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第一章 「蝶」 |
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9. かごめかごめ むかしむかし、あるところに、とても強い力をもった呪術師がいました。 生まれながらに不思議な力にすぐれていて、多くの妖や怪物を退治し、人々をその災厄から守り、 天候さえも意のままに操り、日照りの夏には雨を降らせることができました。 彼はその力により、人間だけでなく、あまたの鬼神さえも従え、望むままに生きていたといいます。 時の権力者も、代々続いてきた家柄である、同じ呪術師の一族のものも、誰ひとり 逆らえないほどの力の持ち主だったのです。 ……彼は、一匹の蝶を大切にしていました。 それは遠い国から、呪術師への捧げものとして献上された、たいへんに珍しい、美しい蝶でした。 彼は蝶をいつでも庭に舞わせ、その羽の色を愛で、他のものが触れることを、決して許しませんでした。 しかしある時、ひとりの男が、あやまってその蝶を殺してしまいます。 男は、呪術師の住む屋敷の庭師でした。 呪術師はとても悲しみ、激しく怒りました。 いくら力のある呪術師とはいえ、死んだものを、もとのとおりに生き返らせることはできません。 たいせつな蝶だったのに、あんなに美しい蝶だったのに! 涙を流しながら許しを乞う庭師に、呪術師はこう言い放ちます。 「たいせつな蝶をなくしたわたしのこの庭を、おまえの血で満たせ」 それはとても強い力をもつ呪術師の放つ、決して何人たりとも逃れられぬ、 千年を縛る呪いの言葉でした。 「おまえと、おまえに繋がる血をもつすべてのものは、わたしの血に狩られる。 死して罪を贖い、その魂を光色をうつす羽の蝶に転じて、未来永劫この庭を満たせ」 そうしてそれより後、庭師の一族はその呪いにより、魂を狩られるさだめを課された 「蝶の一族」と、そうしてまた同時に、呪術師の一族は「狩りの一族」となりました。 昔話を聞いた。 眠りは浅くて、よく覚えていないけれど嫌な夢を見て、何度も目を覚ました。 その度に、捧がこちらを心配そうに覗き込んできて、安心させるように髪を撫でられた。眠っていたらしい様子がなかったので、もしかしたら、一晩中ずっと起きていたのかもしれない。 その夜は、一度だけ体を繋いだ。狩りの話を聞いて、どうすればいいのか分からなかった。信じなければいいだけの話だと思おうとして、それでも、これまでに見たり、感じてきたもののせいで、どうしても強く否定しきれない。混乱したまま、それでも捧が欲しかったので、貪るように求めた。邪魔な衣服をすべて取り払って、肌と肌を合わせるだけではまだ浅くて、最初の時と同じように、コウが上になって捧を受け入れた。そのまま抱き合って、言葉は交わさずにただ行為に没頭した。そうしている間だけ、何も考えずにいられた。 互いに果てて身を離すと、寒くもないのに体が小さく震えて止まらなかった。昼間の頭痛と目眩が、重さを増して頭だけでなく全身に広がって、息をするたびに、胸の奥が鈍く疼いて苦しかった。 口を開くと、嫌だ、と呟きが漏れた。何が嫌なのかは、自分でも分からない。捧はまるで、聞き分けのない子どもを宥めるように、コウの両頬を手のひらで包んで、少し困ったように微笑んでいた。 「……それは?」 何度目かに目を覚ました時、何か話してほしいとコウから頼んだ。捧の声を聞いていたかった。 「おれの一族に伝わる話」 「……『狩り』の?」 捧が話してくれたのは、蝶と、呪いの話だった。きっと、コウが聞きたがったからだろう。捧は純粋に、コウがそれを知ることを望んだから、話してくれている。ヒカリの言った通り、一から十まで。 「そんなの、ただの、昔話じゃないか」 「そうだな」 信じられないコウに、捧は決して信じろとは言わない。ただ淡々と話すだけだった。そのことが不気味で、何より真実味を帯びていた。自分が殺される話を、眉ひとつ動かさず出来るこの人が分からなかった。死ぬことなんて漠然としか考えたことのないコウには、それがどういう感情なのか想像も出来なかった。 「それをしなかったら、どうなるんだ」 「祟りが降る」 「祟り?」 思わず、小さく笑ってしまった。捧の物言いがひどく素直で、まるで幽霊を怖がる幼い子どものようだった。腕の中に抱き包まれ、指先で耳朶をくすぐられながら、そんなことを言う捧を見上げる。 「……ひとが死ぬ」 コウが笑ったからだろうか。捧はどこか、哀しそうに目を伏せた。 「蝶を捧げるのは、遙か昔に交わされた約束だ。それを守らなければ、狩りの一族の命は絶える」 「呪いが、人を殺すのか」 「そう。未月が言っていた。ほんとうは、もう狩りの季節は過ぎているんだって。だから、一族の中で、弱いものたちはもう命を奪われている。……未月が、そう言っていた」 ふいに、最初に花羽家に入り込んだ時に、庭を歩いていた男たちのことを思い出した。あの男たちが、そんな話をしていなかっただろうか。 (「……の、婆さんが死んだってのは聞いただろう」) 何も分からないまま、隠れてその話を聞いていた。何の話をしているのか、考えもせずに、けれども何故だか、はっきりと色濃く記憶に残っている。完全に、その内容すべてを思い出せるほど。 (「今だって、遅すぎるくらいなんだ。それを、あの女は」) (「なぁに、もう、あと少しじゃないか」) 何度か、繰り返していたその言葉。 (「もう、あれで、終わるんだから」) 「……捧さんで、最後?」 そう呟くと、捧はそれを聞いて、かすかに驚いたようだった。 「誰かに聞いたのか」 「だから、捧、なんだ」 変わった名前だとは思っていたが、それが、どういう意味を持っているのかを考えたことはなかった。酷い名前だ、と、ヒカリが言っていた。自分たちの命を守るために、他のものを殺す。そのために捧げる存在。 それは生贄の名だ。 「蝶を捧げなければ、呪術師の怒りを買い、狩りの一族に厄災が降る。千年続いてきた儀式だ。でも、それも終わる。おれで、最後だ」 そう語る捧の声が、どこか誇らしげでもあった。授けられたその名を、大切な役目だと、彼はそう受け入れている。そんなことは間違っている。大体、馬鹿げている。今の世の中に、呪いなど、あるはずがない。祟りから守るために、別の誰かを殺す、だなんて。千年も、そんなことを続けていたなど。 その昔話の時代ならばともかく、現代で、そんなこと許されているはずがない。捧にそれを教えれば、何か変わるだろうか。口を開き掛けて、思いとどまる。そんなことはきっと、関係がないのだろうとそう感じた。それは「外」の話だ。 捧はあの小さな離れを、自分の場所、と呼んでいた。そこだけが彼に許された場所で、周りには広い庭がある。花羽家の敷地。彼はそこから向こうのことを、「外」と呼んだ。 檻の内側で、外の世界の決まり事を話したって、きっと、なんの力にもならない。 頭が痛かった。あの庭のことを思い出した。雨が降る中、木に打ち付けられていた紙の蝶々。それに似た、人の形をしているものが、今はコウの家の玄関に貼られている。何かから、コウを守るために。 呪い。呪術師。千年の間続いてきた、定められた蝶狩り。 すべてのことが重りのように捧の言葉ひとつひとつに絡まり、しっかりと心に着地しそうになる。こんなことを受け入れてはならないと思うのに、せめて外側の人間であるコウが否定しなければならないと思うのに、もう、笑い飛ばせそうになかった。聞いてきたこと、見てきたもの、そして捧の言葉が乱雑に頭の中に転がる。記憶の入れ物をひっくり返して、中身が一気に溢れてきたように、思考の整理が出来なかった。わけも分からず、腹が立った。声を上げて叫びたいような強い怒りが心を支配していて、それでも、痛みと怠さで、身体が動かせなかった。 「どうしても、それが必要だって、言うなら」 それでもどうにか、口を開く。自分のその声は弱くかすれていて、ひどく無力なものに聞こえた。 「半分ずつ、死ねばいい」 「……半分?」 「そう。おれと、捧さんと、半分ずつ死ねばいい。それで、ひとりぶんの命だろ」 滅茶苦茶なことを言っているという自覚はあった。それでも、何より、もう、狩りの話を完全に受け入れてしまった自分が嫌だった。受け入れて、もう、死ということを考え出している。 これではいけないと、そう思うのに。 「コウ」 捧はコウの無茶な提案に、笑顔を見せた。いつもの淡い微笑みではない、あの子どものような、邪気のない笑みだった。 「コウはほんとうに、可愛い」 頬擦りをされて、額と額を合わせられて、触れるだけの口づけを何度も落とされる。こんな真面目な話をしているのに、何故そんなに嬉しそうな顔をするのか分からなかった。自分が死ぬ話など、どうでもいいとでも言いたげな捧が哀しかった。そんなに大切な話は、他にないはずなのに。 「この世界に、おれのものは、なにひとつなかった。命も、魂も、生まれる前からずっと、別の誰かのものだった」 捧はコウの表情をすぐ近くで覗き込んで、まるで痛ましいものを見るような、優しい目をする。 「この身体は、ただの魂の入れ物でしかない。他のすべては、抜け殻と同じだ。……なにもなかった。けれど、今は違う」 耳元で、囁くように告げられる。耳朶をくすぐるその低い声に、行き所のない怒りが、急に冷めていく。 「コウを知ることが出来たから、それで十分だ」 あとに残るのは、気の遠くなりそうな胸の痛みだけだった。 次に目を覚ますと、捧が隣にいなかった。驚いて跳ね起きて、部屋の中を見回す。狭い部屋の、どこにも姿がなかった。布団はコウの寝ていた温もりが残っているだけで、捧が休んでいたはずの熱はもう冷めていた。急に起きあがったせいで、立ちくらみのような目眩がする。目の前が暗くなって、しばらく視界が戻ってこなかった。気分が悪くて、身体を丸めてじっとしていたかった。けれど、捧がいないのを放っておくわけにはいかない。昨日、あんな話をしていたばかりに、嫌なことしか考えられなかった。 あれが、全部夢だったらいいのにと思う。けれど、もし夢だというのなら、きっと、これは最初から全部が夢になってしまう。 捧のことも知らないままに、ぼんやりと、薄い膜が張ったままの世界しか見えないコウに戻らなければならない。そんな気がした。 なにも着ないで寝ていたはずなのに、いつの間にか、また、寝間着をしっかりと着ていた。捧が着せてくれたのだろう。今度は、ちゃんと、前後ろも正しかった。 起きあがって、部屋の戸を開ける。 「捧さん!」 「コウ」 探しに行こうと思っていたその姿が、あまりにすぐに見つかったので、逆に驚いて声を上げてしまった。部屋を出たすぐ前の廊下で、ちょうどまたこの部屋に戻ろうとしていたところだったらしい。捧は昨日と同じ、コウが貸した着物をいつもの通りに綺麗に着ていた。顔でも、洗いに行っていたのだろうか。 「どこかに行っちゃったのかと思って、びっくりした」 「すまない」 安心して、思わず大きく息を吐く。捧は謝りながら、コウの髪の毛を撫でてきた。何度も同じところばかり触られると思って、自分でもそこに指を伸ばしてみる。変な風に、寝癖がついていた。 「台所で、この家の下宿人だという人に会ったよ」 「え、いつ」 「さっき。もう出掛けなければならないというから、玄関まで見送った。おれとコウの分だといって、朝御飯を用意してくれた」 ずっと帰ってきていなかった下宿人が、いつの間にか帰ってきていたのだ。 「ちゃんとご挨拶をした」 「なんて言ったんだ」 「お邪魔しています、と、コウにはお世話になっています、と。……おかしかっただろうか」 「ううん、大丈夫。でも、驚いてただろ」 コウには親しい友人がいないから、誰かをこの家に連れてきたことがない。長くここに暮らしている下宿人にとっても、コウの知り合いというのは初めてだっただろう。しかもどう考えてもコウよりも年上の、育ちの良さそうな和装の男だ。不思議には思われただろうが、朝御飯まで用意してくれたのだから、怪しまれたわけではなさそうだ。 「コウは、今日は『もし』の日だから時間に遅れないように起こしてあげてください、と言われた」 「もし? ……ああ、模試か」 そんなこと、すっかり忘れていた。祖母に言われて、学校の予定などは居間のカレンダーに書き込むことになっている。そうしないと、コウはすぐになんでも忘れてしまうからだ。下宿人も、それを気にしてくれているのだろう。 捧はじっとコウを見ていた。その視線をとらえて、安心させるようにコウは笑う。 「大丈夫、行かないよ」 「大切な用事ではないのか」 「いいよ、だって、おれ、大学は行かないし」 「大学?」 「そう。模試って、大学受験のための、何ていうのかな、試験の練習みたいなものだけど。でも、おれは大学は行かないから」 コウの通う高校は、たぶん名前だけなら進学校で通っている。ほとんどの生徒が大学に進学することを希望しているはずだ。だから、模試も全員が受けることになっている。捧を置いて受けに行くつもりはなかったが、それが下宿人に見つかってしまっては面倒なので、取り敢えず、制服に着替えることにした。 着替えるコウを黙って見ていた捧が、ふいに聞いてくる。 「コウは、あまり勉強が好きじゃないのか」 「好きとか、嫌いとかじゃない。……だって、やりたいことがないのに、大学なんて行ったって仕方ないし」 ネクタイを締めるのが苦手だった。何度やっても、上手に出来ない。いつものように適当に結びながら、捧に答える。 「だけど、周りは、大学くらい行きなさいって言うから。受験だけはすることになってる」 いくら進学を勧められても、これ以上、祖母に世話になるわけにはいかない。模試や受験にもそれなりの費用はかかるが、四年間も大学に通わせることを考えたら、そちらの方がまだましだろう。それは誰にも言わず、コウが内心だけで決めていることだった。 祖母や下宿人には言えないことが、捧になら素直に言えることが不思議だった。 捧は、納得したようなしていないような顔をして、そうか、と頷いた。コウの結んだネクタイがやはり歪んでいたのだろう、器用な長い指で、きれいに直してくれる。 「未月は、大学に行くらしい」 「……花羽未月?」 「政治や経済を勉強するのだと言っていた。それは当主にとって、必要な知識だから。だからそれなら喜美香様にも認めてもらえるのだと、そんなことを聞いたことがある」 当主。 その言葉を聞いて、昨日の話を、思い出してしまった。 「……コウ?」 突然黙り込んでしまったコウを、捧が不思議そうに覗き込んでくる。自分が何かおかしなことを言ったのかと、そう思ったのだろうか。 「未月が、『当主』なんだろ」 「今はまだ、そうではない。十八の誕生日に、正式に当主の座を引き継ぐことになっている」 「だったら、……つまり」 そこまで言って、詰まる。言葉にして、捧に告げるのが躊躇われて、口をつぐんでしまう。 「そう。未月が、おれの『狩り手』だ」 それなのに、捧は簡単に、コウが恐れていたものを言葉にしてしまった。 「喜美香様は、最後の蝶狩りを、未月が当主に就任する儀式にするつもりでいる。だから、次の狩りは、ほんとうに行わなければならない季節を過ぎてしまっているんだ。……反対しているものも多いと聞いている。未月自身も、そのことはあまり面白く思ってはいないようだ。自分の誕生日を待つために、一族の中にはもう命を落としてしまったものもいるから」 相変わらず、そう語る言葉は淡々としていた。花羽未月の、真っ直ぐな目と、不機嫌な声を思い出す。 あれが、この人を殺すものなのだという。 「駄目だ」 そんなことを考えた途端、自分でも驚くほど、強い声でそう口にしていた。 「捧さん、おれと逃げよう」 うつむけていた顔を上げて、コウを見ていた捧の着物の衿を掴む。 「そいつらが、どうしても、そんなことをするっていうなら。あの家からこうやってここまで来たみたいに、一緒に逃げよう」 この人が犠牲にならなければ、助からないものがあるのだと、そんな話をされた。そうしてこの人自身が、それをずっと決まっていることだと、当たり前のように受け入れていることも、もう嫌というほど分かっている。 それがコウには許せなかった。 「おれが、何でもする。誰が捧さんを、そんなことに使おうとしても、おれが絶対に守るから」 そのせいで厄災が降りかかり、一族がみんな滅びてしまうというのなら、滅びてしまえばいい。自分たちが生き残るためにそんな「儀式」をずっと続けてきた連中など、どうなっても構わないではないか。他にはなにもいらない。 「だから、駄目だよ、そんなの。おれは嫌だ」 欲しいものはただひとつなのに、それが、手に入らない。 「コウ」 襟元を掴み、固く握られたコウの手に手のひらを重ねて、捧が名前を呼んでくる。どこか困ったような、聞き分けのない子どもを宥めるような、そんな優しい声だった。 「蝶の血は短命だ。狩りのためだけに生まれて育てられるから、長く生きる必要がない。もともと、そういう命なんだ。だから、」 「だから、何だよ!」 何を言い出すのかと思えば、そんなことだった。捧はコウの気持ちを、全く理解していないように思えた。言いたいのはそんなことではないのに。そう言えば、コウの気持ちが軽くなるとでも思われているのだろうか。 「だから殺してもいいって言うのか。なんだよ、それ。そんなの、絶対嫌だ!」 コウが声を荒らげても、捧は何も言わない。静かに、こちらを見つめてくるだけだった。 その目を見上げると、言葉に詰まった。もっとたくさんの言葉を駆使して、この人に教えなければいけない。そんな「呪い」なんて否定して、コウを選んでもらいたい。 それなのに、捧の哀しそうな目を見てしまうと、何も言えなかった。 「捧さんじゃなきゃ嫌だ」 強く掴んでいた手を緩める。呟いた自分の声が震えていた。 「捧さんがいなくなったら、おれ、またひとりだ」 捧は何も言わず、震えるコウの背中をそっと抱き締めてきた。視界が潤んで、それでも、泣くのは堪えた。泣いてしまったら、負けを認めてしまうようで嫌だった。奥歯を噛んで、手のひらを強く握りしめる。自分の爪が肌に食い込んで痛かった。それでも、まだまだ足りなくて、もっと強く力を込める。 捧がそれに気付いて、その拳を持ちあげられた。こんなことをしてはいけない、とでも言うように首を振られて、固めていた指を開かされる。手のひらに食い込んでいくつも赤く残った爪の痕に、癒そうとするように唇で触れられる。四角く強ばっていた肩から力が抜けて、芯が外れたように、そのまま座り込んでしまった。 「頭が痛い」 捧にこんな情けない顔を見られたくなかった。下を向いて、子どものようにそう訴える。一度うつむいてしまうと、痛みが酷くて、もう顔を上げられなかった。頭だけではなく、心臓も同じように疼いて、体中が痛かった。 捧はコウと目線を合わせるように膝を付いて、額に触れてきた。いつもは熱く感じるその指先が、今は冷たく、心地よかった。 「……熱がある。横になったほうがいい」 「っ、……だいじょ、うぶ」 呻くようにそう答えながら、それでも強い目眩に襲われ、ぐらりと捧の方に倒れ込む。首の付け根に、これまでにない酷い痛みを感じた。まるで、太い針を一度に何本も刺されたようなその痛みに、みっともなく声を上げて、捧の肩に縋り付く。そうしていないと、心も身体も砕けて、ばらばらになってしまいそうだった。 「昨日よりも強い。……可哀想に、苦しいだろう」 捧は低く、そう呟く。コウを受け止めて、強く抱いて包む彼の腕が、コウには見えていないものが見えていて、まるでそれから隠そうとしているかのようだった。昨日も目眩に襲われた時にそうしたように、額と額を合わされる。痛みに疼いて、やけに重たく感じる自分の頭が、少しだけ軽くなったような気がした。 「これも、『呪い』?」 合わされた額を離してコウがそう聞いても、捧は答えず、何かを案じ続けているような、どこか不安げな面持ちを崩さなかった。 捧に触れていると、気のせいではなく、確かに痛みが薄れる。貰おう、と、自分からそれを引き受けようとする言葉を彼が口にしていたのを覚えている。 儀式を行わなければ、祟りが降って、人が死ぬ。 だったら、今、自分の身に起きている異変も、その力に寄るものなのだろうか。 「……おれが、捧さんを連れ出したから? 大事な、狩りのための、」 獲物を誰の許しも得ることもせずに、勝手に奪った、その罰だとでもいうのだろうか。 思い知れとでも言いたげに、何か言葉をひとつ発するごとに、胸がひどく痛んだ。刃物でも呑み込んで、肺の内側から何度も切り裂かれているようだった。このまま、殺してやるとでもいうのだろうか。 「そんなことが出来るのなら、やってみればいい」 馬鹿馬鹿しい、と笑おうとして、息がうまく出来なくて咳き込む。 「コウ、喋らないほうがいい」 捧が背を撫でてくれる。負けないと声に出して彼に伝えたいのに、胸と、そこから広がった背中の痛みに、身体を丸めて唇を噛むことしか出来なかった。どんなことだって出来ると、この人に分かって欲しかった。呪いだとか祟りだとか、そんなものがあるとしたら、それにだって負けはしないと、捧に言いたかった。それなのに、身体の至る所が痛くて、息をすることも辛く動けない。悔しさと苦しさに、指先が震えた。 捧は泣いている子どもをあやすように、コウを胸に抱いて、黙り込んだままだった。背中を撫でてくれるその手に、どうにか薄れそうになる意識を繋ぎ止めて、呼吸の方法を思い出そうとする。……どのぐらいの間、そうしていたかは分からない。息をするごとに、瞬きをするごとに、心臓が鼓動を刻むごとに、体中のすべてが疼いて、鈍い痛みと突き刺すような鋭い痛みが交互に襲ってくるのに、ただ目を閉じて耐えていた。 ふいに、捧が動いた。 「……来た」 低く呟かれたその声が、それまでとは違い、どこか張りつめていた。何が、とコウが目を開けて捧を見上げようとしたその瞬間、玄関の方から、呼び鈴が鳴るのが聞こえる。 「だめだ」 首をめぐらせて、音のした方向に目をやる捧を引き止めた。 「おれが行く、から」 反対しようとしたのだろう捧が口を開く前に、かすれた声で続ける。 「ここはおれの家だ。誰が来たって、おれが、出なきゃおかしいだろ」 そんな子どものような主張をして、膝に力を入れて立ち上がろうとする。捧は何か言いたげに眉を寄せていたが、コウが立とうとするのに手を添え、支えるように肩を貸してくれた。ふらふらしながらもどうにか立ち上がっても、ひとりでは歩けなかった。半ば抱えられるように、ゆっくりと玄関に向かう。 捧が何も言わないのが、怖かった。 「遅い」 その姿を目にしなくても、誰が来ているのか、予想は付いていた。呼び鈴を鳴らしてから、出てくるまでに時間がかかったせいだろう。下宿人が出て行く際に開けたままになっていただろう玄関の戸を開けて、その男はこちらを睨み付けていた。 冷たい声は、今日も、怒っていた。 「恥を知れ、この愚か者が」 大学に行くつもりなのだというのだから、今日は模試を受けに行くつもりなのだろうか。真っ直ぐなシャツの衿と、綺麗に結ばれたネクタイが、同じ制服を着ていてもコウとはまるで印象が違う。 花羽未月の睨む目と苛立ちの言葉は、コウではなく、捧に向けられていた。 「こんな、余計な手間を掛けさせるな。ぼくは忙しいんだ」 「……すまない」 「謝って済む問題か!」 ふざけたことを言うな、と、激昂したように未月は憤る。どうしてこの男は、見かけるたびに怒っているのだろうと、ぼんやりとそんなことを感じた。見ているものと聞いているものに、妙に現実感を感じられなかった。 その未月と、目が合った。 「……、っ、は」 力が抜けて、立っていられなくなる。睨むような瞳だったが、それでも、ただほんの数秒、目を合わせただけだ。ただそれだけのことで、息が出来なくなって、心臓が大きく疼いた。 肩を支えていた捧が、コウを受け止める。息苦しさと胸の痛みに、堪えきれずに咳き込む。吐き気がして手のひらで口元を押さえると、そこに気持ちの悪い感触が伝う。生暖かい、どろりとした粘着いた液体に、コウよりも捧の方が、息を呑んだのが分かった。 「コウ」 捧のその声が、これまでになく重く、硬かった。手のひらが赤黒く濡れていた。 これは、血、だろうか。 「……こうなることは分かっていただろう、捧。あの人は容赦がない。そのまま放っておけば、じきに内臓が腐る」 喉を迫り上がる吐き気を抑えきれなくて、また手のひらが汚れた。花羽未月の、呆れたような、それでもどこか哀れむような声が、冷たく耳に響く。 それに答える捧の声もまた、未月と同じように冷たい、まるで感情を伺わせないものだった。 「おれが戻れば、コウは助かるのか」 「心配するな。無関係の人間に影響を及ぼすのは、母さんも好むところではない」 「答えろ、未月」 「……今ならまだ、間に合うはずだ。おまえが大人しく戻るのなら、今後、危害を加えることもない。ぼくが約束しよう」 捧が頷く気配を感じる。目をしっかりと開いているはずなのに、ぼんやりと霞む視界で、彼を見上げた。 「だめだ」 力が入らない、震える指先で捧の袂を掴む。上手に捕まえられなくて、何度か空振りして、ようやく、藍色の生地に触れる。行かせてはならない。引き止めて、自分の傍にいてもらいたいのに、こんな弱い力では、何にも出来ない。 「コウ」 「……どこにも、行っちゃ、」 「すぐに楽になる。苦しい思いをさせてしまって、すまない」 コウが懇願する言葉に、捧は安心させるように微笑み、袂を掴むコウの弱い指先を、そっと手のひらで包んだ。痛みに震える身体を強く抱かれて、一度だけ、首筋に、まるで噛み付くように強い口づけを残される。 「愛している」 身体を離される前、耳元でそう囁くように告げられる。そんな言葉を今聞きたくなかった。別れの合図のように最後にまた微笑まれ、コウは必死に首を振った。 「いや、だ……!」 「……どうか、おれの夢を見てほしい」 淡い笑みは哀しそうではあるものの、それでも、いつものように優しかった。 掴んでいた袖口から、指先が外れる。がくりと力が抜けて、そのまま板張りの床に倒れ込む。もう一度捕まえようと思って伸ばした手は、痛みにもがくように宙をかすめるだけだった。 「いやだ、だめだ、……っ、ささぐ、さ」 息が苦しくて、何か言おうと声を出せば咳き込んでしまい、手のひらだけでなく突っ伏した床にも赤黒い染みが零れた。かすんでぼやけていた視界が、少しずつ色を失っていく。その暗くなっていく景色の中で、静かに立ち上がり、コウに背を向ける捧の後ろ姿だけが、鮮やかにはっきりと見えた。ここで手放してはいけないと、そう焦る気持ちがあるばかりで、身体は言うことを聞いてくれない。それが腹立たしくて悔しくて、せめて声を上げようとしたけれども、もう、それも出来なかった。 「後のことなら、あの男が何とかする。どうせ、ここには来ていたんだろう」 それが誰に向けてのものなのかは分からないが、花羽未月のその言葉を聞いたのを最後に、コウの視界は完全に暗転した。 「……悪い夢を見たと思って、全部、忘れてしまえばいい」 捧は背を向けたきりで、コウの方を振り向くことはなかった。 倒れ込んだのは玄関のすぐ前の床で、玄関が閉められた音が聞こえた。 窓のないところにいるはずなのに、光のない暗闇には、何故だか雨音が満ちていた。苦しくて倒れていたはずなのに、目を開けていられなくて目蓋を閉じていたはずなのに、雨の降る闇の中で立ち尽くして、コウは自分の手のひらを見下ろしていた。 右の手のひらが、赤く染まっている。これは、自分の血ではない。こんなに綺麗で、甘そうで、いい匂いはしなかった。いつか夢で見たように、そっと舌先で舐めてみる。何故だか捧のことを、思い出した。 雨が降っていて、足下には濡れた地面と、窪みに出来た水溜まりがいくつも広がっている。重たそうに淀んでいるその液体は、果たしてほんとうに、雨だろうか。 誰かに思い切り、傷つけてほしかった。こうして存在している自分が許せなくて、誰でもいいから、何でもいいから、ひどく傷つけてくれるものがほしかった。膝を付いてうなだれる。コウの歪んだ顔を映した水溜まりは、濁った黒色をしていた。 そのなかに、白く浮かぶものがあった。小さい、白い蝶の羽。からだを中心から引き裂かれたのだろうか。引きちぎられた羽が、まるで花びらのように血溜まりのなかに散っている。 雨の日に、捧を知った。 導くように、惑わせるように飛ぶ、白い羽の蝶。 夢の中、はじめて知った人を恋しく思いながら、この手で握りつぶしたあの白い羽。力を込めて潰した手のひらは赤く染まっていて、それがとても甘そうで、捧のことを思い出した。欲しくて欲しくて、堪らなかった。蝶。狩りの一族と、呪いと、狩られる蝶の一族。それならば、あの、白い蝶も。 あれも、「誰か」だったのだろうか。 喉が潰れそうなほど、思い切り叫んだ。なんの意味もない、ただ現実の身体は痛んで使い物にならないから、せめてこの幻の中で、気の狂いそうな苛立ちと、満たせない渇望を自分の中から追い出したかった。誰かに思い切り傷つけられたいと、またそんな風に思って、他に誰もいないここではそれが叶わないことが哀しかった。 血溜まりの中から、白い蝶のかけらをすくい上げる。かわいそうに、と、心からそう哀れんで、胸が締め付けられた。花びらのような白い羽が、血の色に染まってしまっている。可哀想に、こんなに、汚れてしまって。白い色は、これだからいけない。もっと相応しい色が、あるはずなのに。 蝶を心から哀れに思って、すくい上げた羽を胸に抱く。愛おしい、小さな、かつて生きていて人のかたちをしていた、「誰か」。これはあの日、コウ自身が握り潰した蝶かもしれない。そうだ、もしかしたら、これはあの人なのかもしれない。生まれる前から決まっていた、彼の定めだという、千年の儀式。 赤く汚れた、白い花の色。 これこそが彼の羽なのかもしれないと思うと、その羽の色が、可哀想で可哀想で、ならなかった。
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