index > novel > キミノコエ(4)



= 4 =

 くらい、せまい、檻のような四角形の入れ物の中。
 その中に閉じこめられているぼくの夢を、見る。
 この夢はぼくの心の一部だ。決して消し去ることができない、ぼくを構成するものの一部なのだ。それが悔しくて、ぼくは普段、出来るだけその暗い部分を無視し続けている。見ないようにしていれば、無いものだと思うことが出来る。
 けれども、いくら意識しないようにしていても、結局、それはぼくの中にある。時折、忘れるなと、それはまだここにあるのだと、ぼくに夢の中で訴えかけてくる。暗闇の夢を見るのは、たいがい、とても疲れている時や、何か落ち込むようなことがあった時だ。多分、そういう時には、押さえ込もうとする力が緩んでしまうのだろうと思う。
 そっと手を伸ばすと、指が堅いものに触れる。四方は壁。夢の中のぼくは幼い。だから、こんなに狭いところにも、簡単に閉じこめてしまうことが出来た。夢の中のぼくは幼い。だから、今とは違い、まだ、声を出すことになんの恐怖もなかった。
 ぼくは、助けてと叫んだ。幼いぼくと、その小さな身体の中に囚われて夢を見る、今のぼく。幼いぼくは声をあげる。誰かここから出してと、壁を叩いて、大声で懇願する。夢を見るぼくは、その声を聞きたくなくて、懸命に耳を塞ごうとする。 
 駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。そんなに大きな声を出したら。そんなに壁を叩いて、うるさくしては駄目だ。
 そんなことをしては、いけなかったのに。……ああ、ほら、固く閉められていたはずの戸が開いてしまった。馬鹿なぼく。大人しく、ただ黙って身を固めていれば、いずれは穏便にすべて片づいたかもしれないのに。そこから差し込んできた白い光に、助けが来てくれたのだと確信して、心を弾ませた、馬鹿なぼく。
 ぼくは声を出してはいけなかったのに。

「……真幸」
 ぼくを闇から助け出してくれるのは、いつも、その声だ。
「真幸、真幸! おい、大丈夫か、ほら、やめろ、……っ、おれだよ!」
 強引に、顎を開かされる。噛みしめていた手のひらを引き離され、ぼくの口を塞ぐものは何もなくなってしまった。駄目だ、これでは声を殺せない。奪い取られた方とは反対の手を口元に運ぼうとすると、更に強い力で、それも止められる。
「真幸!」
 ぼくを呼ぶ声。それはいつでも、ぼくを、助け出してくれる、声だ。
 純太。
「……夢だよ、真幸」
 ぼくの名前を呼んでくれる声。見上げると、純太がぼくを見ていた。ぼくの視線を受け止めて、純太は少し、困ったような目をして、それでも優しく微笑んだ。大丈夫だと、その眼差しがぼくに伝えてくれる。
 窓の外はもう暗くなっていたけれど、純太が付けたのだろう、部屋の中は蛍光灯の明かりで白く眩しかった。闇はどこにもない。ぼくを閉じこめる壁も、どこにもない。そうだ、あれは夢だ。過ぎたことなのだ。
 いつものことながら、ぼくは眠りながら、自分の手に歯を立てていた。右手の甲に、赤く痕が残っている。
 肩の力を抜いて、呼吸を整えようとする。純太はぼくのそんな様子を見て、強く掴んでいた左手を離してくれた。
 急に離れた手に、まるで置き去りにされた子どものように、心細くなる。反射的にぼくはその腕を掴まえていた。純太はそれを振り払わず、反対の手で、そっとぼくの肩を叩いてくれる。むずかる子どもをあやすような、優しい動作。
「それは夢だ。もう全部、終わったことだよ」
 純太のその言葉に、見開いた目を瞬かせると、頬に冷たいものが伝った。
 眠りから覚めただけでは、あの夢からは逃げられない。ぼくにとって目覚めに必要なものはただひとつ、純太がくれるその言葉だけだった。それは夢であると、そう言って貰えなければ、ぼくは上手く息をすることも出来ない。
 うたた寝をしてしまい、それで、夢を見てうなされていたらしい。涙まで流して、情けない話だとは思ったけれども、純太は決して、ぼくをそんな風に馬鹿にしなかった。小さい頃から、それこそ、あの夢を見るようになった最初の頃から、いつでもぼくを救い出してくれていた。
 あれは夢で、終わったことだ。
 そのことを確かめたくて、純太の言葉を、ぼくは繰り返し思い出す。
 暗示をかけるように、何度も何度も心の中で繰り返し呟きながら、たまらなく不安な気分になる。貰った言葉を本物だと思いたくて、ぼくは堪えきれずに純太の肩にしがみついてしまった。
 子どもの頃ならともかく、高校生にもなって、友人にこんな風に甘えてはいけないと思う。そんなことはずっと前から分かっていた。
 けれども、今はどうしても、直に感じる温もりで、純太の言葉に生きた体温を与えたかった。
「血が出てる。消毒しような」
 純太は胸にぼくを受け止め、背中を撫でてくれた。それはやっぱり、泣いた子どもをあやすような手だったけれども、そんなことはどうでもよかった。ただ、そうして触れてくれることが、ひどく心地よかった。
 すがりつくぼくの、歯形が赤く滲んだ右手に指を添え、純太は静かにこう続けた。
「……可哀想に。痛かったな」
 その言葉と、抱き与えてくれる温もりが、ゆるやかに心を満たす。
「でも、もう大丈夫だから」
 それは夢だよ、と、もう一度純太は繰り返した。

 ぼくの右手には、赤い痕がいつでも残っている。時たま、心優しいひとが、犬に噛まれたのか、と尋ねてくれるその傷跡は、ぼく自身が噛んだ痕だ。嫌な夢を見ると、ぼくは眠りながら、そうやって自分の手を噛んでしまう。そうして、夢からはいつも、その痛みで目を覚ます。
 歯先に当たる固い骨と、噛む力に従って歪むやわらかい皮の感触。そして噛みしめた箇所から伝わる痛みは、ぼくにとって必要なものだった。夢みたことと、痛みに身体を丸めながら、ぼくはいつだって、純太のことを思い浮かべた。ぼくを支えてくれる腕と、ぼくの名前を呼んでくれる声と、何も心配することはないのだと笑う顔と、そして、夢だと言ってくれるあの言葉に、いつでもぼくは救われ続けていた。
「あんな寒いところで寝るなよ、真幸。風邪引くぞ」
 器用にぼくの手に包帯を巻き付けて、純太はそう言ってきた。一瞬、何を言われたのか分からなかったけれど、つまり、純太が来た時、ぼくが暖房も付けていない自分の部屋で、床に丸くなって寝てしまっていたことについて、だろう。何も考えたくなくて、とにかく学校にはいたくなくて、家まで少しも足を休めずに走って帰ってきた。何も考えたくなかったのに、頭の中にいろいろなことが浮かんでは消えて、帰ってきた時にはとても疲れてしまっていた。……そのまま、自分の部屋で眠ってしまっていたらしい。
 今日も母さんの帰りは遅いようだった。あともう少ししたら、夕飯の支度をしなくてはいけない。居間の壁に掛かる時計を見て、そんなことを考える。パチリと、純太が救急箱の蓋を閉めた音が聞こえた。純太は部活の帰りに、家に寄ってくれたのだろう。普段から、そうやってよく遊びに来てくれることの多い純太だけれども、そんな時には大概、前もってメールを送ってくれていた。寝ていたぼくがそれに気付かなかっただけなのかな、と思って見てみても、何も届いていなかった。いつもとは、違う。
 何か、用事だった?
 ぼくがそう聞くと、純太は何故か、苦々しい表情を見せた。何か言いたいことがある人の顔で、同時に、ぼくを気遣う純太の顔だった。何か、ぼくに言うことがあるけれど、それがぼくにとって、あまり気分のいい話ではないのだろう。純太のそんな優しさは、ぼくにとって嬉しい。
 けれども、聞かなくてはならない。話して、という気持ちを込めて、ぼくはじっと純太を見た。
 純太も同じように、ぼくを見る。迷ったのだろう、視線を少しだけさまよわせてから、やがて、決意したようにひとつ息を吐いた。パチンと音をたてて、両手を合わせる。
「ごめん、真幸。美由紀が変なこと、言いに行っただろ」
 ぼくは思わず、目を瞬かせ、何も返すことが出来なかった。美由紀。七坂美由紀。純太の恋人。
 ぼくに、純太を解放してあげてほしいと言ってきた、女の子。
(「川里を解放して欲しいってさ。どうすんの」)
 美由紀に言われたはずのその言葉を、あの男もまた、繰り返した。
 頭の中に響くのは、何故か美由紀の声ではなく、その実波の声だった。どうすんの、と、あの時のように可笑しげな目でぼくを見下ろしていた、実波。
 解放、しなくてはならない。純太を。彼を縛り付けているものから。……ぼくから。
 純太には悪いことをしていると、いつも思っていた。喋れないぼくの存在は重荷でしかないだろうと、いつも思い続けてきた。
 それでも、純太が手を差し伸べてくれるままに、笑いかけてくれるままに、ぼくは甘えていた。
 いつまでも、こんな風に頼り切っているわけにはいかない。何度も、そう思うことはあった。
 それでも、ぼくは純太が大好きで、こんなぼくを見捨てずにいてくれることが嬉しくて、分かっていながらもそれに甘え続けてきた。……けれども、そうだ。純太が美由紀と付き合っていると聞いたあの時、ぼくははっきりと悟ったのだ。もう、そうやって甘え続けてはいられないのだと。たとえ純太自身がそう思わなくても、ぼくが純太に助けて貰いたいと願う限り、ぼくの存在は、少なからず彼の人生に陰をさしてしまう。
 美由紀は純太の恋人だ。そういったことを懸念して、ぼくに、純太を解放するよう、頼みに来たのだろう。その気持ちはよく分かった。だから、腹が立つことはない。
 それは何度も、ぼく自身も、そうしなければならないと思い続けてきたことなのだから。
 ついに、その時が来たというだけだ。そう、自分に言い聞かせる。

 ぼくはしばらく黙り込んで、そんなことを考えていた。その様子から、ぼくが、美由紀に言われたことをすっかり忘れてしまっていると判断したのだろう。言いにくそうな顔で、純太はしどろもどろになりながら、説明してくれる。
「ほら、何か、言ってただろ。おまえと、おれのこととか。えっと、何だ、その、おまえが、おれの邪魔になってる、みたいな……」
 そんな風に、何かに困っている純太が珍しくて、ぼくは思わず、小さく笑ってしまった。いつでも真っ直ぐな純太が、こんなに言葉に迷っているその様子を、可愛いと思ってしまった。
 ぼくが笑ったことを、そんなことは気にしていない、という意思表示だと受け取ったのだろうか。
 純太は安心したように、ひとつ息を吐く。
「あいつ、ヤキモチ焼いてんだよ。真幸に」
 ヤキモチ?
 囁きだけで、ぼくは尋ね返す。あいつ、とは、美由紀のことで間違いないだろう。
「そう。おれと幼馴染みだから。おれが、美由紀よりも真幸のこと優先してるって、最近そればっかりなんだよな。仕事とアタシとどっちが大事なの、って聞かれて困る奴の気分がよく分かったよ。そんなの、比べる方がおかしいよな」
 ……そう、だろうか。
 純太は心の底から、美由紀の不満をおかしなものだと笑い飛ばしている。幼馴染みのぼくと、恋人の美由紀。どちらを優先しているのか、どちらを優先するのが正しいのか。美由紀はどちらを選んで欲しいと思っているのか。それを考えることは、ないんだろうか。
 純太は彼女が出来ても、これまでと同じように、変わらずぼくに対して接してくれた。それは、確かにぼくにとっては嬉しいことだけれど――、けれど、美由紀にとっては、どうだろうか。
(「純太を、解放してあげてほしいの」)
 そう言った美由紀の、強い目と声を思い出す。おかしなことだと、純太は笑うけれど。――そんな風に、理にかなわない要求をしてしまえるのが、恋人という立場なのではないだろうか。彼女という肩書きはずいぶんと強い力を秘めているように、そう思えた。その前に立って、幼馴染みという言葉の持つ力は、ひどくちっぽけなもののように感じられた。
 ……けれども、ぼくはそういう面にとても疎いから、口に出して言うことはしない。純太は美由紀と、たぶん、お互いに恋をして、それでお付き合いをしているんだろう。そんな純太に、それを経験したことのないぼくが何かを言うのは、おかしいことだと思った。
 ぼくは、大丈夫だから。
 だから、美由紀のことを優先しても構わない。囁きでそう伝えると、純太は何故か、不機嫌そうに眉を寄せる。
「何言ってんだよ。だから、気にすんなって、あいつの言うことなんて。それより、真幸。おまえのクラスの、芝山ってやつのことなんだけど」
 突然その名前を出されて、どきりと心臓が震えた。氷の固まりでも呑み込んだように、胸のあたりに冷たい空気が溢れる。
 芝山。芝山実波。どうして純太の口から、あいつの名前が出てくるのだろう。ぼくが純太に、実波の話をしたことはなかった。……あの、体育館倉庫のことは、誰にも、もちろん純太にも話していない。話せるはずがなかった。
「真幸……? おい、大丈夫か?」
 純太がぼくを、心配そうに覗き込んでくる。その表情と声からすると、どうやら、ぼくは相当ひどい顔をしているのだろう。これでは、その実波と何かあったのだと教えているようなものだ。知られたくない。絶対に、知られたくないのに。
 不安そうにぼくを見ている純太に、ぼくは必死に首を振った。純太は何も言わずに、ただ、ぼくを支えるように、そっと肩に手を回してくれる。布越しに触れる手が温かくて、とても心が安らいだ。ただ、手を置いてくれているだけなのに、それだけのことで、とても、落ち着く。
「大丈夫か、真幸」
 頷いて、それに答える。大丈夫だ。ぼくは大丈夫なんだ。純太に心配をかけないように、彼と美由紀との関係を悪くしないために、ぼくは大丈夫にならなくてはいけない。
 だから、勇気を出して、自分から尋ねてみる。
 芝山実波が、どうしたの。
 まだぼくの顔色は良くないのだろう。純太は目に不安そうな色を浮かべたまま、ああ、と、思い出したように、どこか不思議そうに続けた。
「そいつがさ、最近、おまえのこと、よく聞いてくるんだよ。おれと、いつから仲がいいのか、とか、あと、……おまえが、どうして喋らないか、とか」
 ぼくは首を振った。なんでもない。なんでもない。あんな奴とは、何の関係もない。そう伝えたくて、頭がふらふらするほど、何度も首を振った。
「……何かあったら、教えろよな」
 どう考えても、ぼくの行動は不自然だっただろう。なんでもない、というぼくの言葉が嘘だということは、純太にはお見通しなはずだ。
 けれども、純太は静かに、そうか、と言うだけだった。
「おまえは優しいやつだから、美由紀のこと、気にするなって言っても無理なんだろうけど」
 ちがう。気にしているわけではない。ただ、ぼくが原因で、ふたりの間が上手くいかなくなるのが嫌なだけだ。だから、だから純太。
 もう、ぼくのことなんて、放っておいてもいいんだ。
 そう伝えると、純太は両手で、ぼくの頬を軽く摘んで引っ張った。
「ばか真幸。おれは、自分がしたいことしかしないよ。昔っから、そうだろ。美由紀が何を言ったって、おれは、おれがしたいと思ったことしかしない」
 ほっぺたを伸ばされたぼくの顔を見て、純太は笑う。引っ張っていた指を放し、今度はその手で、ぼくの両頬を包む。
「おれはおまえが大事なんだ。傍にいるのは、ただ、おれがそうしたいからだよ」
 頬を包んでくれている手と、ぼくを見る眼差しと、少し高い位置から降ってくる声。全てがとても優しくて温かくて、なんだか、とても泣きたい気分になった。

 ぼくはきっと、大丈夫だ。純太はこれまで、ぼくに、たくさんのものをくれた。優しさと笑顔と、言葉をくれた。たとえそれを、もう受け取れなくなるのだとしても、ぼくはきっと大丈夫だ。
 それは夢だと、何度もぼくに言い聞かせてくれた。泣きやまないぼくを叱ることも呆れることもせず、ずっと側にいて、抱き締めて背を撫でてくれた。純太がくれたたくさんのもの。ぼくはその全てを、覚えている。
 いつも、その優しさに助けられてきた。けれども、いつまでも、それでは駄目なんだ。これから先、ずっと純太に守ってもらい続けるわけにはいかない。ずっと、二人だけでいるわけにはいかないのだから。
 もうぼくには十分だ。心の底から、そう思う。
(「ばか真幸。おれは、自分がしたいことしかしないよ。昔っから、そうだろ」)
 縛られていると少しでも感じるのならば、どうか、自由になって欲しい。……それは、ぼくの素直な気持ちなのだけれど。
(「おれはおまえが大事なんだ。傍にいるのは、ただ、おれがそうしたいからだよ」)
 けれども、純太がくれたその言葉を嬉しいと思ってしまう。
 それもやはり、ぼくの、ほんとうの気持ちだった。

 
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