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第三章 「糸」 |
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9. 開花前夜 花羽の離れに顔を出すと、そこには丁度、夕食の支度が並んでいた。部屋の中には捧の姿はない。向き合うようにふたつ並んでいる膳に、未月と捧の分なのだろうかと考え、彼らの姿を探しに母屋に戻ろうとした。 「コウ」 そこを、呼びとめられる。捧が、奥の廊下からこちらの方を見ていた。洗面所や風呂のある方から縁へと足を進めて、外から中を見ていたコウに入るように言う。 それに従い、彼の他にはいまは誰もここにいないらしいことを確認する。 「……コウ」 袂を掴まえて、その顔を見上げる。風呂上がりだったのか、髪が濡れていた。眼鏡の硝子越しに細められる目で見られているだけで、泣きそうになるほど胸がいっぱいになった。 「捧さん」 どちらからともなく自然に頬を寄せあい、腕の中に互いを閉じ込めるように抱き合う。最初は力の加減をどうすればいいのか忘れたように慎重で弱かった腕は、次第に強くなって息が詰まりそうなほどだった。牢の前で手を伸ばした時は届かなかった胸に、今は触れられる。額を擦りつけるようにそこに甘えると、満たされたように、捧が耳元でかすかに息を漏らすのが聞こえた。耳朶を伝うその吐息に、全身がぞくぞくと震える。 「いまから、ご飯?」 短く触れ合わせるだけの口づけを一度交わして、そう尋ねる。うん、と捧は頷いた。 「コウの分もある。一緒に食べればいいと、未月が用意してくれた」 「……おれの?」 コウが来ることを、ヒカリか八木から連絡されていたのだろうか。もしかしたら、何も聞いていなくても、捧を地下牢から出せば、放っておいてもこうやって訪れるだろうことは分かっていたのかもしれない。 並べられた食事は、いわゆる精進物と呼ばれるものらしかった。上品に盛られた小鉢には、肉や魚は無い。味付けも元々薄いのだろうけれど、今は、何を口にしてもまともに味わえそうにない気もした。 捧は普段から、こんなものばかりを食べているのだろうか、とそんなことを考える。美味しい美味しくないは別にして、身体には良さそうではある。それなのに、コウが連れ出して彼に食べさせたものと言えば、アイスクリームや適当なインスタント食品ぐらいだ。それを、捧は喜んでくれたようだったが。 向かい合って、食事する。箸使いや、小鉢に添える指の流れが相変わらずとても綺麗で、始終、捧を見ていた。目が合うと、淡く静かに微笑まれる。 この人が好きだと、改めて、そう深く感じた。 「朝になったら、迎えに来るって」 ヒカリにそう言われていることを、捧に伝える。だからそれまでは一緒に、自由に時間を過ごせばいいと言われているのだと暗に教えようとした。それを理解したのかしていないのかは分からないが、彼はコウのその言葉を聞いて、ひとつ頷いた。 「未月も、朝まではここに顔を出さないと言っていた」 「……おかしいよな、みんな。気使ってさ」 まるで、これが最後なのだから好きにさせてあげればいいと、そう言われているようで、少し気に食わない。 コウが笑って、空になった夕食の膳をふたつ重ねて、縁の隅の方に出そうとすると、それを捧に止められた。 「おれがしておく。……コウも、風呂を」 その間に床を整えておくから、と、普段通りの穏やかな低い声でそう言われる。何も考えずに頷いて、そうしてその後で、まるで誘われたような言葉だと思い、落ち着かなくなった。この人からそんなことを言われると、綺麗で品があるだけに、返ってひどく淫靡に感じられた。 言われた通りに風呂を使わせてもらう。気忙しく、ほとんど湯を浴びずにすぐに上がってしまった。 寝間着として借りた捧の浴衣を着て部屋へ戻ると、それを見て目を細められる。敷かれた布団の傍らで膝を揃えて座り、分厚い本を広げていた彼の近くにコウも座る。 「……辞書?」 ずいぶんと分厚い本を読んでいるのだと思い、それを覗きこんでみる。国語辞典らしい細かいその頁を見て、そういえば牢の中で、「に」まで読んだのだとそんなことを言っていたのを思い出す。ずっと、これを読んでいたのだろうか。 「もうすぐ終わる。もう『よ』だ」 「面白かった?」 「うん」 素直にそう頷かれる。そっか、とそれに笑い返すと、捧も微笑んで、広げていた辞書を閉じて、傍らに置く。 おいで、と低く呼ばれて、正座する彼の膝に向き合って乗るように近付いた。 首筋に腕を絡めて、コウの方から唇を重ねる。風呂から出たばかりの髪はまだ濡れていて、目を閉じて少しずつ重なりを深くしていく度に、前髪から水滴が鼻筋に零れ落ちた。 「捧さん、……ささぐさん、好きだよ」 唇を離す合間に、何度もそう囁く。捧はそれに応える代りに、囁く度にコウの背中を抱く手を強くした。 「コウ」 舌を柔らかく絡ませて、先の方だけで突き合うように短く触れ合わせると、頭が痺れてぼうっとなり、疼くように熱が高まる。耳元でそんな風に名前を囁かれて、倒されるようにそのまま布団に転がった。 「ほしいものが、分かった」 「……捧さんの、欲しいもの?」 そう、と、両頬に手を当てられながら上から覗きこまれる。首筋から耳の付け根にかけて何か所もきつく吸われて、痛いほどの強さに短く息を漏らした。 「……っ、あ」 「おれは、コウが欲しかった。羽を得るのならば、コウの色を与えてほしいと、ほんとうはずっと思っていた」 耳朶を噛むように口に含まれて愛撫されるさなかに、掠れた低い声で、そう打ち明けられる。 「たとえコウが雨夜の血を引いているのでなくても、何色でもいい、コウの色の羽が欲しかった」 殺してくれるか、と、微笑んで聞かれた。それをコウが拒んだ時、この人はそれでも笑っていたけれど、心の中ではそれをどう思っていたのだろう。決して聞き入れることは出来ない願いではある。けれど、そんなことを思うと、あの時間髪を入れずに頑なに拒否した自分が、少しだけ憎らしかった。 けれど、と、捧は続ける。耳から唇を離して、目を合わせて深い色の目に覗きこまれる。 「今は、違う。もっとずっと欲しいものが分かった。おれは、おれ自身が欲しい」 「捧さん、自身?」 「そう。コウと一緒に生きていられる、そのことを許される自分がほしい」 祈るような声だった。それを聞いて、胸が熱くなる。綺麗で静かな笑みを浮かべて、子どものような純粋な言葉でほんとうに欲しいことを教えてくれたこの人が、愛おしくてたまらなかった。 「大丈夫、きっと」 首筋に縋りつくように、彼を掻き抱く。どんなことをしても、それをこの人に与えてあげたかった。そのためなら、何でもする。何だって出来る。 捧を「狩り」の獲物にしないために、自分が未月に狩られることを決めた時の気持ちとは、似ているようで全然違う。彼の望むものには、コウ自身もまた、含まれているのだから。 「きっと、手に入れられるよ」 嬉しくて、愛しくて、そう願われたことが、とても幸せだった。 腰紐だけで簡単に留めていた浴衣はすぐに剥かれて、裸の胸を手のひらで撫でられては、その先端を指先で弄ばれた。膝を立てて後ろから受け入れるこの格好は、捧ばかりが自分の好きなように動けるだけで、コウは一切を与えられるだけに徹しなければならなくなる。熱い昂りそのものを捻じ込まれて、貫くように抜き差しされながら、腰を強く抱かれる。 「は、ぁ……、っ、あ、や、あぁ……っ」 きつく腰を掴まれているので、激しく打ちつけられる欲望そのものから、自分で身体をずらして逃れることは出来ない。手加減のない挿送に、コウはもう既に一度果てていた。それでも、まるでそのことに気付いてすらいないかのように、捧はそのままコウの中を蹂躙し続けている。そのせいで、精を吐いて萎えたはずのものがまた硬さを取り戻して、またあの白く灼けつくような快楽を得ようと身をもたげていた。 「ひ……、あ、ああ!」 身体が震えて揺れるのが止められない。それが与えられる強すぎる刺激への反応なのか、それとも、もっと欲しくて自分から求めているためなのか、自分自身にも分からなかった。 「コウ、……コウ、可愛い」 刺し貫かれたまま背後から伸し掛かられるようにされ、耳元で低くそう囁かれる。低く掠れたその声は熱をはらんでいて、媚薬のように甘かった。 「や……っ、ささぐさ、ささぐさん……」 このままでは嫌だと、すぐ近くでコウの顔を見ては目を細めているその人に、そう訴える。それが伝わったのか、まるで子どものように笑みを浮かべられた。繋がったまま唇を重ねられて、緩やかに引き抜かれる。 その感触に身を震わせるコウを、捧は真正面から抱き直す。床に縫いとめるように両脇の下に腕を差し入れられ、大きく開かれた足の間から、また、硬くコウを求めるものを少しずつ埋められていく。 「愛している」 そう囁いてから、再び唇を塞がれる。中を捧でいっぱいにされてずっと犯されているのに、口腔までも熱い舌で割入られ、余すところなく舐め上げられて絡められる。頭がおかしくなりそうなほど全部が気持ち良くて、このままこんなことを続けられたら気が狂ってしまいそうだった。 「捧さ、……も、」 首筋に強く縋りついて、そう許しを乞う。捧はコウのその途切れ途切れの声を聞いて、まるで聞きわけのない子どもを見るような顔をした。それでも、もう一度繰り返すと、宥めるように頭を撫でてくる。 「あ……っ!」 その懇願を聞き入れてくれるのだろう、それまではコウの反応を楽しむように、緩急をつけてはぎりぎりのところでわざと止めていた熱を、一旦浅いところまで引き抜いては、また深く一気に押し込まれる。 捧はもう、コウがどこを苛めれば一番甘い声を上げるのか熟知している。そこを強く何度も擦られて、限界が近かったコウはすぐにまた果てた。 「や、あ、あああ!」 「……っ、コウ……!」 びくびくと震えながら吐精したコウを潰れそうなほど両の腕で強く抱きながら、捧もコウの奥に腰を大きく打ちつけた。中に迸る熱いものに、また身体を震わせる。気が遠くなりそうなほどの絶頂に、それまで強張らせていた身体の力が抜けて、抱き締めてくる強い腕の中で息を吐いた。 「コウ」 閉じた目蓋や額や頬に、何度も軽く触れるだけの口づけを落とされる。 抱き締めてくれる腕の温もりに、気持ちが緩む。それまで意識していなかったけれど、近頃は中途半端に寝たり起きたりを繰り返し、あちらこちらに移動しては色々な事態に遭遇して、疲れることばかりだった。そうでなくても、気持ちがずっと休まらなくて、眠りながらも緊張が消えなかった。今だって、完全にすべてが終わったわけではない。寧ろ、いちばん大きな仕事が、まだ残っている。 それでも、こうして捧に寄り添っていると、なにもかも許されているような気がして、肩の力が抜けた。単純に、もう体力が残っていないだけなのかもしれないが。 これが最後の夜だと、他の誰もがそう思っているのが癪だった。そう思うのに、やはり、目を閉じて眠って終わらせてしまうのは勿体ないと感じるのも素直な気持ちだった。重たい目蓋を擦っていると、その仕草に気づいた捧に囁くように笑われる。 「疲れているんだろう。お休み」 それに、首を振る。捧が求めるなら、もう一度だってしてもいい。顔を上げてそう言おうとしたけれど、それよりも先に、宥めるように、額に口付けられた。 「大丈夫」 消しきれない不安を見透かしたように、コウの髪を撫でながら、捧が微笑む。 「コウが無事なよう、おれも、門倉様に祈るから」 「カドクラ様?」 はじめて耳にする名前だった。祟堂、が呪術師の名前なのはコウも知っているけれど、それとも違う。不思議に思ってコウがそれを繰り返すと、捧は微笑んで教えてくれた。 「ほんとうは、この名前を口にするのは禁じられている。門倉様は、祟堂の一族を呪いに巻き込むことになった、その最初の原因を作ったひとの名だ」 「……庭師の?」 捧から聞いた話を思い出す。千年の呪いの、一番最初。未月は、それが真実かどうかは分からないと言っていたけれど、捧たち「蝶」の一族にずっと伝わってきたのだという話だ。その人の名前だというのならば、それはつまり。 「捧さんの、ご先祖様だ」 「そう」 呪術師の一族が「狩り」で、庭師の一族が「蝶」ならば、そういうことになる。名前を口にすることは禁止されている、というのは、未月たち「狩り」の一族に、なのだろう。 それを聞いて、腑に落ちるものがあった。未月がよく捧に言っていたあの、身の程知らず、という言葉。捧が、彼と共に食事をすることを躊躇っていたこと。 彼らにとっては、今でも呪いに縛られているのはその門倉の一族のせいだ、という感情があるのだろう。その気持ちがずっと昔から受け継がれてきて、「蝶」の一族をあんな風に扱わせている。獲物として狩り、供物として捧げることも、人間として扱わないことも。 「門倉様は、きっとコウのことも守ってくれる」 だから大丈夫、と、まるで安心させるように繰り返しそう言ってくる捧に、コウも笑い返す。ずっと「蝶」として育ててこられた捧とは違い、コウにはその血を継いでいるという自覚がまるでない。雨夜の血についても同じことではあるが、だからその人の守りがあると言われても、素直にそれを信じられなかった。 捧がコウのことを思って祈ってくれるのだという、そちらの方がよほど、心の支えになる。 「……ほかに、ほしいものは、見つかった?」 心地良い眠気に抗うことをやめて、その胸に体を埋めながら、そう尋ねてみる。捧はしばらく、何か考えるように間をあけてから、口を開いた。 「コウのお祖母様に、ご挨拶をしたい」 それを聞いて、思わず笑ってしまう。 「それって、結婚の申し込みでもするみたいな言い方だよ」 いいよ、と、それを約束する。 「もうすぐ、家に帰ってくるから。だから二人で、一緒に行こう」 目を閉じる前に、もう一度、恋人の顔をすぐ近くで見た。眼鏡のないその顔は、普段よりも感情を少しだけ鮮やかに見せる。 「……ずっと、一緒だから」 「うん」 「何があっても、ふたりで、生きていこう」 その、どこか幼い顔を見上げて、そんな風に笑う。 捧も笑って、また、うん、と子どものように頷いた。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 未月が母屋を出たのは、まだ陽も登りきらない時間ではあったが、それでも牧丘コウはもうそこにはいなかった。「……行ったのか」 いつからそうしているのかは分からない捧が、まるで去ったものをいまだ見送るように縁に立っているのを目にしてそう聞くと、言葉なく頷かれる。 母屋は朝から騒がしかった。少しそれから離れたくなって抜け出してはみたものの、結局どこにいても、ほんとうに逃れたいものから目を逸らすことは出来ない。 蝶狩りの儀式を行うこの日のことは、母が以前から一族のもの皆に伝えてある。夜には、千年の儀式の終わりと、未月が正式に当主を継ぐことを祝う宴が開かれる。 それを計画し、ずっと準備していた母は、今はもうこの屋敷にいない。父が昨夜のうちに、この家から連れ出した。療養のために信頼のおける所に預けて心身を休めて貰うのだと、そんな風に言っていた。だから今、本家の人間は未月と父しかいない。何があったのか、事実を彼らに伝えるつもりも必要もなかった。彼らは皆、ただ純粋に儀式の終わりを祝うために集まる。 そんなことを考えて、相変わらず自分からは何も語ってこようとしない捧に、手にしてきたものを手渡す。 「おまえの為に、母さんが誂えたものだ。身を清めてから着換えろ」 捧は静かにそれを受取って、白一色のその着物に、少しだけ眩しそうに目を細めた。花羽の蝶として羽を捧げるための、儀式用の着物ではあるが、未月にとっては死装束以外の何物にも思えない。日頃は深い、濃い色のものばかり身に付けているこの「蝶」にはあまり似合わない色だろうと、その姿を想像してみただけで、違和感を覚えた。捧は白よりも、暗い色を好む。未月ではなく、牧丘コウの色だ。 「捧」 この日が来ることは以前から決まっていた。生まれた時から、などという短い時間ではなくて、それこそもうずっと昔から。それを、こんな気持ちで迎えることになるとは考えてみたこともなかった。母が言っていたことは間違ってはいない。すべて決まっていた通りに終わるはずだったのに、それが狂いだしたのは、牧丘コウのせいだ。 「あの時、社の戸を開けたのは、おまえか」 捧はそう問う未月を、いつものように感情をうかがわせない静かな目で見ていた。あの雨の日と同じだった。 考えてみれば、コウが現れて、捧を連れ出すよりも以前に、異変の徴候のようなものはあった。あれは、姉が勝手に感情に駆られてやったことだと、そのことを他の何とも結びつけて考えなかった。それが間違っていたのかもしれない、と今になっては思う。未月は好まない言い回しだが、一族の者がよく口にする通り、すべてはそうあるべく、最初から定められていたのかもしれない。そんな風に感じてしまう自分が、まるで儀式が迫って弱気になっているように思えて、腹立たしかった。 あの雨の日。庭の一番奥にある、蝶を閉じ籠めておく社の扉が、何者かによって開け放たれていた。最も、白い蝶のほとんどは、せいぜいが庭に出る程度で、与えられた居場所から出ようとはしていなかった。そこに囲われ、閉じ込められているのはただの蝶ではなくて、魂の映す影とでも言うべき、存在のあやふやなものたちだ。雨夜の家は、悪趣味にも普段からその蝶を庭に舞わせているが、花羽はそのようなことはしない。あれはつまり、「狩り」の一族が、これまで殺め続けてきた者たちの幽霊のようなものだ。だから、日頃は庭の、彼らの魂を鎮めるための社の扉を閉めて、そこで眠りにつかせている。たとえ、その扉が開かれたとしても、蝶たちは逃げ出したりはしない。何かを探すように、庭の中をさまようことはあっても、決してそこから外へは出ていくことはない、はずだった。 嫌な予感がして捧の離れを見に行くと、そこにいつも居るはずのこの男の姿は無かった。甘い匂いが立ちこめるその部屋には、真新しい血が零れて畳を汚していた。それほど多くはなかったが、血の跡は部屋の外の縁と、庭までの砂利の上にわずかに続いていた。 捧と、逃げ出した白い蝶の最後のひとつは、屋敷の門の外に居た。刃物で付けられた傷のせいか、門のすぐ近くで、雨に濡れる地面に膝をついて、まるで何かを待つように、暗闇に目を向けていた。 捧は未月の問いかけには答えなかった。 「……あの時、逃げ出すつもりだったのか?」 この「蝶」は、花羽の一族の誰よりも、自分自身の果たすべき役割を受け入れていたはずだ。だから、彼が自分からこの屋敷を出るなどとは誰も考えず、離れも門も封じることはしていなかった。そんな風に、誰もが捧のことをそう考えていたし、それが間違っていたとは未月にも思えない。 逃げようとして、それだけではなく、閉じ込められた「蝶」たちも自由にしたのだろうか。 「違う」 未月の考えを否定する為に、捧は首を振った。 「それなら、何の為に」 「狩られる時が来たのだと、そう思ったからだ」 「……姉さんか」 捧に刃を向けて傷を付けたのは、姉の円の仕業だ。後々、母がそれを確認している。理由までは、さすがに口にはしなかったが、大体の見当は付いている。そのことに気付いていないのは、きっと、この家では捧ひとりだ。 「未月ではなくても、円も正統な『狩り』のおれの主だ。だから、庭に蝶を放した」 「あの程度の傷で死ぬわけがないだろう」 呆れてそう言ったものの、捧にとっては当然の思考かもしれない。十五年に一度のその儀式の時には、蝶たちを庭に放して自由に舞わせる。彼らが、新しく羽を捧げる「蝶」を仲間に迎え入れるためだ。 「狩り手」が「蝶」を傷つけて、死に至らせればそれは儀式だ。本来ならば蝶を庭に離すのは本家の人間の役割だが、円はそれをしなかった。きっと、一時の感情の激昂で捧を傷つけたものの、すぐにその場から逃げたのだろう。 叱ることも出来ないような返答だった。 「それなら、どうして、外に出たんだ」 「……呼ばれた気がしたからだ」 「呼ばれた?」 未月が尋ね返しても、捧は淡く笑うだけだった。それ以上詳しく答えるつもりは無いのだろう。 今になって、そんなことを聞いたところで、もう意味はない。だから未月も、それ以上は追求しなかった。 今日一日のことを説明する。母からも、これが限界だと以前から聞いていた通り、今日の日没が、儀式を待てる限界だった。母にとっては、未月が十八の誕生日を迎える時を待っての、華々しい日であったはずなのに。父は未明から、その母の代行として屋敷の中で忙しく働いている。「儀式」についての準備は、実際にはもう何もすることがないのと同じだから、ほとんどが夜に開かれる宴のための用意らしい。さすがに今日ばかりは、黒の家の者たちも招いている。これからは自分が、あの男と同じ位置に立たなければならないのだ。そう考えると、執り行うべき儀式や牧丘コウのことを瞬間忘れそうになるほど、強い感情に全身を支配される。相手への嫌悪感と、負けるものかという怒りにも似た闘争心との両方に震えそうになる拳を固めて、捧の目に触れまいとそっと隠す。 聞いているのかいないのか、捧は未月の話に、静かに頷くばかりだった。時折、目線が何かを追うように、庭の方へと流れる。きっと、ここから去ったもののことを考えているのだろう。未月の話などきっと、聞き流している。そうでなくても、こんなこと、お互いに生まれてから今日まで、散々繰り返して聞かされたことであるのだから。 コウのことは口にしない。どうなるかは分からないが、もしかしたら、こんな準備をしていることも、無駄になるかもしれない。それともやはり、これまで通りの十五年目で、千年が終わるのかもしれない。どちらにしても、もう、すべてはその時に向けて動いている。定め、という言葉を、ふと思い浮かべる。未月には、「狩り手」という定め。捧には、「蝶」という定め。そして牧丘コウは、そのどちらでもない、また別の定めによる存在。 母は、すべてが狂った、とそう口にしていたが、きっとそれは違う。これはきっと、あるべき姿の千年目なのだ。だから、もうあとは、それに従う他はない。 未月に出来ることは、最後のその時を、極限まで引き延ばして待つことだけだ。 「……儀式が済んだら、未月は当主様になるんだな」 ふいに、捧が言ってくる。この男が自分からそんなことを口に出したのが、意外だった。 「別に、今と何も変わらない。肩書きを引き継ぐだけだ」 未月が冷ややかにそう返すと、捧はそれに、かすかに笑みを浮かべた。 「楽しみだ」 微笑んで、そんなことさえ、言う。それはいつもの、淡々とした調子ではなかった。ほんのわずかではあるが、確かに、弾んですら聞こえた。 「……捧」 いまの言葉を父に聞かせてやりたかった、と思いながら、これまでにずっと、胸にあった問いを露わにする。 今ならば、聞ける気がした。 「おまえにとって、死は、どんなものなんだ」 未月のその質問に、捧は、また、先程の続きのように、庭の方へと目を遣った。その表情が、また、これまでに目にしたこともないような類のもので、また戸惑いを覚える。再び未月に戻されたその眼差しは、真っ直ぐで強いものだった。そうして、また、微笑む。 「コウに、会えなくなることだ」 呆れるような、妙に納得出来るような、そんな答えが返ってきた。思わず小さく笑ってしまう。捧も笑って、続けた。 「それに、未月にも、父さんにも。まだ会ったことのない、たくさんのその他の誰かにも」 それが、死ぬということだ、と、捧は静かに言葉を結んだ。 「……そうか」 どうにか、それだけを呟く。「蝶」である男は、もう未月のことなど目に入らないように、また庭の方を向いて、それきり動かなくなる。驚いて、未月まで動きを忘れかけていた。 「ぼくはもう戻る。……次に会うのは、最後の時だ」 捧に渡したように、未月にも、この日のために用意された特別な装束がある。身を清めて、その時に備えて、用意をしないといけない。 捧は小さく頷く動作を見せた。それに背を向けて、庭を母屋の方へと戻る。 あの男が嫌いだった。ずっと、生まれたその時からそばにいて、自分にとって重要な存在なのだと、互いにそう認識し合ってきた。命を奪うものと、奪われるもの。憎らしく思われるのはこちらのはずなのに、この男は、どんな感情も、何ひとつ未月には向けてこなかった。これは、そういう存在なのだと、彼自身を含める誰もがそう思い続けてきた。ほんの、すこし前までは。 おそらく今は、もう、違うのだろう。そんな、気がした。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 花羽と雨夜から借りてきた、あの不思議な絵は、ふたつ並べると線が繋がった。ひとつの大きな絵が出来あがったのを見て、しかしそれでも、何が描かれているのかは全く分からなかった。 「これ、何なんだ」 迎えに来たヒカリに連れられて、祟堂神社へと向かった。小さな本堂に遠慮なく足を踏み入れて、その中の祭壇に、これも借りものの鏡と刀を並べる。 大きな絵は、場所がないので床に広げた。踏まないように注意しながら、ヒカリに尋ねる。 「何だと思う?」 しかし、逆に尋ね返される。雨夜甚にも、同じことを聞かれた。 「……雨夜の当主は、地獄だって言ってた」 コウのその言葉を聞いて、なるほどね、とヒカリは笑う。 「多分、世界を描いたんだと思うけれど、間違ってはいないな。あの方にとっては、この世がそう見えているということだろう」 「世界? これが?」 「あの方の目に映る世界は、きっとこんな物だったんだろうと思うよ。……最も、絵心のあまりない方だったようではあるけれどね」 そう教えられて、その絵を再び見てみる。何本もの線が細かく絡み合うだけで、それ以上の意味は見出せそうにない。コウは、あの男に問われて、宇宙、と答えた。それも、ただなんとなく、頭に浮かんだからそう口にしていただけだった。やっぱり、何かと問われたら、線の集まりにしか見えない。 視線でなぞるようにしてその線を目で追っていると、目眩のように視界が揺れた。それを、やめておきなさい、とヒカリに笑われる。 「コウは、天網という言葉を知っているかな」 「てんもう?」 「そう。天の網と書く。この世界に張り巡らされた、無数の糸で編まれた網のことだ。すべての情報は細い糸の依り合わせから成り立っている。人はその糸から、自由になることは出来ない。……たとえ話ではあるけれどね」 「……それが?」 「きみがこれからお呼びする『夜叉』、……祟堂様は、生まれながらにその天網を見ることの出来る目の持ち主だった。それだけでなく、手を伸ばせば自在にそれを手繰る力も持っていた。だからすべての物事に干渉出来る、神様のような力のある人だった。ぼくが今、『蜘蛛』だと言われるのは、そういう意味合いも込められている」 そう言われても、コウにはよく分からない。ヒカリは肩をすくめて笑った。 「世界を覆うほどの力を持ったその御方に対して、蜘蛛の巣程度の小さな網しか扱えない、ということだ」 ヒカリの言おうとしていることを正確には理解出来ていなかったが、とにかく、その呪術師が凄い力を持っているのだということは分かった。ひとの魂を蝶に変えることが出来て、死ぬはずだった一族を生かすことが出来るほどの力の持ち主だということは、コウも知っている。 それほどの力のある人ならば、きっと、今のこの状況を救う方法も知っているはずだ。コウにとって重要なのはそのことだけだった。 「悪い人ではない。お呼びすることさえ出来れば、きっと、きみのことも気に入るだろうと思う。あのユキでさえ、きみには少し甘かったしね」 ユキ。清川の中に入っていた、ヒカリと同じような、呪術師の僕である男。ヒカリは「蝶」を捧げずに自分の中に呑み込んでしまったことで呪術師の遣いとなったと言っていたが、ユキも、そうなるようなことがあったのだろうか。あの男の声や眼差しは、どこか捧を思い出させた。 「本来ならば水盤を使って、間接的にそこに映る影を自分の中に降ろすのが、最も依代にとって負担が軽いやり方になるだろう。以前の時も、そうしたらしいから」 「……でも、それでも、駄目だったんだろ?」 かつてそうした人は、呼んだものの力が大きすぎて、内側から壊れてしまったのだと言っていた。それに、花羽円も。あれは、間違った方法で行ってしまったから、失敗したのだと言っていたけれど。 「神を降ろすわけだからね。おいそれと簡単に行えるものではないよ」 まるで、怖いならやめようか、とでも言いたげな調子だった。それでもやるのだ、と伝えるつもりで一度頷く。たとえどうなるか分からないとしても、何もしないままでいるよりは、余程いい。何度も繰り返して言ったその気持ちを、ヒカリは分かっているはずだ。だから、それ以上は引き留めるようなことは言わなかった。 小さな頃から何度も訪れていた場所ではあったけれど、この社の中に足を踏み入れるのは初めてのことだ。特別な場所だと思うせいか、空気が外よりも冷たく思えた。木造の古びた壁はそれほど厚いとは思えないのに、外部の音は何も聞こえない。しんと静まり返った、その神聖な空間に、ヒカリとふたりで向き合う。 祭壇には、元々なにもなかった。祟堂神社、というのがこの神社のほんとうの名前だとこの男は教えてくれたが、その呪術師を祀っているらしい物は見当たらない。 「……ここの神社の神様は、どこにいるんだ?」 神社とは、そういう場所なはずだ。素直にそう聞くコウに、ヒカリは首を傾げた。 「今はまだ、何処にも。千年目にすべての儀式が終わったあとには、そうだね、きっとここにお祀りされることになると思う」 「何処にも、いない?」 「いや、いらっしゃるよ。説明が難しいけれど」 存在しない祟り神を畏れて「儀式」を行うのでは意味がない。コウはまだ、直接その力の大きさに触れたわけではないけれど、けれど、捧を知ったあの日からずっと感じてきた透明な何かは、もしかしたらそれに近いのかもしれない。目に見えない、「狩り」と「蝶」を囲む、大きな存在。 寒気がして、震えそうになった。それを押し殺すように奥歯を噛む。時間が、無いのだ。 ヒカリはコウの頭を撫でた。まるで励ますように、一度、軽く叩かれる。 「今のきみなら、自分の中にお呼びする方がいいだろう。うまくいけば、あちらの方にお招きいただけるかもしれない」 「あちら?」 「そう。その方が深く、長い時間お会い出来るしね」 「……何がなんだか、全然分からないんだけど」 こちらを助けるようなつもりで言ってくれているのかもしれないが、ヒカリとコウでは、知識の差がありすぎて、何を言われても目眩ましのようにしか感じられない。呼び出すと言ったり、降ろすと言ったり、招かれると言ったり。それらすべてが、禁じられているという「夜叉乞い」のことなのだろうか。 「きみ自身の祟堂の血の中に深く潜るといったらいいのかな。きみは無意識のうちに、これまでに何度か、その中に沈んでいるはずだ。代々受け継がれてきたその血を、一番底まで遡れば、あの方に届く。本来ならばこんなことはとても出来ないけれど、きみの中には祟堂様が愛でる『蝶』の血も流れているし、何より捧という蝶の加護がある。だから、そちらの方がいいと思うよ」 「やっぱりよく分からないけど、あんたがそれがいいって言うなら、そうする」 事情を知っている者の勧めることなら、それに従う方がいいだろう。頷くコウに、ヒカリは笑って、こっちへ、と手を引いた。踏まないように気を付けていた、あの「世界」だという絵の上を歩き、その丁度真ん中になる辺りに座るように言われた。 「これが中心。ここから、この世界が広がる。……少し痛いけれど、我慢しなさい」 手を出すように言われたかと思うと、左手の指先に鋭い痛みが走る。 その手の中には何もないはずなのに、まるで刃物でも用意されていたように、軽く触れられただけで、コウの小指の先にほんの僅かな切り傷が作られた。何をするのか分からなくて、「蜘蛛」をじっと見ていた。血の溢れてきた指先と、コウが座る絵の中心を交互に指して、次の手順を教えてくれる。 「ひと雫ぶんの血が溜まったら、ここに落としなさい。それから、こう言って、お呼びすること」 膨れてきた血の玉を見ながら、ヒカリが口にした言葉に、頷く。 「あとは気を強く持つこと。自分が何者で、何をしたかったのか。ほんとうに知りたいことはなんなのか。それさえ忘れなければいい。ぼくが傍にいてあげる。日が沈んでも目を覚まさないようなら、ちゃんと起こしてあげるからね」 「ありがとう」 軽くそう言って笑うヒカリに、小さく礼を言う。指先に溜まる血は、そろそろ流れ落ちそうな程になっていた。 ひとつ頷いて、絵の中心に向き直る。 「……おかえしします」 そうして、教えられた通りの言葉を口にした。指を傾けると、白い布に描かれた黒い線の絵の上に、赤い血が一点零れ落ちる。不自然なほどに、その残像がゆっくりと視界に残る。まるで指先から、赤く、細い糸を垂らしたようだった。それまでよりも、一層、音が消える。もう、すぐ傍に居るはずの誰かの存在さえ、感じることが出来ない。 ヒカリに教えられた、その人を呼ぶための言葉だけが、静寂の中に響いた。 「お返しします、サクラ様」
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