしか出来なかった。 「遅いぞ、おまえら」 森津巧介は、約束の時間を完璧に守る。金色に近い、誰の目に見ても染められていることが明らかな髪や、擁が足を踏み入れる気にもならないような店で買っている服やアクセサリーが他人に与える印象とは違い、彼には几帳面なところがあった。 不機嫌なその様子に時計を見ると、確かに、約束していた時間に五分ほど遅れていた。 「ごめん、おれが、順の足ひっぱったから」 「辰巳なんて、まだ来てないし。あいつちゃんと時間分かってんのかよ、順? 相変わらず、メールしても全然返事よこさないんだよな、あいつ」 擁には何も言わず、巧介は順につっかかるように言う。いつでもそうだ。巧介は割と気が短くて、それなのに細かいことがいろいろと気になる性質らしく、何かに対してこんな風に苛々していることが多い。それでも、その苛立ちを擁に対してぶつけてくることはない。昔はそれで、よく喧嘩になることもあった。……いまはない。 代わりに、その矛先になることの多い順は、慣れた様子で苦笑してそれを受け流す。 「大丈夫だよ、ちゃんと言ってる。五分や十分くらい、いつものことだろ。それに辰巳だって、絶対に守らないといけない時間はちゃんと守るよ」 「それって、おれ達のことは多少いい加減でもいいって思ってるってことだろ」 「うーん。いい加減と言うか、ちょっとくらいは見逃してくれると思ってるんじゃないかな」 「なあ、次からあいつにだけ、待ち合わせの時間、嘘ついて早く知らせとけよ」 「え、そこまでするの?」 間に入ることもなく、擁は静かに彼らの遣り取りを聞いていた。 待ち合わせをしていたのは大学の近くのファミレスで、ちょうど混み合う時間が終わった頃なのだろう、他には数組しか客の姿は見られない。店の一番奥のボックス席を陣取るように待ちかまえていた巧介は、擁の顔を見るなり、それまでくわえていた煙草の火を消した。そこまでは気を遣ってくれるけれど、席はあくまで喫煙席を選んでいるのが、巧介らしいと思った。 なんとなく、いつものように、巧介と向かい合いに座る順の横に並ぶ。四人で集まる時は、自然と、そういう並びで座ることになっていた。いまは、まだひとり来ていないけれど。 適当にメニューを広げて、順と眺める。ここで食べればいいと思い、昼食は取ってこなかった。空腹であるはずなのに、色鮮やかに並ぶたくさんの写真を見ていても、どれも食べたいと感じられなかった。いつものように、順と同じものを頼む。食べたいと思えないだけで、口に入れれば、それなりに美味しいと思うし、平均的な量を食べることも出来る。 巧介はどこか別のところで済ませてきたのか、それとも、もしかしたら擁たちが来る前に食事を済ませてしまったのか、なにも頼まないようだった。氷をたくさん入れた烏龍茶のコップだけが、テーブルの上に乗っている。 「それで、あの話だけど」 注文を取り終えたウェイトレスがメニューを全て下げてしまおうとするのに、あとひとり来るので、と順が柔らかく声をかけて止める。巧介が、もうそんな奴は待たなくてもいい、とでも言いたげに、なにかを話し始めようとする気配を感じた。 それと、ちょうど同時だった。 「あ、来た」 順が独り言のようにそう口にしたので、つられて擁も彼の見ている方に目をやる。背の高い、見慣れた友人の姿が、店の入り口にあった。案内をしようと近づくウェイトレスに一度首を振って、すぐにこちらを見つける。 「三十分くらい過ぎてんぞ、おまえ」 苛々しすぎて、腹を立て続けることにも飽きてしまったのだろうか。巧介は遅刻魔本人の顔を見ると、呆れたようにひとつ息を吐くだけだった。あまりに涼しい顔をして、焦る様子も謝る様子もないところを目にして、なにを言っても効果がなさそうだと、そう思ったからかもしれない。 蔵野辰巳はやはり巧介のその言葉は聞き流し、なにを言うでもなく、空いている巧介の隣に静かに腰を下ろす。 彼が隣を通り過ぎたその瞬間、わずかに、甘い、いい匂いがした。普段の生活の中では、あまり、関わることのなさそうな。 思い当たることがあって、そっと、聞いてみる。 「女の人と一緒だった?」 香水か、なにか化粧品の香りではないかと、そう思えた。擁がそういったものに触れる機会はない。ないけれども、以前にもこんなことがあって、その時に、辰巳がそう教えてくれたのだ。 「ん」 ぼんやりと、どこかまだ眠そうな様子で、短く辰巳は頷く。尋ねた擁の頭に手のひらを載せて、髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でる。よくされるその仕草に、いつものように、やめろよ、と身を捩って逃げる。辰巳は軽く微笑んで、大人しく手を離した。 「おまえ、遅いって」 「……間に合うつもりだった」 「またそれかよ、おれ、おまえから一体何回そのセリフ聞けばいいんだよ?」 「お互い様だ」 辰巳は順から受け取ったメニューを広げて、隣で、やっぱり納得がいかなかったのだろう巧介がそう訴えるのを適当に受け流す。細い銀色のフレーム越しの切れ長な目は、なにを見ていてもいつものように静かで、波立たない水面を擁に思い起こさせる。辰巳はいつも優しい順とも、熱い巧介とも、まったく雰囲気が違う。他のふたりならば、似たようなタイプの人間をこれまでも何人か見知っている。けれども、辰巳のような空気を持つ他の誰かの存在を、擁は知らなかった。知り合って今年で四年目になるが、彼が声を荒らげたり、腹を立てたりしている姿を見たことがない。決して無口なわけではなくて、中学時代からの友人である巧介だけにではなく、順や擁にも、自分から色々なことを話す。それでも声を立てて笑うことは滅多にない。端から見ていれば、そんなところが冷静沈着で、理知的に映るのだろう。医者ばかりだという一族に生まれ、実家も病院である辰巳は、大学も自然と医学部に進んだ。……当然のように、女の子からも、すごく人気がある。 「辰巳さ、おれ、ちょっと聞いてもいいかな」 なにを頼んだのかと辰巳に聞かれ、擁がメニューを指差すと、辰巳も同じものを頼んだ。考えるのが、面倒になったのだろう。 「辰巳に会う機会があったら聞いておいてって頼まれたんだけどさ。辰巳、最近、彼女に連絡してないらしいね」 「彼女?」 「文学部のあの子だよ。おれと同じサークルの、リエちゃん」 「連絡してないって言われても。別に、彼女じゃないから」 その女の子に同情しているらしい順の声に、けれど辰巳はいつものように、淡々とそう言いきるだけだった。今更そんな話をされても、擁はなんとも思わない。もう何度も、繰り返されていることだからだ。辰巳に直接言っても、やはり目の前でこんな風に冷たく振られるだけだから、そういう女の子は大体、順のところに行く。優しくて、親切だからだ。だから、頼まれたことを断るということをしない。けれど、擁がこんな遣り取りに慣れているのと同じように、順だって、辰巳がどう答えてくるかなんて、もう分かり切っている。 「そう言うと思ったけどさ。だから、誤解があるならあるで、うまいこと解決してあげてよ。可哀想だから」 順のその言葉にも、辰巳はまるで聞こえていないような顔をしながら、小さく首を傾げるような素振りを見せるだけだった。
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