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= 6 =

 ひとは自覚のないままに、多くのことをしでかす。
 そんなつもりで言ったことでなくても、それが誰かを傷つけてしまうことがある。
 そんなつもりでやったことでなくても、それが誰かを苦しめてしまうことがある。
 ぼくは一体、純太に、何を背負わせてしまったのだろう。
 七坂美由紀は泣いていた。あんなに気の強そうな子なのに、その彼女が泣いていた。ぼくの名前を憎らしそうに口にした声が、許せないとそう訴えていた。
 ぼくは、そんなつもりじゃ、なかったのに。
 ただ、喋ることが出来なくなって、それでも、そんなぼくにも、純太は優しくしてくれた。
 それがとても嬉しかっただけなのに。
(「おれは、自分がしたいことしかしないよ」)
 そう言ってくれた、はずなのに。
(「仕方がないだろ、あいつ、喋れないんだから」)
 おかしい。おかしい。そのふたつは、互いを否定し合う。どちらかが真実なら、どちらかは嘘になる。
 ……ぼくは、どちらを信じれば、いいのだろうか。
 眠れないままに、ずっとそんなことを考える。純太の声を思い出しただけで、息が止まるような痛みが胸を走るけれど、いくら振り払おうとしても、それは頭から離れなかった。
 あれが嘘、ならば。
(「大丈夫だよ、真幸」)
 純太がぼくにくれたものが嘘だと言うのならば、
(「それは夢だ。もう全部、終わったことだよ」)
 ……その言葉も、嘘だということに、なるのだろうか? 
 急に、身体が冷えた。どうしよう。とても嫌なことを、考えてしまった。そんなことはあるはずがない。
(「それは夢だ」)
 その言葉までもが嘘だとしたら、
(「もう全部、終わったことだよ」)
 ぼくはまだ、あの闇の中にいるのだろうか。純太が優しくしてくれたことも、母さんがよく笑うようになったことも、すべて、あの狭い箱の中で眠っているぼくが見ている夢なのだろうか。
 声を出したら、酷い目に、遭わされるのだろうか。助けてもらえたと思ったのも、嘘だったのだろうか。
 夢だよ、と、優しく純太がなだめてくれたことを思い出す。
 あの夢を見たぼくは、いつだって、大きな音で目を覚まして、飛び起きていた。小さい頃はその音の正体が分からなかった。それは、ぼくが上げる悲鳴だということに気付いたのは、小学校を卒業する頃だったと思う。嫌な夢を見て、いつものようにどこからか聞こえてくる大きな音で目を覚まして、それでも鳴りやまないその音の正体を知った。ぼく自身が、泣きながら、ただ滅茶苦茶に何かを叫んでいた。それを、ひどく喧しいと思ったのを覚えている。黙れ、と自分自身に言い聞かせるぼくを無視して、変わらず悲鳴を上げ続ける喉に腹が立った。……だからぼくは、いつだって、黙れと言い聞かせるために、自分の手を噛む。声を殺すためと、その痛みで、ぼくをあの暗い夢から完全に引き剥がすために。
 声を上げれば、きっと、夢が終わる。喧しいと、眠っているぼくが、目を覚ます。
 だったら、もし、今のぼくが、夢なのだとしたら。
 目を覚ましては駄目だ。声を上げては駄目だ。もう、嫌だ。閉じこめられて、また、あんな風に痛くされるのは嫌だ。もう嫌だ。
(「ちがうよ、真幸。もう、それは終わったことなんだよ」)
(「それは夢なんだよ。大丈夫」)
 何度もぼくを助けてくれた純太の声を思い出してみる。いつだって、そうすることで、落ち着くことが出来た。ゆっくりと息をして、純太の声と言葉を身体のすみずみまで行き渡らせて、そうして、目を開ける。押さえなければならない悲鳴も、曖昧になった夢と現実の境目も、そうすることで、なにもかも消し去ることが出来た。出来ていた、けれども。
(「おれだって、好きであんな奴、引き受けてるわけじゃないんだから」)
 けれども、思い出すのは、優しい声で発せられた、その言葉だけだった。どうしても、それより前の言葉が思い出せない。記憶の入り口が、その冷たい言葉で蓋をされてしまったかのように、ぼくの中にたくさんあるはずの優しい声が見つからなかった。
 背筋を寒気が走り、身体が震える。胸を痛みが走り、口を押さえた指先が震える。
 もう、どこにもない。どこかに残っているはずなのに、見つからない。
 毛布を巻き付けても治まらないその震えに、あの声は、ぼくをもう助けてはくれないことを思い知った。

 眠れないままに、夜は明けてしまった。
 眠れなかったというよりは、眠らなかった、ということになるのだろうか。目を閉じるのが、眠りに落ちて、意識を手放すのが怖かった。もし、今ぼくがここにいることが夢なのだとしたら、そのぼくが目を閉じたら、その夢は終わってしまいそうな気がした。次に目を開いた時には、もう、この部屋にはいないかもしれない。……ぼくはまだ、あの暗闇の中に閉じこめられているのかもしれない。
 まるで子どものようだと、そんな馬鹿馬鹿しい考えに取り憑かれた自分自身を笑う。嘲笑って、そんなことがあるはずはない、と自分に言い聞かせようとする。けれども、上手くいかない。
 一晩中付けたままになっていた明かりを消す。カーテンを開けると、空は薄青い、冷たそうな色をしていた。いつも通りの朝。いつも通りの、冬の空だ。けれども今日は、見上げたその空の色を、とても寒いと思った。もうすぐ、あと一時間もしない内に、いつものように純太はぼくを迎えに来てくれるだろう。
 純太が何か変わったわけではない。きっと純太は、ぼくにこれまで通り、ぼくに優しくしてくれるだろう。変わってしまったのは、ぼくだ。その優しさを疑うようになってしまったのは、ぼくだ。
 本当ならば、確認をするべきなのかもしれない。美由紀に言っていたことが純太の本心なのかどうか、まずはそれを聞くべきなのかもしれない。あれが何らかの間違いならば、ぼくは変わらずに純太と一緒にいることが出来る。そして、もし、間違いでないのならば。――その時は、ぼくはきちんと純太に謝って、そして、もうそんな風に気に掛ける振りをしなくてもいいのだと、そう伝えなければならない。こうやって、ただぐずぐずとぼくひとりで考えていたって、どうにもならないことじゃないか。
 それでも、純太の顔を見るのが怖かった。
(「おれはおまえが大事なんだ」)
 面と向かって、あれは嘘だったと言われたら。ずっと、嫌々ながら付き合っていたのだと、そう告げられたら。それでもぼくは、平気で立っていられるのだろうか。とても、確かめてみるような勇気はなかった。
 玄関を見ても、母さんの靴はない。携帯を見てみると、『終電を逃したので同僚の子の家に泊めて貰います。明日もそうなるかも。ごめんね』とメールが届いていた。ごめんね、と母さんは謝っているけれども、母さんが帰らなかったことに、ぼくは少し、安心する。母さんに、今のぼくを見られたくなかった。
 食欲が湧かない上、母さんの分を用意する必要もないので、お弁当は作らないことにした。居間のソファに座って、ぼんやりする。一睡もしていないはずなのに、少しも眠くなかった。
 母さんに、分かったよ、と返信したその次に、純太に『今日はちょっとすることがあるので、先に行くね』と送る。ただそれだけの短い文を、直接ではなくメールで送るだけなのに、ボタンを押すぼくの指先は震えて、なかなか上手く打てなかった。最後に『ごめん』と一度入力して、しばらく考えて、その言葉を消す。
 眠いわけではないけれど、頭がぼんやりとした。
 まるでほんとうに、夢を見ているような、そんな気分だった。

 他の何かに集中出来れば、気が紛れるだろうと思った。けれども、数学の問題を解こうとしても、英文を訳そうと思っても、頭はいつの間にか、違うことを考えてしまった。違う。考えているのではなくて、ただ、ぼうっとした。もやもやとした霧のようなものが頭蓋骨の中に立ちこめていて、考えなくてはいけないことがよく見えない。そんな感じだった。
 朝ぼくが送ったメールに、純太からは『分かった、今日は部活ないから一緒に帰ろうな』と返事がきていた。どう返そう。一緒に帰ろうと言われて嬉しいけれども、それ以上に、怖い。その言葉も、純太の本心からではなく、「仕方なく」くれているものかもしれない。断らなきゃ、とは思うけれど、上手い言い訳が見つからなかった。
 食べるお弁当もないぼくには、教室は居心地が悪かった。そうだ、と思いつき、屋上に向かう。冬空の下、風を遮るもののない屋上はとても寒かった。
 そこには昨日とまったく同じように、芝山実波がいた。
 最初、実波は、誰が来たのか、と不機嫌そうにこちらを見てきた。けれども、それがぼくだと気が付いて、意外そうな顔をした。柵に寄りかかるようにして、購買のものだろうパンの袋を手にしている実波に近づく。
「なに、どうしたんだよ。……飛び降りにでも来た?」
 冗談めかした口調。首を振ったぼくを、実波は不思議そうに見ていた。ぼくは制服の胸ポケットから、小さなメモとペンを取る。
 『きのうはごめん』
 それに、そう書いて実波の目の前に突き出す。実波は持っていたパンの袋を滑り落とし、見たものを疑うように数回瞬きをする。……ずいぶんと、驚いたらしい。
「ごめん、って、……なんだよ」
 それについて説明をするつもりはなかった。みっともなく泣いた姿を見せたことを、ただ、どうしても一言だけ謝りたかっただけなのだ。きっと実波はぼくのことを、意気地なしだとか苛々させられるだとか、そういう風に嫌っている。それなのに、そんなぼくを慰めるように触れてくれた。そんな相手にまで気を使わせたことを謝った。ぼくの気持ちの問題なのだから、別に実波に分かって貰わなくても構わない。
 何も答えないぼくにひとつ息を吐き、実波は、座れよ、と仕草でそう示した。用事は済んだ。教室に戻ろうか、どうしようか迷ったけれども、ここにいれば、純太と顔を合わせずにすむだろう。そう思ったので、実波の横に腰を下ろす。
「あー……、春日」
 ひう、と風が吹いて、空気が鳴いた。まるでそれを合図にしたように、実波は言いにくそうに、口を開く。
「この間は、悪かった」
 実波に関して、謝られるようなこと。ぼんやりとした頭で、それでもすぐに思い当たる。あの、体育館倉庫でのことだろう。
 悪かった、と言いながら、実波はそっと、ぼくの髪に手を触れた。
 頭を撫でるような動作に戸惑ったけれども、その、怖々と触れてくる指が何かを探っているように感じられた。ああ、そこは。
 その時に、壁に打ち付けられた箇所だ。
 見上げた目に、ぼくがそれに気付いたと分かったのだろう。実波は触れてきた時と同じ静けさで、またそっと手を離す。
「あんなことするつもりじゃなかった。痛い目に遭わせたいわけじゃなかったんだよ」
 その意味の範囲が掴み辛かったけれども、痛い目、ということは、頭を壁にぶつけたことだろうか。確かに痛かった。数日痛みが残って、仰向けに寝ることが出来なかった。今はもう、平気だけれど。そんなことをしたかったのではないのだと、実波は言う。
 そのつもりがなかったからと言って、許されるわけではないだろう。
 けれども、ぼくには、実波のその言葉を跳ね付ける資格はないと思った。だって、ぼくも同じだ。そんなつもりではないけれども、確実に、ひとを傷つけていた。七坂美由紀と、そして、純太を。
 いいよ、と答える代わりに、ぼくは頷いた。
 痛い目、に関して実波は謝ったけれども、その他の行為については謝る様子はないようだった。嫌なら声を出せと、鋭く怒鳴られた、あの行為。誰にも話せないような、恥ずかしいこと。けれども、あれは確かに、痛いことではなかった。
 実波は何故、ぼくに、あんなことをしたんだろう?
 尋ねてみようかと思い、メモ帳をもう一度広げる。そこに質問を書きかけて、実波がぼくのその動作を観察していることに気付く。……ぼくは手を下ろした。
「やめんのかよ。何か言いたいこと、あったんだろ」
 そう言う実波の口調は、どこか楽しそうだった。いつもの、ぼくをからかう声だ。その調子からすると、ぼくが何を聞きたいのか、あらかた察してしまっているのだろう。それなのに、実波はしつこく聞いてこようとする。
「何?」
 どうして、ぼくにあんなことをしたのか。あんなこと。睨むようなつもりで実波を見上げると、やっぱり、面白いものを眺める目でぼくを見ていた。自然と、楽しげに、笑みを浮かべる口元に目をやってしまう。
 ぼくは、あの、口で。
 ……その感覚を思い出してしまった。冷たい空気に包まれているはずなのに、頬が熱い。きっと、実波の目から見ても、ぼくの頬は赤いのだろう。
 実波の視線が急に恥ずかしいものに感じられて、ぼくは弾かれたように立ち上がった。そのまま逃げだそうとした、けれども。
「行くなよ。まだ時間あるだろ」
 ぼくの腕を、実波が引っ張る。そのまま、力の加えられる方へと倒れ込む。なんなんだ。また、あんな風にするつもりなんだろうか。そう、身構えていると。
 引っ張られるままにぺたりと座り込んだぼくの身体を、ふわりと何かあたたかいものが包んだ。
「ん。すごい冷えてんな、おまえ」
 実波の声が、すぐ耳元で聞こえる。妙に、くすぐったい。
 後ろから回された実波の両腕に拘束されて、ぼくは身動きが取れない。苦しい、と訴えたくて身じろぎをすると、実波は少しだけ力を緩めてくれた。どうしてこんなに密着しているのだろうと、ぼんやりと考えた。喋るその吐息が、首筋にかかる。その慣れない感触に、つまりぼくは抱き締められているという状態なのだと、ようやく思い至る。
「ほっそい首。痩せすぎなんだよ、おまえ。……昼飯、食った?」
 聞いてくるその声に、頷く。ほんとうは朝から何も食べていないけれど、それでも全然空腹感がなかった。けれども正直にそう言ってしまうと、傍に転がっている、まだ開封されていないパンを無理矢理食べさせられそうだったので、嘘をついた。
「そっか」
 実波は特に、ぼくの返事に疑いを持たなかったようだった。買いすぎてしまったんだろうか、もう残りのパンに手を伸ばす様子はない。
 ……よく分からないけれど、少なくとも、あの時のようなことは、されないみたいだった。
 実波はというと、脚の間にぼくを抱き込んだまま、ただ何をするでもなく、肩口に顔を埋めてきたり、髪の毛をいじったりしてくるだけだった。
 実波は屋上の常連らしく、制服の上からしっかりと上着を着ている。すこし毛羽立ったその布地が肌に擦れて、ちくちくと痛かった。痛い。……けれども、あたたかい。
 肌に直に感じるその小さな痛みと、身体を包むぬくもり。それは疑いようのない、確かな感覚だった。
 その確信が心強く、あまりに心地よくて、ぼくは目を閉じた。

 実波。実波。おまえが何を考えているのかは分からないけれど。
 おまえがぼくに、何を与えるつもりなのかは、分からないけれど。
(「なんで純太は、そこまであの子を優先しなきゃなんないの!?」)
(「おれだって、好きであんな奴、引き受けてるわけじゃないんだから」)
 何でもいい。今は、頭を離れないあの夢と、彼らの声を忘れさせてくれるのならば、何だって構わないから。今、ここでこうしているのは夢ではなくて、確かな現実だと教えてくれるものならば、痛みでも苦しみでも構わない。だから、実波。
 ……いまは、もうしばらくだけ、このままで。

 
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