鬼さんこちら |
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24 夜が明けると、雨は、すっかり止んでいた。 目を開けると、すぐ近くに順の顔があった。ひとつの毛布にくるまったまま眠り込んでしまったことを、おぼろげに思い出す。分厚いカーテンの隙間から差し込む明るい光と、蒸し暑いくらいの真夏の空気。昨日いちにちの天気が、まるで嘘のようだった。 気恥ずかしいのと、暑いのとの両方で、順を起こさないようにそっと毛布から出る。気をつけたつもりだったけれど、順が一度小さく呻いて、起きてしまった。 「……擁?」 ぼんやりとした目と声が、擁を呼ぶ。それに、おはよう、と答える。順は擁の顔をじっと見て、それから目を細めた。甘い、とろけそうに優しいその表情に、いい夢でも見たのだろうかと考えて、やがて、もしかしたら昨日の夜のことを思い出したのか、と、ひとりで焦るような気持ちになる。こんな顔を見せられたら、どうしていいか分からなくなる。わざと目を反らして、立ち上がって毛布を畳んだ。 「晴れたね」 窓から外を覗き込んで、順が言う。それに頷いて、順に手を差し出す。 「行こう」 順もためらわずに、その手をすぐに取った。 順と手を繋いだまま、玄関ホールに降りる。巧介が、呆れたような顔をした。 「おまえら、そりゃ、ないだろ。昨日の今日で」 ごめん、と、順が慌てて手を離す。辰巳と巧介は、ふたりが下りてくる前に、荷物の積み込みや、引き上げの準備をはじめているようだった。 「とりあえず、荷物は車に乗せた。いったん山を下りるか、電波の通じるところまで行って、そこで修理頼めばいいだろ。ここまで来られないっていうなら、とりあえず新しいタイヤだけ持ってきてもらって、またここまで上がってくればいいし」 巧介がそう段取りを話す。新しいタイヤさえあれば、交換は自分たちで出来ると言う。教習所で習ったけれど、擁はほとんど覚えていない。役に立てなさそうな予感に、せめて、タイヤを運ぶ役に志願しようと手を上げた。 が、それは巧介に却下された。 「おまえはここで待機。車の番」 「え、そんなのいらないだろ」 「分かんないだろ、なにがあるか。大事な車なんだし。イノシシとか、ぶつかってきたら車へこむだろうが」 「イノシシが来たんじゃ、おれがいたって同じだろ」 「うるせぇな、まだ足痛いだろ。だから、待ってろよ。ちゃんと迎えに来てやるから」 気遣われたのだと、その言葉を聞いてようやく気付く。確かに、痛めた足はまだ痛い。車で山に入ってからここまで来るのに、それなりの距離はあった気がする。あの道をずっと歩けるかと聞かれたら、歩けないことはないが休み休みいかないと辛いかもしれない。 「わかった、……うわっ」 大人しく、それに頷くと、何の前触れもなく巧介が何か投げてくる。慌てて手を出して、どうにかそれを受け取る。 「腹減ったとき用」 そんなことを言われた。投げられたのは小さな紙袋だ。開けてみると、パンがいくつか入っていた。昨日食べさせてもらったパンもそうだったが、巧介はいつの間にこんなに色々用意していたのだろう。お礼を言うより先に、今度は飲み物を投げられる。親切に気遣ってくれているのに、投げて寄越すあたりが、彼らしかった。 「おれたちはおれたちで、ちゃんと話し合っとくから」 パンの袋と飲み物で両手がいっぱいになった擁に、巧介はそう言った。いつも通り静かな表情のままの辰巳と、少し気まずそうな顔をした順がそれに頷く。何について話すのか、なんて聞くまでもなかった。色々と、彼らの間でも、話さなければならないことがあるのだ。 「……だからおまえも、おれたちが戻ってくるまでに、ちゃんと気持ちの整理つけておいてほしい」 ほんとうに巧介は、ちゃんとした人間だ。彼の言葉に、改めて擁はそんなことを思う。 「大丈夫だよ、巧介。だって、おれ」 ここは非日常で、日常とは区別された別の空間だ。だからそこで起こった様々なことを、日常にすべてそのまま持ち帰ってはいけない。大事なことだけ、持つべきものだけを選ばないといけないのだと、巧介はそう言いたいのだ。擁の足のことを気遣ったのもあるだろうけれど、なにより、そのための時間を与えてくれるのだ。 以前の自分は、こんな風に笑っていただろうか。出来るだけ自然に、明るく聞こえる声で笑って、擁は続ける。 「おれ、忘れるのは、得意なんだから」 あの事件のことを、上手に、忘れられていたように。 だから今度のことだって、きっと、忘れられるから。 「みんなが戻って来たときには、ここでのことは、全部忘れてる。……だから、次こそ、ちゃんと、行こう。キャンプ。釣りして、星を見て、カレー食べよう」 巧介はそれを聞いて、ひとつ頷いただけだった。それじゃ行ってくるから、と、ひとりで先に、外へ行ってしまう。その背中を見送ってから、順が駆け寄ってきた。手を取られ、近い距離で目を覗き込まれる。微笑む彼は、いつものように、穏やかで、優しかった。 「すぐ戻るから、心配しないで」 「心配はしてないけど、あんまり、喧嘩になるようなことは……」 以前にも、殴り合いの喧嘩をしたことがあるのだと聞いた以上、若干不安は残る。擁が遠慮がちにそう言うと、順は居心地の悪そうな顔をして、叱られた子どものようにおずおずと頷いた。 「しないよ。……ちゃんと、謝る。許してもらえるまで」 気の短い巧介と、普段は温厚なのに、驚くほど激しさを内に秘めている順。 「大丈夫。危なくなりそうだったら、止めるから」 その様子が目に浮かぶ、とでも言いたげに、辰巳がかすかに目を細めて、肩を竦めた。順は何か反論したそうな様子ではあったが、すぐに擁に目を戻して、また、真剣な表情をつくった。 「帰ったら、話し合おう。これからのこと、たくさん」 そう言って、念を押すように強く手を握られる。擁が頷き返すと、満足そうに笑って、順も巧介のあとを追った。 ひとり、辰巳が残っている。 「……ほら。やっぱり、付き合うんだ」 順とのやりとりを見て、そう笑われる。からかっている調子でもなかったけれど、それがどういう気持ちで言われていることなのかは、やっぱり分からなかった。ちがう、と否定しようとして、けれどそれも間違っているように思えてしまう。 「擁は、なにも心配しないで」 「……辰巳がいるから、大丈夫なんだろ」 「そうじゃない。あの時に起こったこと、全部にだよ」 辰巳の声は相変わらず、静かで落ち着いている。そこに何も浮かんでいないから、擁にはそれが何のことなのか、理解できなかった。 「全部って」 「あの男のこと。その他の奴らのこと。撮られた写真と、動画のこと。これで全部かな」 表情ひとつ変えず、それどころかかすかに笑みを浮かべる辰巳は、少し楽しげにすら見えた。 「山で死んだあの男のことは、巧介がすぐに警察に通報してる。もちろん、匿名でだけど。だから、身元も分かってるしちゃんと事故として処理もされてる。そいつらの仲間と、写真についても、もう全部、片がついてるから。だから、なにも不安に思うことはない。大丈夫だよ」 「……大丈夫って……」 雷に打たれたあの男については、顛末を聞いて安心するような気持ちだった。けれど、それ以外のことについては、大丈夫と言われても不安が増した気がする。言われるまで、それを、考えもしなかった。意図的に避けるようにしていたのかもしれないが。 それにしても、片がついているというのは、どういうことなのだろう。 「もう擁に手出ししてくる人間はいないし、たぶん、出来ない。写真も動画も、元データごと消したのを確認してるから。安心して」 ね、と微笑まれる。 「そんなの、どうやって」 「……おれには、頼りになる弟がいるから」 はぐらかすような言い方だったけれど、辰巳にとっては、筋の通った回答なのだろう。どう言っていいのか分からず、ありがと、と、どうにかそれだけ口にする。 うん、と頷いて、辰巳も静かに、館を出て行った。 ひとりになって、擁はしばらく、呆然とその場に立ちすくんでいた。 何を考えたらいいのか、よく分からなかった。気持ちの整理をつけろ、と、簡単に、そう言われたけれど。彼らにとっては、それは、数時間程度の時間で、簡単に行えることなのだろうか。 そう考えて、やがてそれが間違っていることに気付く。ちがう。彼らは、あの夏からずっと、苦しんできたのだ。呑気に忘れていた擁とは違う。自分と同じにしてはならない。 それなのに、三人がそれぞれ向けてくれた優しさと気遣いを思って、一瞬、目眩がした。痛む足を少し引きずりながら、玄関の扉を開けて、外を見る。車が残されているだけで、すでに三人の姿はなかった。 蝉が鳴いている。耳鳴りのように、頭蓋骨まで響くような大きな声。むっとする、熱気をはらんだ風。目が眩むような、強い夏の日差し。夏。 あまりに濃い夏の気配に怯んでしまい、擁はいったん、扉を閉めた。指が小さく震えて、完全には閉められない。隙間から、光が建物の中に差し込んでくる。 消えてしまいたい、と、その光に差されて、そんなことを思ってしまった。 許されるのだろうか。このまま、彼らと一緒に、いてもいいのだろうか。 波のように、そんな気持ちが押し寄せて、頭がいっぱいになる。姿を消すなら、今しかない。 ここから、ひとりで、出ていく。家には帰らない。今度は、あんな事件の後だから、多少は、騒ぎになるかもしれないけれど。……それでも、あの家のことだから、積極的に探したりは、しないだろう。 改めて考えると、やっぱり、自分のことを、許すことが出来なかった。さっき巧介に言ったように、すべてを上手に忘れて、そうしてまた、元の通りに戻るなんて、他の誰が許しても、決して、擁にはそれが許せなかった。あんなに、ひどいことを、したのだから。 「……、っ」 涙がぽたりと落ちて、絨毯に染みを作った。涙が出る自分が、情けなかった。 こんな、子どものようなみっともない真似はやめなければ、とそう思うのに、涙が溢れて止まらなかった。ひっく、と、子どものようにしゃくりあげてしまい、情けないと思いながら、声を上げて泣いた。 みんな、好きだった。 思い出さないままでいられるのなら、その方が、よかったのだろうか。そうすれば、もっとずっと、一緒にいられたのだろうか。それとももっと昔、あんな事件さえ、なければ。擁があんな馬鹿なことを考えずに、家族や祖父に認めてもらえるよう、もっと努力をしていれば。 巧介から渡されたパンの袋を手に、玄関の扉を見る。夏の強い光が差し込んで、眩しかった。また、目をそむけてしまう。 あの光の中へ、行けるだろうか。誰の手も借りないで、ひとりでも。考えただけで、身体が震えた。 「あーあ。ほら、やっぱり。そんなことじゃないかと思ってた」 ふと、声が聞こえる。空耳かと思い、辺りをきょろきょろと見回した。 閉めたはずの扉が開いていた。泣いていた擁を見降ろして、すぐ近くで、笑う声があった。 「わりと近いところで、すぐ電波が繋がってさ。修理、ここまで上がってきてくれるって」 「順」 「ごめん。ほかのふたりより先に、走って戻ってきちゃった」 そう言って笑う声は、走ってきた、という通り、息が乱れていた。涙でぼやけて、見上げる相手の姿がよく見えなかった。それでも、分かる。だって、ずっと待っていたのだから。 「……よかった。また、遅くなるところだった」 広げられた腕に、自分から、抱き付いた。 泣いていたことに気付かれたくなくて、その胸に、顔を押し付ける。 「今度は、間に合っただろ」 どこか照れたように、耳元で呟く声。 言葉にはしないで、ただ、うん、と頷いて、強くその腕に縋りついた。光のなかにいる、と、その体温を感じて、ふいにそう気付いた。そうだ。ずっと、光の中にいたのだ。順と、辰巳と、巧介。三人が、自分たちで影を作って、そこに弱い擁を隠してくれていた。自分だけが暗い場所に落とされた気持ちで、世界からはじき出された不安に怯えていたけれど。 擁は彼らに、ひどいことをした。だからほんとうは、手を離さなければいけないのかもしれない。忘れてしまったことでも、思い出してしまったことでも、過去は過去だ。起こってしまったことは、もう変えることはできない。それはこの先もずっと、擁の中にも、友人たちの中にも残ってしまって消えないだろう。 「……おまえらさぁ」 遅れてやってきた、その声。続けて、小さく笑うような気配もあった。子どものように泣く擁と、その擁をあやすように抱いて離さない順を見て、きっと呆れているのだろう。けれど、不思議と、許されているような、見守られているような気分だった。 それでも、必要なのだ。離れてはならない。弱いから、頼りたいからではない。少しずつでも、償うために。 擁はずっと、彼らに守られて、あの光の中にいたのだ。だから、怖くない。ひとりでは、なかったのだ。ずっと、長い間。そして、これからも。 耳鳴りのように聞こえる蝉の声も、肌に触れる空気も、もう擁を傷付けない。 だからそれは、少しも、不快なものではなかった。
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