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第二章 「月」 |
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1. 白と黒 深く沈む夢を見ていた。 水は透明で硬く、けれども、身体が触れると柔らかく緩み、まるで溶けた硝子のなかに沈んでいるようだった。 胸一杯に入り込んだ、その冷たい水が指先まで流れ込む。天から差す光は、水面をくぐる瞬間に小さな珠の大きさに切り取られて、水に溶けるようにかたちのぼやけたその光の珠が、まるで、淡く輝く羽をもつ蝶のようだった。 光色の蝶たちは水底に向けて、ゆっくりと揺れながら沈んでいく。何色とも言えないその羽が、とても美しかった。まるで天地が逆さまになった世界で、自在に舞い飛ぶ蝶の群れのようだった。 青く冷たく澄んだ、清らかな世界。 その姿は見えなくても、声を聞くことが出来なくても、これが彼の夢だと分かった。 鼻の頭をくすぐられたような感触に、目を開く。 「……おや、起きた」 そんな声が聞こえたけれど、それが誰のものか、すぐには思い出せなかった。 ぶれてぼやけた視界に、それでも一点だけ、はっきりと目に鮮やかな色を見つけて、それに焦点を合わせようとする。曖昧な景色に穿たれた穴のような、一点の黒色。ふわりとその黒点が浮かび上がり、どこにも見えなくなる。 一度まばたきをして、また目を開けた。 「まだ起き上がらない方がいい。丸一日、一度も目を覚まさずに眠り続けていたんだから」 朦朧とした意識でその声を聞く。重たくてなかなか動かない身体で、どうにか右腕を伸ばすと、指の先に、また、あの黒い色が舞い降りる。 それは黒い羽の蝶だった。 「気分はどうかな」 声の主に目をやろうとして、それよりも先に、相手に覗き込まれる。頭がぼんやりとするのは、具合が悪いからではなくて長く眠っていたせいだろう。全身を支配していた痛みも、いまは無くなっていた。何か声に出そうとして、とても喉が渇いていることに気付く。身じろぎをすると、指先の蝶が、またふわりと離れた。 ゆっくりと背を起こして、傍に座っていた男が差し出してくれたグラスを受け取る。冷たいその水に、霞んでいた意識が少しずつ醒めていく。青くて、冷たい夢の感覚を思い出した。心地よくて、綺麗な夢だった。胸の中に、まだ澄んだ水の清々しさが残っている。 「……おれは?」 「玄関に倒れていた。血の痕も酷いし、死んでいるのかと思ったよ」 黒い蝶が止まっている指先を見下ろす。堪えきれずに吐いた血で汚れていたはずの手のひらには、それらしいものが少しも残っていない。 傍らに座る男は、じっと蝶を見ているコウを、まるで面白がるような調子で見ていた。「蜘蛛」だと呼ばれる男にとって、蝶はどんな存在なのだろうと、ふとそう思った。本物の蜘蛛は、蝶々を巣に掛けて、餌にしてしまうものだ。 ヒカリは空になったグラスをコウの手から受け取り、水差しからもう一杯水を入れてくれた。 「お家の人にどう言い訳をしたものかと悩んでいたのだけれど、誰も帰ってこないものだから、勝手にぼくが色々見させてもらった。どうやら未月もそのつもりでいたようだからね」 「あんたが、ここに来た時には、もう」 「……あの子のことかな。だったら、ちょうど入れ違いになったようだね」 コウが何を聞きたかったのか、最後まで言葉にしなくても分かったのだろう。 そう、と呟いて、また水を飲む。もう少し、あの夢を見ていたかった。その名残を求めて、冷たい水に頬を寄せる。コウのそんな仕草を見て、ヒカリが続けた。 「まさか未月が自分から迎えに来るとはね。喜美香様は、あの子が自ら戻ってくると確信していたようだから。だから、花羽家としては様子を見るつもりでいたらしいが。どうも、気が短くなっているようだな」 「花羽家が?」 「いや、今更あの家は何も変わらないよ。未月個人だ」 コウにとっては、未月はいつだって何かに怒っているらしい様子だった。短気になっている、と、未月のことをよく知っているらしいヒカリが言うのだから、あの苛立った雰囲気も、いつものものではないのだろう。何かが、そうさせているのだろうか。時間はもうそれほどない、と、未月は言っていた気がする。 「……いつか、知ってる?」 顔は上げないまま、ヒカリにそう尋ねる。 「未月の誕生日が、いつなのか」 花羽未月が、正式に当主の座を引き継ぐための儀式が行われる日。ヒカリはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと、その日付を呟くように答えた。 顔を上げて、壁のカレンダーを見る。その日まで、もう、二週間もなかった。 捧のことを初めて知ってから、まだ一週間も経っていない。まだそれだけしか経っていないのに、残っている時間が、そんなにも短いことに愕然とした。愕然として、そしてすぐに、それは捧にとっては、最初から分かっていたことなのだと気付く。 初めて言葉を交わした時も、コウがあの手を取って、一緒に行こうと誘ったその時も。捧にとっては、残された最後の時間の流れの中にあった。 どんな気持ちだったのだろう、と、彼のことを思った。子どものようにテレビに張り付いて見入っていた姿や、もの珍しそうにコウの家の至る所を見回していたことや、手を繋いで陽の沈む歩道を歩いたこと。 何度でも足りないとでも言いたげに、貪欲に求められた、あの夜。 「……、っ」 彼は最初から、「最後」だと分かっていた。だからこそ、コウの手を振り払わなかったのだろう。 何も言えなくて、唇を噛む。しばらくそのまま身を固めていると、それまでどこにいたのか、黒い羽の蝶がふわふわと視界を横切った。コウの顔のすぐ近くに来たので、無意識のうちに手を差し出す。止まる場所を探していたように、蝶はひらりとそこに羽を休めた。質量の感じられない、光を掴んだような、不思議な心地だった。 この蝶は花羽の庭で見たものと同じだ。黒くて、天鵞絨のような艶やかな羽。反対の色の、血を呑んでいた白い蝶のことも思い出す。供物として狩られ、捧げられる蝶。羽の色こそ違っていても、あのふたつは、よく似ている。 「……これも?」 そんな中途半端な問いかけにも、ヒカリは何のことかと尋ねることもなく、頷いてそれに答えた。 これも、「誰か」。捧と同じように、そのためだけに生まれて、そのためだけに殺されて、ひとつの一族を生かし、長らえさせるための供物。 「蝶はほとんど己に与えられた庭から離れることはないけれど、稀に、こうしてふらふら飛び歩くものもいる。元々の性格の違いかな」 さらりとそう言って笑うヒカリに、思わず息が詰まる。元々の性格、というその言葉に、指先に止まる蝶に目をやった。 かつて「誰か」だったもの。普通の蝶とは違うようにも見えるし、言われてみれば、どこか違和感があるようにも見える。艶のある黒い羽の色がとても美しかった。 いくつか見せた着替えの中から、暗い色合いのものを選んでいた、捧のことを思い出す。いつも濃い藍色や、黒に近い色の着物を身に付けていた彼は、こんな色が好きなのだろうかと、ふと考えた。 「きれいだな」 そんな感想を持つのは間違っている気がしたが、心から素直にそう思えたので、そう口にする。ヒカリはコウのその言葉には何も反応を返さず、ふいにこんなことを言ってきた。 「蝶を狩る一族は、ふたつある。白い蝶と、黒い蝶だ」 突然なにを言い出すのかと思い、その顔をじっと見る。また、「狩り」の話だ。 「何か違うのか?」 「狩る家が違えば、蝶の羽の色が違う。花羽は白い蝶の家だ」 そんなことを聞きたかった訳ではないが、実際にそう答えられると、それ以外に何を知りたかったのか、自分でもよく分からなかった。白い蝶と、黒い蝶を狩る家。捧が囲い込まれていたあの家は、白い羽の家なのだという。 それならば、花羽未月に「仕留められる」捧が与えられるのは、白い色だということなのだろうか。 そんなことを考えて、また嫌な気分になる。ヒカリはそんなコウの内心を見透かしているように、更に話を続けた。 「もともとはひとつだった呪術師の一族が、時代とともにふたつに別れたことで、彼らが狩る蝶の羽の色も、それぞれ別れることになった。そのふたつの家は、昔から仲が悪くてね。もうずっと長い間、喧嘩をしていると言ってもいい」 「……子どもじゃあるまいし」 皮肉気なその口調で語られたその内容に、思わずそんな風に呟いてしまった。馬鹿げた話にしか聞こえなかった。大事にしていた蝶を殺されてしまったことで、その相手を子孫もろとも呪ったという呪術師が始めた「狩り」の儀式。その言いつけを大事に守り、祟りに合わないためにと、昔々からずっと、人を殺してきた一族。おまけに仲が悪くて、更にその一族の中でもふたつに別れて、喧嘩をしている。……馬鹿げた話だとしか、そう思えなかった。 ヒカリはいつものように真意の知れない笑みを見せるだけで、コウのその呟きには何も言わなかった。 「ほんとうに、ずっと昔から、続けてきたことなのか」 「そうだよ。千年の間、ずっとね。十五年に一度、蝶を捧げなければ、白も黒も、狩りの一族は皆すべて滅びて死に絶える。それを避けるために、蝶狩りは続けられてきた。そして今年も、その十五年目に当たる」 「十五年に、一度?」 「そう。それが決まりだ。だけど、十五年というのは儀式としての間隔だな。実際には狩りの血を引くものが蝶を仕留めれば、いつでも狩りは成る。……この意味が分かるかな」 「儀式として狩ることは別に、……本来なら、必要でない『狩り』もあるってこと?」 「正解。彼らにとって、蝶狩りというのは長らく娯楽の一種だったのさ。だから黒と白、どちらの家が多くの蝶を狩っているか、蝶比べをしていた時代もある」 もう今は違うけれどね、と、どうでも良さそうに付け加えて、ヒカリは肩をすくめた。 この男も、そんな風に軽々しく語るべきではないことを、何でもないことのように言い切る。自分が殺される話を淡々と語る捧と同じだ。どちらの家が多くの蝶を狩っているか、なんて。それはつまり、どちらが、より多くを殺したということではないか。 嫌悪感を覚えるコウの方が間違っているのではないかと疑ってしまうほど、彼らはそれを当たり前のことのように話す。 「さすがに近代になって、そんな野蛮なことは止めようとそういう話になった。蝶の一族は、狩りの一族を存続させるための大切な獲物だ。約束された千年目まで、滞りなく狩りを執り行うために、保護し、徹底的に管理する。きみが出逢って、この家まで連れ出したあの子は、そういう存在だ。一族の宝と言ってもいい。さしずめきみは、その宝を盗んだ泥棒というところだな」 「あんたが、おれをそそのかした癖に」 「そんな風に言われるとは心外だな。ぼくはきみが望む通りに、あの子に会わせてあげただけだ」 「……あの人、おれのせいで、罰を受けたりする?」 「まさか。さっきも言っただろう、蝶は大切な、保護するべき存在だ。あの子が自ら家に戻った以上は、もう何も問題はない。叱責を受けたりすることはないよ。それに罰ならもう、きみが充分に受けた」 罰とは、痛くて、苦しかったあれのことを言うのだろうか。そのまま放っておけば内臓が腐る、と、未月がそんなことを言っていた気がする。捧のことを、何でもするから、だから守るからと、そんな風に言っておいて、実際に彼に見せたのは、ただ痛みに苛まれるだけの弱い姿だけだった。何も出来なかった、自分の力の無さが許せなかった。 「だからもう、何も心配することはない。また、これまでの生活に戻ればいいだけの話だ」 そんなことを言うヒカリを、思わず睨み付ける。この男は明らかに、コウの考えていることが全て分かっている。それなのに、そう言って笑われることが悔しかった。コウが睨み付けても、ヒカリはこちらのその視線を捕らえて、更に目を細めるだけだった。 「……戻る?」 「そう。穏やかで、何もおかしなことはない生活に。呪術師や呪いなんてただの迷信で、狩りの儀式というのも、全部ぼくの嘘だ」 そんな言葉を、別のどこかでも聞いたことがあるような気がした。 (「……おまえが見たのは、幻のようなものだ」) 思い出す。欲しいものがある、と、言った捧に、花羽未月が返した言葉だ。 (「望んだって、決して手には入らない。忘れろ」) 見たものや聞いたものは全て幻で、望んでも、決して手には入らない。それでも、捧は、それで充分だと言っていた。この世界には何もないけれど、コウの存在を知ることが出来たから、それだけでいいと、そう言って穏やかに笑っていた。 彼のことを思い出すと、胸が痛んだ。コウも、そんな風に笑うべきなのだろうか。 「きみのお祖母さんはどうしたんだい」 ひとりでそんなことを考えていると、またヒカリが、それまでとは全然関係のないことを聞いてきた。 「ほんとの息子に会いに、外国に行ってる」 コウがそう言うと、ほんとうの息子ね、と、何か含むような調子でヒカリが繰り返す。 「……おれのお祖母ちゃんのことも知ってるのか?」 思わずそう尋ねる。しかしヒカリは、はぐらかすように笑って、曖昧に首を傾げるだけだった。 「それなら、しばらくは戻らないのかな」 「たぶん、そうだと思うけど」 祖母からは二週間程度の滞在だと聞いている。着物の着付けをしている祖母に、息子夫婦から向こうでもその仕事をしてみないかと誘いがあったのだと言っていた。新しいものが好きで、明るくて人付き合いの好きな祖母には、悪くない話だと思う。ひとまずは一度行ってみて、それから正式に引き受けるかどうかを決めると、そんな風に下宿人に話していて、コウのことを気にしている様子だったのが申し訳なかった。 血のつながりのない孫を気に掛ける祖母のことを、息子夫婦は良く思っていない。日本に帰ってくる度、はっきりと態度にしては言われないものの、厄介者だと思われているのは感じ取れた。もう何年も前から、高校を卒業したらどうするつもりでいるのかと、顔を合わせる度に聞かれていた。大学に遣らせたいのだと言ってくれる祖母と、息子夫婦がその話で揉めていたこともある。心配しなくても、大学になんて、行かせてもらうつもりはない。 ヒカリは何かを勝手に納得したように頷いて、まるでからかうように、きみも苦労しているんだな、などと笑った。何を言われたのかよく分からずに、それには返事をしないでおく。苦労しているのは、自分という存在を抱えこんでしまった祖母たちの方だ。 「それならきみが留守を守らないとね。おかしなことは考えないように。きみに何かあったら、お祖母さんが悲しむよ」 「おかしなことって、なんだよ」 祖母の話をされたくなかった。確かに、コウに何かあれば、祖母は心を痛めてくれるだろう。優しい人だからだ。ヒカリの言うことは正しいと、それが嫌というほど分かっているから、改めて他人の口から指摘されたくなかった。 「例えば、不法侵入とか、誘拐とか」 それならば、もう既にしている。いまさら言われたって、手遅れだ。 これ以上ヒカリに何か言われたくなくて、布団をはね除けて立ち上がる。軽く手を振ると、そこに止まっていた蝶もふわりと舞い上がり、離れた。昨日、丸一日寝ていたということは、今日は平日だ。また、学校に行かなかった。ほとんど自己主張をしない、目立たない生徒であるコウのことを、担任は普段からあまり気に掛けていないらしく、こうして無断で休んでも、何か言われることはなかった。一応、受験する意志は表明していても、あまりその気が感じられないからだろうか、何についても注意されることはない。それは今の担任だけでなく、これまでに関わりのあった大抵の人がそうだった。それを、今まで何とも思ってこなかった。全部、自分とは関係のない世界での出来事だと、そう感じていた。当たり前のように、そういうものだと、受け入れられていたのに。 それなのに、この男や花羽未月が簡単に言うように、あの人を忘れて、無かったことにすることが、ひどく困難で、辛い作業のように思えてならなかった。 「どこかに行くのかい」 「……食べるものを、なにか、買いに行こうかと思って」 聞かれて、咄嗟にそう返す。ヒカリは別段、深い興味も無さそうに、ふうん、と、納得したのかしていないのかよく分からない笑みを見せるだけだった。適当に、思いつきをそのまま答えただけで、ほんとうに何か食べたい訳ではなかった。ずっと寝ていて、何も食べていないはずなのに、全く食欲が無かった。 「構わないけれど、それは少し、隠したほうがいいかもしれないな。見た目にも寒そうだし」 「……なに?」 ヒカリに近くに立たれて覗き込まれると、彼が捧と同じくらい背が高いことが分かる。それ、と、首元を指で差される。手で触れてみても、よく分からなかった。近くに鏡もないので、ヒカリが何を言いたいのかが分からない。 「自分のものだという徴かな。あの子も、あんな涼しい顔をして、意外とやるね」 「あ……」 言われて、思い当たる。別れ際に、捧にまるで噛み付くように唇を押し当てられた箇所だ。シャツのボタンを止めれば隠せるだろうかと思ったが、一番上のボタンがいつの間にか取れて、無くなっていた。そのせいで首筋と、鎖骨の辺りまで覗かせたままになっていた。ヒカリが寒そう、と言ったのは、そのためだろう。ネクタイを結べば隠せるのだろうが、コウは元々、あれが嫌いだった。窮屈だし、どうしても上手に結べないからだ。 「別に、きみが気にならないならいいのだろうけれどね。どうも、きみのことを、美味しそうな餌だとしか思わない者も居るようだから。無闇に挑発することはない」 ほら、と、首筋にふわりと柔らかい感触が伝わる。何をされたのか、しばらく分からなかった。空気に触れなくなった首の辺りを触ると、柔らかくて軽い、手触りの良い布地に触れた。淡い黄色の、薄手のマフラーだった。 「うん、似合うな。きみにあげるよ」 そこまで言われて、ようやく、理解する。ヒカリが、自分のマフラーをコウの首に巻いてくれたのだろう。香水でも付けているのか、かすかにいい匂いがした。コウにはよく分からないけれど、ヒカリの服装や、肌触りの良さから考えると、きっとそれなりに高価なものだろう。そんなものを軽々しく貰うわけにはいかない、と首を振ったが、ヒカリは笑うだけだった。 「いいよ、このくらい。また新しいものを調達するし。ぼくは道楽者だからな、着飾るくらいしか楽しみがないんだ」 どうしたらいいのか困ってしまい、結局、押し切られるようにそのまま受け取ってしまった。その様子を見て、ヒカリは妙に機嫌が良さそうだった。 「何の気休めにもならないかもしれないけれど、せめて、冷たい風くらいからは守ってくれるよ」 その言葉が言外に含む何かに、思わずヒカリを見上げる。忘れろ、と牽制するように言ってきたり、こんな風に、コウの考えを見透かした上で、それを後押しするようなことを言ってきたり。この男は、理解できないことばかりだ。 「なんのことだよ」 「別に。買い物に行くんだろう。気を付けて」 「あんたは?」 「きみが居ないのに、この家にお邪魔し続けるわけにもいかないだろう。ぼくも出るよ」 「普段は、どこにいるんだ、あんた」 「どこにでも」 ヒカリが、おいで、と声をかけると、まるでその言葉が聞こえたように、黒い蝶が彼の後に続いた。肩口の辺りをふわふわと、ヒカリに付き従うように羽を舞わせている。 「花羽の屋敷は、今回の一件で警戒を強めている。いくらあの子が戻ったとはいえ、あんな風に無関係の人間の侵入を容易く許すのでは、警備に問題があるという話になったようだ。あの壊れた裏口も、修復されて頑丈な新しい鍵が付けられたらしい」 蝶に見入っていたコウは、その言葉に現実に引き戻される。 この男は、また、何かを企んでいる。以前、コウを捧に会わせてくれた、あの時と同じ表情で笑うヒカリに、そう確信した。 「……気をつけて」 出来るものならばやってみればいい、と、そう言われている気もした。 家を出て、とりあえずヒカリとは反対の方向に歩きながら、しばらくして気が付く。下宿人のことをすっかり忘れていた。捧とは偶然顔を合わせたらしいが、もしかしたら、一日付き添っていたらしいヒカリとも会っただろうか。だとしたら、一体何をしているのだろうと怪しまれているかもしれない。友人ひとり連れてきたことのないコウが、育ちの良さそうな和装の男に続いて、得体の知れない雰囲気の派手な男まで部屋に連れ込んでいたのだ。最も、ヒカリのことだから、例えそうでも、上手く誤魔化しただろうけれど。 目的の方角を目指して、ただ黙々と歩く。夕暮れ間近の町は人通りも少なくて、吹く風が冷たかった。いつも、この道をこうしてひとりで歩いていた。それと全く変わらないことをしているはずなのに、何故だか、指先がとても寒く感じた。生まれてからずっと、そうだったはずなのに、ひとりでいることが、こんなに寒いものだとは知らなかった。 (……どうしよう) 出来るだけ人目を避けるようにして辿り着いた、高い塀を見上げる。 考えもせずに、それでもなにもせずにはいられなくて、こうしてまた、ここまで来てしまった。警備が厳しくなったとヒカリは言っていた。こうやって近くに来ただけでも、もう怪しまれてもおかしくない。ましてやコウは、宝を盗み出した泥棒なのだから。きっと、誰かに見つかったらすぐに、追い払われるか、捕まってしまうだろう。 (捕まれば、中に入れるかな) 中にさえ入ることが出来れば、少なくともこんな風に塀の外にいるよりは、彼に近い。そこまで考えて、ふと、この家の中に入ることしか考えていなかった自分に気が付いた。花羽家に入りたいのは、捧に会いたいからだ。 けれど、捧に会えても、その時、どうすればいいのだろうか。また、同じように手を引いて、ここから連れ出せばいいのか。……それではいけない気がした。捧にとって「狩り」は絶対なのだろう。淡々とした彼の言葉には、それに対する迷いはなかった。一族に課せられた大切な役目だと、儀式のことをそう受け入れている彼は、連れ出したって、きっとまたこの家に戻る。それにさすがに、二度目は許されないだろう。捧を迎えに来た、花羽未月のあの調子を思い出す限りでは、厳重になった警備とやらに、とてもそんなことを考える隙は無さそうだった。 どうしたらいいんだろう、と、考えて、身動きが取れなかった。考えに沈む余り、その気配に、気付くのが遅れた。 「牧丘?」 突然、背後から名前を呼ばれる。見つかった、と、飛び退いて走って逃げだそうとして、ふと、それが聞き覚えのある声であることに気付く。 「こんな所で何やってんだよ。まさか、あいつに用があるわけじゃないよな?」 「……清、川」 相変わらずの、馬鹿にするような物言いと眼差し。舗装されていない道に立つ、学校帰りなのだろう、だらしなく着崩した制服姿。清川縁示だった。 聞かれたことに対して何も答えずにいたことで、勝手に、それが肯定だと判断したのだろうか。清川は妙に、合点が行ったように何度か頷いた。 「図星か。おまえ今日、学校休んだだろ。今日だけじゃない、この間もだな」 「関係ないだろ」 「おまえにとっちゃそうかもしれないけどな。でも、未月はそう思わなかったみたいだぜ」 「……花羽未月?」 どうしてその名前が急に出てくるのか分からなかった。尋ね返すと、清川は妙に得意気に鼻で笑う。 「おれに聞いてきたんだよ、今日。牧丘コウが休んでいるのは、具合が悪いからか、ってな。あいつが他人のことをそんな風に心配するなんて、おまえ、一体、何やらかしたんだ?」 言われたことに、驚く。花羽未月が、コウのことを心配していた。確かに、捧を迎えに来た未月には、血を吐いて倒れる様を見られている。……それでも、そんな風にわざわざ、清川に聞くなんて。意外だった。 「まさか、おまえのせいか?」 「何が」 「急に本家が慌ただしくなった。こりゃ、よっぽどのことが起こったんだろうなって噂が流れてる。……おまえか?」 尋ねていながら、それでも、清川の中にはもう確信に近いものがあるのだろう。コウを見る目が、どこか気味の悪い光を帯びていた。黙ったままでいると、やがて清川は一度周囲を見回して、こっちに来いよ、と、門とは反対の方向へコウを招く。 距離を開けたまま、その後に続く。慣れた足取りと、本家、という言い方に、清川も無関係ではないのだと感じた。 「この家と、関係があるのか?」 「遠縁、ってやつだな。……ま、遠すぎて、門から出入りすることも許されちゃいないほどだ。来いよ、ここから、入れる」 コウには他の部分と見分けの付かない塀の一部を清川が押すと、かすかに壁がずれて、空間が開けた。ヒカリが教えてくれたのとはまた別の、裏口になるのだろうか。そこから半分身体を覗かせて、清川はコウに後に続くよう指示した。 その意図が掴めなくて、戸惑う。何故、コウを招き入れようとするのか。遠縁とはいうものの、花羽家に連なる一員であるのならば、彼らの総意に背いてはならないのではないのだろうか。 動かないままのコウに、清川はひとつ舌打ちをした。 「何やってんだよ、誰かに見つかるだろ、早く来いよ」 「無関係の奴を勝手に入れて、いいのか」 「駄目に決まってるだろ。だから、他の連中が来ないうちに、早く来いって言ってんだよ」 「大丈夫なのか、見張りとか」 「大丈夫だろ、多分。ここは下々の奴しか使わないから、本家の奴らは入口があることも忘れてるよ」 「だとしても、なんで」 「うるさいな、入りたいのか入りたくないのか、どっちなんだ? ……ああ、おれが信用できないって?」 その言葉に、素直に頷く。 「おれは未月が嫌いなんだよ。昔から、大嫌いだった」 清川は、まるでつまらない冗談を聞いたとでも言いたげに、口元を歪めて笑った。 「だから、あいつが困るのは構わない。おまえ、あいつが困るようなことをしに来たんだろ?」 「……たぶん」 「なら、何でも勝手にしろよ」 来い、と招く仕草をされて、今度はそれに従う。塀をくぐると、相変わらず、薄暗い庭が広がっている。空気の全てを静けさが満たしていて、不気味だった。 「で、どこに行くつもりだったんだ?」 「……『蝶』を、知っているか」 呟くようにそう聞く。出来るだけ、何の感情もそこから読み取られないよう、平坦に聞いたつもりだった。 清川はコウのその問いに、しばらく沈黙する。やがて、あっちだ、と、どこまでも似たような景色が続く庭の、一方向を指差した。 「実際にあいつらを見たのはほんの数回しかない。おまけに、今の、最後の『蝶』は完全な純血種だ。おれは血が遠すぎるせいだろう、あんなのには近寄るのも嫌だけどな」 そんなのに何の用事だ、と、ついでのように聞かれたけれど、それは無視した。 清川が指差した方角に目をやる。ひたすらに、そちらの方を目指せば、たどり着けるだろうか。それまでに、この屋敷の誰とも会わずにいられるだろうか。そもそも、捧はまだ、あの離れに身を置いているのだろうか。思わぬ助力を得て、塀の中には入り込めたけれども、ここからはどうするべきか分からない。それでも、捧に会いたかった。どうすることも出来なくても、例えそれで何も変わらないとしても、ただ一目、顔を見たかった。 そう心を決めて、まずはあの離れに行こう、と、そちらの方に足を踏み出そうとした。 「なるほどな。なんとなく、分かってきた」 「……、清川?」 「聞いた通りだな。……は、蝶の血しか、欲しがらない、か」 独り言のようにそう呟く清川の言葉に振り向くと、その瞬間、目が眩む。何が起こったのかよく分からないまま、気が付いたら地面に倒れ込んでいた。数秒遅れて、後頭部がひどく痛み始める。どこかに派手にぶつけたように、脈を撃つような大きな痛みが繰り返す。淡い黄色が地面に流れる。視界一杯にその黄色が広がって、これはなんだろうと思い、すぐに、ヒカリが巻いてくれたマフラーだと気付く。汚してしまったと、そんなことを考えている場合ではないのに、そんな事がやけに気に掛かった。 「馬鹿だな、おまえ。ほんと」 上からそんな声が降ってくる。よく聞いた冷たい声。望みの通りに支配して傷つけてやると、そう笑う声だ。 「騙したのかって顔だな? 言っとくけど、未月のことが嫌いなのは本当だぜ。だから、困らせたいんだよ」 こちらを覗き込む清川は、手のひらに少し余るほどの大きさの石を持っていた。それを見て、ようやく理解する。あれで、背後から思い切り殴られたのだろう。 「いい顔だな、牧丘」 襟元を乱暴に掴まれ、息が詰まる。その手を振り払おうとして首を振ると、今度は思い切り、拳で頬を撲たれた。力の加減のまるでない、強い殴打だった。また、庭の石に背中と頭をぶつける。 「なにが『おまえとはもうしない』だよ。おまえの意志なんて、関係ないだろ、なあ?」 振り払わなければならないと思い、抵抗する素振りを見せるたびに、清川は躊躇いなくコウを殴りつける。その痛みを、どうして忘れていたのだろうと、自分の愚かさを罵った。清川は、こういう人間だったのに。他の誰でもない、コウ自身が、そう扱われることを望んできたのに。 「……来いよ、おまえに会いたいって人のところに連れていってやる。残念ながら、『蝶』のところじゃないけどな」 顔のすぐ近く、息がかかるほどの距離で、そう囁かれる。目がよく見えなくて霞む視界の中で、清川の歪んだ笑みに、鳥肌が立った。同じものが、そこにあった。あの、当主。微笑んでいるのに、こちらを冷たく見つめてくる、狩猟者の目。 まるで物のように引き摺られて、暗い庭をどこかに連れていかれる。殴られた後頭部がひどく痛んだ。 何をどうされるのかは分からない。それなのに、何故か、恐ろしい予感だけがあった。 清川が足を止める。次に身体を放り出されたのは、土の上ではなく、木の床の上だった。どこか、小屋のような建物らしい。人が三人もいればもうそれだけで一杯の、小さな小屋だった。 「連れて来てやった、こいつだろう」 清川が、奥に立っているらしき誰かに、そう話している。相手は何事か返したのか、それとも無言のままなのか、コウには何も聞こえなかった。うつ伏せに倒れ込んだコウの、まるで顔を改めようとするかのように、清川が傍らに膝を付き、コウの髪の毛を掴んで、顔を上げさせる。 清川が話していた相手が誰なのか、見えた。 「あんたが、すごく欲しがってた奴だ、……そうだろ?」 腰まで伸びた、長い黒髪。あの時雨に濡れて頬に張り付いていた髪も、今日は綺麗に飾られている。流れるように艶やかな着物の袖を伸ばし、白い指が、コウの頬に触れる。冷たいその手に、ぞくりと全身が総毛立った。着物の柄である、桃色の淡い色にたくさん散りばめられている赤い花の色が、痛みに疼く眼窩の奥に、やけに鮮やかに映った。 (「おまえは、蝶ね?」) こちらを見る瞳が、血走って、油を塗ったようにぎらついている。清川の言葉には何も答えず、女はただ笑い声を上げた。あの雨の中、どこまでも追いかけてくるように感じた、狂女の笑い声。 花羽未月の、姉だった。
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