鬼さんこちら |
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11 ……暗い廊下を、どちらを目指すのかも分からず、ただひたすらに走った。一度、室内に入ってしまったのと、怒りとも悲しみともつかない雑多な感情に頭をいっぱいに支配されていたせいで、最初にどちらの方向から歩いて来たのかも分からなくなってしまった。あの部屋に戻りたかった。そうして、いつも家でしているように、大きなベッドの中に潜り込んで、身体を丸めて耳を塞いでいたかった。ぎゅっと目を閉じて、何の音も聞こえないほど強く、手のひらを力一杯耳に当てて、すべての音を遮断する。そうしていると、自分が無くなったようで、ほっとした。 それなのに、いくら走っても、あの階段を見つけられなかった。小さな階段だし、明かりもないから、見逃してしまったのだろうか。暗い、同じかたちの扉が延々と並ぶ廊下をずっと走っていると、まるで無限回廊に迷い込んで、同じところをぐるぐると走っているような、そんな気分にさせられた。 床の窪みに足を取られて、走る勢いそのままに、派手に転ぶ。古い建物だから、床や壁のあちこちが傷んで穴のようなものが開いているのだろう。あまり綺麗ではない絨毯に顔をべったりと押しつけてしまい、口の中に埃が入り込んだ。咳き込んで、それを吐き出す。変な風に転んでしまったせいか、右足首が痛かった。捻ってしまったかもしれない。 みんなは、どこにいるのだろう。辰巳は、巧介と合流することが出来ただろうか。それに、あとは順のことだから、すぐに他のふたりとも会えただろう。そうしたら、彼は、擁が一緒でないことを、どんな風に説明するのだろうか。 思い描いてみて、恥ずかしさのあまり、頭に血がのぼる。勝手に、わけのわからないことをわめき散らして、それで走って逃げていってしまった。……なんという、子どもじみた、ことをしたのだろう。 今頃、順は心配しているだろう。何が起こるか分からないのだからひとりになっては危ない、と、そう言ったのは擁なのに。 冷静になると、自分の言ったこと、したこと、すべてが恥ずかしくてならなかった。 あんな風に、まるで、順ひとりがなにもかも悪いみたいな言い方をしてしまった。何を突然に言い出すのか、と驚いていた様子ではあったけれど、順は怒ったりはしていないだろう。順はたとえ、怒ってもおかしくない時にでも、決して腹を立てたり、誰かに厳しい物言いをしたりすることがない。だからきっと、今も、擁のことを心配してくれているだろう。こんな館の中にひとりになったことと、そして、擁が急にあんなことを言い出した、その不安定な様子を、気に掛けてくれているに違いなかった。そう考えると、いたたまれなくなる。どんな顔をすればいいのか、よく分からなかった。 それでも、ここにこうしているわけにはいかない。暗いままの廊下に座り込んでいても、何にもならない。 そう思って、痛む右足を手のひらで撫でて、ゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。 「……、え……?」 最初、何が起こっているのか、よく分からなかった。身体が、動かなかった。まるで身体が強い磁石になって、鉄の板にでも張り付いているようだと、そんな呑気なことを思った。なにか、強い力に引き寄せられ、身体を少し前に倒すことも出来ない。 それがどうしてなのか分からなくて、しばらく、身動きが取れなかった。金縛りにあったように黙って硬直していると、思考も停止してしまい、なにも考えられなくなった。 この、身体に絡むものは、なんだろう。強い力で自分を縛るなにかが、きつく擁の身体に食い込んで、そこから動けなくさせている。ふたつの、背後から絡む、このなにか。これは、なんだろう。柔らかいのか、固いのか。冷たいのか熱いのか、それのどんな感触も、服の布地越しとはいえ、不気味なほどになにも伝わってこない。感覚が、すべて遮断されていた。 「……っ、」 ふいに首もとにかかった、ぬるい風。耳をかすめたそれは、確かに、人の吐息だった。誰か、いる。 この絡むふたつのものは、背後にいる、誰かの両の腕だ。それが、いま、擁の身体をはがい締めにするように、身動きも取れないほどきつく抱き締めてきている。 なにも言わない。いつから、そこにいたのかも分からない。これが誰かも分からない。分からないのに、なぜか、知っていた。 この手を、覚えている。 (「いやだ、いやだ、……っ! やめろよ、なんでだよ、なんで」) (「……もういやだ、嫌だ、……!」) こんなものが、自分の中に、まだ、残っていたなんて。 その時のことは、全く覚えていない。後になって、他人の口から推測や想像で聞かされたことだったから、自分では、そういうことがあったのだ、と認識していただけで、記憶としては、なにも擁は持っていないはずだった。後遺症としての、嫌悪感や恐怖はあっても、そのこと自体は、擁のなかに、欠片も残っていないと、そう思っていた。 それなのに、今、はっきりと蘇る。この手。 (あの手だ) 痛み。屈辱と、羞恥と、自分が何をされるのか分からない恐怖。死を覚悟した。死んだと思った。考えたこともないような目に遭わされて、それを自分の身体が受け入れていたという事実をわざと目に焼き付けられて、強く見開いたままの目は空気ですっかり乾いて、涙も出なくなった。それを、すべて自分に与えた、手。 (おれに、あんなことをした、あの手だ……!) 忘れたはずだった。上手に、思い出さないように、すべて粉々にして、自分の中から追い出してしまったつもりだった。 それでも、違った。それは確かに残っていた。いま背後から強く絡むこの腕と、完全に一致するあの感覚。一度にたくさんのことが、あふれるように流れてきて止まらなかった。一刻も早くこの腕を振り払って、友人たちのいるところまで逃げていきたかった。他には誰もいないと、あんなに何度も、言っていたのに。 身体が動かない。舌が強ばり、息をすることも声を上げることも出来なかった。心臓の鼓動がひどく早くて、それなのに、身体に血が通っている気がしない。皮膚の内側が冷たくて、ただこめかみばかりが熱く脈を打っていた。瞬きも出来ない。 「……、だ」 また、首に息がかかる。その気持ちの悪い感覚も、はっきりと覚えている。あの声。 何を言ったのか、聞き取ることは出来なかった。 代わりに、頭蓋骨の中だけで、響く声を聞いた。ずっとずっと昔から、頭の中に住み着いて離れない声。今まで聞こえない振りをし続けてきた。けれどももう、表に出て来た。忘れていた、はずだったのに。 (「……遊ぼ」) (「いっしょに、あそぼう」) 囁き、笑い、手のひらを差し伸べて誘う声。 (「こっちだよ。だいじょうぶ、他には、誰もこないから」) (「だから、ふたりで、いっしょに、遊ぼう?」) 遠く、雷が落ちる音が聞こえる。 低く大地を震わせるその音に、まるで撃たれたように、擁はそのまま意識を失った。
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