index > novel > キミノコエ(8)



= 8 =

 どうして、こんなことをするの。
 耳元で、そう尋ねる。声とはとても呼べないぼくのその囁き声に、驚いたように実波の身体が小さく跳ねた。……ああ、こんな風に実波に話しかけたことは、これまでになかった。まるで母さんや、純太に話すみたいに実波に囁くことなんて、あるはずがないと思っていた。
 実波はじっと、ぼくの顔から目を逸らさず、何か考えているように見えた。
「ムカつくから」
 まるで機嫌を損ねた子どものような顔と声で、そんなことを言われる。
 腹が立つなら殴ればいいのに。ぼくが納得のいかない顔をしていたのだろう、実波は更に面白くなさそうに反論してきた。
「だから、言っただろ。別に、痛い目に遭わせたいわけじゃねぇんだよ」
 もっとよく分からない。一体何なんだろう、この男は。
 苛々するとか、腹が立つとか。暴力は、そういうネガティブな感情を露わにする一番簡単な手段だと思うのに。
「いつもそうやって、黙って下向いて、おれが何聞いても答えねぇし。そのくせ、幼馴染みだかなんだか知らねぇけど、川里にだけは違うし」
 抱いて離さないことは、一体、どんな苛立ちの発露だと言うのだろうか。分からない。
 シャツのボタンに手を掛けられて、はじめてぼくは身じろぎをした。嫌だ。そんな気持ちを理由として触れられるのは嫌だ。どんな理由ならそれを許すのかと言われれば、答える言葉が見つからない。けれども、腹が立つから、ぼくの嫌がる様を見たいという心を満たしてやる気はなかった。
 嫌なら、抵抗しろと実波は言った。声を出して止めてみせろと、そう言った。きっと、今日もそれは出来ない。
 だから、精一杯、声以外のものでぼくの気持ちを伝えようと思った。叫ぶことは出来なくても、分かってもらうことは出来る。
 そう思って、実波の腕を外し、その胸から逃れようとした。
 離して、と囁いて、束縛を解いて貰おうと思った。けれども、実波の腕は緩まず、ぼくを捕らえて放さない。
「……おまえ、ムカつくんだよ」
 そんな声で言われたくなかった。だって、そんな弱々しい言い方をされてしまったら。まるで、ぼくが何か、実波をいじめているみたいじゃないか。そんな風に使い分けても駄目だ。そう言いたくて実波を見上げると、彼も、じっとぼくを見ていた。
 教室でも、屋上でも、どんな時間にも、ぼくが実波を目にするとき、いつも彼と目が合ったことを思い出す。
 実波は、いつだってぼくのことを見ているのかもしれない。それほど、ぼくが彼の気分を害しているということなのだろうか。そんなに嫌いなら、他のクラスの子たちのように、ぼくを無視してくれればいいのに。嫌いなら、声をかけなくてもいいのに。
 嫌いなら、優しくなんてしてくれなくていいのに。
 心の中で責める。誰に向けての言葉なのか、自分でも分からない。優しい声を思い出しかけて、息を止めるように、心の底から湧き上がりかけた不安をとどめる。
 きらいだ。おまえなんて嫌いだ。叫ぶようなつもりで、ぼくを抱く胸を突き放そうとする。
 実波のことを考えると、何故だかいつだって、弱いぼくのことに辿り着く。
 ぼくはぼくがきらいだ。実波は、ぼくのその感情に無理矢理に光を当てる。
 実波はぼくを見たまま、眼差しも視線も動かさない。ぼくが心の中だけで上げた声に、そんなことは知るか、と反応をもらった気分だった。
「おれを見ろよ」
 命令してくる実波の声。
 覗き込んでくるその目に、まるで泣いているような顔をしたぼくが映っていた。
 声の代わりに思いを伝えようと、懸命に実波を睨み付けているつもりだった。けれども、ぼくは実波の強い瞳のなかで、まるでその強さに迷い込んだような、どこにも行けずに途方に暮れているような、そんな惨めな顔をしていた。いやだ。見たくない。あんな顔、誰にも見せたくないのに。
 ぼくは実波に、ずっとこんな情けない顔を見せ続けていたのだろうか。
 顔を背けようとすると、シャツのボタンを下から順に外し終えた手が、襟元からぼくの顎へと滑らされる。そのまま、動かせないように固定される。
「昔のことなんて忘れて、おれだけ見てろ」
 ぼくを見るな。こんなに弱いぼくを見るな。
 おまえなんて、きらいだ。
「……知ってるよ」
 ぼくの心を読んだように、実波はそう呟いた。

 隔てる布地もなく、実波の指に直に触れられる。そこには内と外を分ける皮膚があるはずなのに、まるで、そんなものもすべて脱がされたかのような気分だった。身体の奥に、心だとか魂だとか、そういう、感情の根本のようなものがあるとすれば、いま、実波はその箇所に手を伸ばしている。たやすく見つけたそこに指を割り込ませ、身体も目線もなにもかも無視して、ただぼくの心だけに触れようとしている。外気に晒された肌が寒さに縮まる。
 こんなことをして、なにが楽しいというのだろう。実波の手が素肌に触れていることで、そこを通じてぼくの何もかもが実波の中に流れ込んでいきそうな気がした。誰にも知られたくないことや、自分でも考えたくないことや、そういった醜いものをすべて理解されてしまいそうな、そんな恐れを感じた。
 手を伸ばして、実波の首筋をとらえる。ぼくがそんな気持ちになるのだから、こうやって触れば、実波の考えていることが少しは分かるだろうか。そう思ってのことだった。長めの髪が、伸ばした手に触る。さらさら流れる、明るい色の髪が指先をかすめる。きれいな髪だと、そう思った。
 けれども、そこからは何も伝わってこない。実波が何を感じているのかなんて、少しも分からなかった。
「……誘ってんの?」
 ぼくを見る実波が、そう笑う。やっぱり、何もかもを見透かしているような目をしていた。そこに映るぼくを見たくなくて、目を逸らす。
 ぼくのその仕草が、照れだとか恥ずかしさの表れだとでも思ったのだろうか。実波はまた小さく笑って、着ているものをすべて剥がしたぼくの身体に唇を寄せる。わざとなのだろう、音を立てるようにつよく脇腹を吸われ、生暖かい濡れたものが肌を伝う。ぴちゃりと水音を含んだその音を立てて舐め上げられて、背筋を震えがはしった。その反応に気を良くしたのか、実波は何度も、すこしずらした箇所へと同じ刺激を繰り返し与えてくる。
 探るような手で、胸を触られる。先端を指先で挟まれ、摘むようにされると、かたく噛みしめていた唇が自然と開いた。感電したように、身体が痺れた。思わず、鼻声にも似た息を漏らしてしまう。
「……っ、ふ」
 何が楽しいのだろう。 
 こんな身体を抱いて、なにが楽しいというのだろう。
 不快というよりも、ただ、そのことがとても不思議だった。
 女の子のように柔らかいわけでもない。骨張っていて、抱き締めたところでなんの充足感も与えないだろう固い身体だ。肋骨の浮き出た痩せた胸は、ひどくみすぼらしく見えて、自分でも嫌いだった。胸だけじゃない。ぼくはぼくの何もかもが嫌いだ。筋肉のつかない手足も、うつむくことばかり癖になった顔も、真実を知るのを恐れる意気地のない心も、何もかもが憎らしい。
 だから、そんなふうに大事そうに触られたくなかった。そんなふうに、壊れやすいものでも扱うようにそっと触られていると、まるでこの身体にずいぶんと価値があるような錯覚をおぼえてしまう。実波を騙しているような気持ちになってしまう。おまえが今、手にしているものにそんな価値はないのだと、そのことに気付いて欲しかった。
 口元を覆い、声を塞ごうとした手を、実波に掴まれる。
「聞かせろ」
 耳元で、声を乞われる。その願いを聞き遂げてやるものかと奥歯を噛みしめるほど、ぼくの身体を探る手は容赦なく、ずっと深いところへ伸ばされていく。ベルトを引き抜かれ、ズボンの前を緩めたその手は妙に手慣れていて、この男は他にも誰か、こうやってその身体で押さえ込んだことがあるのだろうかと、ぼんやりと思った。下着の上から、かたちを確かめられるように、そっと手を添えられる。
「触られんの、好きなんだ? ここ、すっげえ」
 勃ってる、と、わざわざ言葉にして教えてくる実波を、ひどく意地悪く感じた。
 その声が妙に満足気で、ぼくは、刺激があれば心を裏切ることもいとわない男という性を憎く思った。ちがう。ちがう、実波。ぼくは喜んでいるわけじゃない。――きっと、それはちがう。少なくとも、心は、ちがう。
 けれども、自分がどんなつもりでいるのか、こんな状況になってもよく分からなかった。実波はぼくが嫌いで、虐めるようなつもりでこんなことをしているのだろうか。だとしたら、その彼を突き飛ばしもせず、こうしてされるがままになっているぼくは、罰でも受けている気になっているのだろうか。ぼくがどうしようもなく弱いこと、その罪に対する罰だと、実波を受け入れようとしているのだろうか。
 ちがう。それでは駄目だ。
 どういうつもりなのか、もう一度実波に尋ねたかった。腹が立つから、という答えが変わらないのならば、それでいい。ほんとうにそうならば、それで構わない。けれども、一体、実波が何故ぼくに苛立つのかが分からない。ただぼくの態度が見ていて気にくわないのならば、無視してくれればいい。ぼくの存在が許せないくらいに腹が立つのなら、壊してしまえばいい。こんなふうに、するのではなく。
 下着もおろされ、先のほうを指の腹でなぞられて押さえられると、妙に滑った、濡れた感触がした。実波の指が動くたびに、かすかな水音のようなものが聞こえた。先走ったものを指先に絡ませ、実波はそれをぼくの眼前に示した。ひらひらと、見せつけるように指を揺らす。
「ほら、わかる? おまえの身体は、気持ちいいって。……なぁ、声出せよ」
 実波はぼくのそこを触れているのとは反対の手で、ぼくの両手を押さえている。 
 嫌悪感はないけれど、そうして、いちいち実波がぼくに告げてくることがひたすらに恥ずかしかった。
「もっとおまえの声、聞かせろ」
「――や」
 指の先で弄られ、軽く爪を立てられ、手のひらに包み込まれ、上下に扱かれる。
 声を抑えようと思っても、手は掴まれ、ぼくを追い上げるように緩急をつけて与えられる刺激に、身体の力が奪われていく。頭のなかに靄がかかったように、実波が何を考えているのか、ぼくが何をどう感じているのか、何も分からなくなっていく。なにもない。今この瞬間には、ぼくと、そのぼくに触れている実波しか、なにも存在していない。
 思考も視界も、なにもかもが白くぼやけていく。
「……う、ぁ、ああ……ッ!」
 真っ白になった世界のなかで、かすかに、ぼくを静かに見つめる実波の姿が見えた。

 脱がしたときと同様の手慣れた動作で、実波は丁寧にぼくに服を着せてくれた。羽織っていた制服と、貸してくれた実波のコートも、さっきと同じようにぼくの肩に掛けてくれる。仕上げのように頭を数度軽く叩かれた。
「そろそろ帰る? それとも、もっと休んでく?」
 まるで何事もなかったかのように、実波はぼくにそう聞いてきた。いや、そんなことはない。何事もなかったにしては、ずいぶんと浮かれた、楽しそうな調子だった。何をどう楽しんだのかは知らないけれど、ぼくばかりがいつも何も分からないまま、彼に翻弄されている気がした。
 ……なんだか、無性に、悔しくなった。これは苛立ちでも、腹が立っているわけでもない。けれどもとにかく、なんでもいいから実波に仕返しをしたかった。この間は、拳が痺れるくらい思いっきり殴った。だけど、実波はそうされても、少しも気にする様子はなかった。きっと今日も、それは同じだ。
 だったらぼくも、同じことをしてやればいいんだ。実波もあんな姿を、ぼくに晒してみればいいんだ。いまだにどこか熱の残った身体で、ぼくは浮かされたように実波のシャツに手を掛けた。
「あ? なんだよ」
 不思議そうに、ぼくの行動の意図を尋ねてくる実波。それに答える声をぼくは持っていない。その問いかけを無視して、ぼくは彼の服を脱がせようと、手を休めはしなかった。実波がぼくの眼差しを無視したように、彼が何を言ってきても、ぼくは復讐を敢行するつもりだった。
 けれども。
「止めろ」
 その声に、手が止まった。ボタンを外しきったぼくの手を、実波の手が押さえる。まるで、さっきの続きのように。
 どうして。ぼくばかり、あんなみっともない姿を見せなければいけないというのだろうか。不満に思って、実波を見上げる。ぼくを見る彼と、ごく自然に目が合った。
「……やめろよ」
 それはぼくの苦手な、あの表情だった。弱々しい、妙に真剣な声に逆らうことが出来なくて、ぼくは手を下ろす。そうだ。だいたい無理だ。ぼくが実波を、自分がされたようにやり返すなんて。ぼくにはあんな風に出来るような力も強さもないのだから。
 馬鹿げたことを考えてしまった。顔をうつむかせようとすると、それを引き留めるように、実波に肩を引き寄せられる。
 そのまま、唇を重ねられた。これは何度目だっけ、と思いながら、実波がそうしているのと同じように、目を閉じる。頬に添えられた手が傾ぐままに顔を傾けると、実波の前髪が、ぼくの額をかすめた。何度か軽く吸われ、数度目で、そのまま生暖かい、柔らかいものが口腔に割り込んできた。おそらく実波の舌だろうそれは、あの時のように苦い味はしなかった。
 ぼくの舌を絡めとった実波の舌が、合わせた唇から実波の口内へと誘う。それに抗わずにいると、導き入れられたぼくの舌先に、軽く、甘噛みするように歯が立てられた。その瞬間、痛みではない別の何かに、身体が震えた。背中に回された実波の手にも、その震えは伝わったのだろうか。もう一度、同じように、触れるか触れないか、といえるほどの繊細さで、ぼくの舌に歯を立ててくる。堪えきれずに、ちいさな動物が鳴くような、鼻声にも似た息を漏らしてしまう。背骨がどろりと溶けてしまったようで、身体をうまく支えていられなかった。
 唇が離れると、ぼくはそのまま実波の胸に寄りかかった。ぼくがボタンを外したシャツの合間から覗く素肌の温もりに、身体を擦り寄せる。今まででいちばん長くて、いちばん深くて、いちばん甘いキスだった。
 実波はまるで口づけの続きを施すように、柔らかい指先で、ぼくの首筋にそっと触れた。
「おれ、おまえの声、好き」
 実波がそんな嘘を吐く理由が見つからなくて、ぼくはただ、困惑した。好き、という言葉に、頭も心も対応をしかねている。どうしようもなく動揺してしまい、やたらと瞬きばかり繰り返してしまう。
 ぼくのそんな反応を見て、実波は笑った。 
「ほんとだよ」
 実波のその言葉は、頬から伝わる生きたものの体温をもって、ぼくに直接響いてきた。
 ほんとう、だよ。
(「おれは川里じゃねぇから。おまえの幼馴染みなんかじゃねぇから」)
 何故だかとても、嬉しかった。そうだ。当たり前のことだ。
 実波は、純太とは、ちがう。
(「だから、あんな風には、しない」)
 どこをどんな風に信じても、構わない。それが、ぼくにとっての真実だと、言うのならば。
 この熱は、本物だ。
 冷たい壁にぼくを押しつけて、苦い味のキスをくれた実波。泣いているぼくに優しく触れて、甘いキスをくれた実波。きっとそれは、どちらも本当の彼で、そのふたつが互いを打ち消し合うことはないのだ。どちらかを信じれば、もう片方が信じられなくなることはない。
 ぼくは芝山実波を、彼の熱と声を、すべて本物だと受け入れても構わないのだ。
 ……それは、唐突に理解した、まったく新しい何かだった。心に、風が吹いた。そんな気さえした。
 胸の奥に、ひそかに生まれるものがある。
(「南から吹く風は、雪を溶かすんだよ」)
 ああ、そうだ。きっと、これこそが、そう。この熱こそが。
 南風の、温い熱さだ。
 すべてを焼き尽くすにはいたらないが、凍える身体をあたためるには過ぎた、熱。
 罰は赦されるために受けるものだ。ぼくは何もしていない。
 このままでは、何も、許されたことにはならない。
 そっと頬を寄せた実波の胸からは、ぼくにそんなことを気付かせてくれる、不思議な熱が伝わってきた。
 

 
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