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第一章 「蝶」 |
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3. 羽つがい 連れて行かれたのは屋敷ではなかった。 手を離され、背中を突き飛ばされて、門から放り出される。うまく体勢を立て直すことが出来なくて、そのまま地面に肩をぶつけてしまった。顔を上げるよりも先に、軋む金具の音で、門が閉じられてしまったことを知る。 「……っ」 身体を起こすと、頬に付いた細かい砂の粒が自然と剥がれ落ちた。打った肩に、鈍い痛みが走る。 立ち上がらなくてはいけないと思った。出て行けと言われて放り出されたのだし、もともと、入ってもいいなどと許可されたわけではないのだから。二度と来るなとも言われた。 ひどく疲れた気がして、身体に力が入らなかった。どれだけの時間、あの門の向こうにいたのだろう。ずいぶんと長く居たような気がする。けれども、辺りがまだ暗くなっていないということは、実際にはそれほどの時間は経っていないのだろう。 まるで、眠りから醒めたような心地だった。まだ、頭がぼんやりとしていて、ものを考えることが出来ない。夢を見ていたのだと誰か言う人があれば、それを信じてしまいそうだった。 目を閉じる。手のひらが、まだ熱いような気がした。それだけではない。視界に水の膜が張ったように潤んで、少し瞬きをするだけでゆらゆらと揺れた。熱を出した時の感覚に似ている。普段通りに呼吸をしているつもりなのに、それがため息のようになってしまう。胸の奥まで、熱かった。 立ち上がらなくてはいけないと思いながらも、そこに座り込んだまま、ただ閉じた門を見上げていた。 二度と来るなと言われてしまった。ここで見たことも全て忘れろと、そんな忠告もされた。 花羽未月の声は鋭かった。従う以外のことは許さない、そんな言葉だった。 反発を覚えるよりも先に、それを不思議だと思った。忘れなくてはならないようなものが、何かこの屋敷の中にあったと言うのなら、それは何のことを指すのだろうと思った。広すぎる庭、何度も交差する飛石、隠されたような、あの離れ。答えはひとつしかない。それならば、花羽未月のその言葉には、従えない。 忘れろ、だなんて、随分と簡単に言ってくれる。 「……無理だ、そんなの」 地面に転がった時に石にでもぶつけたのか、頬がちりちりと微かに痛い。指で触れて確かめる気にもならず、呆けたようにただ座り込んでいた。どうなることを待っていたわけでもないが、弾き出された門をじっと見ていた。 だから、その扉がゆっくりと開けられる瞬間の気配に、すぐに気が付いた。 中から、誰かが顔を覗かせる。 「ああ、居た」 現れたのは、また、見知らぬ男だった。扉を完全に開いて、地面に座り込んだコウを見つけて、上機嫌な様子で笑う。 コウが屋敷の中で姿を見た誰とも違う、やけに華やかな雰囲気が、木造の門に不釣り合いだった。 「忘れものだよ。きみのものだろう」 男がそう言って差し出したのは、コウの鞄だった。そう言えば、あの屋敷に置いてきたままだった。座り込んだまま、差し出されたそれを受け取りながら、初めてそのことを思い出す。そんなことすっかり忘れていた。 「暗くならないうちにお帰り。この辺りは、近頃どうも物騒だから」 「……この家の、人、ですか」 「さあ、どうだろう。自分では半分くらいはそのつもりでいるのだけど、今から親族会議が始まるから関係の無い奴は出て行けと言われてしまった所だ」 「親族、会議」 庭の中で言葉を交わしていた2人の男のことを思い出す。本家、だとか、分家、だとか、そんなことを口にしていた。 きっと、この花羽家というのが彼らの言う「本家」なのだろう。屋敷と、そして花羽未月の母親のことを思い浮かべる。あれは、なにか他のものの一部分のような存在ではない。きっとそれらを従えて、見下ろす位置にあるものだ。よく知りもしないけれど、そんな気がした。 「きみは未月とは仲が良いのかな?」 聞かれたので、正直に首を振る。ならば何をしに訪れたのだと尋ねられるかと思ったが、男は別段、深い興味は無かったようだった。だろうな、と小さく笑う。 「あれは友達の出来ない奴だ、可愛げがないからな。……ほら、立てるかい」 そう言って手を差し伸べてくる。その手は取らずにコウは立ち上がった。男は特に気分を害した様子もなく、門を抜け、元の通りに扉を閉めた。重い音を立てて、完全に、その隙間から屋敷の中が見えなくなる。 「まだ、なにか、忘れものでも?」 「え?」 「ずいぶんと名残惜しそうな顔をしている。なにか、大切なものでも置いてきてしまったのかな」 からかうような言い方だった。まるで、コウの考えていることなど既に見抜いているとでも言いたげな口調だ。けれども、何故だか、不愉快ではなかった。名残惜しいのはほんとうだし、実際、男の言うとおりのような気分であったことは間違いなかったからかもしれない。 「離れ、の」 だから、驚くほど素直に、答えてしまっていた。 「あの人のことを、知っていますか。背が高くて、眼鏡を掛けていて、そして、」 とても綺麗な、と口にしかけて、それは止めた。思い出したら、言葉が詰まってしまった。なにを馬鹿なことをやっているのだろうと、口早にまくしたてた自分の必死さに気が付いて、情けない気分になった。 「叶えてあげようか」 しかし男は意外な事を口にした。 「あの子のことなら知っている。きみが望むなら、ぼくが叶えてあげるよ」 「どうして」 「あんまり深刻に思い詰めた顔をするから、かな」 訳が分からなかった。得体の知れない男だと思った。 「……変なの」 そう呟いても、男は笑うだけだった。 コウにとって都合の良すぎる話だとは感じたが、それでも、この男がどうしてそんなことを言ってくるのかが分からない。もしかしたら、騙そうとしているのかもしれない。 それでも、もしほんとうに、望めば叶えてくれると言うのならば。 「明日、この時間に」 男は内緒話をするように声をかすかに潜め、囁くように耳打ちしてきた。 「またここにおいで、コウ。あの子に、逢わせてあげよう」 それだけ言うと、男は門を開けて、また屋敷の中へと帰っていった。追い出されたのではなかったのだろうか、とぼんやり見送っていると、笑顔で手を振られた。まさか、コウに鞄を届けに、わざわざ一度出て来たのだろうか。 訳の分からないことばかりだった。この家も、あの男も、そして、自分自身も。 視界がいまだに潤む。足が地面に着いていないような、不安定な浮遊感に落ち着かなくなる。苛々するのは、不快なのではなくて、これまでにこんな気分になったことがなくて、そんな自分を持て余しているからだ。 目を覚ますような痛みが欲しくて、指先を軽く噛む。そんなはずはないのに、甘く感じた。 逢わせてあげよう、と、それだけの言葉に、こんなに胸が騒ぐのが不思議だった。 頭も心も、たぶん血の流れのなかにも、今はそれ以外のことはない。 だから、名乗ったはずがないのに、男がコウの名前を知っていたことにも、その時は気付かなかった。 家に帰ると、灯りが点いていた。 何日かぶりに、下宿人が帰宅していた。コウが玄関の戸を開けると、すぐに、遅かったから心配していた、と出迎えてくれた。 彼はコウよりも少し先に帰ってきたらしい。ちょっと来て欲しいと言われて台所に行くと、豆腐が大量に置いてあった。これはどうしたのだと下宿人を見ると、同僚から沢山貰ってしまったのだと、どこか申し訳なさそうに言う。二人分には多すぎるほどの豆腐を前にして、途方に暮れたような顔をしている。どうしようなどと呟くようなら、最初から、そんなに貰って来なければいいのにとコウなどは思うが、きっと言い出せなかったのだろう。 コウも下宿人も、普段は料理を祖母に任せきりにしているので、豆腐の有効な使い方など分からない。ただ、他の食材とは違って、何も手を加えなくてもそのまま食べられるのは有難いと思った。コウは余り食べるものに好き嫌いはない。 向かい合って静かに夕食を取りながら、下宿人は最近忙しい理由を話した。同僚のひとりが身体を壊し、それで穴の空いたシフトを埋めているのだという。今日は帰って来られたけれど、明日からはまたしばらく分からない、と言われたので、気にしないで欲しいと伝えた。豆腐はその同僚からの、お詫びの気持ちらしい。 下宿人は食事の時だけでなく、顔を合わせると大概、学校のことや、その他のいろいろなことを話しかけてくる。 それが少し苦手だった。人の話を聞くのならば何とも思わないが、自分のことを話すように持ちかけられると、困った。特に、言うべきことが思いつかないからだ。学校でも家でも、誰かに話して聞かせるようなことなんて起こらない。強いて言えば清川の存在ぐらいだろうが、あんな奴のことを話されても困惑するだけだろう。だから、下宿人との会話はいつも、短い言葉で打ち切っていた。 食事の最中、何か良いことでもあったのか、と、聞かれた。 どうしてそんなことを聞くのだと逆に尋ね返すと、なんとなくだと答えられた。ただ、そんな風に見えるのだと言われた。 自分ではよく分からない。けれども、何故だか悪い気はしなかった。 「やあ、来たね」 翌日、言われた通りに、またあの家の門の前まで行った。さすがに三度目ともなれば道は覚えていたので、誰に聞かずとも辿り着くことは出来た。途中何度か、辺りに住んでいるらしき人と擦れ違ったが、花羽家の高い塀が見えるようになると、人気が無くなるのも、相変わらずだった。どうしてこんなにも静かで、生きものの気配が薄いのだろう、と、来るたびにそう感じる。屋敷の中には、確かに人間が暮らしているはずなのに。それを決して覗かせまいとして、内と外を、この高い塀が完璧に分け隔てているのだろうか。 男はその塀に背中を預けて、コウを待っていた。昨日とは違うが、テレビや雑誌の中で見かけるような、流行っているのだろう服装で、相変わらず華やかな男だ。なにか、そういった職業の人間なのかもしれないと、思わず、そんな風に感じた。 「どうしてそんなに意外そうな顔をするのかな。ぼくが約束を守らないと思った?」 「……よく、知らないし」 「確かにそれはそうだ。けれども、ぼくは嘘は言わないよ。少なくとも、きみには」 「どうして」 「可愛いと思うから、かな。……ああほら、またそんな顔をする。少しは笑うといい、折角、そんなに可愛いのだから」 そんなことを言われても困る。笑えと言われても言われなくても、簡単に笑顔を浮かべることは出来ない。だからその言葉は無視した。そんなことを言われるために、ここに来たのではない。 コウが黙っていると、男は、やれやれ、とひとつため息を吐いた。それも無視していると、やがて、諦めたように、おいで、と手招きをして歩き出す。それに従い、着いていく。数分ほど、延々と続く塀に沿って歩いた。街側から少しずつ離れて、山の方に近づいたからだろうか。辺りはますます静まりかえり、少し、薄暗さを増したような気がした。 男が立ち止まったので、後ろを歩いていたコウも同じように足を止める。 「そういえば、名前をまだ言っていなかった。ヒカリ、だ」 「……ヒカリ?」 「そう、ぼくの名前だよ、コウ」 口にしたそれは、浮世離れしたこの男に相応しい名前のような気がした。モデルかなにかだろうかと思っていたが、実際に、そうなのかもしれない。背も高いし、姿勢も堂々としている。それに何より、独特の雰囲気がある。一度見たら、目が離せなくなりそうな、他の人間と見比べた時に、なにか、違和感に近いようなものを与える男だ。纏う空気が違う、とでもいうのだろうか。 そういえば、どうしてコウの名前を知っているのだろう、とふと思ったけれど、すぐに、花羽未月からでも聞いたのだろうと思い直す。それに、彼の母親にも名前を教えた。……捧にも。誰かから、聞いたのだろう。 塀の一部にしか見えなかったそこに、どうやら、裏口のようなものがあったのだろう。ヒカリがそっとその戸を押すと、かすかに木の軋む音を立てて、塀の向こう側へと空間が開けた。 「ここも普段は、中から鍵が掛けられている。鍵は本家の者が厳重に管理しているから、滅多なことでは使われない」 「今日は、どうして」 「まあ、特別措置というやつだろうな」 「あんたが開けたのか」 「いや、違うよ。開けてもらった」 誰に、と聞こうとして、黙る。静かにするよう、ヒカリが指を口元に当てて合図してきたからだ。どうやら、自分が入れて貰えたのが公には出来ないらしいことは、その仕草で分かった。 「今日は当主の喜美香様は外出されている。陽が落ちてもしばらくは戻らないだろう。だからそうだな、一時間ぐらい、時間をあげよう」 着いておいで、と言って、ヒカリは足を進める。裏口をくぐったその先は、昨日蝶を追いかけて進んだのと似た、あの広い庭の一部のようだった。ここが昨日も来た場所なのか、それともそうでないのか、それも分からないコウとは違い、ヒカリは迷う様子もなく、先を進んでいく。その後を追いかけた。 「ここを歩いていて、嫌な気分になったりはしないかな」 途中、足は止めずに、首だけを振り返らせて、ヒカリがそう尋ねてきた。どうして急にそんなことを聞いてくるのだろう、と不審に思いながら、しかし同時に、心の中では花羽未月の母親のことを思い出していた。屋敷に案内されて、微笑みを向けられた時に感じた、あの得体の知れない寒気。それをこの男に知られているような気がした。 「それなら、良かった。ああ、あまり周りをよく見ない方がいい。特にこの辺りは、未月の姉君の庭だから」 またコウに背を向けて、呟くようにヒカリがそう言ったのを聞く。忠告のようなその響きに、つい意識して周囲を見てしまうが、特に変わったものはないような気がした。空が曇りがちだからだろうか、庭は日没後のように薄暗い。前を歩くヒカリの背も、少し離れてしまうと影になってしまう。そんな中で、木の幹に張り付く白い色だけが、浮かび上がるように、あちこちに目に入った。 (……蝶?) 何匹もの蝶が、一匹ずつそれぞれの木に留まっているのかと思った。丁度、コウの目線の少し上辺りだ。何本も、見回した中で目に入る木のすべてに、小さな白いものが留まっている。雨の日に見た、花びらのようなあの蝶を思い出す。あれに似ている。 しかし、そうではなかった。それの正体に気付いて、思わず小さく息を呑むと、前を歩いていたヒカリが振り向かずに言う。 「だから見ない方がいいと言っただろう」 諫めるような言葉とは反対に、声は面白がるような調子だった。明らかに、意図的にコウに見せようとしていたのだろう。嫌な男だと思った。 「これは……?」 「心配しなくていい、偽物だ。だから構わないという問題でもないだろうけれど」 そう言われてよく見てみると、確かに木に留まっている白い蝶は、その形に切り抜かれた薄紙だった。本物ではない。しかしかえって、そのことが尚更背筋を寒くさせた。誰かの手で、ひとつひとつ作られた偽物の蝶たち。手を伸ばして触れてみる気にはならないけれど、それらがまるで今にも羽ばたきそうな程、精巧に蝶をかたどられているのは分かる。 それだけではなかった。生きものではない蝶が、自らの細い脚で木の幹に留まっている訳はない。薄暗くて最初こそ気付かなかったものの、蝶を留め貫いている、鈍く放つ光があった。 「ずいぶんと、増えたものだな」 呆れたような、だがどこかに楽しげな様子も含ませて、ヒカリが呟く。それほどの眩しさを反射させる光源などないはずなのに、鈍い金属の輝きが目を灼いたように、ちかちかと目蓋の奥で点滅した。吐き気のするようなひどい悪寒に堪らず足を止めてうつむくと、ヒカリがそっと背中に手を添えてきた。触られるのが嫌で、その手を振り払って拒む。 嘆息するように一度小さく笑ってから、行くよ、とコウを促し、ヒカリは再び庭の奥へと足を進ませる。最初の忠告通り、辺りを見ないようにしながら、コウはその後に続いた。 瞬きをしても、木に磔にされた白い残像がちらついて、なかなか消えない。偽物の、紙で作られたものであるはずなのに、蝶たちの痛みを思ってしまい、内臓が軋んだ。 辺りに留まる白い紙の蝶は皆すべて、錆びの絡んだ長い釘で木に打ち付けられていた。 ヒカリが辿っていた道は、昨日コウが蝶を追っていったものとは別であったらしい。離れのある、あの開けた場所に、昨日とはまた別の方向からたどり着いたからだ。立ち並ぶ木が少なくなり、建物が見えてくると、さあ行きたまえ、とヒカリはコウの背中を軽く押した。やたらと触れてくるのが好きな男だと思った。 「時間が来たら迎えに来る。それまで、あの子と好きなように過ごしておいで」 「ひとつ、聞きたいんだけど」 「なにかな、コウ」 「あの人は、どうして一人で、こんな所に住んでいるんだ?」 なんでも答えてあげるよ、と、そうとでも言いたげな表情をしていた癖に、いざコウがそのことを聞くと、ヒカリは曖昧に微笑むだけだった。 「知りたいのなら、あの子に直接尋ねてみてごらん。ほんとうに、きみが知りたいと思うのなら」 それだけ言い残して、背中を向ける。答える気など、初めからなかったのだろう。何処へ行くのか、庭の奥へ消えて行くヒカリの背から視線を滑らせ、辺りを見回す。人の気配はない。昨日と同じ、静かな場所だ。 あまり足音を立てないように草を掻き分けながらも、それでも自然と早足になってしまう。昨日はじめて見つけて、訪れた風景なのに、もうずっと昔から知っていて、長い間足を踏み入れていなかったような懐かしさすら覚える。 その人は昨日と同じ場所にいた。姿を目にするのと同時に、名前を呼んでいた。 「捧さん」 「……コウ?」 すると相手も、すぐにコウに気付いたようだった。特別措置、というヒカリの言葉が、一体誰にとってのことだったのかは分からないが、少なくとも捧は聞いていなかったらしい。声に、わずかに驚きのようなものが含まれていた。 名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。駆け寄って傍に立つと、捧は昨日と同じように、コウと同じ高さになるように跪いてくれた。 「また、来てくれた」 「うん。……一時間くらい、時間をくれるって」 コウがそう言うと、捧はしばらく、その言葉の意味を考えている様子だった。ややあって、また微笑み、コウの手を取る。 「おいで」 中に入れてくれる、ということだろう。触れられた手の熱さに、他のすべてのことをどうでもいいと思い初めていたが、かろうじて脱いだ靴を隠しておく冷静さは残っていた。そんなことをしても、中を覗かれてしまっては同じことだろうけれど。 コウがそんな風に思っていることを感じ取ったのかは分からないが、手を引く捧は、入ってすぐの部屋にコウを導き、縁側に面した障子を閉めた。 「おれがこうしておけば、誰も、開けないから」 だから大丈夫、と安心させるように言う捧に頷き返す。部屋の隅にコウの背丈ほどの高さの衝立が置かれていた。入口のすぐ近くの、おかしな場所に置いてあると思ったが、捧がコウの手を引いて、その影になるように座ったことで納得する。障子に、影が映らないようにするためのものなのだろう。閉めておけば誰も開けない、と、捧が言った。この人は、普段からこうして、人と顔を合わせないのだろうか。影すら見せず、あの高い塀に囲まれたこの庭の中で、更に姿を奥に潜めているのだろうか。気にならないわけではなかった。それでも、今は、その囲いの中に、自分も入れて貰えたことが嬉しかった。 向かい合う捧があまりに綺麗な姿勢で座るので、ぺたりと座り込んだ自分の行儀の悪さに少し恥ずかしくなる。普段から正座に慣れている人の姿勢だ、と思った。猫背になりがちなコウはよく祖母に注意される。 「……ここは、捧さんの部屋?」 八畳ほどの広さだろうか。畳敷きの床には物がほとんど置かれていないせいか、実際の面積よりも広く見える。家具は背の低い物入れがひとつあるだけで、他にはなにもなかった。コウの座った傍に、カバーを外された本が二冊転がっているが、本棚らしきものもない。お香でも焚いていたのか、ほのかに良い匂いがした。甘い、品の良い匂いだ。 「部屋というよりは、場所」 「場所?」 「そう。おれの場所」 「いつも、ここに一人でいるの?」 「うん」 「……さみしくない?」 ないよ、と捧は微笑む。きっとおそらく、本心からの言葉なのだろう。それでも、だからこそ、何故だかコウの方が寂しい気分になってしまった。 「おれも、一人かもしれない」 そんな風に言う自分をおかしいと思いながらも、コウは呟いた。あまり多くはないが、それでもひとつひとつ丁寧に言葉を返してくれる捧の声が、穏やかで耳に心地よかった。なにを聞いても、この人は自分を笑わないと、根拠もなく直感で信じられる。だから、普段ならば決して口にしないような物事も、自然と零れていた。 「おれは、お祖母ちゃんや、一緒に暮らしてる人がいて、その人たちはすごくいい人なんだ。でも」 「……寂しい?」 「わからない。でも、なにかが、違うような気がして」 言葉がうまく見つけられなくて、詰まってしまう。気持ちを人に伝えた経験があまりに少なすぎて、どう言えばいいのか分からなくて、もどかしかった。どうして、ほとんど何も知らないような人にこんなにも分かって欲しいのか、そんな自分に戸惑う。けれどそれ以上に、思いがこみ上げてくる。自分の持っているものすべてを、この人と分かち合いたい。そして同じだけ、この人の持つものを分けてほしい。 言葉にならなくて、そのことが辛いような、だけど嬉しくて堪らないような、色分けの出来ない混じり合った気持ちに胸が一杯になって、息が苦しくなる。涙が出そうだった。 「コウ」 名前を呼ばれても顔を上げられずにいると、捧はコウの頭を、小さな子どもをあやすような手つきで撫でてきた。自分の髪が、捧の指の間をすり抜けて流れる感触に、思わず目を閉じて、一度深い息を吐く。身体中に一杯になったものたちが、少しだけ静かになったような気がした。 捧の手が、コウの髪を伝って頬へと滑る。手のひらに頬を包まれ、輪郭をなぞるように指で撫でられて、身体が小さく震えた。堪えきれずに目を開くと、捧は指を止めた。見覚えのある眼差しで、コウを見ている。 「これは、どうしたんだ」 「え?」 「未月か」 捧が触れている箇所に、コウも指を伸ばす。かさついた感触に、昨日、この家の門のところで頬を擦り剥いたことを思い出した。捧はその小さな傷を、花羽未月と関係があると思ったのだろうか。確かに、捧の前からコウを引っ張って行った、あの剣幕を考えれば、それも仕方のないことかもしれない。かすかに眉を寄せた捧の不安気な様子は、コウが花羽未月と同じ学校に通っていることを告げた時に見せた表情に似ていた。 笑って、それを否定しようとした。 「違うよ。これは、転んで、」 けれどもコウが最後まで言い終わる前に、それまで捧の指が触れていたその箇所に、新しい別の何かが触れた。 「……っ、あ」 指よりも温かく熱を伝える、少し湿った柔らかい感触。頭が理解するより先に、背骨の辺りが痺れて、声が漏れた。触れてきたのは、捧の舌だ。そのことに気付いて、また、身震いする。身体を支えていられなくて、思わず、その肩にすがり付いた。少し布地に擦れただけなのに、まるで神経が剥き出しになっていて、直接それを刺激されたようだった。指先までが過敏になっていた。 温い熱は、傷を癒そうとするかのように何度かその上を這い、やがて頬を伝い、指が撫でたように輪郭に滑る。骨のかたちを確かめるようにそれに沿って舐め上げられ、続けて同じ箇所に静かに口づけられた。時折、強く吸われて、唇を離される時に小さな水音が聞こえる。その音と、触れては離れる感触に耐えられなくて喉を逸らすと、宥めるように反対側の頬に手を添えられた。指先で探られ、耳朶をくすぐられる。 「捧、さ」 名前を呼ぼうとして、途中で止めてしまう。最後まで、声にならなかった。自分がどんな気分でいるのかすら分からなくなって、それに戸惑う余裕もなかった。清川が得意気にコウを玩ぶときに覚える感覚に近いような気もしたが、それとは全く反対の意味を持つもののようにも思えた。あんな風に、気持ち悪くて涙が滲むことはない。苦しくて逃げ出したいのに、それを受け入れて安心するような、ねじれた居心地の悪さもない。止めないで欲しかった。 「コウ」 耳元で囁くように名前を呼ばれる。こんな風に呼んでくれた人はいままでになかった。それなのに、ひどく懐かしい気がするのが不思議だった。頬にある捧の手に自分の手を重ねて、コウも相手の名前を繰り返す。それに応えるように、捧はコウの耳に口づけてきた。ついばまれるように軽く耳朶を吸われて、含まれる。軽く歯を立てられると、それまで抑えていたものが堰を切ったように溢れて、全身から力が抜けた。身体中の骨がどろどろに溶けたようだった。肋骨の内側が疼くように痛くて、それが痺れるように心地よかった。脊椎を伝って隅々まで行き渡り、足の小指の先まで麻痺して、もう立ち上がれそうになかった。 捧はコウの耳朶から唇を離さない。もどかしくて、コウは両手で捧の両の頬に手をかけ、そこから引き離すように、自分の方に向き合わせた。強引に引き寄せたコウに、捧は少しだけ驚いたような表情をしていたが、やがてすぐに、微笑む。 堪えきれずに、コウの方から噛み付くように口づけた。 自分からそんな風に誰かに仕掛けるのは初めてで、どうすればいいのか分からなくて、ただ夢中だった。そうしたくてたまらなかった。頬を包んでいた手を首筋に回して、強くしがみ付く。息をするのも忘れて唇を重ねる。首筋や耳に感じていた温もりよりも、ずっと熱くて柔らかかった。目を閉じていても、確かにこの人に触れているのだと感じられる。 一度、小さく息をするために唇を離すと、その隙も与えないまま、今度は捧の方から、コウを捕らえてきた。力の加減無しに背中に回された腕に引き寄せられ、コウがしたように、唇を重ねてくる。割り入られた舌先に前歯を撫でられ、口を開いて深くに導き入れた。舌と舌とを絡ませて摺り合わせると、自分のものとも思えない熱を含んだ息が溢れて、止まらなかった。どこまでが自分か、どこからが相手なのか、境目が曖昧になる。時折、捧の掛けている眼鏡に額が触れて、その冷たい感触だけが、二人それぞれが違う個体であることを思い出させた。 「……捧さん、おれは、」 先程まで感じていた息苦しさは消えていた。大きな手に包まれるように抱かれながら、首筋に顔を埋める。部屋に立ちこめていたものと似た、良い匂いがした。きっと、焚かれた香が、着物に移ったのだろう。おかしくなるような痺れがゆっくりと宥められて、もつれた糸が解きほぐされていくように、穏やかな眠気に変わっていく。 こんな思いを、これまでに知らなかった。ほんの少し前の自分のことを、既にどこか遠くに置いてきたように感じる。 祖母と同居人が楽しげに会話を交わすその間に座って、ただそれに耳を傾けていたこと。ずっと小さい頃、大きくなったら何になりたいかを発表しましょうと言われて、立ち上がったまま何も考えられずにいたこと。陽の沈みかけた帰り道、ふいに自分の影が大きくなったような気がして、それに呑み込まれそうな気分になった時のこと。 線香花火の音。どうしても思い出せない、あの言葉の残骸。 そうやって、行き場を与えないままに溜め込んでいたものたち。記憶していたことすら忘れていた、そんなちいさなことが、いくつも浮かんでは溶けて、形を変えていく。それを何と呼べばいいのか、今なら分かった。だからもう、名前を付けられる。 ただ剥き出しにして、そのまま転がしておくのではなくて、ひとつにまとめて、片づけてやることが出来る。 「おれは、ずっと、寂しかったんだ……」 目を閉じて、その香りを一杯に吸い込む。背中を撫でてくれる捧の手が優しくて、悲しいことや辛いことはここには何もないはずなのに、何故だか、また、泣きたくなった。
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