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第三章 「糸」 |
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6. 殺人者 母の様子がおかしいことには、薄々気付いていた。 姉の円が死んでから、その兆候は表れていた。元々が凛とした強い眼差しと言葉の人だったから、それが少しずつ弱くなっていくのはよく分かった。けれどもそれを、異常だとは思わなかった。娘を失った母親が心を痛めるのは、ごく自然なことだとそう感じていたからだ。痛ましいとは思っていたけれど、それがおかしなことだとは思わなかった。 だから、最初は気付かなかった。 弔いの儀式を行うことの出来ない姉の遺体は、まだ母屋の座敷にある。「蝶狩り」を取り行う未月の誕生日は、もう明後日に迫っていた。それが終わったら、すぐに葬儀が出来るように父が準備をしてくれているはずだった。母は、ずっとそこには近付いていない。やはり見るのは辛いのだろうと、未月だけではなく、父でさえも、そんな風に思っていた。 (「未月はどこ?」) そう父に尋ねていたのを聞いたのは、今朝のことだ。 朝食の席で、両親のすぐ近くに未月は座っていた。それなのに、母はその場を見回すように首を巡らせたあと、父にそう聞いていた。冗談を言うような人ではないし、そう聞いていた表情は至って平静で、普段と変わりないように見えた。 そこに居るじゃないか、と、不安気に父が答えたのに、母はじっと未月の方を見た。しばらく何も言わずに顔を眺められて、やがて、そうね、と静かに目を逸らされた。戸惑っていると、母は何事もなかったような顔をして、食事も取らずにまた部屋に戻って行ってしまった。その足取りも、まるでまだ夢を見ている途中の人のようなおぼつかないものだったので、心配そうに父が支えてやっているのを見送り、ひとりで食事をした。 捧のことや、牧丘コウのことがあって、しばらくそのことを忘れてしまっていた。ひとりで地下室の壁に背中を預けていると、その母の様子が今になって思い出されて妙に不安になった。 未月は生まれたときから、花羽の家を継ぐ次の当主として育てられてきた。特に母親は、千年以上も前から続いているこの家を守らなければという気持ちの強い人で、未月に対しては親というよりも当主としての顔を見せる方が多かった。ほんの子どもの頃から、将来は未月がその役割に就かなければならないのだということを覚えさせるために、色々なことを教えられた。占いや祈祷の作法や、親族の者たちとの付き合い方。もうひとつの家との、決して相容れない在り方の違い。いずれ果たすべき、「狩り手」の役目。教えられることはたくさんあった。だから未月も覚えるのが精一杯で、母が自分に対して、家以外のことを話すことが極端に少ないことには、ずっと気付かなかった。 母は自分を大切にしてくれている。この家において、最後の「蝶」と同じ位、重要な存在だからだ。 「……終わったのか」 奥の牢の前で膝を付いて、中に入っている捧とずっと何かを話していた牧丘コウが立ち上がり、未月の方へと戻ってきた。それに顔を上げる。あまり明るくない照明の下で見ても、泣いていたらしく、目が腫れぼったくなっているのが分かる。けれど、表情はそれとは反して、何かを振り切ったような明るいものだった。 「うん。ありがと」 そう言って、未月の方を見て軽く笑いさえする。はっきりとした笑顔ではなくて、この男らしい弱い笑い方ではあったものの、そんな顔はこれまで目にしたことはなかった。 「それで?」 「ほんとは、出してあげてほしいけど。でも、ここに入っていた方が安心なのはおれにも分かる。だから、やっぱりしばらくは、ここにいてもらった方がいいのかな」 どうしたいのだと聞くつもりだったのに、そんな返事をされる。何を言っているのかしばらく理解出来なくて、やがてすぐに、捧のことだと気付く。コウがそんなことを言い出したのが意外だった。てっきり、また、出してやれと睨まれるかと思った。 それに、そうだな、と頷く。もう、あと一日ばかりのことだ。捧は自分の与えられた環境に不満を覚えることはないだろうが、せめて最後の時間に何か好きなことをさせてやろうと、本を持たせてやった。捧は幼い頃から、外に出ることを許されず、学校に通うこともないことを憐れんだ父によって、基本的な教育を受けている。毎日、離れでぼんやりと時を過ごさせるのではなく、本を読ませ、考えたことを言葉にして話させたり文章で書かせたりして、普通の子どもたちが成長していく過程の中で自然と身につくことを、捧にも教えようとしていた。それが成功しているのかどうかは未月には分からないが、どうやら、本を読むことは好きらしい。 分厚くて長い時間読んでいられるものがいいと思い、国語辞典を渡した。牢の中では、ずっとそれを広げて読んでいたらしく、夕食の器を下げに行った時には、「さ」行に入ったところだと報告された。自分の今の状況には、何ら不満を感じている様子はなかった。 しかしそのことを、牧丘コウは許さないだろうと思っていた。コウは、きっと花羽の家を恨んでいる。捧をずっと閉じ込め自由を奪い、最終的には命まで取ろうとしている未月たちのことを憎く思っているはずだ。それは当然のことではある。 「いいのか」 「何が」 「……何でもない。忘れろ」 だからコウがそんなことを言うとは思わなかった。泣いてまで、捧と何を話していたのかは分からないが、少なくとも彼の中で何かが変わったのだけは分かって、そのことに、逆に危惧を覚える。この男は、大人しそうな顔をしていて、その実、急に何をするのか分からないところがある。 きっと、また何かとんでもないことをやろうとしているのだと、理由もないのに、それが分かった。 「未月にも、聞いてほしい」 そんなことを考えたのに気付いたように、コウは地下を出る階段を上がりかけて、振り向いて言ってくる。それに聞こえなかった振りをして、先に階段に足をかける。木の板が軋んだ音を立てた。 何を言われても、聞き入れることは出来ない。 「儀式を行うのを、待ってくれないか」 置いて行かれると思ったのか、飛び跳ねるような足音を立てて階段を上ってきたコウが口にしたのはそんなことだった。予想の範疇ではある。出来ないと言葉にして答える気にもならなくて、黙ってまた地下へ降りる扉に鍵を掛けた。 「何か、別の方法があるはずだ。それを探したい。だから」 「無駄だ」 無視するつもりでいたのに、コウが言い出したことが癪に触って、つい冷たく言い放っていた。こんな風に嫌な言い方しか出来ない自分のことをよく分かっているつもりだった。だから、黙ったままでいようと思った。それなのにコウが甘いことを言い出すから、つい、口に出してしまう。 「千年の間、ぼくたち一族の者が、何も考えなかったと思うのか。何か他に方法があるのなら、とっくに試している」 「おれは、半分しかそっちの血を引いてないらしいから、よく分からないけど。でも、未月たちは、今でもその呪術師の血を引いてるんだろ。だったら、その力で、なんとかならないのか」 「力と言える程のものは、もうほとんど残っていない。花羽も雨夜も、今でもそんな習わいを続けていられるのは、力があるためというよりも、代々受け継がれてきたものを頼りにするところが多い」 未月の言葉を聞いて、コウはそれでも納得がいかないように、まだ続ける。 「呪いを解くことは出来ないのか」 「出来ない。出来るのかもしれないが、そもそもそんなことをすれば、どちらにしろ『狩り』の血は滅ぶ」 「……どういうことなんだ?」 母屋の中で話を続けるわけにもいかなくて、不思議そうに聞き返してくるコウを連れて、そのまままた庭に出る。離れまで送り届けようと思った。そこには八木貴人もいるだろうし、きっと、「蜘蛛」もいるだろう。 暗く静まり返った庭を歩きながら、少し遅れて付いてくるコウに、逆に尋ね返す。 「おまえ、どんな風に聞いたんだ」 捧か「蜘蛛」か、あるいは雨夜の当主かは知らないが、コウはある程度のことは聞いているらしい。けれども、呪いを解く、などという発想が出るようでは、それが不完全な情報であるのは明らかだった。 「千年前に、庭師が蝶を死なせたからだろ」 それを聞いて、溜息を吐く。そう教えられたということは、捧から聞いたのだろう。 「違う。それは『蝶』の一族に伝わる伝承だ。大体、そんな話があるか。たかが蝶一匹のために、千年も他人を呪うなんて」 「そんなこと言われても」 馬鹿にしたようになってしまう口調に、コウがむくれたような声でそう呟くのが聞こえる。 「『狩り』の一族は、本来ならば死滅しているはずの血筋だ」 「……え?」 「千年前に呪いが定められたのは事実だろうと思う。それが、実際に蝶を死なせてしまったことに対してのものなのかどうかは分からないけれどな。けれど、実際に、そんな戯言を聞くと思うか。祟堂様が強い力を持つ呪術師だったのはほんとうのことだろうから、その人が生きている間には、周囲の者が恐れて、儀式が行われたかもしれないが」 日頃からそう思っていることではあったが、こんな風に他人に向ける言葉にしたことはない。だから、普段は出来るだけ名前を出さないようにしているその人のことを、つい口に出してしまっていた。 「スドウ様?」 「……『蝶狩り』を定めた、千年前の呪術師の名前だ。花羽も雨夜も、もともとは祟堂という一族だった」 それが、長い時間の中でいつしかふたつの家に分かれていった。祟堂の「蝶」は、花羽の白とも雨夜の黒とも違う、もっと透き通る光のような羽を持った美しい蝶だったと言われている。 「現在まで続けられている『狩り』が始まったのは、祟堂様が亡くなってから十年後のことだ」 「十年……、ああ、そっか。おかしいと思ってたんだ。千年って、十五で割れないから」 コウは未月の言葉を聞いて、納得したようにそう頷いている。十五年に一度、と定められたその「狩り」の儀式のことを言っているのだろう。 「その年はひどい飢饉と、流行り病で多くの人間が死んだらしい。それが祟りかどうかは今となっては分からない。けれど、そのせいで、祟堂家の者もたくさん命を落とした。彼らが呪術師と、その呪いのことを思い出すのは当然といえば当然のことだったんだろう」 「……それで?」 「呪術師を呼び出して、どうすればいいのか聞いた。その人は、滅び絶えるのが祟堂家の定めだと、そう答えたらしい。残された一族のものは、どうにかしてそれを変えられないかと頼み込み、自分たちの命を助けて貰う代償に、千年の『蝶狩り』をその人に捧げることを約束した」 「狩り」の一族は本来ならば、とうの昔に死に絶えてしまっているはずだった。それを、呪術師の力で定めを捻じ曲げて生き延びることが出来ている。……生かしているのがその人の力によるものである以上、その命を改めて奪うのもまた、簡単なことなのだ。だから、「狩り」の者たちは皆、千年経った今でも、その人を敬い恐れ、怒りを買うことを何よりも避けようとする。 「『蝶狩り』は、もともと死んだはずの自分たちを改めて生かすための儀式だ。だから、それを行わなければ血が絶える。呪いと一言で言ってしまうのは容易い。けれど実際には、その呪いこそが、ぼくやおまえを生かしているということだ」 だから、呪いを解くことは出来ない。出来ても、それはそのまま、「狩り」の一族が滅ぶことに繋がるだけだ。 「じゃあやっぱり、別の方法を探さないと駄目ってことだな」 牧丘コウが、そんなことを呟くのが聞こえた。未月に言ったつもりではないのだろう、独り言のような言葉だった。けれど、聞こえてしまったので、振り向く。 「いい加減にしろ」 そんな風に軽々しく言うことが、許せなかった。 「おまえが捧のことだけを考えて、あいつに生きていて貰いたいと思う気持ちは分かるつもりでいる。そうしなければ自分が死ぬのだとしても、おまえは、あいつを殺すくらいなら、そちらの方がましだとそう思っているんだろう」 庭には明かりがない。だから、相手の顔が見えるところまで近付いて、何か言いたそうな表情をしている牧丘コウに言い放つ。 「けれどそうなれば、死ぬのはおまえだけじゃない。花羽も、雨夜も、すべてが命を落とすんだ。それが、どれだけの数になるか、考えたことはあるか。儀式を行うのを待てだって? 今だって、ほんとうならばもう遅すぎるくらいなのに。もう何人か、間に合わずに死んでしまった者もいるんだ。ぼくは、彼らを守らなくてはならなかったのに」 感情的になり、次から次へと、そんなことを言ってしまう。牧丘コウは最初こそ、そんな未月を驚いたように見ていたが、次第に、神妙な顔をして、うん、と頷くようになった。 「仕方がないだろう。おまえが、いくら死なせたくないと思っても、そうしなければ、」 「……じゃあ、おれを殺せよ」 頷いたかと思うと、急に、そんなことを言われる。 冗談を言われたのかと思い、その顔を疑うように見る。この顔を、こんな風に真正面から見ることがあるなんて、思ったこともなかった。未月とは、何の接点もないはずだった相手。生まれた時から人を殺すことを定められた未月とは違う。けれど、いつも見ていた。あの雨の日に、傘の影から隠れてその姿を目に焼き付けてから、ずっと。 牧丘コウの表情は、その時のように、何を考えているのかよく分からない、ぼんやりとしたものだった。目だけが真っ直ぐ、今は未月に向けられている。 「捧さんじゃなきゃ駄目ってことはないだろ。おれだって一応『蝶』の血を引いてる。ヒカリも、別に片羽でも数は数だから、問題ないだろって言ってたし」 「なにを……、」 「おまえが、同じ一族の人たちのことを死なせたくないって思ってるのはよく分かる。そのために誰かを殺すことも、ずっと決められてて、そうするしかないって思ってきたんだろ。だったら、今ここで、おれを殺せよ」 そうすればうまくいくんだろ、と、コウは言葉を切った。身動きの取れない未月に、近かった距離を更に詰めて、両手を取られる。そのまま、相手の首筋に手のひらを当てられるように持ち上げられた。 何をするんだ、と問うようなつもりで、コウを見る。彼は挑むような目で未月を見返してきた。そんな顔も出来るのかと、事態が呑みこめないままの頭で思った。触れている手が冷たくて、少しずつ淡い熱が伝わってくる。その体温の弱い感触が、この男らしいとそんなおかしなことを考えた。 「このまま、ちょっと力を入れれば首が絞まる。……ほら、早くしろよ」 その言葉に、ようやく、コウのしたいことを理解する。未月に首を絞めさせようとして、自分から手を取ったのだ。 あとは、未月が力を込めれば、それで終わる。 コウは未月が早くそうするのを待っているように、何も言わずにじっとしている。挑むようだった目は、今は何を考えているのか分からない、いつものような曖昧な色に戻っていた。ずっと見ていた、この顔。 コウの言うことは正しかった。大事なのは「蝶」を狩ることで、捧を殺すことではない。だから、雨夜と数を合わせるための白い蝶をひとつ手に入れられるのならば、別に、それは牧丘コウであっても構わない。 (「……やめろよ、そういうの」) 平気だ、誰であっても。 大事なのは、一族の人間たちが生き延びられることだけだ。子どもの頃から、ずっと、そう言い聞かされて育ってきた。この手はもともと、ひとを殺すためにあるものだ。人間ではない、化け物の手。 (「……あんなことを言われて、まったく傷つかないやつなんて、いないだろ」) ひとつ頷いて、添えられたその手に、力を込めようとした。 「……嫌だ」 出来ない。指先が震えて、少しも力が入らなかった。 「嫌だ……!」 呟くように口にしたその言葉も、指先と同じように震えていた。牧丘コウは未月のその反応にも表情を変えずに、何かを待つように、眼差しを揺るがせずにこちらを見ている。 その目を見て、決して誰にも知られてはならない言葉が零れた。 「殺したくない」 花羽の一族の者も、捧も、牧丘コウも。殺したくない。そんなこと、したくない。けれども家のために、そうしなければならないのだとずっと言われて育ってきた。だから自分でも、そのことを言い聞かせ続けてきた。未月ひとりが我儘を言えば、困るものが大勢いる。この手は汚れる為の化け物の手なのだと、そう思って諦めようとした。だけど、いつまで経っても、それを心の底から受け入れることが出来なかった。 ほんとうは誰も、殺したくなかった。 未月のその言葉を聞いて、うん、と、コウは小さく頷いた。 「いいよ。誰も殺さなくても」 ごめん、と最後にそう付け加えられる。いつものような淡々としたもの言いではあったが、それでも、どこか相手を慰めるような優しい声のような気がした。謝ってきたということは、もしかしたら、挑発するようなことをして未月を試した、のだろうか。 「……、未月?」 いつの間にか、そんな風に名前で呼んでくるようになっていた。それを、最初は戸惑った。 この名前が嫌いだった。ひとを殺すことを定められたものである名前は、未月個人ではなく、次の当主に与えるために母が考えたものだ。だから、最初の「未月」は姉だった。それを数年して、次に生れた子どもが男児だったから、跡継ぎはそちらになることが決まった。先に生まれた「未月」は円になり、後から生まれた未月が、その名前を奪った。姉はそのことを、ずっと許してくれなかった。家を継ぐことも、「狩り手」になることも、皆から必要とされることも、母から与えられた名さえも、すべて未月が奪い取った。そんなもの、欲しいと思ったわけではないのに。 自分でも気が付かないうちに、それまでコウの首筋に掛けていた手を、相手の背中に回していた。熱を求めるように、夜風に冷えた身体を寄せるようにそれを抱いていた自分に気が付いても、その手を放せなかった。コウは驚いたようではあったが、振り払うようなことはしない。まだ震えの残る背中を、手のひらで元気づけるようにそっと叩かれた。 誰よりも、この男に許されたことが嬉しかった。服の布地越しに伝わる相手の体温に、深く息を吐いて目を閉じる。もうしばらくだけ、こうしていたかった。 「……儀式を待つことは出来ない。それでも、まだ、時間がないわけじゃない」 大人しく身動きをしないコウを抱いたまま、呟く。コウが顔を上げるような気配を感じたが、見られたくなくてその肩口に額を押し当てるようにうつむく。 「明後日の、陽が沈むまでなら待てる。けれどそれ以上は、無理だ」 コウが簡単に言うように、他に何か方法があるかどうかは分からない。 しかし、もしほんとうにそんなものがあるのだとしたら。これしかないのだと思っていた、今のやり方と違う道があるのならば、それを選びたかった。そうすることを、牧丘コウが許してくれた。 だから、どんなに僅かな可能性でもいいそれを、信じてみようと思った。 分かった、と、コウが頷くのが聞こえる。 「未月、……ちょっと苦しいんだけど」 控え目ではあったが、そんな風に言われて、慌てて手を放す。まるで恋人にするように抱き締めてしまったことに、今さらながら我に返った。気が弱くなって、つい、そんな風にしてしまったのだと言い繕おうとしたが、コウは何事もなかったように平然としている。おかしな男だと、改めてそんなことを感じた。 「コウ」 どうしてコウだったのだろうと、そう思い続けてきた。捧が選んだのも、雨夜の血を引いているのも、そしてほんとうの意味での最後の「蝶」であることにも、どうしてこの男を選んで巻き込んだのかと、苛立つような思いを抱き続けてきた。 「……ありがとう」 出来るだけ聞こえないように、小声で言ったつもりだった。それなのに、コウは未月の方を見て、少しだけ間を空けてから、ふわりと氷が溶けるように笑う。 今は、それがコウで良かったと、心からそう思えた。 そうと決めれば、こんなところでぐずぐずしている時間は無かった。 弱い顔を晒してしまったことが気恥かしくて、コウの顔を見られない。よくあんなことをしたものだと自分のしたことを思い返して、呆れるような感心したような気持ちになった。 早足に庭を歩き出した未月に、コウがあとを付いてくる足音が聞こえる。この庭は慣れた、正確な道順を知るもの以外にとっては迷路のようなものだろうに、よくひとりで離れから母屋まで来られたものだ。そんな風に考えて、やがて、それは間違いであることに気付く。この庭は、「蝶」のためにある庭だ。捧がそうであるように、コウにとってもまた、開かれた場所であるのかもしれない。 時刻はおそらく、日付が変わった頃だろう。「蝶狩り」まで、あと残り一日だ。 離れに運ばせたはずの夕食の容器がまだ母屋に戻されていなかったことを思い出す。八木の性格からすると、空になったまま置いておくようには思えなかった。コウはまだ食事をしていないのだろうかと考えて、そのことを確認してみようと、振り返る。この男は、何かひとつのことに集中すると、寝たり食べたりを簡単に忘れてしまいそうな気がした。 「おまえ、」 けれど、聞きかけた言葉は途切れて、それきり続かなくなった。振り向いて何か言おうとして、ふいに黙り込んだ未月を、コウが不思議そうに見ていた。未月が足を止めると、コウも立ち止まる。 「どうかしたのか?」 それに、静かにするように仕草で示す。何か、嫌な気配を感じた。よく知っているもののような、それとはどこかが違うようなものだ。コウは何も感じないのか、警戒心を露わにする未月に、庭を見回しても何も気付いた様子はなかった。 すぐ近くに、潜んでいる。寒気がするような、強い悪意を感じて鳥肌が立った。 それまでは辺りに漂うばかりだったその強い気配が、ふいに尖って一点に絞られるのが分かる。標的を見つけて、狙いを定めたのだと気付いた瞬間、ぼんやりと辺りを見回す、隣にいた男を突き飛ばしていた。 「……コウ!」 突然そんなことをされて、コウは驚いた顔で地面に倒れる。未月に顔を向けて、何か言おうとするのを遮るように、風を切る音が空気を鳴らした。耳のすぐ近くをかすめたそれが、つい先程までコウが立っていた辺りの木の幹に突き刺さる。木全体が震え、振動で葉がざわりと鳴り、すぐに止む。暗い庭に、数枚葉が降った。 「え……」 それを目にして、コウが声を上げる。木に突き刺さるのは、細長い棒状のものだ。まるでそれを待っていたように、それまで隠れていた月が出てきたらしく、辺りがわずかに明るくなる。だから、コウにも、それが何なのかは分かっただろう。 「矢?」 不思議そうに、それを見ている。よく見てみようと思ったのか、立ち上がりかけているのを手で制して、動かないように言う。矢が放たれた方から、コウを背中に隠すようなつもりでその前に立ちはだかった。 闇の中に、呼びかける。 「……どうして、こんなことを」 この気配は未月のよく知っているものだ。濁って、見たことのない淀んだものになっているが、それでも、間違えるはずはない。その人がこんなことをするのが信じられなくて、呼びかけた声は迷いが出て、あまり強いものにはならなかった。 「そこを退きなさい、未月」 庭の奥から姿を見せたその人の姿を見て、コウが息を呑んだのが分かる。獲物を狙い損ねたためだろうか、二本目の矢を番えた弓を構えるその姿は、白地の多い着物の色のせいか、闇の中浮かび上がるように、異彩を放っていた。自分の見ているものが信じられなくて、コウを守らなければと思うのに、呆然としていた。 「……、母さん」 弓を構えたまま、こちらに強い目を向けてくるのは、未月の母の喜美香だった。花羽家の、現在の当主。 その目は未月を通り越して、後にいるコウを見据えている。弓で彼を狙ったのも、喜美香なのだとその目を見て思い知る。 「どうして、こんなことを」 「どこかで見た顔だと思い、ずっとそれが気になっていました。……雨夜繭花!」 母が言葉を投げつけるように口にしたその名前に、コウがびくりと肩を震わせるのが分かった。 「先程、忍び込むように母屋に入り込もうとする姿を再び目にして、ようやくそれを思い出しました。おまえは、あの女の息子なのでしょう」 そう語る声は、押し殺したように感情を一切うかがわせないものだったが、コウに向けられる目が純粋なほど悪意を露わにしている。だから却って、その冷たさが恐ろしかった。 「何をしているのです、こんな所まで入り込んで来て。未月から離れなさい、この人殺し。おまえが、……おまえが悪いのでしょう」 コウは何も言わない。硬直したように、地面に座り込んだまま、言われるがままになっている。両腕を広げて、その姿を庇うようにして、母に向き合った。 「おかしなことを言うのは止めてください。この男には、何も関係ないはずだ」 「退きなさいと言っているでしょう、未月。わたしの言うことに逆らうのですか」 「家のことなら従います。けれど、彼は花羽とは無関係なはずだ。雨夜の血を引いている以前に、ぼくの友人です」 「何を……! 最初から、すべておかしかった。何もかも滞りなく終わるはずだったのに、そこの者が現れてから、すべて狂い出した。答えなさい、円に夜叉乞いを教えたのは、おまえでしょう」 「夜叉乞い?」 母の言うことは、未月にさえ分からなかった。それは何なのだと尋ねるようなつもりで未月が繰り返しても、母の言葉は止まらない。コウの方に向けられている目は、もう、どこを見ているのか分からない危ういものだった。 「あれは決して、円のようなものには遂げられない秘儀。そうであることを知っていながら、あの子の心の弱さに付け込んで、その手法を教えたのでしょう。ああなることを分かっていて……!」 「何を言っているのです! この男が、姉さんの死に関わっているはずがない」 円が死んだ頃、牧丘コウはまさに姉たちのせいで意識を失っていて、そのまま「蜘蛛」によって雨夜の家まで連れて行かれた。仮に、花羽の家を出るまでに目を覚ましていたのだとしても、あんな酷い有様では、とてもではないが弓を引くことなど出来なかっただろう。そもそも、コウには弓道の心得などないはずだ。不可能に決まっている。 離れまで走って逃げろ、と、背後のコウに向かってそう言う。けれど、コウが動く気配はなかった。ほんの一瞬だけその様子をうかがうと、まるで凍りついたような表情のままで、じっと喜美香を見ている。怯えたように、その顔から血の気が引いていた。 「蝶」の血のせいだろうと、そのことに気付く。「狩り」のための弓まで持ち出してきて、あんな風に強い目を、それも正統な当主に向けられたのでは、そうなって当然だ。舌打ちをして、母に向き直る。嫌な予感がした。 「……母さん、まさか、」 「円を弓矢で射たのは、このわたしです」 冷たく感情のない声に、ほんの少しだけ、憐れむような色が混じる。 「可哀想に。あの子はしてはならないことをしました。間違った手順で夜叉乞いの儀を行い、そのまま、自分自身の血に呪われてしまった。……わたしが気が付いて、様子を見た時にはもう、あの子は内側から蝕まれるように正気を失って苦しんでいました。ああなればもう、誰にも何も出来ない」 夜叉乞いというのが何のことなのかは分からないが、おそらく儀式のひとつなのだろう。母の言葉は最早、誰に向けられているものでも無さそうだった。あの細腕では、弓を構えることも大変だろうのに、矢の切っ先はこちらの方に向けられたまま、微塵も動かされない。正気でない、と母は姉のことをそんな風に言ったが、まさしくそれは、今の母にも当て嵌まるように思えた。冷徹なまでに賢い人だったのに、娘を失ったことで、物事の正確な判断が出来なくなっている。 「この弓は神具。『蝶狩り』に用いるこの弓でなければ、円の中にいるものを鎮められなかった。これが、本家の者に向けられるなど、……あってはならない、許されないことです。ですから、その者を寄越しなさい、未月。仇を討って、あの子への弔いとします」 「出来ません。その弓を下げて、ぼくの話を聞いてください」 「わたしに逆らうのですか!」 母に、そうやって怒鳴られたことはこれまでに一度もなかった。未月自身がそうされないように気を付けていたし、何より、この人は余り怒りを露わにするような人ではなかったからだ。 母親の初めて目にするその姿に、事態が切迫していることは理解しつつも、心は冷静にそれを捉えていた。子どもを失くして、それを悲しんでいるこの人の姿を、ただ哀れだと思った。 「姉さんは、雨夜家の者と交流がありました。年に一度の蝶供養の時だけではなく、何度も、あの家の者と一緒にいる姿を目にしていました。ぼくでさえ知っていることです。それを、母さんが気付かなかったはずがない」 執り行ってはならない儀式のことを誰かから知り、そうしてそれを、花羽の家の者が決して漏らさなかったというのならば、その情報の出所を探り当てるのは容易い。姉は、この屋敷から外に出ることはないのだから。 未月の言葉に、喜美香の構えた弓が初めて揺らぐ。それを見て、この人もほんとうは分かっているのだ、とそのことに気付く。円にその儀式のことを教えた人間を責めて、それで済む話ではない。結局、それを執り行って、内側から呪われてしまったのは円自身なのだから。 母にもそれは分かっている。けれど、誰かを犯人にしなければ、気持ちが治まらないのだろう。自分で、娘の息の根を止めることになってしまったのだから。 「姉さんは、この家のことが嫌いでした。……ぼくのことも。その儀式で、何をしようとしていたのかは知りませんが、もしそれが、憎く思うものへの恨みを晴らすためのものだったなら、成功していればぼくは死んでいたかもしれません」 「……夜叉乞いは、祟堂様を自分の身に降ろす儀式です」 糸の切れた傀儡のように、母は弓を下ろし、そのまま地面に膝を付いてうなだれる。 「正式な手法に則ったとしても、簡単に行えるものではありません。花羽の血を引くものなら、それがどんなに畏れ多いことであるのか、十分に分かっていたはずなのに。それ故の禁呪であるのに、どうしてあの子は、あんな、馬鹿なことを……!」 嘆くその声に、掛ける言葉が見つからなかった。牧丘コウが立ち上がろうとしているのに気付き、手を貸してやる。顔色は相変わらず悪かったが、喜美香を見る目は、先程のように怯えるだけのものではなかった。 その時、おおい、と、妙に場違いな声が響いた。それに、ここですと返事をする。 母の姿が見えなくなっていたのを探しに来ていた父が、ようやく追いついて来たのだ。憔悴しきったその様子と、すぐ近くに転がる弓矢に、何が起こったのかをすぐに気付いたのだろう。あとは任せなさいと言って、母を連れて母屋へ引き返して行った。 「……いいのか、一緒に行かなくて」 それを見送っていた未月に、コウが聞いてくる。首を振ってそれに応じた。今、未月が傍に居ても、出来ることは何もない。 「おまえ、大丈夫か」 尋ねると、うん、と頷かれた。何か、言いたそうな顔をしていたが、敢えてそれは無視して、また離れへと足を向ける。大体、考えていることは分かっていた。だから聞かなかった。 「あのさ、未月」 離れの雨戸は開けられたままで、中の明かりが外まで漏れていた。コウの戻ってくるのを待っていたのだろう。 その中にいる八木たちに、おかしなことを言い出される前に引き渡してしまおうと思った。呼んでくる声も無視して、八木を呼ぶ。すぐに中の障子が開いて、待ち構えていたらしい八木が姿を見せる。コウの姿を見て、安心したように、お帰り、と笑う。隣には「蜘蛛」もいた。 コウは彼らに一度目を遣ったあと、またすぐに、未月に目を戻す。 「……さっき言っていたのって、おれにも出来ると思うか」 考えていることは大体分かった。けれど、それを無視して聞かない振りをしたところで、この男がそう簡単に意志を曲げる人間では無いことも、もう分かっていた。 止めておけと言ったところで、きっともう、聞かないだろうことも。 「『夜叉乞い』か」 諦めてそう答えた未月に、コウはひとつ頷く。八木は、何の話をしているのかよく分からない様子ではあったが、「蜘蛛」は違った。興味を示したように、コウと未月を見てくる。 「喜美香様がお話しされたようだね」 笑いながらそう言う。この男には最初から、すべて分かっていたのだろう。 その、夜叉乞いという儀式についても、おそらく「蜘蛛」ならば詳しい。この男の手助けを得られれば、円のように、手順を違えて取り殺されることにもならないかもしれない。 「それって、おれにも出来る?」 「準備が色々と必要だけれどね。呼ぶ者は、祟堂の本家の血を引いていて、年は十五に近いほどいい。きみは十八だけれど、その程度ならまだ大丈夫だろうと思う。出来るよ」 「それなら」 コウがわずかに表情を輝かせる。それと反対に、八木は明らかに不安そうな顔をしていた。また何か、おかしなことに手を出そうとしていることが分かったのだろう。 ただし、と、今にでも行いたいとでも言いたげな様子のコウに、「蜘蛛」は最後に一点、付け加える。 「命と引き換えに、だけれどね」 その言葉に、内心で舌打ちをした。この呪われた檻の中では、何を話していても、誰かが死ぬ話になる。
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