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第三章 「糸」
7. 檻の中の雪

 言われるだろうなとは思ったが、八木は案の定、そんなことは駄目だと言ってきた。
「またそういう話になるのか! 駄目だよ、コウくん」
「でも、本家の血を引いてて、年が十五に近いっていうなら、おれか未月しかいないだろ。未月はこの家にとって大事な人間なんだから、そんなことをさせるわけにはいかないし」
 だから、それが出来るのはコウしかいない。命と引き換え、と言われたそのことが気になったものの、そうすることでなら、新しい道が開けそうな気がした。
「……どういう風になるんだ?」
「確か、ぼくの弟の話はしたよね」
 聞いたヒカリに、そんなことを逆に確認される。それが何の関係があるのだろうと思いながらも、覚えがあったので、頷いた。ヒカリには弟が三人いて、長男である彼が「蝶」を呑み込んでしまった時に対立して、それが後々の花羽家と雨夜家になった。その話のことだろう。
「二番目の弟が花羽家の開祖になり、三番目の弟が雨夜家を開いた。彼らの性格は、今でもそのふたつの家に受け継がれていて面白い程だ。二番目は真面目で頭が固くて、ぼくのことを絶対に許すなと火を噴きそうな勢いで怒っていた。三番目は、正しい正しくないということより、とにかく自分にとって面白いかそうでないかを重要視して行動するような奴だった。ね、そのままだろう」
 確かに、と、苦い顔をしている未月を見て、そんなことを思う。
 色々あって、すっかり夕食を食べそびれていた。八木が母屋から運んでくれていたものは冷めてしまっていたが、未月が新しいものを持ってきてくれると言ったので、それに甘えた。何が食べたいと聞かれたので、生卵を乗せた白いご飯が食べたいとお願いした。庶民的なものだから、きっと未月には馴染みのない食べ物なのだろう。呆れたような顔をされたけれど、卵と醤油と、御櫃に入れたご飯を持って来てくれた。それを食べながら話を聞いていた。
「末の弟は、ぼくに温情を掛けてくれるように呪術師様にお願いしたと、そう話しただろう。彼は夜叉乞いを行って、その人を呼んだ。末っ子はぼくのことをよく慕ってくれていたから、何とかして救ってくれようとしたんだな」
 優しい子だった、と、ヒカリは弟のことをそんな風に語った。コウには兄弟がいないが、八木が子どもの頃から一緒にいる。兄がいるというのはあんな感じだろうか。
「……それで、その人は?」
「死んでしまった。夜叉乞い自体は成功して、それでぼくの扱いと、家をふたつに分けることが決まった。……けれどあの子は、そのまま気が触れて、壊れてしまった」
 末の弟が兄を慕っていたように、ヒカリも彼のことを可愛がっていたのだろう。自然にそう思える程、ヒカリはそれを憐れむような、今でもそのことを辛く思っているような顔をした。食事をしながら聞くのでは、申し訳なくなる。
「簡単に言えば、呪術師様の力が強すぎて、普通の人間の肉体に納めるには無理があるということだ。だから、別の触媒を使ってお呼びする方がいい。鏡とか、形代とかね」
「それでも、命と引き換えなのか?」
「一応、そういうことになっている。ただ、余程のことがなければ行われなかった儀式だから、記録もほとんど残っていない。例外が無かったとは言えないな。ぼくが知っているうちの二回は、どちらも夜叉を乞うた当人が死んでいる」
「じゃあ、必ずしも死ぬって決まったわけじゃないんだな」
 コウがそう言うと、まあね、とヒカリも肩をすくめる。
「どちらかというと、そちらの可能性が高そうではあるけれど。やってみるまでは分からないね」
 茶碗も御櫃も空にして、未月に返す。久しぶりに、まともな食事をした気がする。
「はっきりしないな」
 ヒカリの話を聞いて、未月が苛立ったようにそんな感想を漏らす。きっと性格的に、曖昧なものがあまり好きではないのだろう。ヒカリはその言葉に苦笑した。
「それなら、詳しい奴に聞いてみようか」
 そうしてこともなげな調子で、そんなことを言ってくる。
「詳しい奴? ……あんたよりも?」
「そう。ぼくが知らないことでも、そいつになら分かるかもしれない。というよりも、分かるだろう、多分」
「誰だよ、それ」
「説明するより、見せた方が早そうだ。行ってみようか」
 よく分からなかったが、そんな風に言われて、頷く。ヒカリが未月に何事が頼んでいるらしいのを横目に、未だに渋い顔をしている八木に、もう一度ごめんと謝った。
「八木さんが、おれのこと心配してくれてるのは分かる。でも、今は、少しでも可能性があるなら、それに賭けてみたいんだ」
 もう、自分のことをなんの意味もない存在だなんて思わない。今のコウは、自分が何を願われた存在であるかをもう知っている。だから、八木がそんな風に心配してくれていることも、以前のように重たくは感じなかった。あれだけ小さな頃から見守ってくれているのなら、もしかしたら、今でも彼にとってコウは、転んだらすぐに泣きだしそうに思われていても仕方ないような気もした。
「……分かったよ」
 八木は観念したように、息を吐く。
「その代わり、おれも、最後まで付き合うからね。きみをひとりでそんな目に遭わせるのでは、キョウさんに合わせる顔がない」
 それでは八木を巻き込むことになるのではないか、と思いはした。それでも、コウの気持ちを理解してくれた上でそう言ってくれることは有難いことなのだと、今はそんな風に思えるようになった。
「それで、どこに行けばいいんだ」
 尋ねるコウに、ヒカリは肩をすくめてみせる。少なくとも、この屋敷の外だろうとコウが考えていたのを見抜いていて、それは違うよと笑われたようなそんな気になった。
 そうして答えを聞いて、それが勘違いではなかったことを知る。
「地下の座敷牢だ」
 それは思っていたよりも、ずっと近いところだった。

 釈然としない様子を残してはいたものの、未月はヒカリに言われた通りに、地下へと続く鍵を開けてくれた。
「捧さん」
 その中に誰よりも早く飛び込み、音の鳴る階段を軋ませて駆け降りる。床が抜けるぞ、と叱ってくる声を後ろに、奥の牢の前に立ち、その人を呼んだ。
「……コウ。変わりはないか」
 派手に音を立てて降りてきたからだろう。捧はコウが来るのを待っていたように、すぐに格子の前に顔を見せてくれた。別れてからしばらくしか時間が経っていないのに、そんなことを聞いてくるのがおかしかった。
 うん、と頷いて、格子の隙間から手を伸ばし、その手に触れる。伝わる熱に、じんと胸の奥が温もる。
「退屈じゃない?」
「大丈夫だ。未月が本を貸してくれた。分厚いから、まだ半分残っている。いまは『に』まで読んだ」
「に?」
 何の本を読んでいるのだろうとそれを不思議に思っていると、地下室の手前の方から、ヒカリの声に呼ばれる。
「ほら、コウ。何をしに来たか忘れたのかい。今ぼくたちが用事があるのは、こっち。捧にはしばらく待っていて貰いなさい」
 その言葉に、ここに降りてきた目的を思い出す。夜叉乞いについて詳しい奴がいると、そう言われた。
 捧の手を繋いだまま、狭い地下室を見回す。今コウが座り込んでいる通路を挟んだ反対側にも、捧が入れられているのと同じような座敷牢があるが、その格子戸はどれも開け放たれていて、中に何者かが入れられている気配はない。となれば、後は、残るひとつだ。そういえば未月にも、捧は奥の牢にいるから、手前は覗くなと言われた。
 そこに、誰かが居るのだ。見れば、格子戸も閉められている。
 ヒカリが言っていたのは、この中にいる誰かのことらしかった。一度、両手のひらで捧の手を強く握り締めて目を合わせてから、それを離す。立ち上がってそちらの方に近寄ると、ヒカリの言うことに、未月が納得いかない顔をしていた。
「何を言っているんだ、おまえ。この中にいるのはそんなに大したものじゃない」
「……誰が入ってるんだ?」
「おまえもよく知っている人間だ、牧丘コウ」
 思い当たることがなくて、格子越しの牢の中を見る。中は真っ暗で、何も見えない。誰かがいるのかもしれないが、身動きしていないのだろう、しばらく目を凝らしていても、動くものの気配はなかった。
 ヒカリは未月の言葉にも軽く笑うだけで、それでも鍵を開けるように頼んだ。意味が分からないと言いたげな表情を残したまま、未月はその通りにした。
「明かりを」
 牢の中は狭い。ヒカリを先頭に、未月がその後に続くと、もうそれだけで窮屈そうだった。入るかどうか外で迷っていると、少し離れたところで様子を窺っていた八木に、促すように背中を小さく叩かれる。橙色の明かりが灯された、その狭い牢内に滑り込むように中に入り込む。捧の入れられている隣も、これと同じ造りなのだろうかとそんなことを考えて周囲を見回す。埃っぽい匂いがしたが、想像したよりも綺麗で、居心地はそれほど悪くなさそうだった。コウの部屋の方が、もしかしたら狭いかもしれない。
 敷かれた畳の中央に、横たわる誰かの身体があった。見覚えのある格好だと思っていたら、コウや未月のものと同じ高校の制服を着ている。うつ伏せになっているので、その顔は見えないが、コウもよく知っている人間だと未月がそう言っていた。当てはまるのは、ひとりしかいなかった。
 ヒカリが傍らに膝を付いて、その男を仰向けにする。
「清川」
 眠るように目を閉じたまま、されるままになっている男の名前を、思わず口にする。そこに倒れ伏していたのは清川縁示だった。未月の姉とふたりで居たのを見たのを最後に、それから後は、顔を見ていなかった。……先程、庭であったことを思い出す。未月の姉は死んでしまったのだと言っていた。してはならないことをして、そのせいでおかしくなってしまった。だから、母親である花羽の当主が、弓矢で射て、殺した。
 清川がこんな風に牢に入れられていることは、それと関係があるのだろうか。
「姉さんの傍に倒れていた。いくら呼んでも叩いても目を覚まさなくて、どうするか困ってここに入れておいた」
 説明を求めるようなつもりで未月を見ると、そう教えてくれた。
「その時からずっとこの調子で一度も目覚めない。体温が少し低いと医者が言っていたが」
「冬眠状態のようなものかな。何、大丈夫だよ。今から中に入っているものを出してあげるから、そうしたら元の通りに元気に目覚めるはずだ」
「別に目を覚まさなくてもいい、……中に、入っているもの?」
 ヒカリがそんなことを言ったので、未月は胡散臭いものを見る目で眠る清川を見下ろす。コウもそれに従った。普通の、よく寝ている人間にしか見えない。
「そう。コウ、きみのお友達だろう。この彼の名前を知っているかな」
「友達じゃないけど、清川だろ。未月とは、遠縁になるんだって言ってた」
 コウのその返答を聞いて、未月が眉間に皺を寄せる。清川は花羽との縁があるのだとそう言っていたが、この家や未月とはあまり近いものを感じない。むしろどちらかというと、雨夜の淀んだ甘い空気の方が似つかわしい気がした。
「遠縁というのは少し違うかな。彼らのことをそう言うのは、『蝶』の一族をずっと抱え込んでいたのと同じことだ。血の繋がりがあるから、というよりは、いつでも手元に置いて利用出来るように、という考えだ」
「利用?」
「そう。清川とはそのままの意味だ。カワは、本来ならば『皮』だね。今では、彼らをそんな風に使うことももう無いから、名前と、昔から近いところで囲っていた縁だけが残っているというわけだ」
 清い皮。それがどういうことなのか分からなかったが、なんとなく、気持ちのいい話ではないのだろうと感じた。未月もそのことは知っているのか、冷やかに清川を見て言った。
「こいつの一族は、元々、憑き物を落とす際に、中に入っていたものを一時的に移しておくための器としての存在だった。けれど、今の時世では依代に生きた人間を使わなければならないほどのものを落とすことはほとんどない。人形で十分だ」
 だから、清川の一族は、もう本来のように役割を果たすことはない。それなのに、昔と同じように屋敷に出入りすることが、未月には面白くないらしい。きっと個人的にも、清川縁示のことは好きではないのだろう。
「……それで、いま、こいつの中に、何が入ってるんだ?」
「円が夜叉乞いをして、呼び寄せてしまったものだ。本来ならば、こんな風に捕まえられて皮を被せられてしまうような存在ではないのだけれど、祟堂の弓と当主の御力には、さすがに対抗しきれなかったようだね」
 こともなげにそんなことを言うのが、やけに現実感が無かった。円が呼び寄せてしまい、そのせいで彼女は気が狂い、殺すしかなくなってしまった。その「何か」が今、目の前の男の中に入っている。
 ヒカリは身を屈めて、眠る清川の耳元で何か囁くように呟いた。離れたところから見ているのでは、まるで秘密の話をそっと打ち明けているようにも見える。
「はい、終わり」
 ヒカリがそう言って顔を離すのと、それまで少しも動かなかった清川の目蓋が開くのとはほぼ同時だった。長い時間眠りに落ちていた名残りは全く感じさせない強い眼差しを、傍に立つヒカリに睨むように向ける。
「そう怖い顔をするなよ。折角起こしてあげたのに」
「『黙れ』」
 その口から出た声は、清川のものではなかった。もっと低く、暗い。
 どこかで聞いたことのあるもののような気がした。
「あとは、自分で出られるだろう。貴方が捕まるなんて、らしくない。珍しく下手をしたものだね」
 清川の身体に入っている「誰か」は、身を起こしてそう笑うヒカリをもう一度睨み付けた。その眼差しも、清川のものとは異なっていた。
 その目が、コウと未月の方を見る。
「……祟堂様?」
 未月が呆然とした様子で、独り言のようにそう呟く。思わず口に出してしまったような、その言葉に、コウもこちらを見てくる相手を見返した。その目が合う。
 彼は、未月ではなく、コウを見ていた。
「……あんた、あの時の、」
 清川なら、決してこんな顔はしない。いっぱいに引き絞られた弓のような、強い緊張感を湛える研ぎ澄まされた眼差し。抜き身の刃のような鋭く強い目に、ふと捧が時折そんな目をしかけたことを重ねる。この男には一度、会ったことがある。現実ではない、赤く重たい夢の深いところで。
「『わたしを覚えているのか。……幼な子よ』」
 何度も殺された、あの痛くて哀しい夢の中で、コウの心も死にかけていた。それを、繋がる糸を思い出させてくれて、戻ることを教えてくれた男。あの、鬼の面の男だ。姿かたちは面に邪魔されて見えなかったし、もう記憶がおぼろげでよく覚えていない。それでも、そう語りかけてくる声は、確かにあの時聞いたものだった。
「さて、助けてあげた代わりにと言っては何だけど、ひとつ教えてほしいことがある」
 ヒカリのその言葉を聞いて、男は明らかに嫌そうな顔をした。
「『頼んだわけではない。貴様に手を借りずとも、もう少し時を得れば、わたしだけで抜け出せた』」
「はいはい。それは申し訳ないことをしたね。……というわけで、ぼくとそこの彼はあまり仲が良くない。コウ、きみから聞いてごらん」
 話を振られて、戸惑う。何者だかはよく分からないが、人智を超えた存在であることは確かだ。そんなものの相手をするのが、儀式や一族の血を引く自覚などまったくないに等しいコウでいいのだろうかと思った。けれども、その男は清川の身体をコウの方に向けて、まるでこちらが話すのを待っているように、じっと目を向けてくる。聞いてくれるのだろうかと思いながらも、口を開いた。
「あんたが、祟堂様なのか」
 なんだその口の訊きかたは、とでも言いたそうに、隣の未月がぎょっとしているのが伝わった。
「『違う。わたしはあのお方に付き従う者。『蜘蛛』が我が君の目であるように、この身は我が君の剣そのもの』」
 男はそう答えてくれる。呪術師ではないらしい。この男も、ヒカリと同じような存在なのだろうか。
「夜叉乞いをしたら、ほんとに、死んでしまうのか」
「『……夜叉乞いとは即ち、祟堂の一族が、我が君へと命を御返しする儀式。ひとりの命では、我が君の御姿を現に御呼び出来るのはほんの一瞬。その僅かな間の邂逅のことをそう言う』」
「命を、返す」
 花羽も雨夜も、「狩り」の一族はほんとうならばもう、とうの昔に滅んでしまっている人間たちなのだと、未月にそう聞いたのを思い出す。それを、呪術師の力で生きていられる。そういうことなのだろうか。
「『死ぬかと問われたら、祟堂の血は死ぬだろうとしか答えられぬ』」
「じゃあ、それなら」
 コウは確かに雨夜の血を受けてはいるが、同時に、「蝶」である父の血も引いている。
「おれは、半分死ぬだけで済むってことだな」
 それを聞いて、安心して息を吐く。呪術師の従者だという男は、そんなコウのことを不可解なものを目にしているように見ていた。それに、ヒカリが笑う。
「おかしな子だろう」
「『貴様に言われたくはないと思うがな』」
「……違いない」
 冷やかにそう返してくる男に肩をすくめるその様子は、ヒカリが言っていたほど仲が悪そうには見えなかった。
「『あと、ひとつ。我が君に、最後の蝶を』」
 男はヒカリのことは無視して、コウと隣に並ぶ未月にそんなことを言ってきた。「蝶狩り」の話だ。
「もしここで、断る、と言ったら?」
 それに、未月がそんなことを言い出したので、驚いてその顔を見る。いつものような真っ直ぐで迷いのない目で、呪術師の従者を見据えていた。その堂々とした存在感に、花羽未月は次の当主なのだと、今になってそのことを改めて思い知る。
 男はそれを聞いて、嘲るようにかすかに笑った。
「『鬼の一族は、千年の長きを経て、己の所業を忘れたか。血族を滅ぼし、家を絶やすのは、すべて己らの血に続く呪の業。蝶狩りとは他ならぬ、おまえたちに授ける、我が君の温情そのものであるというのに』」
 重く、呪詛そのもののような声と言葉だった。この男は、未月個人ではなく、「狩り」の一族への憎悪を抱いているのだと、そんなことに気付く。コウに少しだけ甘かったのは、その血が半分しか入っていないせいだったのだろうか。
「珍しくお喋りだな」
「『……貴様ほどではない』」
 からかうように笑ったヒカリに短く答えて、男は目を閉じた。もう終わりだ、とそう告げるようなその仕草に、自分でもよく分からないうちに、待てよ、と声を上げていた。
「あんた、名前は」
 閉じられた目が、今一度開かれる。コウの方に向いた冷たい目が、少しだけ温度を緩めたようにも感じられた。
「『……ユキ』」
「ユキ」
 たった一言だけ、そう答えられる。短いその名前を繰り返して呟くと、ユキと名乗った男はまた目を閉じた。次の瞬間、ぐらりと清川の身体が傾いて崩れる。支えるものもいないまま、牢の畳の上に転がった。
「行っちゃった?」
「の、ようだね」
 倒れた清川の脈拍を確認して、ヒカリは頷く。
「彼が抜けたから、すぐにこの子も元に戻るだろう。どうする?」
「……父さんに頼んで、こいつの実家に連絡して引き取って貰う。ついでに、当分ここへの出入りを禁止するように言っておく」
 それがいいだろうね、と頷いて、ヒカリは眠る清川をまた畳の上に横にしておく。
「この子にも、心に隙間があった。喜美香様が円を討ったときに、どうにかそこからは抜けられたものの、多少痛手を負った彼が、咄嗟にここへ逃げ込んだんだろう。ぼくはこの子のことはよく知らないけれど、もともとの血筋の素質に加えて、きっと、欲しいものがあって、それが埋まらなくて隙間を作っていたんだろうね」
「欲しいもの?」
「そう。きみかもしれない」
 ヒカリのその言葉に、眠る清川の顔を見下ろす。傷付けられたくて、酷い目に遭わされたくて、清川はその願いを満たしてくれた。清川は他人にそうすることが好きで、それ以上のことは求めていないのだろうとそう思い込んできた。もしそれが違っていたのだとしたら、コウはこの男を、傷つけていたのだろうか。
 ごめんと口にしそうになって、それでも、やっぱり止める。清川は清川で、楽しんでいたはずだ。もう、これから先は、あんな関係を求めることもない。ほんとうに欲しいものを、今は知っているから。
 戻るぞ、と、未月が言って先に牢を出て行く。通路に出ると、外で待っていた八木が、退屈だったのか、奥の牢の前に座り込んで捧と話をしていた。
「ああ、終わったのかい」
 出てきたコウたちを見て、ほっとしたように息を吐く。気を遣ったように、今まで座っていた場所をコウに譲ってくれる。捧はコウの姿を目にして、いつものように微笑んだ。
「コウ」
 格子を両手で掴んで、その間から顔を出来るだけ彼に近付けようとした。それでもまだ遠かった。触れたくて隙間から手を伸ばすと、すぐにそれを受け止めてくれる。唇に触れられない代わりのように、捧はコウの指に口づけた。
「捧さん、もうすぐだから」
 もうすぐ、終わる。千年の間長く続いてきた「狩り」も、それに縛られてきた呪いも。どういう結末で終わるのかはまだ分からないけれど、今は、どこに辿りつくか分からないことが救いでもある。
「だから、あと少しの我慢だよ。……あ、そうだ」
 何度も唇で触れられているのと反対の手で、制服のポケットを探る。これを渡さなければならないと思っていて、すっかり忘れていた。
「これ、持ってて」
「……これは、」
「返さなくてもいい。捧さんにあげるよ」
 小さなプラスティックのボタンを、捧の手のひらに乗せて、笑う。捧は驚いたように、手のひらの上に受け取ったものをじっと見た。
「いいのか」
「いいよ。捧さんが欲しいものなら、なんでもあげる」
「おれの、欲しいもの」
 コウの言葉を繰り返して、捧は何かを考え込むように目を伏せる。それに、うん、と頷いて笑ってみせた。まだ、これからしなければならないことがある。もっと、ずっと一緒にいられるようになるために。
「たくさん、考えておいて。全部終わったら、何をしたいか。どこへ行ってみたいか、何が欲しいか」
 それを、すべて叶えてあげるから。
 捧はしばらく言葉の意味を考えるようにコウの顔をじっと見て、そうして、ああ、と目を細めて笑って頷いた。


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