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鬼さんこちら
22

 仲間を紹介する、と、そう言われたのだ。
 電話とメールの遣り取りは、何度かしていた。祖父に一矢報いてくれるのだというその男の名前を確かに聞いたはずなのに、顔と同じように、まったく思い出せない。
 擁がはじめてその男に連絡を取るようになってから、一週間ほどたった日のことだった。仲間を紹介するから、誰にも知られずに来てほしい、とそう言われたのだ。男は、擁の祖父のあまりの暴君ぶりに怒りを覚え、どうにかしなければならないと決意し、同じ気持ちの人間を集めていたのだと言った。それに擁が加われば、きっと活動がうまくいく、と、熱弁をふるわれた。男が言う政治の話は擁にはちっとも理解できなかったけれど、祖父に対抗できるなら、手段はなんでもよかった。
 その日は部活が休みだったけれど、夏期講習がある日だった。普段通りに過ごしたほうがいい気がして、いつも通りに家を出て、学校でもいつも通りに振る舞った。……今になって思うと、確かに、あの時、擁は興奮していた。自分が大変なことをしようとしていること、思い切って他の人間には出来ないことを自分がやろうとしているのだと、調子に乗って気分を高揚させていた。だから言われた通り、誰にも行き先を告げずに約束の場所に向かった。順とも、笑顔で手を振って別れたあとで。
 指定された場所は、町はずれの廃工場だった。隠れて活動しているのなら、そんな場所を選ぶのも当然だと思い、不審に思いもせず、呑気にひとりでそこに向かった。いつものように、ひと気の少ない道を選んで、誰にも見られないように気を遣った。
(「……ほんとに来た」)
 緊張しながら、扉を開けると、中にいた男が、まるで呆れたようにそう声を上げた。誰にも言わずに、見られずに来たかと確認され、それに頷く。中には男の他に、数人がいた。工場の、事務室か休憩室にでも使われていた場所らしく、古びたソファが置かれていて、そこに座らされる。
 男たちはみんな、揃って擁を見てにやにやと笑っていた。あまり、政治的な難しい活動をしているような雰囲気のない空間に、その時になってはじめて、擁は疑いの気持ちを抱いた。煙草臭い空気と、床に転がる酒の瓶に、ここにいたらまずい、と、本能的な直感に立ち上がってそこを去ろうとした。
(「……帰る」)
 擁のその言葉に、それまでにこやかに笑顔を浮かべていた男は、態度を一変させた。周りの男たちも立ち上がり、扉に鍵を掛けられ、後ろから羽交い締めにされて動きを封じられた。
(「もう遅いよ。笹村のところの末っ子はあんまり出来がよくないって聞いてたけど、ここまでだとは思わなかったな。こんな簡単にひっかかっちゃってさ」)
 薄々感づいていたことではあったが、やはり自分は騙されたのだと、その言葉で思い知る。男たちの力は強くて、抵抗してもすぐに取り押さえられた。頬を何度も張り倒されて、自力で立っていられなくなるほど、背中と腹を殴られた。破るように制服のシャツを脱がされて、ぼろぼろのソファの上に乱暴に突き飛ばされる。身を起こそうとするよりも先に、男に体重をかけてのしかかられた。
(「嘘はついてない。お祖父さんに仕返ししようってのはほんとだよ。……あんたを使ってだけど」)
 若くてかわいい子のほうが良い値段で売れるしね、と笑うその目が、赤く血走っていた。それだけは、今でも記憶の底にこびりついて消せない。 
(「写真、たくさん撮ってあげる。もちろん動画もね」) 
 殴られた痛みよりも、自分が何をされるのか考えてしまった、その想像の方がずっと怖かった。声が出なくなって、ひ、と、短く嗚咽を上げてしまい、恐怖で、動けなくなった。後悔した。自分がどんな愚かなことをしようとしたのか、その時になってようやく擁は痛いほど理解した。
 わかっていた。こいつらは祖父の敵で、笹村の家の敵だった。だからそれはつまり、擁の敵でもあるということだったのに。
 その時になって自分の馬鹿さを思い知っても、もう、どうしようもなかった。
 男たちは3人か、もしかしたらもう少し人数がいたかもしれない。誰ひとり顔も思い出せないし、どんなことを言われたのかも覚えていない。ただ全員が、ひどく楽しそうに声を上げて笑っていた。カメラを構えた男がひとりいて、薄暗い部屋の中、何度もフラッシュの光が点滅していた。
 あとは、痛くて、自分が壊れるほどの大きな異物に割入られる絶望と、ひとりが終わったあとの、妙に静かな、平坦な、凪いだような奇妙な安堵感。けれどそれが終わりではなくて、そのあとも何度も、同じことを繰り返されて。興奮した様子の男のひとりが、注射器を取り出して、それを腕に刺された。何かが身体の中に注ぎ込まれる感触に、身体が震えたのをいまではよく思い出せる。毒だ、と、ぼんやりとした意識の中で、そんなことを思った。目の前が壊れたテレビのように、ひたすら派手な蛍光色に塗りつぶされ、息が出来なくなった。苦しくて、胸を掻きむしって呻いた。
 男たちは楽しそうに笑っていたけれど、やがて、擁の様子がおかしいことに気付いて、顔を見合わせた。
(「……薬が……」)
(「死ぬかも」)
(「……しかない……」)
(「山に、捨ててくるしか……」)
 それを聞いて、自分は死ぬのだと、擁は思った。仕方のないことだとしか思えなかった。自業自得。祖父にはきっと、そう吐き捨てられて終わりだろう。ほんとうにその通りだ、と、擁はたぶん生まれて初めて、祖父の気持ちが分かった気になって目を閉じた。
 その後はおそらく、意識のない状態で、車で運び出されたのだ。山に捨ててしまうために。次に意識を取り戻したのは、身体を物のように引きずられている時だった。男がひとりで、擁の両手を掴んで道を歩いていた。あの時、最初に擁に声をかけてきて、メモを渡してきた相手だ。
 暗くなった道を、他に人通りもないのをいいことに、そのまま、ぼろぼろの状態で、男に引きずられていった。あの時は、もう、すでに自分は死んだのだとそう思っていた。いまはまだ、魂が身体から完全に出ていっていないだけで。もう、身体も心も、完全に死んだと、そう思っていた。だから、引きずられる痛みも、これから何が起こるのかという不安も恐怖も、何も感じなかった。
 台風が近づいていた。雨が降っていて、雷が鳴っていた。……ちょうど、いまのように。
 男は、山に入っていく。立ち入り禁止になっている、誰もこない、山の中だ。
 雨でどろどろにぬかるんでいる山道を、ただ、重たい荷物として、引きずられていった。男も疲れているのだろう。時折、邪魔そうに蹴られて、転がされた。十分だと思うほど、奥まで来たとそう思ったのだろうか。掴んでいた身体を放り投げられる。ここで、捨てて行かれるのだとそう思った。邪魔な死体を、ここに放置していくのだと。それでも、男が雨の中、ナイフを振り上げるのが見えた。馬鹿だな、と、それを見上げて、そんなことを思ったのを覚えている。もう、死んでいるのに。それに、さらに、止めを刺そうなんて。おかしくて、もう動かないはずの口元が、少し笑いのかたちに動いた気がした。
 男がナイフを振り下ろしたのと、視界が一面真っ白になって、なにも見えなくなったのは、ほぼ同時だった。大きな音が鳴り響いて、鼓膜が破れるかと思った。……死んだはずなのに、眩しくて、音がうるさかった。
 しばらく、ぼんやりと、そのまま動かなかった。やがて、指が、動くことに気付く。あの男は、急にどこに行ったのだろうと、身体を起こして、辺りを見回してみる。自分のものではないように、感覚がほとんどなかった。雨が降っていて、次から次へと裸の皮膚に跳ね返っているはずなのに、それも、なにも感じない。そして、心も。
 目の前に、ナイフを掲げたままの人のかたちをした、黒く焼け焦げた固まりを見ても、何にも、思わなかった。

 家には、帰らなかった。シャツのボタンはほとんど取れてしまっていたし、足元は裸足で、全身、傷だらけでぼろぼろだった。擁と一緒に捨ててしまうつもりだったのか、一緒に持ってきていたらしい鞄が近くに転がっていた。それを拾い上げて、雨の中、ずっと立ちつくしていた。どこに行くあてもなく、山の中を、うろうろと歩き回った。幽霊になったようだった。裸足で、地面に溜まった泥水をぱしゃぱしゃと鳴らして歩いていると、導かれるように、そこに辿りついていた。
 表札らしきものに書かれた名前は、半分消えかけていた。けれども、医院、という文字がかすかに見えた。病院が、こんなところにあるなんて。この怪我を治してもらえないかと、ふらふらとその中に入って行った。中は暗くて、古くて、人が誰もいなかった。廃墟だったのだ。
 ぼたぼたと、全身から雨の滴を垂らしながら、その中を歩き回った。ベッドがたくさん残っている。怪我の手当をしなければ、こんな状態では家に帰れない。きっと、祖父が入れてくれない。何をやったのだと、擁の話なんて聞かずに、そのまままた放り出されてしまう。それに、たとえ事情を説明できたところで、放り出されることになるだろう。きっと両親も、兄弟も、誰も擁の味方になってくれない。それだけのことを、自分はしようとしたのだから。
 消毒する薬や、包帯を見つけようとした。けれども、診察室らしい棚には、なにも残っていない。
 どうしたらいいか分からなくて、床にぺたりと座りこむ。
 身体ががたがたと震えた。寒くてたまらなかった。歯がかちかちと鳴って、止まらなかった。ベッドからシーツを一枚剥がして、身体に巻き付ける。埃が舞った。
 巻き付けたシーツをきつく掴んで、指先にひたすらに力を込める。どうしよう、と、その言葉で頭がいっぱいで、他にはなにも考えられなかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう……
 誰かに助けてほしかった。何を、どんな風に助けてほしいかも分からなかったけれど、ただ、声に出して、呟くように、その名前を呼び続けていた。順。順、たすけて。擁の中には、もう彼しかいなかった。他の誰もがみんな擁のことを許してくれなくても、順なら、大丈夫だといつものように優しく言ってくれると思った。たとえ優しく言ってくれなくても、何もしてもらえなくてもいいから、順にそばにきて欲しかった。
 怖くて怖くて、震える手で鞄から携帯を取り出す。何かしていないと、恐怖に押しつぶされて、そのまま死んでしまいそうだった。指がうまく動かせなくて何度もやり直しながら、どうにかその番号に電話をかけた。たすけて。
(「……あれ、擁? なんだ、悪いな。あいつ、おれん家に電話置いてったみたいで」)
 けれど、出た相手は、名前を呼び続けていたのとは、別人だった。
(「どうしたんだよ、こんな時間に。……擁? どうしたんだよ、おまえ、変だぞ」)
(「いま、どこにいるんだよ。……なんで、そんなところに?」)
(「わかった、わかった、すぐに行く。すぐに行くから、待ってろ。大丈夫だから」)
 巧介は、夜中であるにも関わらず、すぐに来てくれた。擁が言ったとおり、誰にも言わないで、ひとりで。みっともなく汚れて、怪我だらけの擁を見て、言葉を失って、しばらくなにも言わなかった。
 順ではない。けれど、巧介のことも好きだった。口が悪くて、態度が悪そうな見た目なのに、実は誰より真面目だ。同じ年のくせに、擁のことを弟みたいに思っていて、いつも、じゃれあうように軽口を言い合っていた。その顔を見て、たまらなく安心した。病院内に手を引いて、擁の状態にあっけに取られている巧介に、強く抱き付いた。やり方なんて、分からなかった。噛みつくように、呆然と立ち尽くしている彼に口づけて、そのまま、寒くて震える指で服を脱がす。その辺りで、彼は、やめろよ、と言ったかもしれない。けれど、擁が泣いて、どうしてもと訴えると、それ以上、抗わなかった。どうしても、欲しかった。上書き出来る、心に残しておいても壊れることのない、新しいものが欲しかった。
 終わったあと、安心して、笑いがこみ上げた。これでもう大丈夫だと、そう思うと安堵心から、笑えてならなかった。涙が出るほど、声が枯れるまで、笑った。
 巧介は一度家に帰って、食べるものや、着るものや、怪我の手当をするものを持って来てくれた。家には、もう二度と帰らないつもりだった。ずっと、その病院にいた。巧介は意外なほどに優しかったし、まるで恋人にされるように大事にしてもらえるのが、楽しかった。あんなに誰かに大切に扱われたことは初めてで、もう、どこにも行かなくても、このままでもいいと思った。それでも、少し、寂しくなった。
 だから次は、辰巳を呼んだ。擁の携帯はとっくに充電が切れて、もう必要がないから放っておいていた。だから、巧介の見ていない隙に、こっそり、彼の電話から呼び出した。
 辰巳は巧介よりも、もっとずっといい遊び相手だった。一番最初の時から、あまり驚かず、どうして、と理由も聞かず、すぐに欲しいものをくれた。辰巳は医者の息子だからか、擁の怪我も、簡単ではあるけれど、治療もしてくれた。骨が折れたりしているかもしれないよ、と山を降りることをそれとなく提案されたけれど、そんなことは聞こえないふりをした。
 しばらくして、辰巳と遊んでいるところを、その日も食べるものを持って来てくれた、巧介に見られた。だからそのまま、三人で、遊んだ。
 擁がいなくなったことを、みんな心配して探していると言われた。そんなのは嘘だと分かっていた。笹村の家にとって、擁は、いなくても構わない存在だ。今までも何度も、もう出て行けと追い出されたことがある。だから、誰も心配していない。それに、擁はどちらにしてもあの家からいなくなる予定だったのだ。むしろ、余計な手間が省けて助かったと喜んでいるかもしれない。
 順が来てくれたのが、いちばん最後だった。辰巳と巧介が、ちょうど、どうしても外せない用事があるとかで、ふたりとも来られない日があった。だから、こっそり、人目に付かないように朝早く、山を下りた。順の家まで行って、何度か夜中に遊びに行くとき、そうやって合図して呼び出したように、彼の部屋の窓に石を投げた。すぐに、驚いた顔をして、出てきてくれた。
(「擁! いままで、どこにいたんだよ。みんな、心配して、」)
 そんなことを言おうとしたけれど、聞きたくなかった。手を引いて、山の、あの病院まで、順を連れていった。順にも、遊んでほしかった。
(「なんだよ、ここ。……擁、まさか、ずっと、ここにいたの?」)
(「どうして? 家に、帰ろうよ。それに、その怪我。ひどいじゃないか。誰が、そんなこと」)
 けれど順は、うるさいことを言うばかりで、少しも遊んでくれなかった。その口を塞ごうと思ってしがみ付いてキスすると、怒ったように、振り払われた。
(「な、に、するんだよ……! ふざけるなよ、擁」)
(「やめろよ、なに考えてるんだよ、擁。おれ、そんなの、」)
 そうやって、少しも、擁の望むようには、してくれなかった。家に帰ろう、みんな心配していると、ただ繰り返すだけで。だから、言ってやった。なんだ、順、つまんないな。
 巧介と辰巳は、あんなに、遊んでくれるのに。


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