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鬼さんこちら
10

 仕方がないので、干すつもりだった濡れた靴をまた履いた。気持ちのいいものではなかったけれど、裸足で歩き回るのは危ないし、埃まみれの床に、じかに足を付けるのはもっと嫌だった。
 雨は、止む気配を見せるどころか、激しさを増す一方だった。
 そのせいで光が全く差さず、廊下は窓があるところさえ、薄暗い。窓のないところでは、ほとんど夜かと思うほどだった。
 最初、外から見たとき、この建物自体は、三階建てに見えた。だから上に上がる階段を探したのだが、廊下の突き当たりに、ひっそりと、隠すような小さな階段しか見つけられなかった。ひとが一人分、ようやく普通に歩けるほどの幅しかない。蜘蛛の巣が張って、床にも白く埃が積もっているその階段の、上の方はもう真っ暗で、なにも見えなかった。不気味だ。
「この上、なんだろ」
 しかし、巧介は子どものようにどこか弾んだ声でそう言い、順が持ってきていた懐中電灯で、階段の上方を照らしては、そこになにがあるのか見ようとしていた。それでも、なにも見えない。最初からそのつもりだったように、彼は蜘蛛の巣を払いながら、階段を上り始めた。
「行くんだ?」
 その背中に、順が声を掛ける。聞こえなかったか、あるいは、肩をすくめるかなにかしたけれど、暗くて見えなかっただけだろうか。巧介はなにも言わずにずんずんと階段を上っていく。
 残された三人は、顔を見合わせた。しかし、巧介だけひとりにしておくわけにはいかない。行こうか、と誰からともなく頷きあい、彼の後に続く。
「辰巳、先、行ってもらってもいいかな」
 何を思ったのか、ふいに、順がそう言い出す。言われた辰巳は、その真意を探るように小さく首を傾げて、順を見た。
「おれがいちばん後ろを行くよ」
「どうしてだ?」
「巧介が、懐中電灯、持っていっちゃったし。おれ、実は、ちょっと鳥目なんだよね。暗いところ、あんまりよく見えないんだ。だから、先に行ってもらえると助かる」
「……ふぅん」
 納得したのかしていないのか、どちらとも取れる返事をして、それでも辰巳は、先に階段を上る。どうすればいいのか分からず、その後ろ姿を見ていると、そっと、肩を叩かれた。順だ。
「擁、大丈夫?」
 心配するように、囁き声でそう聞かれる。
「大丈夫って、何が」
 何故か順が声をひそめるので、つい、それと同じだけの小さい声で、逆に尋ね返す。
「……ちょっと、顔色、悪い気がしたから。気のせいならいいんだけど。こんなことになって、ごめんな」
「順のせいじゃないだろ。それに、巧介がなんか楽しそうだし、別に、これはこれでいいんじゃないか」
 本心からの言葉ではなかったが、眉を寄せて、申し訳なさそうな表情をしている順に、そう囁く。擁の感情を読むことに長けている順に、それがどんな風に伝わったかは分からない。それでも彼は、どこか安心したように、そうか、と笑った。その笑顔が、どこか疲れていた。無理もない。朝から運転し通しで、その挙げ句、こんなことになってしまったのだから。
「……手、繋いでもらっても、いい?」
「え?」
「ほら、暗いの、よく見えなくて。ごめんな、子どもみたいなこと言って」
 自嘲するように笑う順のその笑顔が、なんだか切なかった。いいよ、と、彼の手を取る。指先が触れた瞬間、順の指が、少し震えたような気がした。擁が、他人に触れることに抵抗を持っていることを分かっていて、それでも敢えてそんな風に頼んでくるなんて、順らしくない気がした。暗いところがよく見えない、という話も、ついさっき、はじめて聞いた。
 それでも、繋いだその指に、肩の力が抜ける。それまで、自分がそんなに肩を強ばらせていたことに気が付かなかった。触れる順の体温が穏やかで、心が落ち着いた。そうしてそんな風に安堵しながら、擁は、それまで自分がひどく不安だったことに、初めて、気付いた。
「どうしたんだ」
 少し先にいる辰巳が、残るふたりが着いてこないことに気付いたのだろう。上から、そんな風に静かな声が降ってくる。
「なんでもない、今いくよ」
 順の代わりに、擁がそう答える。行こう、と、手を繋ぐ順にそう頷いて、階段を上る。暗いので、順の手を取っているのと反対の手で、壁を触りながら、一歩ずつゆっくりと足を進める。擁が階段を一段上るごとに、少し遅れて、順が同じように段を上がったのだろう、振動が指先から伝わる。より一層淀んでいる空気がじっとりとしていて、額に汗が滲む。風通しが悪いのだろう。
 この先には一体、なにがあるのだろう。先に言っている巧介が、なにも言ってはこないのだから、取り敢えずのところ、まだ危険はないようではあるが。
 途中、狭い踊り場があって、階段の進む方向が変わる。足が、床に積もった埃を踏む感触が、湿った靴裏から柔らかく伝わる。
 ゆっくり、一歩ずつ段を上っていく。階段を上りきったところに、辰巳が待っていた。
「……真っ暗だな」
 順が、そんな風に呟く。ここが三階になるのだろうか。明かりの入る窓が一切なさそうだった。取り敢えず、長く伸びているらしい廊下があることは分かるが、ひどく暗くて、すぐ近くにいる辰巳の顔でさえも、よく見えない。
 巧介の姿は無かった。もうずいぶん先に進んでしまったのだろうか。彼が持っているはずの、懐中電灯の光も見えない。
「巧介、どこだろ」
 擁が呟くと、辰巳も呆れたように息を吐く。
「困った奴だな」
 確かに、それはそうだ。ひとつしかない懐中電灯を持って、ひとりで先に行ってしまうなんて。
 順が手を離す。もう、平気なのだろうか。そう考えて、もしかして、あれは彼の気遣いだったのかもしれないと、今になって気付く。擁が怖がっているといけないから。擁が、こんな事態になって、不安で一杯になっているのに気付いて、だから、手を繋ごうとしてくれたのかもしれない。はっきりと、そう口にして言うのでは、擁のプライドが傷つくかもしれないと、そんな風に気を遣ってくれたのだろうか。……そうかもしれない。だって、暗いから手を繋いで、なんて、順らしくない。そう考えると、納得がいった。
 なにも気付かずに、らしくないな、などと呑気に考えていた自分が、急に恥ずかしくなった。こんな風だから、いつまでたっても、ひとりではなにも出来ないままなのだ。
 自己嫌悪に襲われて、わざと、ふたりと距離を取った。巧介の姿が見えないので、とりあえず彼を探すために、廊下を進んでいく。
 床に敷かれている赤い絨毯の柄が、暗闇のなかでかすかに分かる。二階の廊下のものとは、違うような気がした。壁には、等間隔で扉が並んでいて、通りすがりに見るものはすべて閉じられていた。見た限りは、二階と同じ間取りに見えたが、それにしては、あの階段が隅の方にひっそりとあったのが気になった。一階から二階に上がるためにあったあの立派な階段に対して、この三階へ上がるためのものは、物置や、屋根裏に続くような、そんな小さな階段だった。
「……あれ?」
 擁が遅れて歩こうとしているのに気付いたのだろうか。立ち止まるようにして擁が追いつくのを待って、そして隣に並んで歩くようにした順が、ふいに立ち止まった。注意を引くように、擁を手招く。
 どうしたのだろうか、と、なんらかの異変に気付いたらしい順に、擁も立ち止まる。擁には、なにも聞こえたり、見えたりしなかった。きょろきょろと、順が辺りを見回す。
「順?」
「今、この部屋から、何か聞こえなかった?」
「え、……ここから?」
 順が指し示す扉を見る。二階の、荷物を置いて休んでいた部屋の入口と、同じドアのように見える。
「聞こえなかった、けど」
「気のせいかな。ガタンって、なんか、物が落ちたような音がした気がしたんだけど」
「……巧介かな?」
 擁にはなにも聞こえなかった。そう言うと、順も、あまり自信はないのか、半信半疑とでもいった表情で、やがて、迷ったように、そのドアを少しだけ開けた。擁もその中を覗き見ようとしたが、順が擁を背中に庇うようにして扉を開けたので、彼の背中しか見えない。
 カチャリ、と、軋むことなく、ドアが開く。
 順の背中から身を乗り出すようにして、その隙間を覗く。真っ暗で、なにも見えなかった。息をひそめて、そこになにものかの気配がないか、じっと目と耳を凝らす。廊下よりも、部屋の中の方が暗いのだろうか。明かりがないのに幾分か慣れてきているはずの目にも、部屋の中は暗くて、しばらく目を凝らしても、おぼろげに中にあるもののかたちくらいしか見えない。
 そこには、動くものは、なにも無さそうだった。少なくとも、懐中電灯を振り回すようにして得意気に進んでいった、友人らしき姿はない。
「気のせい、だったのかな」
 少しずつ目が慣れてきて、部屋の中が見えるようになる。広さは六畳間程度だろうか。二階で見てきた部屋のような家具は、そこには置かれていない。なにもない、がらんとした部屋のようだった。なにも物がないので、音を立てた誰かが存在していたとして、身を潜めるような場所もなさそうだった。誰もいない。
 扉を開けて、順の後に続いて、中に入ってみる。気が付いたら、無意識のうちに、彼のシャツの裾を掴んでいた。けれど、順がなにも言わないので、今ばかりは、そのままでいさせてもらうことにした。……そうしていると、心が落ち着いた。
 廊下とは違う絨毯が敷かれているのだろうか、部屋の中のほうが、足下がふかふかと柔らかい。
 なにもないね、と擁が部屋を見回して、そんな感想を順に告げようとした、その瞬間。
 何かが、足の間を、素早くすり抜けた。チチッ、と、甲高いそんな音がする。
「……!」
 触れるか触れないかの、一瞬のことだった。けれど、ふいに起こった出来事に、瞬間で血の気が引き、シャツの裾を掴んでいた手で、飛びつくように順の腰に思い切りしがみついていた。
「あ、なんだ、鼠か」
 順は冷静に、その鳴き声から、自分が聞いた物音の正体を知り、安心したように笑った。
 そして驚いて身を竦ませている擁に向き合うようにこちらに向き直り、大丈夫、と、優しく尋ねてくる。
 足の間をすり抜けていったのと、順が聞いたのが鼠だったと分かっても、擁の身体の硬直はなかなかほどけなかった。頭では、ただの鼠だった、と理解出来るのに、それでも、身体が動かない。息をすることさえ出来なくて、覗き込んできているらしい順の顔を見ることさえ出来なかった。
「大丈夫だよ、擁。怖いことなんて、なにもないから」
 恐慌状態にある擁に、順は子どもを相手にするように、宥めるようにそう言い聞かせる。落ち着かせるように背中を撫でられ、その手に従って、息をする。強ばっていた身体が少しずつほぐれ、しばらくして、大きく息を吐くことが出来た。
 肩から力を抜く。労るような順の言葉が耳朶と心に沁みた。
「ごめんな、こんな目に遭わせて」
 他人に触れられることは今でもすごく怖くて、どんな些細な接触でも、嫌悪感と恐怖感を覚えてしまう。それでもただひとり、順にだけは、他の人に感じるような恐れがなかった。巧介や辰巳では、まだ怯えてしまう。けれども、順だけは特別だった。それが、擁が自分では出来ないあんなことを助けてもらっているためか、それとも、怯えないでいられる順だからこそ、あんなことも任せられるのか、どちらが先なのかは自分でも分からない。
 ひとに触れるのも触れられるのも怖い。けれども、それが、とても心地が良くて、安心する行為であることは知っている。
 だから、つい、心配そうにこちらを見て、宥めるように背中を撫でてくれる順に、抱きつくようにしがみつこうとした。まるで、あの、ひとに任せるべきではないことを手助けしてもらっている時のように。
「……、擁」
 けれど、それをやんわりと拒まれる。いつでも、そうだ。あの最中ですら、擁が堪えきれずに順にすがり付くことはあっても、順から擁を抱き締めることはない。それは、擁が他人との接触を嫌がっていることを知っていて、それを気遣っているのも、もちろんあるのだろう。しかし、おそらく、それだけではない。
 順には付き合っている彼女もいる。そういうことをする相手は、擁ではない。自慰行為に手を貸してもらうことすら、ただの、ましてや同性の友人同士で、許されることではない。……そうしないことは、きっと、順なりの、擁に対する線引きなのだ。
 擁は性的なものにこそ極度の嫌悪感を抱くが、順がそんな風に、彼女と付き合うことは気にならなかった。恋人同士ならば、当然、そういった触れ合いもあるのだろうなと冷静に考えることも出来る。それは少し、落ち着かない気分にさせる想像ではあったけれど、自分がその対象になったり、誰かとそうなることを連想してしまった時に感じる嫌悪のように、気分の悪くなるものではない。
 それはつまり、順にとっては、擁は絶対にその対象にならないという、証明のようなものであるからだ。
 たとえ擁が求めたとして、順にはそれを与えきれない。そのことを、彼はよく分かっている。いつもは、その冷静さに、安堵していた。
「……ご、めん」
 けれども何故だか今日は、そんな風に拒まれたことに、ひどく傷ついてしまった。現実を思い知らされて、それなのに、優しくしてくれるこの友人にどこまでも甘えようとしている、そんな自分自身の弱さと情けなさに、泣きそうになる。頭がぐちゃぐちゃで、ものをまともに考えられなくなっていた。
 だから、こんな時に言うべきではないことを、気が付いたら口走っていた。
「順、おれたち、もう、やめよう」
 まるで恋人同士のようなその言い方が、自分で言ったことながら、おかしかった。けれど、他に上手な言い方が見つからない。
「擁?」
 突然何を言い出すのか、と思ったのだろう。順はどこか声に不安なものを滲ませていた。抱き締めることを拒んだその手は、優しく擁の不安を取り除こうと、肩の上に乗せられた。
「もう、ああいうの、やめよう。おれが、自分でできなくて、いつも、……いっつも、順に、させてるの」
「突然、なにを言い出すんだよ」
 どうして急にそんな話になったのか、順が戸惑っている様子が明らかに分かった。
「突然じゃない。ずっと考えてたことだ。おまえに、彼女が出来てから。だって、おかしいだろ、あんなの」
「……擁、もしかして、嫌だった? おれに、されるの」
「違うよ。全然ちがう、そういうことじゃない。嫌とか、そういうんじゃなくて」
「じゃあ、構わないじゃないか。だって擁、自分では、出来ないんだろ。そんなのが続くと、辛いだろ。おれだって男だから分かるよ」
「だから、やめようって言ってるんじゃないか!」
 悪びれもせず、何がいけないのか、と平気な顔をしている順が憎らしかった。思わず、声を荒らげる。辰巳と巧介は、一体、どこへ行ったのだろう。こんな風に大声を出してしまったら、それを聞きつけられて、会話の内容も聞かれてしまうかもしれない。そうなったら、どうなるだろう。こんなことを知って、それでも彼らは、擁の近くにいてくれるだろうか。心を許している一番の友人に、もう何年間も、自慰行為の手伝いをさせているなど。きっと気持ちが悪くて、嫌がられるだろう。順もきっと、内心では、そんな風に思っているに違いない。この身体は、何者かも分からない誰かに、嫌というほど、傷が残るほど利用された身体だ。昔の、他人と臆することなく接して、未来は明るいと信じて疑わなかった、なんでも出来た擁はもう、あの夏に死んでしまった。今ここにあるこの身体は、ゴミのようなものだ。誰の、なんの役にも立たない。家の評判をおとしめ、家族や友人たちの足を引っ張るだけの、ただの恥さらしだ。
 惨めだった。同情にすがって甘えて、そのおかげでここまで生きてこられたことはよく分かっているのに、そんなのは欲しくなかったと、勝手なことを言い出す自分自身が、嫌で嫌でたまらなかった。
「擁、落ち着いて。一度、さっきの部屋に帰ろう」
 そう言って、順は擁の手を取ろうとする。反射的に、その手を振り払っていた。
「……、さわるな!」
 自分で自分を制御出来なかった。順が、手を取ることを拒絶した擁を、信じられないような目で見ているのが暗闇の中でも分かる。そんな顔をされたくなかった。もうこれ以上、誰かに嫌われたくないのに。それなのに、自分自身をコントロール出来ない。あの事件が起こってから、時折、こんな風になることがあった。大抵それは、友人といる時ではなくて、家にひとりでいる時や、家族といる時が多かった。家にいると、祖父や親戚の言葉や目線が痛かった。けれど、友人たちと居るときは、そんな痛いものとは無縁でいられたからだ。だから、順に対して、こんな風に噛み付くように感情を暴れさせたことはない。
「擁、おれは」
「うるさい、うるさい……っ、どうせ、おれなんて」
 なんの価値もない、いらないものなんだから、と、最後まで言い切ることは、さすがにしなかった。優しい順にそんなことを言っても、どうにかして否定してもらおうと、そんなことないよと言ってもらうことを期待しているようで、そんな自分がますます許せなくなるだけだ。
 何かを言おうとして、そのまま、言葉が出てこないらしい順の顔が、どこか、呆れ果てているようにも見えた。きっと、なにを馬鹿なことを言い出すのかと、そう思われているだろう。もう、それ以上その顔を見ていられなかった。不気味な館への恐怖や、ひとりになることの不安よりも、順にたいしていたたまれない気持ちの方が強かった。そのまま、彼の前から逃げ出すように背を向けて、部屋から出て行く。
「擁!」
 力に任せてドアを閉めて、暗い廊下を走る。呼び止めるように名前を叫ばれたが、後ろは振り向かなかったし、足も止めなかった。止められるはずがなかった。

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