鬼さんこちら |
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23 順は黙って、擁の話を聞いていた。 暗い部屋は静まりかえっていて、擁の声以外は、雨音と時折、雷の音が聞こえるだけだった。雨は、いつまで続くのだろう。話す言葉が途切れてしまって、擁も黙り込む。朝になったら、なにもかも嘘だったように、晴れてくれればいいのだが。 「……ちょっと、寒いくらいだな」 気温が下がっているのか、それとも、自分の気持ちのせいなのかは分からなかったけれど、そう言って、順に話しかける。彼が擁の話を聞いてどう思ったのか、不思議なことに、不安に思う気持ちはなかった。不安に思うことなんて、なにもない。順が何をどう感じようと、それを受け入れられる自信があった。自信というのはおかしいかもしれない。どちらかというと、自覚、だろうか。 自分が、どれだけのことをしたのかということ。それを擁は、はっきりとすべて思い出したのだから。 「これ」 身動きひとつせず、黙っていた順が、ベッドから毛布を剥がして、丁寧に埃を払う。少しためらうように動きを止めたあと、広げた毛布を擁の肩にかけてくれた。ありがと、と擁が言うと、どこか困ったような顔をして、うん、と小さく頷かれた。 「順も」 隣に座り直した順に、毛布を広げて、入るように誘う。また少し困った顔をして、順はぎこちなくそれに従った。ふたりで毛布にくるまる。真夏なのに、こんな雪山で遭難したような真似をしているのがおかしかった。 「……ずっと、謝りたかった」 ふいに順が口を開く。その声が震えていた。毛布の下で、少し離れていた肩を寄せて、その手を探る。触れた手も、声と同じように震えていた。 「謝る?」 「あの時、擁を、山の中に、放っておいたこと」 「ああ、それは」 それは順のせいではない。今なら、当時の自分の行動が異常だったことが、よく分かる。けれど、そう伝えようとする前に、順は苦しそうにうつむいた。 「おれ、最低だった。……あんな風に……」 「順は悪くないよ」 擁が、順の手を引いて、遊ぼうと山まで連れて来た日のことだ。辰巳と巧介は遊んでくれたのに、という擁の言葉に、順は、顔色を変えた。なんだって、と、その言葉の意味を知りたがったので、全部、教えてあげた。擁から電話を掛けて、ここに来てもらったこと。食べ物や着るものを持って来てくれること。いつも、こうやって遊んでくれていること。 最後まで、説明はしなかったかもしれない。気がついたら、突き飛ばされるように床の上に倒されて、順に圧し掛かられていた。辰巳と比べたら下手なキスをされて、巧介と比べたら、強く絡む腕の力が弱かった。けれど、誰より、熱かった。 終わったあと、順は、面白いほど顔色を変えた。真っ青になって、なにか、言葉にならない声を上げて、そうして、背を向けて、そこから、出て行ってしまった。……もっと、いてほしかった。せっかく、遊びにきてくれたのに。やっと、順が。 だから、服を着ることも忘れて、そのまま彼を追いかけた。その頃の擁は、食欲がなくて、なにも食べていなかった。夜、眠ることも出来なくて、ぼんやりと宙に浮いた気分のまま、順を呼び出し、そうして逃げられてしまった。もたもたと、どうしてかうまく動かない身体で、森の中、順を追いかけた。呼んでも、返事はない。気づいたら、最初の日のように、ずっと、小さな声で繰り返していた、順、たすけて。たすけてよ、順。 順だけだ。順だけが、おれを傷付けない。だから、順。 おれを、助けてよ。 その後は、そうだ。……足を踏み外して、それで、きっと、あのゴミ捨て場に、転がって行ったか、自分でそこまでたどり着くかして、そうして力尽きたのだろう。 あとは、そこまでのことを、全部忘れて、それで、終わりだ。 「悪いのはおれだ。……嘘つきは、おれだよ」 あの、写真に書かれた、赤い文字。あの写真はきっと、巧介と辰巳と遊んでいるときに、写したものだ。順に見せてあげようと言って、撮ってもらったのだ。順に見てもらって、ここに来てもらおうと言って、擁が頼んだ。 擁があの時持っていたはずの鞄も、その中身も、結局みつからなかった。写真はたぶん、携帯に残っていたものだ。それを、順が見つけたのだろうか。それとも、覚えていないだけで、誰かが写真を順に送っていたのだろうか。もしかしたら、擁自身が。 あの、黒く焦げた男は、どうなったのだろう。擁の事件は表沙汰になってはいないから、もしかしたら、すべてそのまま山の中に残っているのかもしれない。あの建物も、携帯や鞄も、あの時の擁も、そのまま全部。 「痛かった、嫌だった、もう、思いだすのも怖い、なんて。……そんなの嘘だった。全部、おれが馬鹿だったのが悪いのに。それなのに、あんなに、みんなを巻き込んで、」 とても、楽しんで、いたんじゃないか。 奥歯を噛む。許せないものがあるとしたら、擁をあんな目に遭わせておいて勝手に死んだあの男じゃない。それは、こんな大事なことを全部忘れて、みんなにいいように守られ、甘やかされていた自分だった。 「みんなに、嘘をつかせていたのは、おれなんだから」 「擁」 順が、なにか言おうとした。それを、首を振って止める。まだ、言わなくてはならないことがある。 「順は、悪いことはしてないんだ。巧介も、辰巳も。あんなことをさせたのは、おれが頼んだから」 溺れそうになっていたのだ。自分がしたことの愚かさと、その結果起こったことに、誰を責めることも出来ずに自分を呪うしかなかった。なにもかも自分のせいだと思って、もう、どうすることも出来なかった。なにも考えられなくなって、何かにすがらなければ、自分を保つことが出来なかった。 「おれ、ふらふらになったあの時、ずっと、順を呼んでた。怖くて、気が狂いそうで、気がついたら、ずっと、順のこと、呼んでた。助けてほしかったらしくて。……なにから助けるのかは、自分でもよく分かんないけど、でも、たぶん、それで来てくれた巧介としてたことがあれだから、つまり、そういうことなんだと思う。嫌なことを、好きなもので、上書きしたかったって言うか」 自分がひどいことをされたのだと思いたくなくて、それを、大事な親友たちを使って、事実を塗り替えようとした。 「おれ、あの時のこと、順に、ここに着いて暗い所でぎゅってされるまで、全然、思いださなかったし」 あったことを、ありのまま記憶していれば、きっと、気が狂っただろう。だから、代わりにずっと持っていても、大丈夫なものを必要としていた。 「……あの事件のこと、全部、順の、腕の感覚にして、それで閉じ込めてたよ」 なにもかも、自分のことを守ろうとして、ただそれだけに必死になって、相手のことなんて、考えもせずに。 「だから、順は、おれを助けてたんだ。順だけじゃなくて、辰巳も、巧介も」 被害者がいるのだとしたら、それは擁ではなくて、彼らの方だ。順が、辰巳と巧介のことを許せないとあんな顔をしていたのも、それもすべて擁のせいだ。 「誰も悪くない。だから、順も、あのふたりのこと、悪く思わないでほしい」 頼むから、と、絞り出すような声で、どうにか伝える。 「擁は、知らないけど」 触れていた手が、強く握りかえされる。こうして暗い部屋の中で肩を寄せ合って、手を繋いでいるという状況は普通ではないはずなのに、擁にとってはごく自然な、当たり前のことにしか感じられなかった。順にとっては、どうなのだろう。あんなことがあっても、ずっと擁に優しく親切だったのは、どんな感情からだったのだろう。もう二度と会いたくないと、拒絶されることになっても仕方のないようなことがあったはずなのに。 そこまで考えて、擁は心の中で、自分のその考えを否定する。違う。 順はそんな奴じゃない。だからこそ、擁はあの時、彼を必要としたのだから。 「おれ、ちょっと前に、あいつらと殴り合いの喧嘩したんだよ」 順の口から、予想外の言葉が出て、擁は動揺した。あいつら、とは間違いなく、辰巳と巧介のことだろう。それは、いつの話だろう。記憶を探るけれど、思い当たることがなにもなかった。 「いつ」 「だから、ちょっと前。夏休み入る直前くらいだったかな。みんなでどっか行こうって話してた時」 擁の話を聞いたせいか、順はまるで憑きものがおちたように、どこか呆然とした表情をしている。これまでに重たく溜め込んでしまったものを、もう消してしまうことが出来たのだろうか。 そうであればいい、と思いながら、擁は頷いて、話の続きを促す。 「もともと、擁がいないと、おれたち3人の関係は微妙な感じだった。これはもしかして、あの時よりもずっと前から、そうだったような気もするけど」 そうは見えないって言われるけど、おれは独占欲が強いからさ。自嘲するように、そう付け加えて順は笑った。 あの、驚くほど怖い顔をしていた順のことを思い出すと、それが冗談でないことは擁にも分かった。怖い、というのは少し違うのかもしれない。それだけ必死だった、ということなのだろうか。本来は温厚で、ひとと争うことなんて苦手なはずなのに、そんな彼をそこまでさせるもの。 「似てるって、言われて」 順は言いにくそうに言葉を濁した。 「似てる? なにが」 「……おれの、彼女。擁に似てるって」 そうだっただろうか。名前もあやふやなその女の子のことを思い出してみるけれど、正直、自分ではよく分からなかった。擁が納得のいかない顔をしていたからだろうか。順はそれを見て、少し目元をゆるめた。そうしてすぐに、そんな顔をしてはいけない、と自分を戒めるように、真面目な顔に戻る。 「改めて思うと、確かにそうかもしれない。そんなつもり、なかったんだけど」 「なんで、それで喧嘩するんだよ」 擁の素朴な疑問に、順は一瞬、虚をつかれたような表情をした。そうして、ああ、と一度ため息をついて、両手で顔を覆った。 「そうだよな。……ほんとに、そうだ。あんなに腹を立てることなんて、なかったのに」 その反応に、擁は順の背中を軽く撫でた。責めるつもりではない。さっきのことも、殴られた巧介でさえ、それほど根にもっている様子ではなかった。 「……巧介、大丈夫だよ。一応、手当はしたみたいだし。そんなにひどいことにはなってないと思う」 擁のその言葉に、順は小さく頷いた。聞こえないほどのかすかな声で、よかった、と安心したように呟かれた気がした。 「怖かった。おれが考えてることなんて、全部分かってるって言われた気がして。擁が何もかも忘れてるのをいいことに、それを利用してるって、何も言われてないのに、責められた気がした。だから」 殴り合いになった、ということなのだろうか。巧介はともかく、辰巳がそんな激しいことをするのが想像できない。 「辰巳は見てただけだけど」 擁の考えを見抜いたように、順はそう言って、少し笑った。 「……順、おれさ」 擁も笑う。 「家を出るよ。家族には何か言われたり、反対されたりするかもしれない。大学もやめなくちゃいけないかもしれないし、お金のこととかも、どうなるか分かんないけど」 自分で話しながら、そんなことがほんとうに出来るかどうか、まったく自信はなかった。それでも、そうする以外の道はもうない。思い出してしまった以上、もう、あの家にはいられない。もっと早く、そう決断していればよかったのかもしれない、なんて、そんなことを考えてみる。そうすれば、あんなことは起こらなかったのに。 「ひとりで、がんばってみるから」 今更そんなことを考えたところで、何にもならない。分かっているのに、どうしようも出来ない後悔で、胸が苦しくなる。もうずっと、このことを記憶から追いやって、見ない振りをしてきた。長い時間をかけて向き合わなければならなかった罪悪感に、一気に襲われて身動きが出来なくなる。 彼らとも、離れなければ、いけないのだろうか。 身体が震えそうになるのを、どうにか押さえようとする。それに気付いているように、順に、なだめるように肩に触れられた。 「ひとりじゃないだろ」 順のその言葉に、頷いて笑おうとする。うまく、笑顔が作れなかった。これ以上、甘えていては駄目だと思うのに。 「擁」 順が、真っ直ぐに、こちらを見てくる。痛ましい、悲しそうな目だった。擁と目が合うと、それをくしゃりと崩して、笑う。いつもの、よく知っている、穏やかで、優しい順だった。 そのまま、引き寄せられる。力いっぱい、その胸に、抱き締められた。 涙が出そうだった。この腕だ。すべて、擁の中で、辛かったことや痛かったことを堰き止めて、守ってくれた、腕。 「遅くなって、ごめん……」 強く抱かれたまま、耳元で、順の囁く声を聞いた。
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