index > novel > キミノコエ(7)



= 7 =

 どこからか、声が聞こえる。
(「声を出したら、どうなるか分かるかな」)
 ああ、また、あの夢だ。
 暗い、狭い、どこにも行けない場所の夢と、
(「そうだね。いい子だね。……黙っていようね?」)
 そこから逃げ出せたつもりになった、ぼくの夢だ。
 いやだよ。もう嫌、なのに。
(「おれは悪くない」)
(「おれが何をしたって言うんだ……畜生、おまえのせいで」)
 やめて。やめて、おねがい。わかったよ。ごめんなさい。ごめんなさい、ぼくが言いつけを破ったから。
 ごめんなさい、もう、うるさくしないから。ずっといい子にしているから。
 だから、ごめんなさい。もううるさくしないから。言うことをきくから、だからやめて。
 ――おとうさん。
 
 思い切り頬を張られると、そう感じた。両手で顔を庇おうとしたけれども、凍り付いてしまったように身動きが取れなかった。
 殴られる。リアルに想像出来るその痛みを予測して、きつく目を閉じる。少しでも、衝撃を軽く出来るように。
 けれども振り上げられたその腕は、いつまで経ってもぼくの頬を叩かなかった。
 閉じていた目を開ける。……明るい。遠慮がちに、光量を落とした明かりに照らされた、白い視界。
 何かが、ぼくの手に触れていた。あたたかくて、ぼくの手よりも大きい、誰かの手だ。
 これは、誰だ。ぼくの手を包むのは、誰の熱なんだろうか。とても心が落ち着く。
 そうだ、きっと。こんな風に、ぼくに優しさをくれるのは、きっと。
 瞬きをする。そうして、少し首を持ちあげて、手の主を探した。
(……純太?)
 ぼくが、その名前を呼ぼうとすると、
「すっげぇ形相になってたぞ」
 それとは違う別の声が、からかうようにそう言ってきた。……そうだ、違う。純太は確かにぼくに優しくしてくれたけれど、それは、ぼくが無理矢理彼から奪い取っていた優しさなのかもしれないのだ。
 今ぼくの傍にいて、どうしてだか知らないけれど、手を握ってくれていたのは実波だった。
 ぼくが、純太の名前を呟きかけたのに気付いただろうか。
「『昔とても怖い目にあって、そのショックで声が出ない』」
 気付かないでくれたらいいけれど、と思うぼくに、実波はどこかで耳にした覚えのある台詞を口にした。
「……で、それを夢に見るわけ?」
 思い出した。美由紀がぼくに言ったことだ。あの時、実波は彼女の言葉を聞いていて、ひどくぼくを馬鹿にするようにそれを繰り返した。今の実波の声には、嘲笑うような響きは少しもなかった。質問のようにも聞こえたけれど、それほど答えを待っているような様子でもない。
 ぼくは上半身を起こした。ぼくが身体を支えられるように、だろうか。実波は触れていた手を離した。
 その手が離れたことを、心のどこかで残念に思う。どうしてだろう。どうして実波は、ぼくの手なんて握ってくれていたのだろう。もしかして、ぼくが自分から、強引に掴んでしまったのだろうか。あの夢に怯えて、何にでもいいからすがり付きたいと、彼の手を掴まえて離さなかったのだろうか。そう思ったけれど、聞けなかった。 
 実波は両足を投げ出すようにパイプ椅子に座っていた。
 ぼくが寝ていたのは白いシーツのベッドだ。同じ色のカーテンで仕切られた景色に、一瞬、病院を思い起こす。けれどもぼくは、この風景を知っているような気がした。ぐるりと見回して、気付く。違う、病院じゃない。保健室だ。
 実波は何も言わない。他に何の音も聞こえない。とても静かだった。
 カーテン越しに、入り口の方を見遣る。保健室ならば、保健医の先生がいるはずだ。何度か、怪我をしたときに手当をして貰ったことがある。ぼくが喋れないことに対して、ものすごく気を遣って接してくれる人だった。
「もう、誰もいねぇよ」
 ぼくが何を探しているのか悟ったのか、実波がそう教えてくれる。
「保健医も帰った。おまえが起きたら鍵閉めて帰れって」
 これ預かった、と、実波はぼくに銀色の鍵を見せる。この部屋の鍵なのだろう。きっとまた、あの先生は気を遣ってくれたのだ。実波はそれが面白くないのか、それとも何か他のことが気に食わないのか、いつものように少し機嫌が悪そうな顔をして黙り込む。
 ……それにしても、ぼくは、どうしてここにいるのだろう? 状況が、よく分からなかった。気が付いたら保健室のベッドに寝ていた。説明してもらおうと思って実波を見る。
 ぼくは、どうして。そこまで、唇の動きだけで尋ねると、実波はため息をついた。
「……もしかして、覚えてないのか、おまえ」
 その通りだと頷く。
「あのまま寝やがって。いくら叩いても起きねぇし、放っておいたら凍死しそうで寝覚め悪いし、仕方なくここまで運んで来てやったんだぞ」
 そう言われて、記憶を辿る。屋上へ、実波を探しに行って、そして、その後。
「そうだよ。顔色悪いから寝かせとけって保健医が言うから、そのまんまにしておいた。いきなりストンと寝ちまって、こんな時間になるまで起きないなんて、おまえアレか、ナルコレプシーか何かか」
 ちがう、と首を振る。ただ単に、昨日の夜、眠れなかったから。
 それにしても、自分では少しも眠気なんて感じていなかったのに。それどころか、いつ寝てしまったのか、まどろんだ感覚さえ覚えていない。思い出すのは、ただ、背後から回された腕の強さと、頬あたりに感じた、布地越しの体温だけだった。
 枕の傍らに、ぼくのものだろう制服の上着が、きちんと畳まれて置かれていた。皺になるといけないから、誰かが脱がせてくれたのだろう。畳まれたそれを探り、メモとペンを見つけた。
『ぼく、うるさくなかった?』
 文字にして、そう聞いてみる。
 実波はじっと、ぼくが書いたそれを眺めて、何も言わずに首を横に振って否定した。
 よかった。思わず、胸をなで下ろす。
 悲鳴を上げずに、夢から醒めることが出来た。……きっと、実波がぼくの手を取っていてくれたからだろう。現実世界と、夢の世界。どちらがどちらなのか、それが分からなくなってしまって、昨夜は眠れなかった。けれども、今さっきまでぼくは、深く深く寝ていた。壁に掛けられた時計を見ると、短針がもうじき8時を指そうとしている。窓の外は暗いから、まさか朝の8時ではないのだろう。それにしても、昼休みから今まで眠り続けたのだとしたら、ずいぶんと長く寝てしまったことになる。……見ていた夢は、いつもと同じものだったけれども。けれども、そんなに長くあの夢に縛られていた気はしなかった。昨日の暗鬱とした気分も、少し軽くなっていた。頭の中でもやもやとしていた黒い霧も晴れて、何も考えられないようなぼんやりとした曖昧な気分はもうなかった。夢も見ずに熟睡することが出来たからなのだろう。
 叫ばずに目を覚ますことができたのは、きっと、触れる手で掴まえていてもらえたからだ。言葉でもなく声でもない、伝わる温度で、ぼくが囚われているもののほうが幻なのだと、この身体に教えてくれたからだ。
 ……こんなこと、当の実波には、分かってもらえないだろうけれど。
 肩口に寒気を感じて、上着を羽織る。暖房は付けられているようだけど、それでも寒かった。ぼくが肩を縮めていると、実波が突然何かを投げてきた。屋上で彼が着ていたコートだ。着ろ、ということなのだろうか。行動の意図を知りたくて実波の顔を見ても、よく分からなかった。制服を羽織った上から、コートを更に重ねる。……とても、暖かかった。首を埋めるようにすると、毛羽立った生地が、チクチクと肌を弱く刺した。その手触りに包まれた感触を思い出してしまい、なんだかくすぐったい気分になった。そして、はっきりと思い出す。ぼくは彼に抱き締められて、それで安心しきって、眠ってしまったのだ。
 きっと、さぞかし迷惑したことだろう。それでも実波はぼくを放っておかずに、保健室まで運んでくれた。
 ぼくは実波に、情けない姿ばかり見せている。そう気付き、惨めな気分になる。過ぎたことをいつまでも引きずっていたり、優しくしてくれる幼馴染みに甘えていたり、怒ったり、泣いたり。ぼくはなんて、みっともないのだろう。
 これでは純太も嫌になるはずだ。
 肩を落としたぼくの様子は、気分でも悪いように見えたのだろうか。
「……辛いんなら、寝てろよ」
 そう聞いてきた実波に、大丈夫、と答えるために首を振る。今は、純太のことは考えないでおこう。どうしても、気分が沈む。そんな顔を実波に見られたくなかった。
『ありがとう』
 そう書いて、実波に見せる。彼は小さく肩をすくめた。
「別に。おれも午後からサボれて、楽だったし」
 それを聞いて、驚く。授業に出ない口実にされたのだとしても、実波はずっと、昼休みからぼくに付き添っていてくれたということだ。ぼくはもう一度、『ありがとう』と実波にメモを示した。
 実波はじっと、何も言わずに、ぼくを見る。何かを伝えたいようにも、何かを聞きたいようにも見えるその眼差しを受け止めきれずに、ぼくは目を逸らした。もう、こんな時間だ。母さんは今日も遅くなるみたいだけど、もしかしたら、早く帰っているかもしれない。そうなったらきっと心配する。帰らなくては。
「春日」
 ベッドから降りようとしたぼくを引き止めるように、実波は手を伸ばして、ぼくの左手首を掴んだ。その動作に驚いてしまい、小さく身体が跳ねてしまった。軽く羽織っていただけのコートと制服が肩から落ちる。
「……おまえさ、この間のあれ、嫌だった?」
 見下ろされながら、そう聞かれる。ぼくの手首を押さえた実波は、そのまま椅子から立ち上がって、いつの間にか、ぼくのとても近い位置まで来ていた。覗き込まれるようなその視線はひどく真剣で、普段の軽さが欠片も見えない。
 まるであの時のような表情だ。あの時、来いよ、と腕を引き、冷たい床にぼくを投げ出した男の顔だった。
 この間の、あれ。
 ――嫌、だった?
 自分に問いかけてみる。答えを見つけ出そうと、心の底を探る。
 そんな風に触られたことがないから、混乱した。間違っていると思った。正しくないことだと思って、やめさせなくてはいけないと思った。
 けれども、改めて、嫌だったか、と聞かれると。
「ん。良かったんだ?」
 ぼくの顔を見て、実波は笑う。誰もそんなことは言っていない。言っていないのに、実波を見上げるぼくの表情は、彼にそう伝えてしまっているのだろうか。
 傍らに座っていたはずの実波の身体が、いつのまにかベッドの上に、ぼくの上にある。半身を起こしたぼくの身体を再び戻そうとするように、左手首を掴んでいないほうの手で、ぼくの肩が押しつけられる。
「川里がおまえにしたいことは、大体わかる。おれがあいつと同じ立場だったら、そうするかもしれない」
 ぼくを身動き出来ないように押さえ込みながら、実波はその力の強さに反して、囁くような声でそっと、そう言ってきた。
 ……実波は、何を言っているんだろう? 純太のことなんて、どうして、急に持ち出したのだろうか。まさか、純太が美由紀に言っていたようなことを、実波も聞いたことがあるのだろうか。純太がぼくに、「仕方なく」付き合っているという、そのことを言っているのだろうか。そして実波も、純太と同じ立場だったら「仕方なく」そうしてくれると、そういうことなのだろうか?
 だから、ぼくが純太にそんなことを言われたことが可哀想だとか、あるいはそれも「仕方がない」ことだと言いたいのだろうか。
 馬鹿にするな、と、瞬間的に怒りを感じた。ぼくを白いシーツに押しつけるその腕を振りほどこうと、実波の腕を押し戻そうとした。
「でも、おれは川里じゃねぇから。おまえの幼馴染みなんかじゃねぇから」
 実波の力が強いのか、ぼくが非力に過ぎるのか。はね除けようとしたその抵抗は何の効果も見せなかった。少しも緩まない実波の腕に、ぼくを支配していた怒りが急速に冷める。自分がどれだけ弱いのか思い知らされたような、現実を突きつけられたような気分になって、目に涙が滲んだ。
 実波はそんなぼくに視線を落としたままで、静かに続ける。
「だから、あんな風には、しない」
 少し高いところから降ってくる、実波の声。ぼくを押さえつけていた手が、急に緩む。
 実波が何を言いたいのか分からず、ぼくは彼を見上げた。いつもぼくを馬鹿にするように見ていたその目は、ただぼくを見つめていた。その眼差しは、逃げるなと叱るような強さではなく、優しくあやすような柔らかさでもなく、まるで何かを懇願するような、弱々しさに揺れて見えた。
 実波はもう、ぼくの動きを封じてはいない。今なら、少しも力を込めなくても、この覆い被さっている身体を跳ね除けることが出来るだろう。……けれども、それが、できなかった。
 ぼくを見ている実波の目がとても危うげで、まるで、今にも泣きそうに見えた。
 戸惑いに、抵抗しようとした手が惑う。戸惑ったのは、実波がそんな顔をしていた、そのことについてではない。それはむしろ、ぼく自身に対しての感情だった。実波はぼくにとって、どちらかというと敵に近いような、そんな存在だったのに。
 卑怯だ。こんな顔をされたら、どうしていいのか、分からなくなる。
 突き放すことも出来ず、ぼくの手は中途半端に実波の両肩に触れたまま止まっていた。
「まさき」
 突然、そう呼ばれる。その音の連なりがあまりに不自然に聞こえて、最初、何を言われたのか分からなかった。
 真幸。実波は、ぼくの名前を呼んだ。耳に慣れないその音に、心臓が震えた気がした。生まれてからずっと、ぼくはその名であり続けたはずなのに。今、実波に呼ばれたぼくの名前は、これまで聞いたことのない、違う言葉のようだった。まるで自分が何か知らない、まったく別の名前を与えられた気分だった。けれども、実波の声が、ぼくの名前のかたちに空気を震わせる感触は、決して不快なものではなかった。
 ぼくの反応はあまり表には出ていなかったらしい。気にする様子もなく、実波は続ける。
「まことのさいわい、って、いい名前だよな。宮沢賢治みてぇ」
 馬鹿にするわけでもなく、嘲笑うでもなく、ただ単純に褒められた、ようだった。
 あまり、そんな風に言われることはない。嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気分になって、ぼくは実波の顔を指差す。
「……おれ? おれの名前も、って?」
 自分を指されて、実波は意外そうな顔をした。ぼくは頷く。
 実波、なんて、あまりありふれていない名前だ。どこか不思議なその名前は、とらえどころのない彼に似合うと、そう思った。一体、どんな由来があるのだろう。
「兄貴がいて、そいつの名前がキタなの。喜びが多い、で、喜多。そんで、弟のおれがミナミ」
 ぼくの表情を読み取ったのだろうか、実波はそう説明してくれる。キタとミナミ。……北と南? 
 正直なところ、趣味がいいのか悪いのか、判断に困るセンスだと思った。まさか弟か妹がいて、残りの東と西が当てはめられているのだろうか。そうだとしたら、ヒガシとニシはどんな漢字を書くのだろうか。
 真剣にぼくがそう考えていると、実波は軽く鼻で笑った。
「嘘だよ」
 しれっとした声。信じたぼくを馬鹿にしている。
 ぼくは思わず、実波の肩のあたりを軽く手のひらで叩いた。
「南から吹く風は雪を溶かすんだよ。確か、そんな理由だったと思う」
 あたたかい、ということだろうか。分かったような、またはぐらかされたような気分でもある。
「な、春日」
 実波がまた、ぼくを呼ぶ。けれどもそれは、いつも通りの呼び方だった。もう一度あんな風に呼ばれたら、今度は隠せないほどに動揺してしまいそうだったので、小さく安堵する。
「……この間みたいなこと、してもいい?」
 尋ねながら、実波はぼくの身体とシーツの間に腕を滑り込ませ、そのままぼくごと、身体を起こす。自然と抱きかかえられた格好になる。背中に回された両手に縛められながらも、それを振りほどこうという気にはならなかった。ただ、どうしてこの男の触れてくる手は、こんなに温かいのだろう、と、そんなことを考えていた。
 ぼくが何も応えなかったのと、抵抗をしなかったのを、いいという返事だと受け止めたのだろうか。
 実波はぼくを引き寄せて、指先で、ぼくの唇に触れた。
「おまえ、唇噛むクセある? 血、出てるけど」
 口紅でも引くように、何度か往復して撫でられる。血が出ているのはきっと、唇が乾いて切れてしまっているからだろう。実波も指先の感触にそう気付いたらしかった。
「そっか。乾燥してんだな」
 ひとり呟いて、実波は頷いた。顔を近づけられたかと思うと、指が離れた唇に、生ぬるい別の何かが触る。獣が傷口を舐めるように、裂けて血が滲んでいるのだろう皮に、舌が這わせられている。
 舐めるようにして、乾いた唇を唾液で湿らせる。自分でもよくすることだ。ただ違うのが、それをしているのがぼくの舌ではなくて、他人の、実波のものであるというだけだ。ただそれだけの違いの、はずなのに。
 何故だか、とても胸が苦しかった。息を吸いたかったけれど、口を開けばまた、息ではない別のものを逃がしてしまいそうだった。自分の心を覗かれるのが嫌で、かたく目を閉じる。視界を遮断したせいか、感覚が余計に鋭敏になり、一体どこを舐められているのか分からなくなる。寒くてたまらないと思いながらも、どこからその熱をかき集めてくるのか、次第に身体が熱くなるのが分かった。
 その一点の接触を離される瞬間、ほんの一瞬だけ、舌でなく、唇が重なる。
「今日は、噛むなよ」
 まるで盗み取るように与えられたひどく短いキスは、何の味も残さなかった。

 
<< 戻    次 >>



キミノコエ(7) <  novel < index