鬼さんこちら |
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4 「……おれ、そんな顔、してる?」 「いや、そういうんじゃないけど。ほら、こうだし」 「え?」 こう、と、ふと足下に向けて順が指を差すので、そちらの方向に目を落とす。無意識のうちに、擁の手が、しっかりと順のTシャツの裾を握りしめていた。慌てて、それを離す。 「ごめん」 呟くようにそう謝る。まったく気付かないままに、そんな、子どものようなことをしてしまっていたことが恥ずかしく、情けなかった。 「謝らなくていいよ。……もしかして、おれたちが、あんな話したせいかな」 「あんな話って?」 「ほら、キャンプ。あんなこと言い出すから、もしかしたら、不安になってる?」 「違う」 それは本音だった。今、順の口からその単語が出てくるまで、キャンプに誘われたことなんて、すっかり忘れていた。考えていたのは、もっと別のことだった。けれど、その話をする気にもならなくて、ただ違うと言いきっただけで、擁は黙ってしまった。心配そうな、気遣う目で擁を見つめてくる順の視線に耐えきれず、顔を背ける。 そんなつもりではなかったけれど、その仕草が、順にとっては、なにかを読み取れるものだったのだろうか。 「おいで、擁」 少しだけ語調を強くした、それでもやはり、子どもに呼びかけるような優しげな声だった。順はそう言って擁の手を取る。いくら夏休み中だとはいえ、構内にはそれなりに人がいる。そんな中でこんな風に手を引いて歩いて、誰かに見られたらどうするのかと、擁のほうが戸惑った。他にまともな友人のいない擁とは違い、順には、こんなところを見られたくない相手がいるはずなのに。 はなせよ、と小さく小声で呟いたけれど、順は聞いてくれなかった。いつでも、どんな擁の言葉にもきちんと耳を傾けてくれる彼でも、たまに、こんなことがあった。 順は擁の手を引いて、よく擁が授業で使用する、文学部棟の奥へとなにも言わずに歩いていく。ここは小さな、少人数の授業でしか使われない教室がたくさんあるだけの建物で、研究室や、サークルの部室として使われているような部屋はない。だから、ほとんど人はいないらしい。ふたりぶんの足音が響くだけの廊下は静まりかえっていて、冷房が効いた空気が、冷たいほどだった。 「ここなら大丈夫だよ。普段から、ほとんど、誰も来ないから」 そう言って扉を押し開けて、順が擁をその部屋の中に導く。なにに使われている部屋なのかよく分からない。窓には黒いカーテンが引かれていて、外からの光がほとんど入ってこない。あまり広くは無さそうだ。換気されていないせいか、埃っぽい匂いがした。 「ちょっと暑いけど、我慢しよう、な」 「……ここ、なんの部屋?」 「昔は、映研の部室として使われてたらしいよ。いまは、新しくサークル棟が出来たから、そっちに移ってるけど」 映研、と聞いて、その黒いカーテンに納得する。スクリーンに映像を映すために、部屋を暗くする必要があったからだろう。いまは、倉庫のような扱いをされている場所らしい。順が扉を閉める。カーテンの端を少しだけずらすと、わずかに日光が差し込む。埃の細かい粒と、雑然といろいろな物が床に散らばっているのが見えた。 「擁」 ほら、と、促されるような順のその声に、びくりと肩が小さく震える。それまで、そんなつもりは、全くなかったのに。 「ずっと、つらかった? 試験の前から、してなかったもんな」 「ち、が」 違う、と順のその言葉を否定しようとして、胸が詰まった。息が苦しい。急に、体温が上がった気がした。部屋が暑いせいだけではない。一度に流れを早くした血液が、身体じゅうを巡る。手足の指先に火照るようなもどかしさを感じて、すぐ近くの順の肩に、額をこすりつける。どうしてこんな風になるのか、自分でも分からなかった。ついさっき、順にここに連れてこられるまでは、全然平気だったのに。 「いいよ、ほら、楽にして。……座る?」 耳元で囁くようにそう聞かれて、首を振る。このまま、順の顔を見ないでいたかった。自分では、なにも思わずにいられたはずだったのに。それなのに、いくら、一番気を許している存在であるとはいえ、順に簡単に、その衝動に気付かれてしまったことが、何よりも恥ずかしかった。初めてのことではない。もう、何度となく、繰り返してきたことであるとはいえ。 それまで、宥めるように擁の肩を抱いていた順の手が、背中を伝って、腰へと滑る。 「……、っ、や」 「気付いてあげられなくて、ごめんな」 本来ならば、他人に任せるようなことではない。ましてや、同性の、友人になど。 それでもいまの擁には、そうしなければ、この気の狂いそうな熱を、どこにも逃がすことが出来なかった。 「声、我慢しなくていいよ。結構、防音しっかりしてるみたいだし、人もいないだろうし」 器用な指先でベルトを外され、前を開けられる。声を出せばいいとそう言ってくる順の声はいつもより低くて、耳にかかるその息が熱かった。けれどそれよりももっと、絡みつく指は熱かった。擁がなにも言わなくても、順はどうすればいいのか、もうすべて分かっている。どうされることを、擁が望んでいるかも。言葉にして伝えたことはない。この行為について、ふたりの間で言葉が交わされることはない。 「ひ、ぁ」 「力抜いて。大丈夫、すぐに終わらせてあげるから」 そんなことが言いたいのではない。それでも、どんなことを彼に伝えたいのか分からないまま、声を殺すために、順の肩口に顔を押しつける。足に力が入らなくて倒れ込みそうになる。背を支える順の手に、もたれかかるように身体を預けた。 服は脱がない。必要がないからだ。触れ合いや、その他のことを楽しみたいわけではない。ただ、必要なことだけをすればいい。自分ひとりでやるべきことに、こうして、手を貸して貰っているだけだ。 汗が額に浮かぶのが分かる。もともと空気が淀んでいる暑い部屋の中でこんなことをするのだから、当然だろう。そっと撫でるように触れていた順の手が、まるで慣らすように、少しずつ動きを速めるのに合わせて、汗が背中を伝った。 「……やだ、いやだ、順……!」 いつものように、そう言ってしまう。それでも順は、擁のその言葉が指し示すほんとうの意味を知っているから、ただ、うん、と子どもを宥めるように頷くだけで、擁を包む手は止めない。緩急をつけて、時折先のほうを親指の腹で弄るように撫でて、押し潰すようにされる。 「ひ……」 ぎゅっとそれまでよりも力を込めて握られ、溜まったものを奥から押しだそうとするように、根元から扱かれる。足が震えて、それまでもしがみつくように順の腕を掴んでいた手に、きつく力を込める。暑さと、下肢から全身に伝わって広がる強すぎる感覚に、頭がぼんやりと白くなる。限界だと、ふと冷静にそう思った。 「いいよ、擁。出して」 まるでそれに気付いたように、順が耳元で、そっとそう囁く。その瞬間だけは、直に手で触れられているそこよりも、低く囁かれた自分の名前に、ぞくりと身体が震えた。熱よりも、氷を押し当てられたような冷たさが胸に落ちる。 「あ、……っ!」 許しを与えられた熱を、そのまま身を震わせて吐き出す。必死に奥歯を噛んで、ともすれば漏れそうになる声を抑えて順の肩に額を強く押しつけると、すぐ傍で、彼が一度大きく唾を呑んだのが分かった。
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