= 5 = このままではいけない、という気持ちと、ずっとこのままでいたい、という気持ち。 純太がいない時には、このままでは駄目だ、と思う。けれども、純太は相変わらず、ぼくのことを気遣うメールを送ってくれたり、部活のない日は一緒に帰って寄り道してくれたりする。彼女はいいの、と聞くぼくに苦笑するだけで、休日はどちらかの家で過ごしたり、映画を見たり、買い物に行ったりしている。 そうしてもらうことが心地よくて、その度にぼくは、目の前のこと以外すべてを忘れたいと思ってしまう。七坂美由紀のことも、芝山実波のことも、変わろうと思うぼく自身のことも、すべて投げ出してしまいたくなる。 それがどう名付けられる感情なのか知っている。甘え、だ。 ぼくは純太に甘えている。解放してやれと言われてもなお、ぼくはその言葉も無視して、純太に甘え続けていた。 ぼくの母さんは雑誌の編集者をしている。忙しくて大変みたいだけど、母さんはそんな仕事をとても楽しんでいるみたいだった。ぼくが小さい時に、父さんと離婚したばかりの頃の母さんと比べても、雰囲気が華やかになったし、よく笑う。友達だって増えたみたいだし、毎日が充実しているようだった。あまり、家にいてぼくと顔を合わす時間は取れなくなってしまったけれども、ぼくは母さんが幸せなら、それで良かった。 はっきりとは言わないけれど、母さんは多分、ぼくが声を出さなくなったそのことに対して、責任を感じてしまっている。冷静に判断して、母さんのその罪悪感が不適切なものなのか、そうでないのかを知ることは出来ないけれども、ぼくは一度も、そんな風に母さんを責めたつもりはない。母さんは悪くない。ずっとそう思ってきた。 だから、そうして母さんが、新しい仕事を通じて楽しそうにしていてくれることが、ぼくは嬉しかった。 昨日の夜は午前1時頃まで起きていた。けれども、母さんはその時間にはまだ帰っていなかった。 朝刊を取りに行くついでに、玄関に並ぶ靴を見る。行儀悪く、見慣れた母さんの靴が脱ぎ散らかされていた。ずいぶんと疲れて帰ってきたんだな、と、それを揃えて並べながら思う。 ぼくの分と、母さんの分。お昼のお弁当をふたつ作って、母さんの分はダイニングテーブルの上に置いておく。もうすぐ、純太が迎えに来る時間だ。急がなきゃ、と思っていると、ふと、見慣れないものが目に入った。 なんだろう、これ。 昨日はなかった、水色の紙袋がテーブルの上に乗っている。紙袋の下に、小さなカードが一緒に置かれていた。 『真幸へ。今日はバレンタインデーだから、これはお母さんからのチョコレートです。一緒に純太くんのも入ってるから、渡しておいてね。いつもお弁当ありがとう。今度の休みは、真幸の好きなもの作るからね』……母さんの字で、そう、書かれていた。 そうか、バレンタインか。水色の袋を覗き見ると、中に、小さな包装された箱がふたつ並んでいた。ぼくと、純太へのもの。 純太はきっと、今年もたくさん貰うんだろうな。……ああ、でも、今年は、違うか。彼女がいるひとに対して、そういうのは渡しにくいものかもしれない。彼女。きっと七坂美由紀は、立派な本命用のチョコレートを用意しているだろう。 当たり前だけれど、ぼくの母さんが純太にあげるのは義理だ。だから綺麗にラッピングされているけれど、手のひらに乗せて包み込めるほど小さい。きっと美由紀の渡すだろうものとは、ずいぶん小さい。 そんなことを考えると、また、いつもの箇所が痛んだ。純太と美由紀のことを考えると、相変わらず胸の同じ場所が痛む。 ぼくは一体、誰に、何を、どうしてほしいというのだろう。ため息をついて、痛みを振り切るようなつもりで首を振る。学校に行く準備をしなくては。 立ち上がったぼくの耳に、聞き慣れた電子音が響く。メールの着信音だ。 小さな箱を手にしたまま、それを確認する。純太からのメールだった。 『ごめん真幸! 今日部活のミーティングの日だった、先行く! ほんとごめん!』 バスケ部の朝ミーティングは月に一度。今日はその日だったらしい。一緒に学校に行けないのは寂しいけれど、そんなことを言っても仕方がない。問題は、母さんから託されたチョコレートの方だった。 美由紀から受け取る前に、純太に手渡したかった。小さいからとか、そんなことではなく、本命のチョコレートと並んでしまうと、どんなものでもきっとみすぼらしく感じられてしまうだろうと思ったから。 どうしよう。わざわざ、これを受け取ってもらうためだけに、夜、ぼくの家に来て貰うわけにはいかないし。……放課後、部活が始まる前に、渡しに行けばいいか。もしかしたら、あの子がいるかもしれないけれど。美由紀と顔を合わせるのは気が重かった。けれども、気にすることはない、と純太は言ってくれた。そうだ、気にすることはないのだ。純太は自分の意志で、ぼくと一緒にいてくれると言ってくれたのだから。 わかったよ、と純太に返事を送る。チョコレートのことは黙っておこう。あまりぼくから純太の教室に行くことはないから、驚くかもしれないな。 そんな風に、少しだけ心を弾ませて、ぼくはひとりきりで家を出た。 いつもの通り、一日が終わる。部活が始まるまでに、純太のクラスまで行かなくてはいけない。学年は同じだけれど、純太のクラスとぼくのクラスでは建物の棟が違う。 教室を出ようとすると、後ろから、声をかけられる。 「春日」 ……振り向かなくても分かる、声。実波だ。そのまま無視して、教室を出てしまおうと思った。それなのに、実波だ、と思っただけで、ぼくの身体は一瞬動きを止めた。名前を呼ばれただけなのに。何の悪意も伴わない声で、ただ呼ばれただけなのに、足がすくむ。 「……おまえにさ、ひとつ、聞きたいんだけど」 動けないぼくに、実波はそう言ってきた。その声はいつものようにからかってくる様子ではなくて、むしろ落ち着いた、静かな声だった。様子が違う。そう感じた途端に、身体の硬直が溶ける。声のする方に、首だけを振り向ける。実波はぼくを、見ていた。 見下ろしてくる眼差しは、これまでに向けられたことのない種類のものだった。ふてくされた子どものような表情を浮かべたまま、実波は振り向いたぼくに言う。 「川里のことなんだけど」 その名前を聞いて、一気に、記憶が蘇る。そうだ、こいつは芝山実波じゃないか。ぼくに、あんなことをしたやつじゃないか。……純太のことだって、いつでも馬鹿にする、嫌なやつじゃないか。 そんな奴がいつもは見せない顔をしていたからって、どうしたのかな、なんて、少しでも不安になってしまったなんて。 何か言おうとしている実波に向けて、ぼくは首を振る。見上げて、つよく睨む。 おまえの口から純太の名前なんて、聞きたくない。そんな意思表示のつもりだった。それなのに、実波はぼくのそんな反応などお構いなしのようで、勝手に続けた。なにを聞かれても答える気はなかった、けれども。 「……春日、おまえ川里に、七坂と別れるように言ってんのか?」 けれども、実波がぼくに言ってきたそのことが、あまりに不思議だった。 ぼくが、純太に、七坂美由紀と、別れるように? そんなことは考えたこともない。だいたい、純太が誰と付き合って、誰と別れるのも、純太が決めることじゃないか。ぼくが別れろとか、そんなこと、指図出来るはずがないじゃないか。 実波が何を言いたいのか分からなかったので、睨んでいた目つきも、自然に緩んでしまった。 「だよな、おまえはそんな奴じゃねぇよな……」 何も言っていないのに、実波はひとりで、ぼくの顔を見て納得している。それで、聞きたいことは終わりのようだった。それ以上何を言ってくる様子もなかったので、実波を無視して教室を出る。実波が聞いてきたことの意味は分からないけれども、何か、嫌な気分になった。純太に会いたい。早く、純太に会いたかった。ぼくは放課後の廊下を駆けた。 実波に捕まってしまったせいで、少しだけ遅くなってしまった。廊下にも、通り過ぎる他の教室にも、残っている生徒は少ない。純太はもう、教室を出てしまっただろうか。母さんからの預かりものの、小さな箱を手のひらに握りしめて、ぼくはそっと、教室の戸口から中を覗いた。 廊下側とは反対のほう、校庭に面した窓際の席に、生徒がふたり、いる。ひとりは髪の長い女の子で、もうひとりは、差し込む逆光でよく分からないけれど、男子なのが制服で分かった。教室に残っているのは、そのふたりだけのようだった。 「だからさー、気にすんなって、あんな奴の言うこと。な? 機嫌直せよ」 「だって」 聞き間違いようもない声と、聞き覚えのある声。ぼくは慌てて、覗き見ていた顔を引っ込めた。教室の中にいるのは、美由紀と純太だ。顔を合わせたくないと思っていたけれど、やっぱり、ふたりが一緒にいるところに出くわしてしまった。その上、なんだか雰囲気がおかしかった。小さく届く美由紀の声は、以前ぼくに鋭く投げつけられたものとは違い、弱々しかった。もしかしたら、泣いているのかもしれない。そんな声だった。 まずいところに居合わせてしまった。チョコレートなら、別に一日渡すのが遅れたって構わないだろう。そう思って、そっと、ぼくがその場を離れようとした、その時。 「春日くんは、何なのよ」 突然、ぼくの名前が耳に飛び込んできた。思わず足を止める。……ぼく? 「なんで、あたしがそんな風に言われなきゃいけないの。あたしは彼女なのに。純太の彼女なのに。なんで? どうして? なんで、幼馴染みだからって、純太がそこまでしてやらなきゃいけないの?」 ……何を、言って、いるのだろう? ぼくが美由紀について、誰かに、何か言ったことはない。それどころか、申し訳なさと、純太を取られてしまったような、そんな勝手な寂しさを感じてしまうから、普段は意識的に、美由紀のことを考えないようにしている。それなのに、彼女は、一体なにを言っているのだろう。 「ねぇ、純太、いい加減にしてよ」 「何をだよ」 苛立った美由紀に、答えが返る。聞き慣れた、ぼくの大好きな声。それは、いつだって心を落ち着かせてくれるはずの、純太の声、なのに。 それはまるで、知らない人のもののように、冷たく響いて聞こえた。その冷たさが、耳から心へと伝わる。得体の知れない、黒い霧のような何かが、胸を埋め尽くしていくような気がした。 縋り付くものが欲しくて、ぼくは手のひらに力を込めた。母さんから任された、純太に渡すはずだったその小さな箱が潰れる感触。教室の中にいるのは誰で、何を話しているのだろう。聞かないほうがいい。聞きたくない。そう思うのに、腕も足も動かなかった。ただ、手のひらだけが強く、箱を握り潰した。 押し殺したような、美由紀の声が続ける。 「……だから、春日くんのこと」 「分かってるよ。仕方ないだろ、あいつ、喋れないんだから」 聞こえてくるのは、ぼくの知らない人の言葉だった。――違う。純太じゃない。 だって、だって違う。おかしい。純太がそんなこと言うなんて。仕方ない、なんて。ぼくが喋れないことを、いつも優しく慰めてくれている純太が、それを仕方がないって、あんなに冷たい声で。 違う。今話している人は純太じゃない。きっと、よく似た、違う誰かの声だ。 自分に言い聞かせ、ひとつ大きく息をしようとする。落ち着かなくてはいけないと思った。あんな風に言われることなんて、よくあることじゃないか。そうだ、誰に言われたって、ぼくは平気なはずじゃないか。ぼくには純太が優しくしてくれるのだから、その分だけ他の人に意地悪されなければ、不公平なくらいじゃないか。 そうやって、自分に言い聞かせようとする。けれども、違う誰かであるはずの人を、その名前で呼んでしまう声があった。 「だからって、どうして純太があそこまでベッタリ世話してやんなきゃなんないのよ! この間の日曜だってそう! なんで純太は、そこまであの子を優先しなきゃなんないの!?」 「おれのお袋と、あいつのお袋さんが学生時代からの親友なんだ。しょうがないんだよ。……分かるだろ?」 子どもをなだめるように、そう言い聞かせる。それはぼくの大好きな純太の声に、とてもよく似ていた。夢だよ、と、大丈夫だよ、とぼくを支えてくれる言葉に、とてもよく似た響きを持っていた。 「おれだって、好きであんな奴、引き受けてるわけじゃないんだから」 そう続けた純太の声は、やっぱり、どこまでも優しかった。 屋上には、芝山実波がいた。 どうしてこんな所に来てしまったのか分からなかった。けれども、どこでもいいから、誰もいない場所に行きたかった。何も考えられなかった。……そういえば、よく実波が屋上にいるのだということを聞いたことがあった。けれども、そんなことを思い出す余裕もなかった。 ぼくは逃げてきた。重い足を引きずるようにして走った。まるで夢の中で逃げ回っている時のような気分だった。必死に両足を動かしているのに、少しも前に進めない。逃げたいと思っているのに、気持ちばかりが焦って、身体が満足に言うことをきかなかった。ようやく階段を上りきって屋上に出た。錆び付いた扉を押し開けて青空が見えた途端、ぼくは立っていることが出来なくなった。そのまま、崩れ落ちるようにコンクリートに両膝を付いた。 胸が苦しかった。全速力で走ったあとのように、息が上手くできなかった。それほど速く走れてはいなかったはずなのに、足が細かく震えて、立ち上がることも出来なかった。 「春日」 そんなぼくに、実波は近づいて手を差し伸べてきた。立たせてくれるつもりなのだろう。首を振って、その手を拒む。すると実波は強引にぼくの両脇を持ちあげて、そのままずるずると柵のほうまで引きずって行く。ぼくの身体を柵に寄りかからせて、実波は少し、笑った。 「なに泣いてんだよ、おまえ。ひでぇ顔」 そう思うのならば放っておいてくれればいいのに。 実波はそっと、ぼくの頬に手を添えた。涙を拭ってくれるつもりなのだろうか。 大声を上げて泣き叫んでしまいそうだった。どうしてそんな風に触るんだ、と怒りたかった。怒って、頬を撫でる手を振り払いたかった。まるで、純太がそうしてくれるみたいに触れてくる実波の手のせいで、余計に涙が止まらなかった。優しくするなと言いたかった。その代わりに、声を殺すために、いつものように手の甲を噛んだ。 「おい、馬鹿、なにやってんだよ。そんなもん噛んだって美味くないぞ」 実波がそう言って、ぼくの手を引っ張る。噛みしめていたそれを奪われて、ぼくの喉から空気が漏れる。嫌だ。嫌だ。声は嫌だ。もう誰にも、声を聞かせたくないのに。実波の手に逆らって、ぼくは自分の腕に噛み付こうとする。そうしないと、嗚咽が溢れそうだった。 そんなぼくを見て、実波は呆れたように、ひとつ息を吐く。そして、ぼくの口の中に、その指を強引に割り込ませてきた。 「……泣きたいなら、泣けよ」 突然のその感触に驚いていると、実波は静かに、そう言ってきた。ぼくが自分の手を噛まないよう、実波は代わりに指を差し入れたのだと気が付く。噛めよと言われても、他人の指を噛めるわけがない。実波の手を掴み、その指を引き抜く。何の音も出さないように、ぼくは自分の口を右手で押さえつけた。 「もっとちゃんと、声上げて、泣けよ」 その言葉に首を振る。それは出来ない。それは、ぼくには出来ないことだ。 実波はぼくの、固く握りしめられた左手を取る。純太に渡すはずだった小さな箱はすっかり握り潰されていて、ぼくの手の体温で、中に入っていたチョコレートも溶け出していた。実波がぼくの、握った拳の指を一本一本開いていく。薄い包み紙だったのだろう。開いた手のひらは、溶けたチョコレートでべたべたに汚れていた。 実波はしばらく、何か言いたそうな様子でぼくの手を見ていた。やがて、その手のひらに顔を近づける。濡れた何かが、ぼくの手のひらに触れる。実波が、手のひらに付いたチョコレートを舐めていた。そう気付いても、犬にでも舐められているようだと、ぼんやりとそう思うだけだった。 この男は何なのだろう。どうして、こんなことをしてくるのだろう。何も分からない。 (「春日くんは、何なのよ」) そんなことを、言われた。 (「仕方ないだろ、あいつ、喋れないんだから」) そんなことを、言われていた。 ぼくは一体、どうすればいいんだろう。ぼくは一体今まで、何を信じてきたんだろう。 ぼくはこれから、どうすればいいのだろう。何も分からない。 実波が顔を上げる。 「春日、手、どけて」 言われるままに、ぼくは口を押さえていた右手を離した。叫びだしたいような衝動は、この何を考えているのかよく分からない男のおかげで、ひとまず治まった。今、ぼくの胸には何も無かった。屋上まで必死に逃げてきた。その途中に、胸の中に詰まっていたものをすべて落としてきてしまったような、空虚な空しさだけがあった。だから、実波のその言葉に逆らう気にもならなかった。 少し高い位置からぼくを見下ろして、実波はぼくの顎を持ちあげる。それはあの、体育館倉庫でされたことと、全く同じ動作だった。 「川里の奴、馬鹿だよな。あんな、うるさそうな女より」 そう言って、実波はとても近い位置で笑った。そのまま、軽くついばまれるように唇が触れて、すぐに離れる。 「……おまえの方が、ずっと可愛いのにな」 2度目のキスは、あの時とは違って、甘かった。 それはぼくが純太に渡すはずだった、チョコレートの甘さだった。
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