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第一章 「蝶」 |
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2. 魂結び どうなるか分からない、と言っていた通り、昨日の夜、結局下宿人は戻らなかったようだった。 しばらく祖母が留守にすることを伝えたとき、下宿人がひどく申し訳なさそうな顔をしていたことを思い出す。ごめんね、と、そう謝られた。ちょうど仕事が忙しくて、帰るのが遅くなってしまうのだと言っていた。だけどそんなのは平気だと思ったので、気にしないでいいと返した。ただ、コウがそう言っても、下宿人の方は納得がいかない様子ではあった。出来るだけ家にいられるようにするから、と、安心させるように強く言われてしまった。 寂しがり屋か、ひとりになるのが怖いとでも思われているのかもしれない。下宿人は祖母の昔からの知己らしく、どうやらコウの生まれのことも詳しく聞かされているようだった。常日頃から、細かい気遣いを見せてくれるのはそのせいなのだろう。きっとおそらく、ひとが良いのだ。 適当に朝食を済ませ、玄関に施錠する。見送ってくれる者のいない家は静かだった。 それは寂しさとは結びつかなかったが、耳に入る音が普段より格段に少ないせいか、昨日のことを、目覚めた時から何度も繰り返し思い出していた。記憶の中で、何度もあの景色を再生させる。これまでに感じたことのない、あの激しい、涙が出そうなほどの衝撃を繰り返して空の心に満たそうとした。けれども、まるで古いビデオテープのように、繰り返せば繰り返すほど、その色彩がぼやけてかすんでしまい、よく見えなくなってしまった。雨の降る音だけは、相変わらずはっきりと耳に蘇るのに。 完全に見えなくなってしまう前に、確実に自分の知っているものの姿を目に焼き付けた。門を開いて、なにかしきりに怒っていたらしい様子の、あの男。 あれは、コウと同じ制服を着た男だった。雨だったし、視界は悪かったけれど、それは確かだ。 ということはつまり、同じ学校の生徒だということだ。何年の生徒になるのかは分からないけれど、全ての教室を覗いてみれば、そのどこかには見つけることが出来るはずだ。だから、いつもよりもずっと早く家を出た。 雨は昨夜のうちに降り止んでいた。まだ湿った空気の残るアスファルトの上を歩きながら、そんなことまでしようと思っている自分のことを、どこか少し離れたところから眺めているような気分になった。これまで生きてきて、こんな気持ちになったことはない気がした。 その感情をどう呼んだらいいのかまでは分からなかった。ただ、慣れないこんな自分のことを、ひどく奇妙だと思った。 結局、朝は早く着き過ぎてしまった。他のクラスを見て回ろうにも、まだ大半の生徒が揃っていない。少し考えてみれば分かりそうなものだったのに、そんなことを気付く余裕も無かった。仕方がないので、休み時間と昼休みを費やして、ひとつを除いて全ての教室を探してみた。けれども、昨日のあの男の姿を発見することは出来なかった。 この学校にいるらしいとしか、分からない。普段もそれほど熱心ではないが、いつも以上に授業にも身が入らずに、同じことばかり考えていた。雨。暗い道。機嫌の悪そうな男。差し込む光。血だまり、白い蝶、怪我をしていた男。 目を閉じて、思い出そうとする。もう一度だけでもいい。 もう一度だけでもいいから、あの姿を、目にすることが出来ればいいのに。 そんなことばかり考えていた。 放課後、ひとつだけ敢えて覗かずにいた教室に向かう。気が向かなくて、後にしようと思っていたら結局最後に残しておくことになってしまった。隣のクラスだ。他の全ての教室は全部見てきた。だからもしかしたら、ここであの昨日の男の姿を見つけることが出来るかもしれないのだ。分かってはいるけれど、近づくのが嫌だった。 あまり近寄らずに、廊下の端のほうに立ったまま、開いたドアや窓の隙間から、教室の中を探してみる。けれど視界が狭いせいか、そこにいる人間の造作さえもよく分からない。もう授業も終わってしまったし、次々に生徒たちが教室から出て行く。その中にも昨日見た顔を探すけれども、見つからなかった。 やっぱり、探し方が悪かったのだろうか。 昨日はそんなことまで頭が回らなかったけれど、もしかしたら、あの門の辺りには、表札でも出ていたかもしれない。敷地を取り巻いていた高い塀を乗り越えるのは無理でも、明るいうちに、こっそりと見に行けばいい。 そう思い直して、その場から去ろうとした。 「牧丘」 けれども、避けようとしていたその声に呼び止められてしまった。そんな風に呼ばれたくなかったから、近寄りたくなかったのに。聞こえなかった振りをして、そのまま走り去ってしまおうと思った。けれど駆け出すより一瞬早く、腕が引っ張られる。 「珍しいな。おれに会いたかったのか?」 嘲笑うように言う声に、違う、と低く呟き返す。 もとからこちらの返答など興味がないとでも言いたげに、清川縁示は小さく鼻で笑うだけだった。 他の人間に対して、清川がどんな風に接しているのかコウは知らない。けれども、コウに対しては、いつでも清川の視線は一定だった。常に、上から見下される。 それでも、何故だか、拒めないままで今日まできた。今この瞬間にも、そうやって見下されることに、どこかで安心しているような自分がいることを感じながら、もっと強く否定の意味を伝えるために、首を振った。 「違う、……人を探しているんだ」 「おまえが?」 「そうだ」 「誰を探してるんだ?」 「おまえには関係ない」 腕にかけられた清川の指に、力がこもる。制服の布地越しに肌に食い込むその感触に、背筋がぞっとした。 これまでに覚えていたものよりも、ずっとはっきりとした、強い嫌悪感だった。 ちがう。 「いやだ」 欲しいのは、この指ではない。 「……もう、おまえとは、しない」 自然と、呻くように、そう口にしていた。 離れない指を引き剥がそうとしたが、逆に、来い、と低く言われて、掴まれたままの腕を強く引っ張られた。 「もう一度言ってみろ」 廊下の隅まで引っ張られ、そのまま掴まれた手を放り投げるような動作で放される。背中に壁がぶつかって、鈍い音がした。 「もう、おまえの言うことは聞かない。二度と、あんなこと、しない」 いつものようにこちらを見下ろして、口の端に薄い笑みを浮かべていた清川の顔が、それを聞いてかすかに歪む。 「急にどうした? ……まさか、おまえ」 その顔を見上げながらも、考えるのは別のことだった。赤い蜜と、白い蝶と、そして。 「……な、奴でも、出来たのか」 何か聞いてきたらしい清川の声も、中途半端にしか耳に届かなかった。 微笑んだあの人のことを思い浮かべる。昨日から何度も何度も目を閉じて、残像を目蓋の裏に蘇らせた。一度、わずかな明かりの中で、かろうじて見ることの出来た、ぼんやりとした面影しか分からない。それでも良かった。どんなものでも構わない。あの人。 「離せ」 身体を壁に押しつけるようにして離れない腕を掴んで、出来るだけ冷ややかに聞こえるような声でコウがそう言うと、清川はひとつ舌打ちする。苛立ったその表情は、コウもよく見慣れたものだった。 「ふざけるな」 清川の手が腕を離れる。そしてすぐに、両肩をきつく掴まれた。 「よく分かってないくせに。まともに感情もないくせに、そんな偉そうなこと言いやがって。おまえに、そんなこと、出来るはずないだろう。何も欲しいと思わないくせに」 口早にまくし立てられる言葉は、これまでに散々清川がコウに向けて言ってきたものと同じだ。 確かにそうかもしれないとは、コウ自身も思う。幼い頃から、人にうまく溶け込むことが出来なかった。楽しいと思うことや、嬉しいと感じること。それが、どういった種類の感情なのかは、おぼろげに分かる。しかしそれを、自分のことだと受け入れる方法がよく分からないのだ。分からないと言うより、素直にそうしては、いけないような気がしてならない。 だから、自分ひとりでは何も出来ない、生きるだけの身体をどうすることも出来ない奴だと見抜かれ、それを酷く扱われることで、これが正しいのだと、納得するような思いがあった。 昨日までは確かに、それでいいと、思っていた。 「清川、おれは」 「うるさい、黙れよ」 自分が目にしたものを伝える気はなかったし、それによってどんな気持ちになったのか、言葉ではとうてい伝えられないとも思った。それでも、あの瞬間からコウの中にある、まだ正体も分からないし形の定まらないものの存在を、知らせたかった。これまで自分のことを、何も深く思うことの出来ない壊れものだと馬鹿にしてきた清川に、それは違うかもしれないのだと教えたかった。 それでも、コウが口を開こうとすると、清川は鋭く怒鳴るだけだった。はっきりと怒りを露わにする険しい眼差しと声に、殴られるかもしれないと予感があった。それでも、目を逸らさなかった。 「うるさいのはおまえの方だろう」 しかし突然割り込んできた冷ややかな声に、構えがほどける。清川は険を含んだままの視線をコウから逸らし、声の主の方に向けていた。 割り込んできたその声に、確かに聞き覚えがあった。 清川を押しのけるよりも早く、コウもそちらの方に目をやる。間違いないと思った。 背丈はコウと同じくらいか、それとも少し相手の方が低いくらいかもしれない。襟元までボタンを止めたシャツと、きれいに結ばれたネクタイ。きっちりとした制服の着方に、清潔を通り越して潔癖な印象を受けた。窓から差し込む陽の光に透ける髪は黒というよりは茶色に近かった。顔だちはこの年代にしては幼く、どこか人形じみた造作だった。髪と同じようにもともと色が薄いのだろう目は、軽蔑するように清川とコウを見ている。この顔を覚えている。探していた、ものだ。 (……いた……!) 間違いない。昨日見た、あの男だった。 「痴話喧嘩なら余所でやれ、邪魔だ」 「……おまえには関係ないだろ」 「関係のない奴に口を挟まれたくないのなら、最初から誰もいない所でやればいいんだ」 淡々とそう返され、清川は舌打ちをして、コウから手を放す。清川が言い返さずにいることが、なんだか不思議だった。大人しく手を放した清川に、男はひとつ息を吐く。馬鹿にしたような、鼻で笑ったようなその態度にも、清川は何も言わずに、ただ相手を睨み付けているだけだった。 その視線を一度受け止めて、それでも男は何事も無かったようにこちらに背を向けて、行ってしまった。邪魔だ、と言ってはいたが、別にコウたちが彼の進路を塞いでいた訳ではない。余程、目障りだったのだろうか。 「……っ、偉そうに」 そう呟く清川の声すら、負け惜しみのように聞こえた。妙に堂々とした、男だった。 「……いまのは?」 「ほんとにおまえは何も知らないんだな。花羽だよ。花羽未月」 「はな、ばね?」 名前なのだろうそれを、繰り返して確認する。花羽。 機嫌が悪そうなのには変わりはないが、清川はこれ以上さっきの話を続ける気を無くしたようだった。あの男に割り込まれたことで、気が削がれたのだろう。尋ねるコウにも、どうでもよさそうに答えてくれた。 「おれと同じクラスだ。……あいつも、おまえと似たようなもんだな。いつもあんな感じで偉そうだから、周りから浮いてるよ」 「花羽、未月」 覚え込もうとするように小さくその名前を繰り返すコウを、清川はどこか怪訝そうな顔つきで見ていた。 道を覚えていたわけではなかった。昨日は雨も降っていて暗かったし、小さな蝶一匹を追いかけていたから、どこをどう通っていったのかは覚えていない。だから、昨日と同じように一度清川の家の近くまで行ってから、その辺りを適当に歩き回るつもりでいた。 けれども、名前を知ることが出来た。買い物に行くところらしい、丁度通りがかった家を出て来た中年の女の人に道を尋ねてみると、ああ、と、相手はすぐに思い当たったようだった。丁寧に、道を教えてくれる。角をふたつ曲がって、山のすぐ手前だと言う。 (……来ては、みたけれど) 山の手前、というのはその通りだった。昨日、やけに暗く感じたのは、街灯がないせいもあるだろうが、それ以上に辺りに茂る木々の葉が、空を覆っていたのもあるのだろう。舗装されていない道は、山に入る手前で途切れていた。ここは町の外れになるのだろうか。教えてもらった通りにふたつ目の角を曲がると、確かにその先にはもう他の建物はなく、道にそってずっと高い塀が張り巡らされていた。ずいぶんと、大きな家だ。 中を覗き見ることが出来ないかと思ったが、塀が高すぎて、何か台になるものでもない限り、天辺に手を掛けることさえ出来そうにない。考えもなしにここまで来ることは出来たものの、その先にどうすればいいのか分からなくなってしまった。 花羽未月。 清川が、同じクラスだと言っていた。だから、朝から全ての教室を探してみても、見つからなかったのだ。清川と顔を合わせるのを避けたくて、そこだけは見ないでいたのだから。……清川と同じだということは、コウとも同じ、三年生だということだ。あの後、そのまま学校を出て、もう今は家に帰ったのだろうか。 だったらもう、この中にいるのだろうか。 昨日はよく見えなかった門の前に立つ。古びた造りの、まるで住居というよりは高級な料亭か旅館のような門構えだ。インターホンらしきものを見つけたので、とりあえずそれを押してみた。ここまで来たら、何でもしなければならない気がしていた。 てっきり、そのまま、なんらかの音声がそこから返ってくるものだと思っていた。これは屋敷の門をくぐる前に、来訪者に対して、あらかじめその正体と、訪れる目的を問われるために取り付けられている機械のはずだ。大きな家はそういうものだと思い込んでいた。 しかし、チャイムらしき音が鳴るのは聞こえたが、それに続く反応は何もなかった。おかしいと思って顔を近づけていると、突然、かすかに乾いた音を立てて、門が少しだけ開く。驚いて、慌ててコウは姿勢を正した。 「どちらさまかしら」 「……あの、おれ」 現れたのは、着物姿の、女だった。 着物は黒地に黄色い竹と、山茶花の花が描かれたものだ。その上に、花の丸紋が刺繍されている芥子色の羽織を重ねていた。祖母の影響で、着物に触れることは多いコウだったが、しかし知識はないので、それの正確な種類や価値は分からない。それでも、きっとひどく、高価なものなのだろうと感じた。 女はコウを見ても不審そうに眉をひそめることもなく、笑みを浮かべてゆるやかに礼をする。同じように頭を下げて、コウが言葉に詰まっていると、 「未月の、お友達かしら?」 相手の方から、そんなことを聞いてきた。咄嗟にそれに頷くと、目の前の女は門の向こうで、かすかに首を傾げてまた微笑んだ。年齢の分かりにくい顔立ちだと思ったが、もしかしたら、花羽未月の母親にあたる人なのかもしれない。顔立ちはそれほど似通っていないように見えるが、凛とした姿勢の良さに、どこか通じるものがあるような気がした。 「まぁ、珍しい。あの子のお友達が訪ねて来てくださるなんて」 「あの、花羽、くん、は」 「御免なさいね、今日はまだ、帰っていないの。直に帰ってくると思いますから、もし宜しければ、どうぞお上がりになって」 「……はい」 言われたことにも、素直に頷く。驚くほど簡単に、中に、入れてもらえた。 少し前を歩いてコウを案内しながら、女は、花羽未月の母親だと名乗った。コウもそれに対して、自分の名前を言う。息子が口にしたことがない名前だと、怪しく思われるかもしれないと思ったが、それらしき反応は無かった。 地面の上に引かれた石畳の先の、屋敷に案内される。外から、まるで料亭や旅館のようだと思っていたが、内部に足を踏み入れても、ますますそう思うだけだった。堂々とした佇まいの日本家屋だ。 「こちらでお待ちになってね」 そう言って通された部屋からは、庭がよく見えた。どうやら応接間として使われているものらしい。玄関からすぐにここに通されたので、他の部屋の様子は、分からなかった。 「牧丘さん?」 「あ……、はい」 縁側の向こうに広がる庭園を見ていると、ふいに名前を呼ばれた。振り向くと、お茶を入れてくれたらしい花羽未月の母親と目が合った。 「失礼だけれど、……以前にも、家に遊びにいらしたことがあったかしら?」 「いいえ。今日が、はじめてです」 そんなわけはないのに、ここに来た目的に気付かれそうな気がして目を逸らす。相手は何事かが気に掛かる様子で、しばらく視線を落とし、考え込む仕草を見せた。 「そう。……いいえ、御免なさいね、何処かで、お会いしたことがあるような気がしてしまって」 けれどもそれはごく短い間のことで、やがて、もうすぐあの子も戻ると思いますから、と一礼して、立ち上がる。 最後にもう一度、コウの方を見て、微笑みを残し、花羽未月の母親は静かに部屋を出て行った。 笑みを向けられているはずなのに、何故だかその瞬間、身体が凍り付いて動かなくなるような、ひどい悪寒がした。 一度玄関に戻り、自分の靴を取ってきて、縁側から庭に出てみた。あちこち屋敷の中を歩き回るのは怪しすぎるかもしれないけれど、庭ならば、そうおかしく思われることはないだろうと考えたからだ。何をしているのか聞かれたら、綺麗な庭だったから歩いてみたかったと言えばいい。……最も、何をどう言ったところで、花羽未月には怪しく思われてしまうだろうけれど。ただ同じ学校だというだけの、顔見知りですらない人間が、突然、さも友達のような顔をして家に居るのだから。 磨かれたように光沢のある飛石を踏みながら、庭をあちこち歩き回る。緑の葉をもつ大きな樹が何本も植えられていて、ここからでは敷地を取り囲んでいた塀すら見えない。ずいぶんと、広い庭だ。遙か頭上で茂る葉と葉の隙間から差し込む陽の光が、地面に木漏れ日の波模様を描いている。時折吹く風が、ざあ、と音をたてて枝を揺らす。静かだった。この風景だけ切り取ったなら、庭というよりも寧ろ林のようだった。 飛石は複数の方向から並べられているようで、いくつも途中で交差しては、またそこから四方に伸びている。あまり奥まで行くと、戻れなくなりそうだった。どこまで続いているのか分からないが、もしかしたら、このまま、山に続いているのかもしれない。 「……遅いんだよ」 ふいに、ひとの声らしきものが聞こえた。初めは空耳かと思ったそれが、徐々に近くなるような気がして、コウは声の聞こえるのと反対の方向の、大きな樹の裏側に隠れた。しゃがみ込んで、見つからないようにする。 話し声はゆっくりと、コウの前を通り過ぎていった。男が、ふたりいるようだった。少しだけ身を乗り出して、その姿を見てみる。……どちらも、中年の、見知らぬ男だった。 「……の、婆さんが死んだってのは聞いただろう。だから、おれは前から言っていたんだ。……本家の連中に好きなようにやらせれば、このままでは済まない。今だって、遅すぎるくらいなんだ。それを、あの女は」 「あの婆さんは元々病気だったそうじゃないか。さすがにそれは偶然だろう」 「おまえはどれだけ分家全体のことを把握している? 今月に入ってから、どれだけの人間がおれのところに不安を訴えてきたと思ってるんだ」 「……いくら言っても聞き入れてはもらえんよ。それに、あの人の気持ちは分からないでもない。何しろ、最後だ。それを、自分の息子の晴れの儀式にしてやりたいと思うんだろう。なぁに、もう、あと少しじゃないか」 ふたりの男は、どうやらコウが今歩いてきた方角に向かっているらしい。屋敷に、行くのだろうか。 ……今までは、どこに、いたのだろう。 「次で最後なんだ。もう、あれで、終わるんだから」 その言葉だけが、妙に、耳に残った。 話し声が完全に聞こえなくなってから身を起こして、膝に付いた土を払う。そろそろ、戻った方がいいだろうか。花羽未月が帰ってきているかもしれない。そう思って、元いた場所に戻ろうと、足を踏み出しかけた、その時。 また、蝶を見つけた。 (……あ) 蝶など珍しくはない。この季節にはもともとよく見かけるし、昨日は雨が降っていたから、そんな日に蝶は飛ばないかもしれないけれど、今日は晴れている。 それでも、昨日と同じだった。一度目にしてしまうと、そこから、目が離せなかった。 (でも、昨日と違う……、黒い?) ただひとつ、昨日と違うのは、蝶の羽の色だった。花のような白ではない。その正反対の、暗い、闇の色だった。 どこから飛んできたのだろう。綺麗に手入れされてはいるが、あまり生きものの気配のしない庭だと思ったのに。そんな景色の中に、まるでそれだけが時の流れていることに気付かせてくれるように、黒い蝶はひらひらとコウのすぐ傍を羽ばたいていた。 試しに手を伸ばす。昨日と同じように、触れてみたいと思ったからだ。ぼんやりと、白い蝶よりも、こちらの羽の色の方が美しいと思った。黒い羽は、夜の色だ。 すると蝶は、コウの指先に留まって、静かに羽を休めた。生きものとも思えない、まるで重さのないその感触に、少し悲しい気分になった。同時に、なんだか嬉しいような気持ちにもなる。ほんとうに綺麗な羽だと、そう思った。 蝶を指先に留まらせたまま、ふと、昨日見た夢を思い出す。手のひらで握りつぶした、白い羽。 (ちがう、あれは夢だ。……だけど) 赤く濡れていた手のひら。 同じことをしてしまいそうな気分になって、一度手を振る。蝶はまた、ふわふわと舞いだした。 蝶はしばらく、コウの目の前を行ったり来たりしていた。けれどもやがて、屋敷とは反対の、奥の方に飛んでいく。先程、ふたりの男が歩いてきた方角と同じだ。 (「もう、あれで、終わるんだから」) 耳にした、あの言葉が蘇る。 蝶はまるでコウを待つように、ゆっくりと羽ばたいている。自然と、足がその後を追っていた。 もう完全に、屋敷の方へ戻る道は分からなくなってしまった。あの部屋に鞄を置いてきてしまったことを少し後悔しながら、それでもコウはひたすらに黒い蝶の後を追いかけた。ここが誰かの家の敷地の中だということも、ほとんど忘れていた。延々と続く飛石を踏みながら、ただ目の前を舞う黒い羽だけを見ていた。誰かがそうだと教えてくれた訳ではない。何か理由があって、そう思ったのではない。けれども、確信があった。きっと、これが自分の探していたものへの道に違いないと、何故だかそう思えてならなかった。 光が、見えた。 木々が、徐々にまばらになる。道にしていた飛石も、いつの間にか、もう足下から消えていた。……庭とは、また違うところに来たらしい。水音がすると思ったら、茂る草の合間に、池らしきものがかすかに見える。屋敷や庭とは違い、あまり手入れされていないらしく、雑草が伸びていて、まるで空き地のような風景だった。これまでの整えられた林の中と比べると、あまりに不自然だった。まるで、敢えて、人を寄せ付けないようにしているような。何かを隠しているような場所だった。 蝶は、更に先へと羽ばたいていく。草を掻き分けながら、コウもその後に続いた。よく見ると、ひとが一人通る分くらいの、草が生えていない道が出来ている。誰かがここを行き来している証を目にして、コウは黒い蝶の飛ぶ方に、目をやった。 建物があった。屋敷と似た雰囲気の、しかしそれに比べるとずいぶんと小さなものだ。離れ、になるのだろうか。蝶はそちらに向かって飛んでいる。追おうとして、自然と、足が止まった。 辺りを手入れしていないのは、やはり理由があるのだろう。離れらしき建物自体は、古そうなものではあるけれど、綺麗だ。一階建ての、部屋数もそれほど無さそうなそこにも、屋敷にあったものと同じような、縁側があるのが分かった。 そこに、人影があった。 黒い蝶が、その人の手に留まっていた。手のひらを広げて、そこに留まる黒い羽を見ている。ああ、と思った。昨日と、同じだ。 息が詰まった。ここまで平気だったのに、たいした距離も進んできていないくせに、足が震えて、力が入らなかった。 離れの縁側に座り、黒い蝶を留まらせているのは、昨日の、怪我をしていた男だった。暗闇の中で見た時と同じように、陽の光の下で見ても、濃い藍色をした着物を着ている。 しばらく、身動きが出来なかった。何も考えられずに、立ちつくしたまま、その人に魅入られていた。手のひらの上の蝶を見下ろして、やわらかく微笑みを浮かべている。触れたいと思った。もっと近づきたいと思っていたのに、それを望んでいたはずなのに、身体がうまく動かない。それでも、嬉しかった。他には何も感じなかった。ただ、とても嬉しかった。 「……だれ?」 気配を感じたのだろうか。そんな風に声が投げかけられた。低い、穏やかなその声に、背筋が震えた。 はじめて、声を聞けた。答えなければと口を開いて、けれど、わずかに息が漏れるばかりで、うまく声にならなかった。すると男は静かに立ち上がり、こちらにおいでと言うように、手招きをする。それまで足が動かなかったのに、そうして貰ったことで、引き寄せられるように、その人の前まで行くことが出来た。 和装の男は、縁側に跪く。そうすることで、地面に立ったままのコウと、目線が近くなった。 「……こんにちは」 どうしたらいいのかよく分からなくて、けれども何か言わなくてはならないと思って、口から出たのはそんな言葉だった。 間の抜けた自分の声に、恥ずかしくなった。けれども目の前の人は、ただこちらをじっと見て、そしてまた、微笑む。縁のない眼鏡の奥で細められる目が、とても優しいと思った。その目が自分のことを見ているのだと思うと、たまらなくなった。 「誰?」 「コウ。……あなたは?」 「捧」 「ささぐ、さん?」 「そう」 「変わった、名前ですね」 自然と、コウも笑みを浮かべていた。不思議だった。言葉を交わした途端に、先程まで感じていた緊張も硬直も消えていた。穏やかで、満たされた気分だった。ただ、互いの名前を教え合っただけなのに。 捧の手から、黒い蝶が飛び立つ。しばらくふたりの間を舞ったあと、今度はコウの手に留まった。捧がしていたように、手のひらで受け止めるよう、指を広げる。そこに留まる蝶に、もう一度触れようと思ったのだろうか。コウの手に、捧の手が重なった。弾かれたように顔を上げると、すぐ近くで目が合った。 そのまま、指も目も、動かせなくなった。他には何もしない。ただ見て、触れているだけだった。他には何もいらないと思った。そんなことを思う隙間すらないほど満ち足りていた。全身を流れる血が、どろどろに溶けた蜜になったように、身体の内側から、心までその甘さが浸みてくる。くすぐったい気持ちになって、なにもおかしいことはないのに、笑みが零れた。 自分のものよりも、少し大きな手。触れた箇所から伝わる相手の体温が、ひどく、熱く感じられた。 「……きのうの怪我は、もう、だいじょうぶ?」 「怪我? ……うん、大丈夫」 「よかった」 言葉は、そこで途切れた。もっと色々なことを話したい気もしたし、何も話す必要がない気もした。 「未月と」 「……え?」 「未月と、同じ格好だ」 捧が口にしたのが何のことか、瞬間、分からなかった。やがてすぐに、花羽未月のことだろうと気が付く。コウの制服のことを言いたいのだろう。 「うん、学校が、同じだから」 答えると、わずかに捧は笑みを曇らせた。何か気に障ることを言ってしまったのかと思ったが、すぐに、また元のように優しい表情に戻る。 「……捧さん、あの、」 何を言おうとしたのかははっきりしなかった。ただ、何かを口に出そうとして、それと同時に、掻き消された。 「なにをやっているんだ!」 明らかに、腹を立てている声だった。何度か聞いているが、その度にこの声は怒っている気がする。声の主を振り返る間もなく、後ろから制服の襟元を掴まれて引っ張られた。バランスを崩してよろけると、手のひらに留まった蝶が逃げていく。そのまま、有無を言わせない強い力で腕を引かれた。 「来い」 「……っ、いやだ」 「いいから来い!」 反論も聞かず、花羽未月はコウを引っ張っていく。振り向いて捧の方を見ると、彼は最初と同じように立ち上がり、静かに、こちらを見ていた。あんなに近くにいたのに、もう、こんなに離れてしまった。だから、その目がどんな感情をたたえているかは分からなかった。 「忘れろ」 まるでコウの考えていることを知っているように、手を引っ張る男はそう言ってきた。屋敷の方に向かうのだろう、さっき来た林の中を、ひたすら真っ直ぐに進んでいる。 「ここで見たものは、すべて忘れるんだ」 嫌だ、と呟こうとして、声にする前に止める。たとえ誰に忘れろと言われても、もし自分自身が忘れようと思っても、きっとそんなこと出来るはずがないと思った。触れていた手は、まだこんなにも熱いのに。それを無かったことにするなんて、無理だ。 「……あいつとのことなら、心配いらない。誰にも言わないでいてやる。黙っていると約束する」 「あいつ?」 「清川縁示だ」 吐き捨てるように言われて、花羽未月の言いたいことを理解する。どうやら、コウがこの家を訪れたのは、その話をしに来たのだと、そう思っているのだろう。放課後、学校の廊下であんな風に詰め寄られていたそのことを、他人に言わないように黙っていてほしいと、コウがそう頼みに来たと。 「悪いことは言わない。清川とは付き合わないほうがいい。……ろくな男じゃない」 「……そうだな」 素直にそう返されて、意外だったのだろう。花羽未月は歩く速度を緩めて、コウの方を振り返ってきた。 「おれも、そう思うよ」 もう、出来ない。もう、誰とも、あんなことはしたくない。 ほんとうのものを、知ってしまったから。 「……二度と、ここに来るな。いいな、今日のことは全部忘れるんだ」 繰り返す花羽未月の言葉を聞き流しながら、コウは離れの方角を振り返った。 指先がまだ熱い。あの人が、今でもまだ、自分のことを見て、思ってくれているのを感じた。
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