鬼さんこちら |
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21 その男に最初に声を掛けられたのは、夏休みに入ったばかりの頃だった。 夏休み中でも、部活がある。その日も、午後から太陽の照りつける中、順や他のチームメイトと一緒にボールを転がしたりラケットを振ったりしていた。あまりに暑くてやる気が出ず、時間の半分以上、日陰に入ってしょうもないことを喋っていた。夏の合宿が近づいていたから、それについての話をしていたような気がする。 部活のあとは、いつものように順とふたりでふらふらとその辺りをうろつきながら帰って、いつもと同じ場所で、じゃあまた明日、と手を振って別れた。なにもかも、いつもと変わらない日だった。 人気の少ない道をわざと選んで歩くのは、擁の癖だった。町の人はみんな、擁のことを知っていたから。だから、顔を合わせてしまうと、なにか言われる。たいていは、祖父のことだ。おじいさまはお元気ですか、とか、今度の選挙も応援してます、とか。それが嫌だった。そんなの、擁には関係のないことだ。 だから、その日も、いつも通る細い裏路地を歩いていた。後になって思えば、たぶん、相手はずっと擁のあとを追っていたのだろう。それまで、その道を通っていて、他の誰かを見かけたことはなかった。ところがその日は、ふいに、背後から声をかけられたのだ。 (「……笹村くん。笹村擁くん」) 記憶をたどる。若い男だった。擁よりも背が高くて、二十代後半くらいだった、という印象は覚えている。それでも、相手の顔立ちやどんな声をしていたのかは、正確に思い出すことは出来なかった。沈みかけた夕日のせいか、こちらを見ていた相手の顔が、ちょうど影になっていて暗かったせいかもしれない。 せっかくこんな道を歩いていても、やっぱり声をかけられるものだ、と、その時の擁はさほど不審に思わなかった。だから、いつも家族に言われている通りの対応をした。はい、と礼儀正しく返事をして、行儀良く相手のお話を聞きなさい、と、幼い頃からそう言われていた。外での発言のひとつひとつが祖父に見張られているようなものだった。 どうせまた、祖父について話をされるのだと思っていた。珍しく若い相手だったけれど、こんな人もいるのか、とそう思う程度だった。立ち止まり、話を聞く姿勢をみせた擁に、相手は笑ったような気がする。 ……様子がおかしいと気付いたのは、5分ほど他愛もない世間話をした頃だっただろうか。学校のことや部活のこと、将来の話のことを探るように聞かれ、それにあたりさわりのない返答をしていた。 (「きみのせいで、お母さん、家を出なくちゃいけないかもしれないんだって?」) 突然、男はそう言ってきたのだ。口調はそれまでと変えず、あくまで明るいままで。思いがけずに言われたことに、擁はしばらく、何も言えなかった。どうしてそれを、顔も名前も知らないこの男が知っているのだろうと、不思議に思ってじっと相手の顔を見上げた。 (「ひどい話だよね、いくら頑張ったって、出来ないことだってあるのに」) 擁の視線を受け止めて、その男は満足そうに笑った。 男が言っていたことは事実だ。夏休みに入る前、期末試験の成績を見て、祖父と両親が顔をつきあわせて話をしていた。こんな成績では、あの大学にはとうてい入れない。笹村の家では父も擁の兄たちも、みんな同じ大学を出ている。地元ではいちばん入るのが難しい大学で、擁のその時の成績では、確かに模試での判定も悪かった。けれど、擁は特にそこに進みたいという希望もなかったし、将来的に家の仕事に関わりたくはなかったので、自分で別の進路を選ぶつもりでいた。確かにその時までは、母親に軽くそれを話す程度で、祖父になどは決して自分の希望を伝えたことはなかったのだが。 恥だ、とひとこと、そう吐き捨てられた。 成績があまり良くないことも、それを覆そうと努力する気概のないことも、安易に楽な道に進もうとしていることも。これまで努力してきた、擁以外の笹村家の男たちのことを馬鹿にしている、と、そう言われた。 擁にはもちろんそんなつもりはなかった。けれども、擁の言うことなんて、祖父はもちろん聞いてくれなかった。出来が悪いのは仕方がないが、それに加えて根性もなにも無い情けない人間だと言われ、そんなものとほんとうに自分たちと血が繋がっているのか疑わしい、とまで言われた。 殴ればよかった。どうせそこまで言われて、馬鹿にされているのだから。今さら何をしたって、擁の評価が良くなることなどもうないのだろうから、どうせなら、思い切りその傲慢に見下げてくるその顔を殴ってやればよかったのだ。だけどその時は、とてもそんなことが出来る空気ではなかった。 一緒に話を聞いていた両親は、祖父の発言に頭を下げてうつむいているだけだった。 責任を取りなさい、と、祖父は母に向けてそう言い放った。上のふたりの兄は優秀でよい子だったけれど、最後のひとりになって失敗したのはおまえの責任だから、と。あの程度の大学に進めないような人間なんて先が知れているから、そんなものを笹村家の人間だと認めるわけにはいかない。だからこの落ちこぼれを連れてこの家を出なさい。 父は、祖父のその言葉を聞いても、黙ってうつむいていた。父はずっとそうやって生きてきた人だから仕方がないかもしれない。母親は声を出さずに、顔を覆って静かに泣いていた。 (「……なんで、知ってるんですか?」) 体面を何よりも大事にしている祖父が、こんなことを他所の誰かに簡単に話すとは思えなかった。 (「調べてるから。きみのお祖父さんのこと、いろいろ」) 擁の問いかけに、悪びれる様子もなく相手はそう答えた。ひどいお祖父さんだよねぇ、と、男は笑った。親切そうな、擁に同情しているような声音だったけれど、笑っているその顔とはどこかちぐはぐだった。……どんな顔をしていたのかは思い出せない。それでもその顔を見上げて、相手がなにを伝えたいのか、その時の擁にははっきりと分かった。 この人は、祖父を殴ろうとしている。擁にも、擁の両親にも出来なかったことを、この人はきっとやろうとしているのだと、直感でそう気付いた。 (「お祖父さんに、仕返ししようよ。いっしょに」) いまは影になって、黒く塗りつぶされている顔で、その男はそう言って笑い、擁に手を差し伸べた。 さすがに、その場で相手の手を取るようなことはしなかった。 それでも、擁の反応から、脈がないわけではないと判断したのか、男は擁に、電話番号とメールアドレスを書いたメモを渡して、足早に立ち去っていった。連絡がほしいとも、何も言われなかった。 あんなもの、渡されてすぐに、捨ててしまえばよかったのだ。今になっては、そう考えることも出来る。どう考えてもまっとうな話ではないことは、その時の擁にも十分に分かったはずだったのに。 それでも手渡されたメモは、まるで貼り付いてしまったように手のひらにしっかりおさまったままだった。あたりを見回して、誰もいないことを今さらのように確認する。そうして、慌てて、それをポケットにしまった。 あれはきっと、祖父のことをよく思っていない種類の人間だ。擁の祖父には、たくさんの敵がいる。家族に対してでも、自分の意に従わないものにはあれだけ厳しいのだから、外でもそう様子が変わらないだろうことは、簡単に想像できる。 その日、複雑な気分のままに家に帰った。ポケットの中のメモが、小さな紙切れ一枚だとはとても信じられないほど重く感じて、気付かれるはずもないのに、そんなものを持っていることだけで緊張した。 両親は、祖父とのあの話し合いのあとも、表面上はなにも態度を変えなかった。擁にとっては、優しい両親だ。ただそこに、家や、祖父のことが混じると、優先順位が変わってしまうだけだ。それは小さい頃からこの家に暮らしていて、自然と覚えて受け入れたことだった。自分の名前を文字を使って書くことや、数字の数え方を疑うことがないのと同じように、擁にとっては当然で、当たり前のことだった。擁よりも大事なものが、この家には、いくつもある。それまでは、当たり前だと、受け入れられてきたことだったのに。 (「……話したいことが、」) あります、と、勇気を出して自室にいる祖父を尋ねた。祖父に、あのメモを渡してしまおうと思ったのだ。そうするべきだと思った。何かよからぬことを企んでいるらしいもののことを報告することは、この家の人間である擁にとってはいちばん正しい選択のはずだった。だから、ひと晩、ほぼ眠らずに考えた末に、勇気を出したのに。 祖父は擁の顔を黙って見ただけで、表情ひとつ変えなかった。 朝だったから、ちょうど家を出るための準備をしているところだったのだろう。まるでなにも聞こえなかったかのようにふるまわれて、無視された。ひと晩持てあましていたせいで、よれよれになってしまった小さなあのメモを手にして、とにかくこれを見てもらわねば、と擁が近寄ろうとした時、ようやく祖父はこちらを見てくれた。 出て行け、とひと言、短く言われただけだった。 (「俺、話したいことが」) これまで、祖父に対して口答えをしたことはなかった。どうしてもそうできないように育てられてきていたし、自分でも、とてもそんなことはできる気にならなかった。けれど、これは違う。どうしても言わねばならない、大事なことなのだ。擁のことなどではなく、笹村の家にかかわることなのだから。 言いつけに反論しようとした擁に、祖父は明らかに、気分を害した様子だった。 おまえのような人間の言うことなんて、聞く必要ない。 吐き捨てるようにそう言われて、それでおしまいだった。擁の声を聞きつけた祖父の秘書に、部屋の外に追い出されてしまった。 あきらめきれずに部屋の前に立ちつくしていた擁を見て、祖父は通り過ぎざま、こう言葉を残して行った。 荷物をまとめておきなさい。もうすぐ、この家の人間ではなくなるのだから。 そのあとのことは記憶があまりはっきりしない。 いつものように、部活に行って、順ともいつも通り仲良く喋って、遊んだ。 夏休みだったから、辰巳と巧介とも遊ぶ約束をしていた。彼らの前では、擁は家のことを忘れられる。いろいろなものから自由になれる。そのはずだったのに、何故だかふたりと顔を合わせるのがつらくなってしまって、はじめて、用事があると嘘をついて約束を取り消した。 順だけは、平気だった。少しずつ、息をするのがつらいような気がしはじめていても、順と一緒にいる時だけは、これまで通りの擁でいられた。 あのメモに書かれた番号に連絡を取るようになっても、順にだけは、それまで通りに普通に接することができた。 階段を上がる。どの部屋に行けばいいのかは、暗くて明かりがなくても分かった。 目を覚ました巧介が、懐中電灯を貸してやる、と言ったけれども、それを断った。彼が、いつから起きていたのかは分からない。もしかしたら、辰巳と擁が話をしているときにはすでに目覚めていて、それでも、聞いていないふりをしていてくれたのかもしれない。巧介はそういう男だった。 埃の積もった廊下を、真っ直ぐ、突き当たりまで歩く。朝、家を出て、それから山に入って、雨に降られて。それから後の、ほんの数時間しかここにはいないはずなのに、もう、ずっと長い時間、ここで過ごしたような気になっていた。それは気のせいではない。ここは、以前いたことのあるあの場所に、とてもよく似ているからだ。 「順……?」 扉を開けて、そっと、そう呼びかける。返事はなかった。静かに中に入り、扉を閉めた。巧介と辰巳には、ひとりで行かせてほしいと頼んできた。擁が戻るまでは、決して、来ないで欲しいとも。 稲光が、部屋を数秒白く照らす。 「順、おれだよ。……巧介が、肉焼いたんだ。冷めちゃったけど、美味しいから」 擁がそう話しかけても、順は、うなだれたまま、顔を上げなかった。先程、巧介が部屋を出る時に、鉄製の重たそうなベッドの枠に縛りつけられていて、少しも身動きしていないように、固まっていた。 「ちゃんと、喉に詰まっても大丈夫なように、水も、持ってきたよ」 ミネラルウォーターの入った小さなサイズのペットボトルを、肉の乗った皿と一緒に、順の足元に置いた。縄を、切るようなものを持っていないことに気付く。指で、ほどけるだろうか。 「……なにしに来たんだよ」 身をかがめて、暗い中で、順を縛る縄をほどいてみようとしていると、弱々しい声が聞こえた。順の、声だ。 「おれに近寄るなって、あいつらに怒られるだろ。はやく、戻れよ」 馬鹿にするような、そんな言い方だった。それには答えず、擁は縄をほどこうと努力する。強い力で、ずいぶん堅く結ばれている。なかなか、緩まなかった。 「怒らないよ、誰も。だっておれが、自分の意志で、来たんだから」 「なにしに、来たんだよ」 「順と、話がしたくて」 「話すことなんて、なにもないだろ。……おれたち、もう、やめるんだから。なにもかも」 順は、擁の方を見ようとしない。縄が、少し緩んだ。 「あの写真。なんで、あんなことしたんだ」 「別に。擁には、関係ないよ。ただあいつらが、何も知らないって顔するから。それが、腹立って。……いつか、認めさせようと思ってた。擁が忘れてるのをいいことに、あいつら、自分らは何もしてません、って、平気な顔でいるから」 「平気じゃなかったと思うよ。辰巳も、巧介も。……だから、おれにも、ずっと優しくしてくれたし」 それに順も、と、そっと付け加える。尖っていた順の声が少しずつ弱くなり、終いにはどこか泣き出しそうな震えを帯びた。 結び目に、指が入る。そこから少しずつ、彼を縛る縄を外していった。 「ごめん、こんなことして」 「なんでおまえが謝るんだよ、……ばかだな、擁は」 囁くように順が笑う。痛みの滲む、辛そうな声だった。そうだな、と、それに賛同する。おれは、馬鹿だ。順がいつも、擁にしていたように、肩に手を置く。いつも、擁が不安になったときは、こうやって、慰めるように、励ましてくれた。 かすかに、震えが伝わる。順が震えているのか、それとも、触れている擁の指が震えているのか、どちらかは分からなかった。腕を回して、その身体を、ゆっくりと抱き締める。 順の身体が、腕の中で、驚いたように跳ねた。信じられないような目で、そこから擁を見上げてくる。暗い部屋の中でも、すぐ近くにいるから、相手の表情はよく見えた。目を合わせて笑う。 「おれ、思いだしたよ。ぜんぶ」 戸惑っているままの順に、擁は自分から、そっと口づけた。
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