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第一章 「蝶」 |
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8. 蝶狩り クリーニング代は想像していたよりも、かなり高かった。 家を出た時から、捧は口数が極端に少なくなり、声を出す間も惜しむように、至る所を見回していた。時折、どうしても分からないことがあったのだろう時だけ、あれは何、と尋ねてくるだけだった。 休日の町は、それなりに人通りがあった。コウは近所付き合いというものを避けているが、祖母は違う。道中、何人か顔見知りに声を掛けられた。捧に目を向けられることもあったが、なるべく不自然にならないように挨拶だけして擦れ違った。 コウの家から歩いて十分もしない小さな商店街を、捧はひとつひとつ、まるで何もかもを覚え込もうとしているかのように、時間をかけてゆっくりと眺めていた。それを邪魔するのも悪い気がして、わざと歩調を遅くして、何を見ているのか、その先をたどって同じものを見た。コウが普段、目にも留めず、当たり前だと思って意識しない物たちを、捧がどんな風に見て、何を考えているのかと思うと楽しかった。 昼間でも照明の明るいコンビニの前を通りかかる。昔から続く、古い店が多いこの通りの中では珍しい、新しい店だ。 捧はガラス張りの店内の中を興味深そうに眺めていた。 「行ってみる?」 「ここは?」 「コンビニ。……は、分かる?」 「知っている。実際に見るのは、初めてだけれど。コウは、よく行くのか」 「うん、学校の帰りとか、たまに寄るかな」 「なら、見てみたい」 店内には客の姿はまばらで、何人か、雑誌を立ち読みするものがいる程度だった。捧は何を手に取るでもなく、棚に並ぶ品物を、ひとつひとつ、町の他の風景と同じように眺めていく。アルバイトだろう、若い男の店員は、別段こちらの様子を気にする様子もなかった。 「何か、欲しいものがあったら、買って帰ろう」 コウがそう言っても、捧は少し困ったように笑うだけだった。 入口近くに置かれていたケースの中のアイスクリームをじっと、他のものよりも長い時間見ていたので、ひとつ買って、帰りに神社に寄った。コウの家のすぐ近くの、参拝する人もほとんどいない、小さな神社だ。通りとは少し奥まったところにあるので、訪れるものも少ない。子どもの頃、ひとりになりたい時は、よくここに来てぼんやりとしていた。 古いベンチに並んで座って、アイスを分け合って食べた。捧は一口ごとに、冷たい、甘い、と笑って、嬉しそうな顔をした。家を出てからずっと、そんな風に笑うことがなかったのは、もしかしたら少し緊張していたのかもしれない。そう思って、穏やかに笑みを見せる捧に、コウも安堵する。ほんとうはどこかで食事を取ろうと思っていたけれど、クリーニング代が驚くほど高かったので、あとはアイスをひとつ買っただけで、財布の中はほとんど空になってしまった。 アイスを食べ終えてしまい、しばらく、静かな神社の境内を、ふたりで手を繋いで歩いた。 「……捧さん、もしかして、足、怪我してる?」 それまで、コウが先になって手を引いてばかりで気が付かなかった。こうして並んで歩くと、捧がわずかに、右足を引き摺って歩いているのが分かる。引き摺る、とはいっても、余程注意して見ていなければ気が付かないような、錯覚かと思うほど微かなものだ。 「ごめん、おれ、全然気が付かなくて。昨日なんか、ずっと走らせた」 「大丈夫。もう、ずいぶん昔の傷だ。いまは、自分でもほとんど忘れている」 だから気にすることはない、と捧は付け加えた。拒絶を感じたわけではないが、なんとなく、それ以上は立ち入って欲しくないのだろうなと、自然とそう思えた。ずいぶん昔だというその傷も、もしかしたら、あの雨の日のように、誰かに傷つけられたものなのだろうか。そう考えたけれど、聞かなかった。 起きた時間が遅かったから、少し町をうろついただけで、もう陽の傾く頃合いだった。少し気温が下がったのか、風が冷たく感じられて、ふいに走った寒気に肩を縮める。目覚めたときからの頭痛は、頭の中で光が点滅するように、弱くなったり、強くなったりして、消えずに続いている。気分の問題でしかないのかもしれないけれど、捧の傍にいて、指でも肩でも、どこか相手の一部に触れていると、雨の日に窓を閉めると弱くなる雨音のように、痛みも薄らぐ気がした。 帰り道、他に人の姿が見えないところでは、手を繋いで歩いた。夕焼けの赤く澄んだ色に照らされる町並みを、捧は何も言わずに眺めていた。 家を出ている間にこの場所を探り当てられているかもしれない。そう思って、ひとつ手前の角で一度足を止め、そっとその先を覗き込む。誰もいないし、特別変わったところもない。捧の手を強く握って、小さく玄関まで走る。そのまま、家の中に駆け込んでしまうつもりだった。 異変は、玄関の前にあった。 「ああ、丁度良かった。今、帰ろうかと思っていたところだ」 その姿を目にして立ち止まる。こちらに笑いかけてきたその声に、咄嗟にコウは捧を背中に隠そうとした。施錠された玄関前に立っていた男は、コウのそんな様子を見て、小さく声をたてて笑った。 「心配することはない、ぼくはきみを咎めに来たわけではないよ」 「……どうして、ここが」 「記憶を頼りに、かな。この辺りに来るのは久方振りだったけれど、あまり変わっていないな」 そう言って目を細めるのは、花羽家で出会った、おかしな男だった。ヒカリと名乗った、どこか、コウがこれまでに見てきたどの人間とも異なる空気を纏う男。言葉も笑みも親しげではあるし、取りつく島もなく放り出された花羽家に再びコウを招き入れてくれた恩があるとはいえ、依然としてその目的は知れない。どこか信頼しきれないものを感じた。 「なにをしに来たんだ」 警戒したまま、肩をこわばらせて捧を背に庇うコウに、ヒカリは手にしていた小さな紙袋を差し出して見せた。 「手土産だ。きみと、きみの後ろの彼に」 コウはそれを受け取らなかった。じっと動かず、睨むようにヒカリを見る。その頑なな姿勢に、ヒカリがまた小さく笑って、差し出した手を一度引く。それと同時に、コウの肩に触れるものがあった。すぐ傍に立つ、捧の手だった。 「コウ、大丈夫。この男は、蜘蛛だから」 そっと、囁くようにそう教えられる。 「蜘蛛?」 「だから、コウやおれに危害を加えることはない。そうする理由がないから」 言われていることは理解できなかったが、捧が伝えようとしていることは分かった。肩の力を緩めて、それでも完全に警戒を解くことはしないまま、鍵を取り出して、玄関の鍵を開ける。ここでこんなことをしていても、通りがかった人に何事かと思われるだけだ。 「……そういうことだ」 捧の言葉を得て、ヒカリがどこか得意気に肩をすくめた。 一体なにが「そういうこと」なのか、コウには分からない。取り敢えず、捧の手を引き、中に入る。少しだけ迷ってから、ヒカリにも入るように手招きした。 「おっと、その前に」 コウの許可を得たヒカリは玄関に足を踏み入れようとしたが、寸前で何かを思いだしたように、一度また外へと戻った。何をするつもりなのかと、コウも覗き込む。 ヒカリは玄関の外戸近くの、表札のすぐ近くに、懐から取り出した何かを貼り付けようとしているところだった。 「なにをしているんだ」 コウがそう尋ねると、ヒカリは貼り付けたものが剥がれないように確認するように数度指先で撫でつけてから、こちらに目をやる。貼ったものとは別だが、同じ形をしているものを、足下から拾い上げて、それをひらひらとコウに見せた。 「きみが、こんな風にならないために」 見せられるまで気が付かなかったが、それは玄関に落ちていたものらしい。はじめは、それが何なのか、分からなかった。ひらひらと、薄い紙であることだけは分かったが、地面に落ちていたせいだろうか、ずいぶんと汚れている。白い紙がかたどるものは、もしかしたら、人の形だろうか。 何かを、思い出す気がした。 「気休め程度かもしれないが、まあ、おまじないのようなものだな」 「……これは?」 手渡されたので、つい素直に受け取ってしまう。指先がそれに触れた途端、ぞくりと肌が総毛立つ。思わず取り落としそうになって、手のひらで受け止め直す。この感覚には覚えがある。花羽家の庭で見た。あの、紙で作られた偽物の蝶々たち。花羽未月の姉と、そして、同じ目をしたその母親。 「昨日の夜から数えて、これで五枚目になる。……コウ、顔色があまり良くないね」 ヒカリの言葉には答えず、手のひらの上の紙人形を見る。薄汚れているのは、地に落ちて砂埃が付いたせいではなさそうだった。よく見ると、丸い、頭の部分の付け根に裂け目が入っている。その裂け目から、まるでこぼしたインクが滲むように、赤い色が染みている。朝から続いているあの痛みが、頭蓋の中でこれまでにない強さで一度疼く。まるで釘か何かを突き刺されたのかと思うほどだった。小さく息を呑むと、それに気付いたように、捧がコウの手の中からその人形を取り上げた。 「おかしいとは思っていた。おまえがいたからか」 「というのは?」 「父さんはともかく、喜美香様が何もしてこないはずがない。……おまえがコウを守っていたんだな」 ヒカリは捧の言葉には答えず、はぐらかすように笑うだけだった。 守るとはどういうことか、と聞きかけて、やめる。人形の頭の部分が裂けて、赤い色に汚れているのが不気味だった。 「寄越しなさい、後始末はぼくの仕事だ」 言われた通り、紙の人形をヒカリに手渡しながら、捧が呟く。 「……ありがとう」 それを受けた短い沈黙を挟んだヒカリの声は、どこか驚きを含んでいた。 「きみから他人に、感謝の言葉が出るとは。……蝶というのは、ほんとうに一途だな。嫌になるくらい」 どうしてそんな風に言うのか、コウには分からなかった。捧が感謝を述べたことが、この男にとってはそんなに意外なことなのだろうか。少なくとも、コウの知る捧は、自然とそれらを口にした。ふと、彼の言葉を思い出す。何も感じない抜け殻、と、自分のことをそう言っていた。知り合ってから、ほんのわずかな時間しか経っていないコウに比べて、ヒカリは捧のことを生まれたときから知っているらしい。だから、コウの方が間違っているのかもしれない。けれども、捧に、自分のことをそんな風に言ってほしくなかった。他の誰にとってそうでも、少なくとも、コウにとっては、違うのだから。 寂しい気持ちと、人形のせいで疼き出した痛みに、縋るものが欲しくて捧のシャツの端を掴む。それに気付いてコウを見た捧に、手のひらで頭を撫でられた。 「疲れただろう。中で、休んだほうがいい」 「……、うん」 気遣うようにそう言われ、素直にそう頷く。言われた通り、ひどく疲れた気がした。外に出ていた間よりも、家に帰って、紙人形を見てから、気を抜いたら座り込んでしまいそうな、急激な疲労感に襲われたように思う。肩を支えてくれる捧の手に助けられて、玄関をくぐると、そのおまじないとやらを終えたらしいヒカリも2人の後に続いた。当然のような顔をして、戸を閉めて、勝手に鍵まで掛ける。同居人のことを少しだけ考えたが、何も言わなかった。口を開くのも怠かった。 「お家の人は、留守かい」 ヒカリが、取って付けたようにそんなことを聞いている。コウが答えられずにいると、代わりに捧が頷いたのが見えた。 居間に足を踏み入れた途端、目眩がして倒れそうになる。視界がぐらぐらと揺れて、吐き気がした。頭が痛くて、目を開けていられなかった。 「ああ、酷いな」 後ろから付いてきたらしいヒカリの声は、どこか呆れたようなもの言いだった。 「外に出るからだ。この家にいれば、それほど強く受けることもなかっただろう。……ほら、見せてみなさい」 そう言って、コウを見ようとする。しかしそれより先に、捧がコウを引き寄せた。 「おれが貰おう。……コウ、おいで」 呼ばれるままに捧に手を引かれ、畳の上にぺたりと座る。包み込むように両腕で抱かれると、毛布にくるまれたように温かくて、とても安心した。目を閉じて息を吐くと、自然と身体の力が抜けた。 額と額を合わせられて、鈍く疼いていた頭痛が、少し薄れる。捧に触れているすべての箇所が、じんと痺れて、何かを受け取ったような、流れ出したような、そんな不思議な感覚が伝わった。 「……もう、大丈夫だから」 ありがとうと呟いて、そっと捧の胸を押し、そこから離れる。捧はコウのその言葉を疑うように、まだ離れがたいような顔を見せたが、コウがもう一度、大丈夫だと繰り返すと、何も言わずにひとつ頷いた。実際にはまだ、気分は悪いし頭痛も残っている。それでも、そうし続けることで、捧に何か悪いものを与えてしまいそうで嫌だった。 ヒカリは勝手に台所を使い、持参してきたらしいものを皿に載せて持ってきた。玄関の前に立っていた時に差し出された、あの紙袋の中身だろう。彼が出してきたのは、綺麗に皮を剥かれて、均等に切り分けられた桃だった。 「桃?」 思わず、それを見て声を上げてしまう。それがほんとうの意味での「手土産」であったらしい。あれだけ警戒していた自分の様子が馬鹿げたものに思えた。 「そう、この子の所に持っていくように頼まれてね」 この子、と、ヒカリは捧のことをそう呼ぶ。しかし、そう言われた捧はヒカリの方も桃の方も見ることもなく、コウのすぐ近くで、静かに座しているだけだった。 「捧、きみのお父上からだ。コウにも、この子をよろしくと言付けを預かっている」 「……どういう、ことだ?」 理解できなくてそう聞く。ヒカリは笑うだけで、何も答えなかった。捧も、何か考えるように黙り込んでいる。 「ほら、お食べ」 ヒカリは捧の方に皿を向ける。向けられた捧は、小さく首を振って、それをコウに差し出した。 捧が何も言わないのだから、危険なものではないのだろう。食欲は無かったが、喉は渇いていた。勧められるままに一口囓ると、水気が多くて甘い果実が、染みるように美味しかった。そのまま、二つめに手を伸ばす。捧はそんなコウの様子を、目を細めて見ていた。 「家のことを知りたいだろう。少なくとも、大騒ぎにはなっていない。公にはしていないからね」 親切心からか、ヒカリがそんなことを話し出す。捧は興味があるのかないのか、何も伺わせない静けさを保っていたが、コウは飲み込みかけた桃を喉に詰まらせかけた。突然、そんなことを言うからだ。 「もともときみは、人目に触れない存在だから、隠すことはそう難しいことじゃない。良かったな」 咳き込んでいると、捧がそっと背中を撫でてくれる。どうにか、まともに息が出来るようになって、それでも、何を言ったらいいのか分からなかった。良かったな、と言うが、一体何が良かったのだろうか。よく分からない男だ。 「……コウ、すまない」 ふいに、捧が口を開いた。 「これを、着替えてきてもいいだろうか」 どこか申し訳なさそうに、そんなことを言う。目立たないように、と、コウの都合で、慣れない洋服を着せていたことを思い出し、慌てて頷く。部屋まで一緒に行こうかと思ったが、ひとりでも平気だと言うので、任せる。 捧のいないところで、ヒカリに、聞きたいことがあった。 「……あんた、花羽の家から来たんだろ」 コウが低くそう言うと、ヒカリは何ということもなさそうに、そうだよ、と軽く頷いた。桃をたくさん皿に並べて、しかし自分では少しも手を付けようとしない。 「あの人を、連れ戻しに来たのか」 「それは違う。ぼくは純粋に、これを持ってきただけだよ。まあ、きみたちが仲良くしている様子を見に来たのもあるけどね」 「……みんな、この家を知ってるのか」 「さあ、どうだろう。当主様の考えていることは伺い知れない。未月はいつもと同じように、ぼくの顔を見ただけで嫌な顔をしたから近寄っていない。あの子のお父上は、居場所を知っているようならば宜しく、と、この桃を渡してきた。どうもあの子の好物らしい」 安心するべきなのか、余計不安を募らせるべきなのか、どうしたらいいのか分からない情報だった。取り敢えず、捧がそう言っていたように、どうやらヒカリ自身に敵意がないことだけは分かった。 桃をもう一切れ囓る。捧の好物だと言っていた。寄り道をした神社で、アイスを食べていた時の彼の様子を思い出す。もしかしたら、甘いものが好きなのだろうか。 「何が起こっているのか、全然分からない」 「まあ、そうだろうな。大丈夫、あの家の人間達も、まだ事態を把握しきってはいない」 「あんた、もしかして、最初からそのつもりだったのか」 「何のことかな」 「最初から、おれがあの人を連れ出すと思っていたのか」 「まあ、半分ぐらいはそう思っていたけれどね。別に、構わないじゃないか。きみもあの子も楽しそうだし。あの子の洋服姿というのは、初めて見た。妙に新鮮だな」 「……楽しい、のかな」 ぽつりとそう呟く。捧は笑っていても、どこか寂しそうに見える。それはおそらく、何か、心に抱えるものがあるからだ。 「捧さんは、帰らなきゃいけない、って思ってるみたいだ。あんな、……檻みたいなところに」 「檻、ね」 上手いことをいう、と、コウのその言葉にヒカリは笑った。 「なにがあるんだろう」 口に出したつもりではなかったのに、思わず、そんな風に呟いてしまっていた。ヒカリはそんなコウを、興味深そうな目で見てきた。言いたいことがあるのなら、言ってみればいいと促されている気がした。 「何かがあるのは分かる。おれには、それが何かまでは、分からないけど。……でも、何かがあって、それがあの人を縛ってる。あの人だけじゃない、花羽の家も。そうなんだろ」 この男はきっと、その事情に通じている。檻の中にいる人間、ではない気がしたが、少なくとも、あの得体の知れない、透明な何かの内側にいる存在であることは確かだ。 ヒカリはしばらくの間、桃を食べるコウを見て、何かを考えていたようだった。ややあって、ふと、こんな風に切り出してくる。 「呪いというものは、あると思うかい」 「……のろい?」 「そう。人間は長い年月を掛けて、知識で世界を語ろうと試みてきた。科学や物理学といった、たくさんの数式を使ってね。その式で説明の付かないような物事。だけど、確かに在るもの」 話された内容よりも、この男は何を言い出すのかと面食らう気持ちの方が強かった。少し楽になったとはいえ、まだ気分は悪い。何を言いたいのか考える気力もなかったし、そもそも、考えても分かりそうな話ではなさそうだった。 「幽霊とか、超能力とか?」 「そうそう。コウは、そういったものは信じている方かな。それとも、そんな領域のことを意識したこともない?」 「……そうだと思う、けど」 いきなりそんな話をされても、戸惑うばかりだ。信じているかどうかすら、考えたこともなかった。 「きみが知りたいすべてのことは、そこから先の話だ」 「そこって、どこだよ」 「だから、人間がこれまでに見つけてきたすべての式を使っても、解き明かせていない世界の一部だよ。式と式の間にある隙間の領域と言った方が正確かな」 もともと、コウに理解させたくて話している様子ではなさそうだった。流れるようにそう語るヒカリは、どこか楽しげですらあった。 「認められなくても、世界は世界だ。誰に見えなくても、存在していると見なされなくても、あるものはある。ただ単にそれだけの話だな」 「幽霊がいるって?」 「きみが幽霊というものをどういうものだと思っているかは分からないけど、そうだな、まあ、いるよ」 随分あっさりと、そんな怪しいことを言われる。 「幽霊というより、数式を必要としないくらい、高次の存在、とでも言ったほうが相応しいのだろうね。きみの分かりやすいように言えば、神様だ。何でも知っているし、何でも出来る。そういう次元の力の干渉の話だな」 「ちっとも分かりやすくない」 「あの子に聞くといい。きっと分かりやすく、一から十まで教えてくれるよ。きみが相手ならね」 そう言ってヒカリが意味深に笑うのとほぼ同時に、着替えを終えた捧が、静かに居間に戻ってきた。着慣れた和服はやはり落ち着くのか、どこか安堵しているようにも見える。 コウのすぐ近くに座るヒカリの姿を目にして、捧はかすかに眉を寄せた。 「まだ居たのか」 「この子に質問責めにされて、帰るに帰れなくてね。そんな顔をしなくても、邪魔者はもう退散するよ。なにか、家に伝えることは?」 「何もない。……父さんに、ありがとうとだけ」 「その感謝も、この子が桃を美味しそうに食べていたから、なんだろう、どうせ」 全く、と、呆れたように首を振って、ヒカリは立ち上がった。 「また明日、様子を見に来るよ。今日のところは、あれで何とか保つだろう」 何のことを言っているのかと考えかけて、すぐに思い出す。あの、紙の人形のことだろう。不安が顔に表れていたのか、ヒカリはコウの方を見て、安心させるように笑った。 「心配しなくてもいい、ぼくは蜘蛛だからな。誰の味方でもないし、誰の敵でもない。だから嘘は言わない」 それじゃあね、と、ひらりと手を振って、来た時と同じように、まるで家人のように気安く廊下を歩いて玄関へ向かう。その後をなんとなく追いながら、コウは尋ねてみた。 「どうして『蜘蛛』なんだ?」 捧もそう言っていたし、ヒカリ自身も名乗るようにそう口にした。それは、どういう意味なのだろう。蜘蛛であるから誰の敵でも味方でもなく、だから嘘を言わない。ヒカリの言ったことはわけの分からないことばかりだったが、ふと、それだけは純粋に聞いてみたくなった。 「それはね、コウ」 勝手に掛けた鍵を開けて、玄関の戸を開けたところで、ヒカリは振り向いた。浮かべる笑みが、それまでの飄々としたものではなく、少し陰る。彼の持つ独特の空気が、まるでふいに暗がりに迷い込んだように、色を変える。声は変わらず、こちらをからかうようなものだったが、妖しい何かを感じて、背筋が寒くなった。 「蝶を、食べてしまうからだよ」 それでも、言われたことは、やはりコウには理解出来なかった。 夕飯は適当に、あるもので済ませた。下宿人からは連絡もないが、帰ってくる様子もない。電話をしてみようかとも思ったが、まだ少し怠さが残っているのと、いざ言葉にして誰かに説明する時に、どう言っていいのか分からなくなりそうだった。コウ自身、いま何が起こっているのか、よく分かっていないのだから。忙しいだろう時に、そんな困った電話をしてしまうのも、悪い気がした。家族でもない、友人でもない、ただの大家の孫と下宿人という関係でしかないのだから。 「コウ」 昨日の夜と同じように、捧の手を引いて、部屋に籠もる。戸を閉めるとすぐに、耳元でそう名前を囁かれ、後ろから抱き締められる。腕の力の強さに、どこか、不安のようなものを感じた。そんな風には見えなかったが、ヒカリがこの家に訪れてきたことが、捧にとっても何かを感じさせるものだったのだろうか。甘えるように首筋に顔を埋められて、髪の毛が肌に触れる感触がくすぐったかった。絡む腕に、そのまま目を閉じて流されてしまいたいと思いかけた瞬間、一度、鈍い痛みが蘇った。ヒカリは、あれで今日一日は大丈夫だろうと、そう言っていた。 一体なにが大丈夫なのか、その説明は聞いていない。けれど、聞かなくても、答えは、もう見えかけている。 「捧さん」 そっと、呟くように名前を呼んだ。捕まえられた腕の中で、少し身体をずらして、捧の顔を見上げる。 「……呪いって?」 コウがそう尋ねたことが、捧には意外だったのだろう。コウの肌を探る手を止めて、じっと、覗き込むように見下ろされた。 「ヒカリが言ってた。聞きたいなら、捧さんに聞けって」 「コウは、知らないほうがいい」 「嫌だ」 それまでと変わらない、穏やかな言い方だったが、捧ははっきりと拒絶した。これまでも、何度も、踏み込みたいと思いながらも躊躇っていた。それは捧にとって触れられたくないことなのだろうと、そう思っていた。 けれども、そうやって、知らないままでいることは、つまり、何も出来ないままでいることでしかない。 「嫌だ、そんなの。おれには関係のないことかもしれないけど、でも、捧さんにとっては、すごく大事なことなんだろ。だったら」 それを知らなくてもいいのだと突き放されるのは嫌だった。何かに縛られている人を、そこから自由にしたい。けれども、何があるのかすら分からないのでは、何も出来ない。 このまま、失わなければならない。考えただけで、叫び出しそうな恐れが胸を占めた。捧の腕を強く掴むと、安心させるように胸に抱かれた。宥めるように背中を撫でられながら、ひとつ息をついてから、捧が耳元で囁くのを聞いた。 「狩るさだめと、狩られるさだめ。……それを、呪いと呼ぶのかもしれないな」 「狩り?」 捧は何度か、その言葉を口にしている。コウが繰り返すと、捧は諦めたような、どこか弱い笑みで続けた。 「そう。多くのものを守るために、執り行わなければならない儀式のことを、そう呼ぶ。……正確な手法は、本家のみに伝えられている。狩り手は、当主のみに許される特別な役目だ」 本家。何度も、耳にした言葉だ。 本家の連中。あの女。息子の晴れの儀式。遅すぎる。分家のものが不安を。そんなことを、庭で話していた男たちがいた。次で最後。 もう、あれで終わり。 次の当主である花羽未月は、弓を習っている。それは何のために? ……狩りを行うために。花羽の狩りは、弓矢で狩る。……それならば、その弓矢で、何を狩る? 「獲物は蝶。正式な手法に則り当主が供物を仕留めることで、儀式は成る。捧げられた蝶は、誓約通りにその羽で庭を満たし、狩りの一族の繁栄と存続を守る。それが、狩りだ」 淡々とそう語り、言葉を切ると同時に、捧はコウの耳朶に口づける。子どものように邪気のない笑みを浮かべて、両手でコウの頬を包み、今度は唇に軽く触れられた。 何でもないことのように、口づけてくる捧が不思議だった。語られていることは、そんな、呑気な話ではないはずなのに。 「捧さんの言ってること、全然分からない」 「分からない?」 「なんだよ、それ。狩るとか狩られるとか、動物の話するみたいに。そんなの、おかしいだろ」 「すまない。おれの言葉が足りないんだな」 「そういうことじゃない!」 思わず声を荒らげてしまい、コウは奥歯を噛んだ。 「狩るっていうのは、つまり、」 それが、弓矢や刃でもって、「仕留める」ものだというのならば。 「つまり、殺す、ってことだろ」 「そうだな」 否定の言葉を期待した。儀式というのは名前ばかりで、実際にはその真似事に過ぎないのだと、そう答えてくれることを願った。 それでも、捧はこれまでと同じように、コウの言葉に頷くだけだった。微笑みすら伴う、静かな肯定だった。 「そうだな、って」 「それは、おれの一族にずっと伝えられてきた、大切な役目だ」 静かに言い切る言葉には、有無を言わせない力があった。心からそう感じているものにしか持つことのできない、真実の重い響きが、コウに口を挟む隙を与えてくれない。そんなのは嘘だと、おかしなことを言うなと笑ってしまいたいのに。 口には出せなかった。それでも、コウの顔には、そう伝えたい気持ちがありありと表れてしまっていたのだろう。捧はまるで慰めようとするように、コウの額に唇を落とす。 「もうずっと、生まれる前から、決まっている。おれはそのために生まれて、そのために育てられた。もともと、そういう存在なんだ。だから、コウが悲しむことはない」 何度も聞いた言葉だった。ずっと昔に決まっていることだから、そういうものなのだから。どうしてそんなことを受け入れられるのかが分からない。 「コウは優しいな」 捧のことが分からなくて、そのことが苦しかった。それは間違っていると否定したいのに、戸惑うばかりで、腕に抱かれて撫でられていることしか出来なかった。 「……、そんな、の」 重たい口を開いて、やっと、声を出す。かすれた音でそれだけを口にして、また、固まる。自分が何を言おうとしているのか、何を言いたいのか、どう言えばいいのか、なにも分からなかった。 捧の指を自分の指に絡める。命も、魂も、血も、コウのものではない、別の誰かのものだと、捧はそう言っていた。 「これは、誰の、ものなんだ」 「……これはおれの一部。そのすべてが、狩りの一族のために捧げられる供物」 「捧げて、どうなるんだ」 「コウはもう、何度もその姿を目にしている。役目を果たした後の、おれの眷属たちを」 「……、まさか」 「そう」 捧の声が静かで、微笑みが優しいのが、奇妙ですらあった。そんな風に語っていいことではないはずなのに、それは当然のことなのだと、聞かされるこちらが錯覚しそうなほど、淡々としている。 耳を塞いで、語られる言葉を遮断してしまいたかった。けれど、まるで麻痺したように、身体が動かなくて、声も出せなかった。ほんとうに聞きたいのならば、とヒカリが何度もそう繰り返していたのを思い出す。 「供物の魂は、狩りの儀によって肉体という蛹から抉り出される。限りなく光に近い羽をもつ、蝶として」 ずっと、存在だけを感じていて、その姿が見えずにいた。これが、その正体。 「それが、蝶狩りだ」
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