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第三章 「糸」
8. 夜叉乞い夜継

 用意するように言われたものの半分は花羽家にあった。
「祟堂の家がふたつに分かれた時に、それぞれ代々受け継がれていた物も等しく分けた。面倒だけれど、残りは雨夜まで行って借り受けてこないといけないね」
 家宝だから大事にしろと言われて、未月から古びた鏡を受取った。鏡といわれても、覗きこんでも自分の顔が映ることはない。うっかり落としたりしないように慎重に両手で抱えて運んだ。もうひとつは、これも未月が貸してくれた。大きな一枚の布に描かれた、わけの分からない落書きのようなものだった。見覚えがある気がしてそれを思い出そうとしていて、ヒカリが言ったことに、どこで見たのか分かった。雨夜の、あの当主がいた部屋の祭壇の奥の壁に掛けられていたものと同じだ。
「これ、何なんだ」
 家宝らしいそのふたつを抱えて、ヒカリに尋ねる。古いものの価値は見た目からでは分からない。
「鏡は呪具だ。昔、祟堂様が占いをするのに用いていたと伝えられている。ほんとうならば、『狩り』に使われる弓を借りるのが一番だとは思うけれど、さすがに時期が時期だからね」
 言おうとしていることは、わざわざ聞き返さなくても分かった。神具だと花羽の当主が言っていたあの弓は、「蝶狩り」に使われて、その儀式まではもう時間がない。いくら未月が協力をしてくれるとはいえ、それを持ち出すことは許さないだろう。呪術師に縁のあるものならば代わりになるだろうと貸してくれたのがこの鏡だ。
 もうひとつの絵については、「蜘蛛」は答えてくれなかった。
「……コウくんは行かないほうがいいだろうね。かと言って、未月くんが行くのも、お家のことを考えるとあまり良くはないだろうし」
 八木が、雨夜と聞いて複雑そうな顔をする。コウはそれに首を振った。
「おれが行く」
「駄目だよ、あの家に近付いたら」
「じゃあ、八木さんも一緒に行こうよ。それなら安心だろ」
「……おれも?」
「嫌ならいいけど」
 コウがそう返すと、八木はまだ何か言いたげではあったけれど、仕方ないな、とそれを認めてくれた。また後で、と手を振るヒカリに見送られて、八木とふたりで花羽の屋敷を出た。預かったものを一度コウの家に置いて、そこからまた八木に車を出してもらうことにする。
 家を出る前に、部屋のあの箪笥の、一番下の引出しを開けた。ごちゃごちゃと、色々なものが入れられている中から、白い紙に包まれたあの笹飾りを取り出す。
 拙い字で書かれた、願い事の短冊を、慎重に笹から外した。目に焼き付けるようにじっとその文字を見て、胸に抱く。
「……おとうさん」
 呟くと、言葉の端が揺れた。
 地下牢から出た時には、もう既に夜は明けていた。コウは平気だったが、運転席の八木をうかがうと、さすがに少し疲れた顔をしている。申し訳なく思いながらも、気になっていたことを尋ねてみた。
「八木さんって、おれのおとうさんがいたころから、家に住んでたんだろ」
「そうだよ。でも、キョウさんが亡くなってしばらくして、おれの親父も事故で死んでしまってね。だから、おれは別の親戚の家に引き取られることになった。大学に進む時にそこを出て、また牧丘の家にお世話になることにしたんだ」
 亡くなった、というその言葉に、喉を冷たいものが走った。息を呑むと、八木が、こんな話をするべきではなかった、とでも言いたそうな顔をしたのが伝わる。それに首を振って、話を続けてくれるように頼んだ。元々、そのことを聞こうと思ったのだ。
「おれのおとうさんを殺したのは、あの男なのか」
 雨夜甚。花羽と対になる、黒い蝶を狩る雨夜家の当主。あの男を見ていると、何をされると決まったわけでもないのに、身体が固まる。自分が存在して、呼吸をしていることさえ許されていないような強い罪悪感を覚えて、息をすることも止めなければならないような気分になる。それはコウの中に流れている「蝶」の血のせいなのか、それとももっと、別の理由があるのだろうか。
 コウの問いかけに、八木はしばらく、何も答えずにハンドルを握る。まだ朝の早い時間なので、道は空いている。このまま走れば、もうすぐ雨夜の家に着くだろう。
「違うよ」
「え……」
 自分で聞いたことなのに、それなのに、返ってきた答えが予想とは違うものだったので、驚く。そうやって驚いていた自分に、そうに違いないと決めつけていたことに気付いた。
「キョウさんを殺したのは、あの男じゃない。死体を引き取りには来たけれどね。そこから離れようとしない小さなきみを邪魔そうに振り払って、引き摺るようにして雨夜の家に帰って行った。おれがあの男を見たのは、その時だけだよ」
 それでも、その印象が随分強いものだったのだろう。まるで今でも目蓋の裏に焼き付いて離れなくて、それが苦しいように八木は表情を歪めた。言われたコウは、そのことを少しも思い出せなかった。
「じゃあ、誰が」
「……、それは、」
「八木さん」
 迷うようなその顔に、その記憶はこの人を苦しめるものなのだと伝わる。それをコウに分け与えることを躊躇うような素振りで、言いにくそうに言葉を詰まらせる八木に、問いつめるように少し身体を寄せる。
 下宿人はしばらくして、前を見たまま呟くように口を開いた。運転中であるから、というよりは寧ろ、コウから意識的に眼をそらそうとしているように感じた。
「きみの、お母さんだ」
 その意味を頭に理解させるのに、少し時間がかかった。
 母親。
「おかあ、さん」
 雨夜の当主の妹で、彼の「蝶」だったキョウの手を取り、家を出た人。コウを産んで、自分のしたことの大きさに耐えきれずに、そのままキョウもコウも捨てて、また家に戻ったのだと、そう聞いていた。
 その人が父を殺した。
「本音を言えば、聞かせたい話じゃない。でも、きみが聞きたいって言うのなら話すよ」
「聞くよ。……教えて」
 制服の胸のあたりに、そっと手のひらを置く。ポケットに、あの短冊を入れてきた。これがあれば、大丈夫だとそう自分に言い聞かせる。何があったとしても、見たものを、もう忘れないでいられる。
「おれが牧丘の家に来た頃には、きみのお母さんの繭花さんはもうそこにはいなかった。その時おれは、両親が離婚したばかりで母親が恋しくて、だから、同じようにお母さんのいないきみを可哀想に思っていた。……だから、」
 八木はそこで一度言葉を切り、どこかが痛むように、辛そうな顔をした。
「自分のしたことを悔やんで、すべてを始末しようとして牧丘の家に訪れたその人を、中に入れてしまった」
 お母さんが迎えに来るのを、ほんとうはずっと待っていたから。だから、自分の母ではなくても、子どもに会いに来たのだという雨夜繭花を、喜んで中へと招き入れてしまった。留守の間、子どもとキョウしか家にはいない時間のことで、父親にも澄子にも、誰も家に入れてはいけないと、そんな風にきつく言われていたのに。
 なのに、入れてしまった。その人がにこにこと笑う顔をして、後ろ手に刃物を持っていることにも気付かずに。
「……キョウさんは、あの人から、きみを守ったんだ。『蝶』を手に掛けるつもりは、ほんとうは無かったらしい。だから、小さなきみを庇うキョウさんを殺してしまったことに、きみのお母さんは半狂乱になってそのまま、また出て行ってしまった。おれは何が起こってるのかよく分からなくて、だけど、きみが火が付いたように泣いてて」
「八木さん」
 もういいよ、と言って、それを止めようとした。それでも、八木に首を振られる。
「どうすればいいのか分からなくて、でも、最後に、キョウさんがおれにきみを預けて、この子をよろしくお願いしますって、そう言って笑ったんだ。貴人さんはコウのおにいさんだから、守ってあげてくださいって」
 そのあとのことは、さっき聞いた。雨夜甚がキョウの死体を引き取って、そうしてまた、家に帰って行ったのだろう。そこに、黒い蝶は舞っていたのだろうか。
「……牧丘の家に、十年ぶりくらいに顔を出して、きみを見た時の気持ちは言葉ではうまく言えないほどだった。あんなに小さかったのに、びっくりするくらい背も伸びていて、危ないから駄目だって決して触らせてもらえなかったガスコンロやら、包丁やらを使えるようになっていた。誰にでもよく笑う、人懐っこい子だったのに、まるで表情が抜け落ちたみたいに、静かで大人しい子になっていた」
 それは父とあんな別れ方をしたせいだろうと、八木はそう思って、無愛想で仲良くしようともしないコウのことを可哀想に思ったのだという。いくら話し掛けられても素っ気なくしか応じなかった自分のことを、そんな風に思っていたのかと知らされると、なんだか不思議だった。
「けど、中身は変わってなかったよ。ちょっと自分の気持ちを表現するのが苦手なだけで、素直で優しくて、とてもいい子に育っていた」
「……おれ、ぜんぜん、いい子じゃないよ」
 悪いことばかりしている。自分を大事にしなくて、どう扱ってもいいと思っていた。それを祖母や、そしてキョウが知ったら、どんな思いをさせるだろう。
 いい子だよ、と八木はもう一度繰り返して笑った。

 門は、また内側から開けられた。この間と同じ着物を着てはいるが、それが同じ男たちなのかは分からない二人組は、コウの顔を見て頭を下げる。当主様がお待ちですとそう言われて、屋敷へ向かうようにと伝えられる。
 八木のことはどうするべきか判断に迷っているようではあったが、この人は自分の連れだからいいんだ、と、この間のマリカのことを思い出して、似たようなことを試しに言ってみた。納得したように、二人組は頭を下げて八木を通す。
「……凄いな」
 屋敷へ続く石畳から、庭を眺めて八木がそう呟く。彼が見ているのは、たくさんの黒い蝶が舞い飛ぶ姿だった。八木がなにを考えているのかは分かる気がした。キョウのことを思っているのだろう。
 当主が以前、言っていたことを思い出す。捧を見て、自分の「蝶」も、彼によく似ていたとそう話していた。今はもう、黒い羽を得ているが、と。当主の「蝶」のみが屋敷に入ることを許されていると、マリカはそう言っていた。
 流れのない空気に、まるで温い風を与えるように緩やかに羽ばたく蝶の群れを眺めて、そんなことを考えていた。コウの目には、この黒い蝶々たちは、すべて同じものにしか見えない。
 この中に大切な誰かが居るのならば、それに気付くことは出来るのだろうか。
 八木を見上げる。彼はコウの視線に気付いて、どこか複雑そうな表情で首を振った。
「行こう」
 屋敷に入るとすぐに、当主の待つ座敷に案内される。八木が不安そうにコウの表情を窺っているのに気付いて、それに、大丈夫だと頷いてみせる。お守りを持って来ているのだと言って胸元に手を当てると、不思議そうな顔をされた。
 コウが先になって、座敷に足を踏み入れる。八木がどうするかは、彼に任せるつもりでいたが、躊躇った様子もなく、すぐに後に続く気配がした。キョウの死体を引き取りにきたのが雨夜甚だったと聞いた。それならば、彼らが顔を合わせるのは初めてではないはずだ。同じ「狩り」の家の人間である未月には、コウがよく知る優しさで接しているように見えた。それならば、その未月と対になる雨夜の当主に対しては、どうなのだろうか。
 けれど、そんなことを気にしていられたのも、こちらに背を向ける黒い着物の男の姿を目にするまでの短い間だった。
 相変わらず、この男という存在を前にすると、ただそれだけで肌がざわついて、逃げ出してしまいたくなる。奥歯を噛んで、顔を上げた。 
「こんにちは」
 今日ばかりは、こちらからお願い事があるので、そんな風に挨拶をして頭を軽く下げる。
 雨夜甚はそんな畏まった調子のコウを目にして、いつもの調子で低く笑った。その目で見られると足がすくみかけたけれど、膝に力を入れてしっかりと立つ。
「何の用だ。狩られる決心でも付いたか?」
「……夜叉乞いをする。だから、そこの刀と、あの絵を貸してほしい」
 傍に歩み寄ってそう頼むと、当主は、ほう、と感心したような息を漏らした。
「成程。確かに、我々の血を半分しか持たぬおまえであれば、半分返すだけで夜叉を呼べるか」
 当主の佇むすぐ側にある祭壇を見る。ここに足を踏み入れるのは三度目になるが、これまでは、そこをよく見ている余裕はなかった。コウの腰辺りの高さの段と、それから膝辺りまで下がる下の段の二段の祭壇には、黒い布が敷かれている。数を数える気にもならないほど多く並べられた蝋燭には、すべて火が灯されていた。それだけの火があるのに、近くにいても寒さを覚えるだけだった。祭壇の奥の、座敷の突き当たりになる壁にはあのよく分からない絵が掛けられている。その前には、蝋燭の並ぶものとはまた別の、黒い祭壇。そこに鎮座するように置かれているのが、雨夜の「狩り」に用いるのだという刀だった。
「これは見物だな。祟堂様を呼んで、何を聞く」
 最後のひとつだったのだろうか、雨夜甚は手にしていた小さな蝋燭を段の端に静かに置いて、コウにそんなことを尋ねてきた。
「……あんたも、呪術師が怖いのか?」
 この男が、花羽未月と同じように呪術師のことを敬う呼び方をしていたのが意外で、思わずそんな風に聞き返してしまう。
 コウのその言葉を聞いて、雨夜の当主は嘲笑うように口元を僅かに緩めた。
「畏れ敬うのは一族の務めだからな。それに何より、この千年を紡ぐ糸の強固なことを思えば、抵抗する気も無くす」
「糸?」
「物事はすべて、定められた通りになると言っただろう。雨夜も白の家も皆ことごとく、その通りに動いているに過ぎない。望もうと望むまいと、その感情すらも夜叉が導くということだ」
 当主の言おうとしていることを完全に理解出来たわけではないが、それでも、大方のところは分かった気がした。この男は以前にも、コウにそんなことを言っていた。捧は花羽の家のものだと「ずっと昔から定められている」から、その存在には何の興味もないのだと、そう言って少しも心の動いた様子は無かった。
 キョウの話をしていた時の方が、余程色濃く感情を覗かせていた。ほんの、一瞬のことではあったが。
「じゃあ、おれは、どうなんだよ」
 すべてが最初から決まっている、とそう受け入れるのならば、当主のものであった「蝶」であるキョウが屋敷を抜け出したことも定めだと思うのだろうか。その血と、交わってはならないもうひとつの血を受けたコウの存在も。
 コウのその言葉など耳に入らなかったように、雨夜甚は祭壇の奥にやおら手を伸ばした。その動作に合わせて、ゆらりと一斉に蝋燭の火が揺れる。何をするつもりなのか、考える間もなかった。
「同じに決まっているだろう」
 言いながら、無造作な手つきで壁からあの絵を剥がす。何の前触れもない静かな、それでもまるで、引き裂いて破ろうとでもしているような乱暴な仕草だった。そのまま、その絵に包むようにして、大切そうに置かれていた刀をコウの方へ放り投げてきた。
「……っ、大事なものなんだろ、何するんだよ」
 全く予想の付かない反応を見せる当主に、慌ててどうにか投げられたものを受け取る。花羽と雨夜が家を分けた時に、代々受け継がれてきたものも等しく分けた、とヒカリは言っていた。だからきっとこれも、価値のある大切なものに違いない。未月などは、大事にしろ壊すなと、あんなに散々言ってきたのに。
「勝手に持って行け。夜叉乞いでも蝶狩りでも、好きにするがいい」
 低くそう笑われて、改めて受け取ったものに目を遣る。刀は見た目で考えていたよりも、ずっと重い。自分の手の中にある、当主が驚くほど呆気なく手放したものが、代々使われてきた「狩り」の道具だとは、とても信じられなかった。
「雨夜の蝶は刀傷より出ずる。仕留めたなら、死骸でいい、腐る前には庭に持って来い。千年の最後の贄だ、無駄にするな」
「……何だよ、それ」
「『狩り』の作法を、すべて聞いたと思っていたが?」
 コウをからかうような口調のまま、当主が不気味なことを口にした。この刀でコウが捧を「仕留める」ならばそれが「蝶狩り」になるのだと、そう言いたいことまでは理解出来た。けれどもそこから先は、まだ、捧にもヒカリにも教えられていないことのような気がした。
「祟堂の一族であった頃ならばともかく、現在の我々には魂の形を変える力など無い。出来るのは事象と対象を結びつける程度のことだ。『蝶狩り』などと大層な儀式に仕立て上げてはいるが、その実、成されるのはただの殺人でしかない。重要なのは、そこから先だ。儀式の日に、庭に蝶が放たれることは聞いているか」
 何を言おうとしているのか予測できないままに、首を振る。儀式だ、「狩り」だ、と、散々分かったつもりでいた。この男はそれをただの殺人だと軽く一言で纏めたが、それ以上の何があるというのだろう。もう十分に、あってはならない話であるのに。
「蝶は蝶の血を好む。わたしよりも、おまえの方がそのことを深く理解しているだろう。十五年に一度、色を二つに違えてからは三十年に一度。あの蝶どもは、唯一その時にだけ、何よりも好む餌に有り付くことが出来る」
 蝶は、蝶の血が好き。流れるあの赤い血。地面に零れて、淀んだ暗い水溜まり。甘くて、何よりも欲しくてたまらなかったもの。血の匂いに呼ばれるように現れた黒い蝶。奪われまいと、自分だけのものにしようと貪った赤い蜜。
「……餌?」
「供物、と呼ぶが。蝶が同族を乞うことは、この目で見てよく思い知った。奴らは血の一滴も、骨のひとかけらも残さないからな。後にはひとつ、同じ羽色の蝶がひとつ増えるだけだ」
 そこまで言われて、ようやく、理解した。それがほんとうの「狩り」の儀式だ。
 キョウが死んだ時、この男が死体を引きずって帰って行ったのだと、八木はそう言っていた。それは儀式を行う為だったのだ。花羽と雨夜、ふたつの家を生かすために、生贄を捧げる、「蝶狩り」の儀式。何も残らず、白か黒かの蝶の数だけが増える。
 捧のことを思い出した。千年の呪いの、最後の「蝶」。あの人は花羽の蝶だ。だから弓矢で射殺されて、そうしてその傷から流れる血には、白い蝶が群がる。ひとつ前の儀式以来の、久しぶりの御馳走。赤くて甘い血も、それを包んでいた皮膚も、絹のような黒髪も、コウを見つけるといつも柔らかく細められた、あの黒い眼も。すべてが奪われて、なくなって、あとには白い羽の蝶だけが。
「……っ!」
 そんなことは考えたくないのに、いつか沈んだあの赤い夢の中で見たたくさんの死骸までを思い出してしまう。それがすべて、捧の姿に重なった。傷付けられて命を奪われた、もう動かない身体に無数の蝶が止まり、喜びに震えるように羽を揺らす。何よりも待ちわびた、美味しくて甘い贄。そうして新しくまたひとつ、同じ色の仲間が増える。
 彼の存在を、そうあるべきだと定めているものが憎かった。そしてそれ以上に、思い浮かんだその姿に、羨望と喉の渇きを覚えた自分が、何よりも許せなかった。甘くて美味しくてこれ以上なく満たされるだろうと、その蝶たちの喜びを妬むのは、誰よりもコウ自身がそれを求めて止まないからだ。そんな気持ちは、間違っている。
「……間違ってる」
 呟いて、手のひらの中にあるものを強く握り締める。重たい、人殺しの道具。これが、たくさんの「蝶」を傷付けてきた。刀の柄に手を掛けると、驚くほど簡単に鞘を抜き払えた。まるで誰かに力を借りているように、あんなに重たかったものが、簡単に扱えた。
 刀を包んでいた絵をほどき、鞘を投げ捨てる。剥き出しにした刃を、この透明な檻に満ちるすべてのものを一度に切り払うようなつもりで大きく振り、こちらを見る黒い着物の男に向ける。
 それほど勢いよく薙いだはずはないのに、祭壇に並ぶ蝋燭の火が、一度にすべて消えた。
「コウくん!」
 それまで静かに遣り取りを見守っていたらしい八木の声が、焦ったようにコウを呼んでくる。それに止められるよりも先に、コウは銀色の切っ先を雨夜の当主に向けた。
 ほんの僅かに反った刃が首元にあっても、その男は低く笑うだけだった。それを、強く睨み付ける。
「終わらせる」
 「蝶」も「狩り」も。儀式と、千年の呪いも。ずっと続いてきたことと同じ遣り方ではなくて、もっと別の方法で。
「こんなこと、みんな終わらせる」
 刀を抜いて、それでどうしようというつもりはなかった。それに、コウが何かしようとしたら、きっとすぐに八木に止められるだろう。この刀で雨夜の当主を斬ったなら、それは「蝶」たちの仇を討つことになるだろうか。そんなことを考えて、それでもすぐに、頭から振り払う。キョウに、捧。コウの知る「蝶」たちならば、そうしたところで、喜びはしない。
 コウがするべきことは、そんなことではなくて、他にある。
「だからこれを借りる。呪術師を呼んで、もっと別の、呪いを解く遣り方がないか聞く」
「解く、か」
 コウが言い切ると、その言葉をとらえて、何か含むところがあるように呟かれる。
「呪いとは、魂に絡まる糸がある状態。そうして絆もまた、魂に絡む糸だ」
「……何が言いたいんだ?」
「呪いがなければ、惹き合わない魂があるということだ」
 その言葉に、相手が何を言いたいのか理解する。コウが捧のことを思うのは、そもそも千年間の呪いが在るからこそ、なのだと言いたいのだろう。蝶は蝶の血が好き。互いに想い合い、相手のことしか考えることの出来ない状態。それもまた、呪いというものがもたらすもののひとつであると、そういうのであれば。
 呪いを解くということは、その絆をもほどくことになる。
「……いいよ、そんなの」
 けれどコウの気持ちは、それを聞いて、言わんとすることを呑み込んでも、変わらなかった。
「おれのことを嫌いになっても、忘れられるんだとしても。それより、生きていてくれればいい」
 それは本音だった。こんなに捧のことを好きだと思い、大事に感じているから、それが無くなってしまうかもしれないということは怖い。けれども、ほんとうに大切なことは、そもそも捧自身だ。
「この世界にはもっと綺麗なものがたくさんある、それを見せてあげたい。おれの、おとうさんの分まで」
 生きてさえいてくれれば、その幸せを祈ることも出来る。
 コウのその言葉に、雨夜の当主は低く、いつものように喉の奥で笑った。
「夜叉乞いをすれば、どうなるか分からんぞ。いくら取られるのが半分だけとは言え、無傷では済むまい。もともと『蝶』は短命の一族だ。祟堂の血の命を返せば、おまえに残る寿命など、ほんの僅かだろう」
「……それでも、いい」
「やはりおまえは繭花の子だな。……相当な、跳ね返りだ」
 面白い見世物だ、とまた笑って、雨夜甚はそれきり、コウから目を逸らした。
 まるでそれを合図にしたように、背後からそっと、肩を叩かれる。首だけで振り返ると、八木に一度、頷かれた。もういいだろう、とでも言いたげなその仕草に、自分が刀を抜いたままだったことに、ようやく思い至る。
 それまでは何の重みも感じなかったのに、気付いた途端、それがひどく重たさを増した気がした。
「コウ」
 抜いた時の滑らかさとは正反対に、不器用に慎重に刃を鞘に戻していると、ふいにそんな風に名前を呼ばれる。これまでに耳にしたことのないような、どこか茫洋とした雨夜甚の声に顔を上げてそちらを見る。
「おまえ、雨夜を継げ」
「……変なこと言うなよ」
 どこか投げやりな調子のその男に戸惑い、そうしてまた、言われたことにも更に戸惑う。何を突然言い出すのだろう。コウにそんな話を持ちかけるなんて、正気の沙汰とは思えなかった。絶対に、向いていない。
「この家のすべてを、その刀もろともくれてやる。元々それは、当主のみが持つことを許される神具だ」
「そんなもの、要らない」
「だろうな」
 コウが首を振ると、いつものように雨夜の当主も低く笑う。
「気が向いたら返せ。わたしは構わんが、中には五月蝿く言うものも居るからな」
 そう言いながら、また、すべて消えてしまった蝋燭にひとつずつ火を灯し始める。
「明日まででいい」
 大切なものだということはよく理解しているつもりだ。だから、用が済んだらすぐに返すつもりだった。けれどコウのその言葉にも、雨夜甚はもう何も返してこなかった。コウもそれ以上自分から何か言うつもりはなかったので、刀と一緒に受け取ったあの絵を、持ち帰るために畳もうとした。
「……八木さん?」
 その時にはじめて、一緒にいた八木が、じっと雨夜甚の背に目を遣っていたことに気付いた。思わず声を掛けてしまったのは、その目があまり見慣れない厳しさを帯びていたからだ。何かを見透かそうとしているような眼差しに、ふいに、そういえば八木が以前は刑事だったことを思い出した。そんな目だった。
「八木?」
 コウが口にしたその名前に、緩慢な手つきで火を灯していた雨夜の当主が振り返る。自然と、じっと見ていた八木と目を合わせることになったその瞬間、八木の口元が躊躇うように引き結ばれた。
「……聞き覚えが?」
 押し殺したような低い声でそう問われて、雨夜甚はすぐにそれを打ち消した。
「無いな」
「八木正人と聞いても、思い出せませんか」
「生憎だが。……何か言いたいことがあるならば、聞くが?」
 当主のその返答を聞いて、八木は一度、コウの目に見ても明らかなほど、拳を強く握り締めた。短い沈黙を挟んで、いいえ、と首を振る八木は、怒りとも落胆ともつかない表情を浮かべていた。
 何か言わなければならない気になって、コウが口を開こうとするよりも先に、まるでそれを見通したように、八木は首を振った。そうして、コウが畳もうとしている絵の中途半端な状態に目を留めて、手伝おうとそれに手を出される。貸して、と言ってくる彼に、素直に任せた。
 八木のことなどもう忘れたように、雨夜の当主はまた、コウを見て笑う。
「コウ。おまえには、それが何に見える」
「……この絵?」
 聞かれて、畳み直している途中のそれに改めて目を遣る。白い布地いっぱいに、墨を使ったのだろう黒い線がいくつも引かれている。線は細いものから太いものまであり、真っ直ぐに伸びていたり、歪んでいたり、他のものと絡まっていたりする。何かと聞かれたが、黒い線としか思いつかなくて、しかしそんな間の抜けたことを答えるのも気が引けた。一歩引いて、全体を見てみる。何に見えるか、というよりも、こう描くことで何が表わされているか、と考えるのならば。
「宇宙、かな」
 コウのその答えを聞いて、雨夜の当主はしばらく黙ったあと、やがて、そうか、と低く笑った。
「わたしには、これは地獄にしか見えぬがな。夜叉乞いをするのならば、描いた当人に尋ねてみるのも良いだろう」
「え……」
 それきり、当主はコウにも絵にも興味を失くしたように、背を向けて座敷を出て行こうとする。戸惑った表情の八木と顔を見合わせてから、刀を手に取り、その後を追った。
「どこに行くんだよ、急に」
 この男の考えていることは理解出来ない。出来てはいけないような類の人間ではあるのだろうが、それでも、話の途中であんな風にふらりと出て行かずともいいだろうに。
「最後になるかもしれんだろう。鞠花を見舞ってやってくれ。昨夜から体調を崩して、臥している」
「マリカが?」
 その娘のところに行くつもりだったのだろうか。付いてくるのならついでに、とでも言いたげな口調で、そんなことを言われた。八木に、どうする、と言いたげな顔をされたけれど、少しならばいいだろうと思い、その後に続いた。
 廊下を歩きながら、尋ねてみる。
「……おれのおかあさんは、もう、死んじゃったのか」
「繭花か。あれなら、鞠花を産んですぐに、首を括って死んだ」
「え?」
 母親がもうこの世にいないだろうことは、なんとなく気付いていた。もともとコウにとっての親というのはそういうものだったので、死んでいると聞いても素直に受け入れられる。
 けれども引っ掛かったのは、そこではなかった。
「いま、なんて。マリカを産んで?」
「言わなかったか。あれは、わたしと、わたしの妹である繭花との間に生まれた娘だ」
 どうでもいいことのように、雨夜甚はそう続ける。言われたことを整理して理解するのに、少し時間がかかった。
「珍しい話ではない。長く続く家など、どこでもそんなものだ。道徳や遺伝の問題よりも、要は正統な流れの血を繋ぐ方が大切なのだろう。わたしが決めたことではないがな」
「じゃあ、あんたの言ってた、おれのお母さんが裏切った、許婚って」
 当主自身のことだったのか、と口にしかけて、さすがにそれは思いとどまった。それでも結局、鞠花がこうして生まれたということは、牧丘の家からここに戻って来た後に、予定通りに結婚したということなのだろう。
 首を括った、という言葉と、八木がさっき話してくれたことがやけに近く関係しているように思えた。家を裏切ってしまったことを悔やんで、ほんとうはコウを殺しに来たのに。それなのに、兄であり、許婚でもある人の「蝶」を、殺してしまった。本来ならば当主が仕留めて「儀式」への供物にするはずだった「蝶」だったのに。そこに、ほんとうはどんな気持ちがあったのかは、コウには分からない。分からないけれども、この男はきっと、最後まで、それを許しはしなかっただろう。もしかしたら、今も、そうしてこれから先もずっと。
 ひとつの部屋の前で足を止めて、当主がその中に入るのに続く。広い窓から庭がよく見える、日差しの入る明るい部屋だった。
「お父さま、……おにいさまも」
 窓のよく見える場所に敷かれた小さな布団に、その小さな少女は横になっていた。
「マリカ」
 その近くまで寄って、顔が近くなるように座る。夜叉乞いに使う刀と絵を持ったままだったので、背中に隠して少女の顔を覗きこんだ。
 コウのことを、兄だと呼ぶ鞠花。従兄妹ではなく、父親違いの妹。
「熱があるのか」
 具合が悪そうなのは分かるが、どこが悪いのかまでは、見ただけでは分からない。元気そうに飛び跳ねていたのが印象的だっただけに、瞬きをするのも億劫そうにして、苦しげに息を吐くその姿が痛ましかった。
「わかりません。だけど、すごくつらくて、かなしいです」
 やっと言葉を聞き取れるほどのかすかな声でマリカはそう言った。
「おとうさま。マリカは、死んでしまうのかしら」
 怯えるような声でそう言って、布団の中から伸ばした手で父親の着物の袖に触れる。その手を握り返して、雨夜の当主はコウに向けるのとは少しだけ柔らかい声で返事をした。
「怖がることはない。その時はわたしも一緒だ」
 マリカは父のその言葉を聞いて、数回ぱちぱちと瞬きをした。そうして、はい、と笑って頷いてまた目を閉じた。しばらくその様子を見ていたが、どうやらそのまま眠ったらしかった。
 マリカが急に体調を崩してこんな風に寝ているのも、もしかしたら、その呪いのせいなのかもしれないとそんなことを思った。ほんとうならば「狩り」の儀式を行わなければならない時期はもう過ぎていて、一族の中ではもうすでに命を落としたものもいるのだと、未月はそんなことを言っていた。
 当主は娘の手を取ったまま、そこから動かない。小さく会釈だけして、そこから去ろうとしても、さほど興味のない様子でちらりと見られるだけだった。
 部屋の入口で待っていた八木に、帰ろうとそう声を掛ける。最後に、もう一度部屋の中を振り返って、その父娘を見た。閉じられたふたりだと、そんなことを思った。
 従順だったという「蝶」と妹に裏切られ、ふたりを失った。許婚である妹は兄のことを恐れて家に戻っては来たが、娘を産んですぐに、自分から首を吊って死んでしまった。残されたのは、娘ひとりだ。
 そんなことを思ってしまうからか、病床の娘の手を取る雨夜甚の背中は、初めて目にした時よりもずっと小さく見えた。恐ろしい男だと感じる気持ちは変わらない。それでも、ずっと昔からそんな振る舞いを続けてきたのだろうこの男の傍には果たして誰かいるのだろうかと考えると、少しだけ、寂しいような気持ちにもなった。
 いまは、小さな娘の手を取ったまま、身動きもせずにその眠る顔から目を逸らさないでいる。

「おれの親父はね」
 雨夜家からの帰り道、八木は車の中で、そんなことを話しはじめた。
「刑事だった。よくいる、昔から現場にいた、叩き上げって感じの人で、おれとはタイプの違う人間だった。周りの空気を読んでそれに合わせるよりも、白は白、黒は黒だってはっきり言わないと気が済まない人だったよ」
 膝に、雨夜から借りてきた刀と絵を乗せて、その話を聞く。雨夜甚は、この人にとってどんな存在なのだろうかと思って聞いていた。
「……だから、そんな人だから、キョウさんのことも、許せないと思ったらしい。どんな境遇で生きてきたのか知って、そうして、殺されてしまっても、その犯人を法律で裁くことが出来ないことを嘆いて、自分の仕事に絶望してた。おれは、そんな親父の姿を見ていたはずなのに。それでも、同じ道を選んで、まったく同じことに絶望した」
 それは八木が警察官をしていて、そうしてそれを辞めてしまったことについての話のようだった。
「雨夜家のしていることを、犯罪だと言おうとしたんだ」
「……それで?」
 聞きはしたけれど、多分、そうすることは出来なかったのだろうな、と予測は出来た。ひとりの人間が外部からそんな風に声を上げて止められるようなことならば、きっと千年の間続けることはきっと出来なかっただろう。
 八木は思っていた通り、首を振るだけだった。
「あの家については触れてはいけないと、そう言われて終わりだったよ。これは雨夜ではなくて、花羽もそうみたいだけど。そうして、そのふたつの家だけじゃなくて、他にも、無かったことにしなくてはならない事例や、決して問題にしてはならない物事が、この世にはまだまだあることも分かった。組織って、そういうところだったんだ」
 だから八木は、刑事を辞めてしまった。八木は自分と父親とを違う人間だと言ったけれど、コウにはそんな風には思えなかった。幼い頃に可愛がってくれたのだというその人のことを記憶として思い出すことは出来ない。それでも、八木の優しいところや、間違ったことを許せないところは、きっと父親とそっくり同じなのではないだろうか。そんな気がした。
「八木さんのおとうさんは、どうして死んじゃったんだ」
「……事故だよ。言わなかった?」
 それは聞いた。けれども、ほんとうはもっと、奥のある話なのではないかとそんな気がしてしまう。
 八木正人、というのは、その人の名前なのだろうか。まるで、長年胸に抱え続けてきたものを恐る恐る解き放つように、雨夜甚に向けてその名前を口にしていた八木のことを思い出す。八木は父と同じ道を選んで、そうしてそれから外れることを選んだ。縁があって未月とも知り合いだったと言っていた。結びつけるのは、あの黒い色の家で間違いないだろう。
 この人もまた、縛られている。その話を聞いていて、そう感じた。事故で死んでしまったのだという父親と、その名前を知らないと言い切った当主に向けていた、あの諦めにも似た怒りの表情。キョウと交わした約束や、自分が繭花を牧丘家に入れてしまったことを悔やんでいること。そのせいで、コウを守らなければならないと、強く自分自身に言い聞かせ続けていること。そんなに自分を縛っては、窮屈だろうと思わず感じてしまうほどに。
 呪いを解けば、この人に絡むものも、自由になれるだろうかとそんなことを思う。そうして、雨夜甚の、捧とコウの間に繋がるものもまた無くなるのだという言葉を思い出して、そうなることを思うと、寂しくなった。

 牧丘の家に戻ると、花羽家で一度別れたヒカリが来ていた。コウが雨夜家に出向いて必要な道具を揃えてきたことを、偉い偉いと褒めてくる。
 雨夜のマリカが病気で、具合が悪そうだったことを伝える。呪いのせいかと聞くと、おそらくそうだろうねと簡潔に返された。身体の弱いものや、幼い子どもたちから命を奪われていくのだと、そんな風にヒカリは教えてくれた。
 もう、窓の外では日が沈みかけていた。
 「蝶狩り」の儀式は、もう明日に迫っている。日没までなら待てると未月は言ってくれた。それならば、ちょうど残る時間があと一日になったということだ。
「これで、もう、全部揃っただろ」
 だからはやく始めよう、と言うコウに、ヒカリは首を振った。
「場所を変えなければならない。この近くに、神社があるのを知っているだろう。そこを使う」
「あの神社を?」
 ヒカリの言う通り、コウの住むこの家の近くには小さな神社がある。住宅街の一角に、ひっそりと隠れるようにある静かな場所で、訪れるものもほとんどいない。捧がこの家に来た時に、散歩をした場所だ。
「そう。表だって伝えられてはいないけれど、あれは祟堂様をお祀りしている社だよ。だから名前も、ほんとうならば祟堂神社という。今では両家とも庭に分社を置いているから、花羽や雨夜の者でさえ、この本社のことを知らない者もいるだろう」
「祟堂神社」
「そう。もともと、この辺り一帯はすべては祟堂の一族の持ち物だった。それを、時代の流れに沿って少しずつ手放していったんだね。家が白と黒に分かれた時も、祟堂様の御宮を中心として住まいを分けているはずだ」
 そのことに、言われて納得する。雨夜の家からこの家に帰ってきた時、その歩いた距離を、花羽からと同じくらい離れているのだと思った。それはコウの家を基準にしたのではなく、すぐ近くの、あの神社を中心にしていたからだったのだ。
「じゃあ、早くそこに、」
「コウ、少し落ち着きなさい。まだ時間は残っている。いくら彼が大丈夫だろうと請け負ってくれたとはいえ、夜叉乞いは禁じられた術だ。きみの身に何が起こるか分からないんだよ」
「……分かってるよ、そんなの」
 けれど、他にもう方法が分からない。雨夜の当主にも同じことを言われたけれど、このままじっとしていれば、未月は決められた通りに「儀式」を行うだろう。そうすれば、捧を失う。それだけでなく、殺すのは嫌だとコウに打ち明けた未月に、人を殺させることにもなる。
 夜叉乞いをして、呪術師を呼べばすべてが解決すると決まったわけではない。それでも、儀式を行わずに皆を助けることが出来る方法があるのならば、きっとその人しか知らないだろう。
「捧が、地下牢から出たよ」
「え……」
「もう、明日が『儀式』だからね。最後の一日まで、あの中に入れておくのはさすがに未月も忍びなかったんだろう。もう、きみが連れ出すかもという心配も無くなったみたいだし」
「捧さんが」
 ヒカリのその言葉を聞いて、一刻も早く夜叉乞いをしなければと急いていた心が、ふと止まる。
「そう。だから今行けば、会えるよ。大丈夫、時間はまだある。最後の夜くらい、一緒に過ごすといい」
 そう言って、からかうように笑われる。最後、というその言葉が、やけに胸に刺さった。呪いを解くということは、絆も解くということ。それがなくなったら、捧のことを思うだけでこんなに苦しかったり、嬉しかったりすることも無くなるのだろうか。考えても、答えは出ない。
 今は、その人に会いたいとしか思わなかった。
「明日の朝、迎えに行く。……行っておいで」
 背中を押され、八木が送ろうと言ってくるのも聞かずに、そのまま家を出た。

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