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第一章 「蝶」
1. 雨惑

 ぱちぱちと、なにかが小さくはじける音が聞こえる。
 なんの音だろうと不思議に思い、耳を澄ます。炭酸水の入ったグラスの縁に耳をあてたときに聞こえる、泡がちいさくはじける音。それとも、誰かが遠くで、こちらに来いと誘うように、手を叩いているような。
(「……きれいだね」)
 音に混じって、声が聞こえた。
(「すごくきれいだね。……コウ」)
 やわらかく笑って、名前を呼ぶ声。ぱちぱちと、何かがかすかに爆ぜる音。まとわりつくような蝉の声と、その隙間を縫うように漂う煙の匂いを覚えている。
(「こんなにきれいなものを、もっと、たくさんみられたらいいのに。ああ、でも」)
 夏の暑い日だ。自分を抱き締めていてくれたその腕の、体温の高さも思い出せる気がした。
(「ぼくは、コウがいれば、それで、いい」)
 それはきっと、夜のことだ。閉じた目蓋に点滅するほのかな光。
(「コウが、いてくれたら、それでいい。……だからどうか、……に」)
 そう言って、優しく笑う人の声と、頭を撫でる手と、それに包まれてとても安心していた自分の気持ち。そこまで思い出せる。
 夏の夜のことだ。ぼんやりと淡い記憶に目を凝らして、その正体を掴む。
 きれいだね、と笑ったその人に、自分はどう答えただろうか。何も返さなかったかもしれない。心からその言葉の通りだと思いながらも、それに魅入られて、何も口に出来なかったかもしれない。あるいは言葉を紡げないほど、それは幼い頃のことだっただろうか。
 ぱちぱち弾けるその音は、線香花火だ。
 光を頼りに、その人の顔を覗き込もうとする。けれど、暗くて、よく見えなかった。橙色の火の粒は小さく、夜の闇をくまなく照らすことは出来ない。知りたいのに。この人の顔を、よく見たいのに。
(「どうか、……に、コウ」)
 そうやって何度も、自分を呼んでくれた声だけは、確かに耳に残っているのに。
 それなのに、その言葉だけが、完全に埋まらない。

 夢の中で聞こえていた音は、目を開いても続いていた。
(……、雨?)
 ぱちぱちと、ちいさく続いていた音に、起きあがり窓辺に近づく。見える景色は灰色に濡れていた。窓硝子に付いた水滴をひとつふたつと数え、そういえば傘を持ってこなかった、と思う。
 雨が降ると、空の色だけでは時間が分からなくなる。薄暗い部屋を見回して、壁にかかった時計を見つけた。もうすぐ、夕方の六時だ。
 そんなつもりはなかったのに、少し、眠ってしまったようだった。床に散らばった制服を拾い上げる。背後に眠る男を起こさないように、静かに一度だけ息を吐いた。身体のあちこちが痛んだが、出来るだけ、そのことを意識しないようにした。
「なんだよ、もう帰るのか」
 着替えが終わるのを待っていたように、背後からそう声がかかる。振り向くか、それともこのまま部屋を出てしまうか、どちらにするか考える間もなく、伸びてきた手に肩を掴まれた。
「家、誰もいないんだろ。もっと居ろよ」
「……誰もいないわけじゃない」
「ああ、居候がいるんだっけ? 別に、そいつの世話をおまえがしてるわけじゃないんだろ。だったら関係ないじゃないか」
「帰る」
「待てよ、牧丘」
 それ以上の言葉を交わす気はなかった。けれどもいつものように、掴んできたその腕は強く、振り払おうとする前に、相手の方に引っ張られる。
「泊まっていけよ。どうせ、うちだって、誰もいないようなもんだし」
「離せ」
 嫌だ、とこちらに返事するかわりに、両肩に腕が回された。後ろから絡みついてくるその手を剥がそうとすると、耳のごく近くで小さく笑われる。
「冷たい奴。さっきまで、あんなに可愛かったのにな?」
 そんなことを言われても、別にどうとも思わない。だから何の反応も返さなかった。
 相手はそれが面白くなかったのだろう。一度、鼻で笑うような息を吐いて、あっさり束縛を解いた。
「……帰る」
 もう一度そう呟く。今度は引き止められなかった。
 床に転がる鞄を掴んで、そのまま相手の顔を見ないで、部屋を出た。
 傘を持って行けよ、と、そんな風に言われたような気がした。聞こえなかった振りをして、逃げるように、薄暗いままの玄関からその家を出た。

 いつから雨が降り出したのだろう。学校を出た時は、確かに曇り空ではあったけれど、降り出しそうな気配は無かった。
(……仕方ない)
 そのまま、雨の歩道に脚を踏み出す。
 家まで走っても、三十分はかかるはずだ。少し濡れれば、あとはどれだけ雨に打たれたって同じだろう。
 足の裏がアスファルトを踏む度、気にしないようにしていた鈍い痛みが疼く。あの男のせいだ、と、そんな風に心の中で呟きかけて、すぐにやめる。原因はそれだけではない。 
 しばらく顔を合わせることの出来ない祖母のことを思う。今頃は、どの辺りだろうか。飛行機の時間ははっきり聞いてはいないけれど、その時間にはまだ雨は降っていなければいいと思った。折角の旅立ちが雨では、なんだか勿体ない気がした。それに、朝方、傘を持たせなかったことを、きっと気にしただろうから。祖母は優しい。血の繋がりのない自分にも、身に余る程の優しさと愛情を注いでくれている。
 それなのに。
(「……牧丘コウ? だよな、おまえの名前。おれ、隣のクラスの清川」)
 あの男、清川縁示から声をかけられたのも、こんな雨の日だった。春が終って、梅雨に入ったばかりの頃だ。
(「なぁ、おまえ、……だろう?」)
 顔も、名前も知らない男だった。隣のクラスだと言うけれど、コウ自身には全く面識が無かった。
(「ああ、ほら。今も。欲しくて欲しくて仕方がないって目だ」)
 それなのに、清川は何故だか、そう言ってきたのだ。
 そんなことを思ったことは無かった。
 何かが欲しくて仕方がないなんて、そんな気持ちを、決して抱いたことはない。
 おかしなことを言う男だと思った。一体なにを言い出すのかと、呆れてそう言いかえそうとした。
 それなのに、何も言えなかった。
(「おまえは、誰かに支配されたいんだろう?」)
 そう言ってこちらを見下ろしてくる、薄笑いを浮かべるその目に、身動きが取れなかった。
 理由は分からない。ただ、清川に向き合うと、どうしてもそうなってしまうとしか言いようが無かった。
 決してコウ自身が望んだことではない。けれども、そうではないと逆らうことが出来ないまま、まるで流されるように、今日まであんな関係を続けている。
 清川が何を元に、コウのことをそんな風に言ってきたのかは分からない。
 まるで玩具にされるだけの関係だ。何度繰り返しても慣れない。好きになれない。それが心地よいとは思えない。
 それでも、あの目と声に、来い、と呼ばれると、何故だか、手足はそれに従う。
 清川がどんなつもりでしていることなのか分からないし、そしてまた、そんな風にされる自分自身の感情がひどく曖昧だ。嬉しくはない。わざと乱暴にされて傷が残ることだってある。
 それでも、ひどく扱われることに、どこか安心する気持ちがある。自分に相応しい扱いをしてもらえている、と、何故だか、そっと安堵してしまう瞬間が幾度かある。どうしてだかは分からない。
 悲しくはない。辛くもないし、不幸でもない。ただ、自分については、何も感じない。
 幼い頃から、そうだった。心はいつも平坦で、声を上げて喜んだり、笑ったりすることがない子どもだった。穏やかな子だと、よく感心されていた。わがままを言わない良い子だと褒められたこともある。実際には、わがままを言うということが理解出来なかっただけだ。
 今でも変わらない。清川が言ったように、欲しくて仕方がない、なんて、そんな気持ちを何かに抱いたことはない。
(……あれ)
 少し顔をうつむかせて、雨に打たれるままに歩道を歩いていた。ほとんど通ったことのない道ではあるけれど、自分の家の方向はなんとなく見当が付く。周りには歩く人は誰もいなかった。辺りは住宅街らしかったが、雨の降る音以外、何の音もしない。立ち並ぶ家も、コウの住んでいる辺りに比べて、ひとつひとつの敷地が大きい。薄暗い中に灯る窓の明かりは少なくて、あまり、人の住んでいる気配のしない風景だった。詳しくないのでよく知らないが、高級住宅街と呼ばれているあたりだったかもしれない。
 その景色の中に、何か一点、おかしなものが目をよぎった気がした。白く、ふわふわと、浮かぶような何か。
 立ち止まり、よく見てみる。ちょうどコウの目線の高さだ。
(蝶?)
 降りしきる雨に羽を打たれ、それでも舞うように飛ぶ、一匹の白い蝶がいた。
(珍しい。雨の日に)
 あまり大きな蝶ではない。白いその羽で飛ぶ姿は、風に飛ばされた花びらが翻弄されているようだった。街灯だけがかすかにともる雨の中、蝶の羽はぼんやりとみずから光を放っているように、淡く浮かんで見えた。
 まるで何かを導く光のようだと、そう思った。
(……どこへ行くのかな)
 足を止めて、思わず見入ってしまった。花びらのようだと思ったけれども、ほんとうに、それによく似ている。理由は分からないけれど、その小さな白い羽から、目が離せなかった。
 蝶はコウの目の前を横切り、街灯の光から逃れようとするかのように、ひとつ先の角の奥に消えていく。見失ってはいけないと思った。何かに急かされるように、少し早足になって、その後を追いかけた。水溜まりに足を踏み入れてしまい、派手に靴が濡れたけれども、全く気にならなかった。そんなことに気付く余裕もなかった。ぱしゃぱしゃと、みっともない足音を鳴らして小さな蝶を追いかける自分に、戸惑いすら覚えた。
 けれども逃してはならない。そんな思いに取り憑かれたように、ただ、ひらひらと舞う白色を追いかけていた。
 角を曲がったその時から、一度に空が暗さを増した。この路地が、街灯と街灯の間に、ずいぶんと距離が空いているせいなのか、それとも実際に闇が深さを増したのか、どちらかは分からなかった。ただ、その雨の中で、少し先を舞う蝶だけが白い。
 どれだけ走ったか、もう、分からなくなった頃だった。白い光がふと掻き消える。不思議に思って目を凝らすと、また、角になっているようだった。もう周囲には完全な闇しかない。高い塀垣があるのだから、ここにも何らかの建物があるだろうのに、街灯がひとつもない。蝶の後を追って角を曲がろうとした。
 しかしその暗さの中で、足下がよく見えずに、地面の窪みに足を取られてしまった。雨水が溜まっていた土に靴裏が滑り、走っていたそのままの勢いで、全身を打ち付けるように転ぶ。制服を通して伝わる、濡れた土の間隔に、いつの間にか、自分が走っていた道が舗装されていなかったことに気付く。咄嗟に両腕で顔は庇ったものの、髪の毛も顔も、跳ね上がった泥水を被ってしまった。汚してしまった、と思うよりも先に、蝶を見失ってしまったかと思い、膝を付いたままで顔を上げた。
 白い蝶は、そこにいた。転んで低くなったコウの目線よりも、少し低いところにいる。何故だろうと思いかけて、すぐに気付く。地上に、止まっているのだ。手を伸ばせば届くような、そんな近い距離ではなかったが、あと、ほんの数メートルだ。
 よかった、と安堵しながら立ち上がろうとして、打った膝の痛みに、ふと我に返る。何かが聞こえた気がしたのだ。雨音と、自分自身の、走ったせいで上がった息以外の何かだ。
「……は、……だろう……」
 それは人の声だった。角を曲がった先に続く道の、更に奥から、とぎれとぎれに声が聞こえた。蝶の近くからかもしれない。思わず、身を固めた。こんな姿を誰かに見られたら、なにをやっているのだろうと不審に思われてしまう。
声の様子から、それが自分に掛けられているのではないらしいことは分かる。そっと立ち上がって、角に隠れるようにしながら、そちらの方を覗き込む。目を凝らすと、人影がふたつ見えた。
 雨音に混じって、声が聞こえる。
「……何も言わないんじゃ、何も分からないだろう。どうして、こんなことになったんだ」
 まるで問いつめるような、張りつめたその声は若い男のものだった。何度か同じような意味合いのことを繰り返して、やがて、黙ってしまった。話しかけられているらしい相手は、それに対して何も答えてはいないようだ。もしかしたらコウに聞こえていないだけかもしれなかったが、尋ねているらしい相手の苛立った様子からして、おそらく、黙ったままなのだろう。
「もういい、いいから早く中に戻るんだ。母さんに見られる前に、その怪我をどうにかする」
(……怪我?)
 その言葉が気になって、コウは少し身を乗り出す。白い蝶は相変わらず、先程と同じ位置に留まって、雨に打たれるままに羽をかすかに震わせていた。そのすぐ側に、人影はある。声を上げ続けているらしい方が立ち上がると、ふいに、暗闇に光が差した。暗くて見えなかったが、丁度そこには木造の門扉があったのだろう。立ち上がった人影がそれを開いたので、中の光が、弱くではあるが、外側にも差してきたのだ。
 わずかな明かりを得て、それまで影法師だったそのふたりの姿が、闇のなかに輪郭を表す。
 門を開けた男の姿が、まず目についた。コウが、よく知っている服装だったからだ。知らない顔だったが、着ているのは、コウと同じ学校の制服だった。髪も服も雨に濡らして、何もかもが面白くないとでも言いたげな、不機嫌さを素直に表すその表情に見覚えはなかった。門を開け、まるでその中に入るための覚悟を決めているように、真っ直ぐに立ったまま扉の向こうを見ていた。
 そしてやがて、決意したように、もうひとつの影に向けて、行くぞ、と呼びかける。つられて、コウもそちらに目をやった。
 その瞬間、息が詰まった。
 自分が何を目にしているのか、しばらく、分からなかった。目は確かに見ているはずなのに、その情報が脳に伝わらない。何を見たのか、よく分からなかった。まるで突然、誰かに胸を強く殴られたような気がした。息を吐こうとして口を開くと、何故だか唇が震えた。奥歯を噛んで、手のひらで口元を抑えようとした。けれども、指先も、細かく震えていた。
 身動きが取れなかった。自分がどうなったのか分からなくて、分からないということにすら気付かないまま、それでもその人から目を離すことだけは出来なかった。
 低い位置にいるその人もまた、コウと同じように、地面に膝を付いていた。コウや、もうひとりのあの男よりは年上だろうか。雨に濡れた黒い髪に、同じような、宵闇色の着物。まるで闇に溶け込むような色合いの和装の男は、自分を呼ぶ人影の方にゆっくりと首を巡らせた。その仕草にかすかに反射する光で、ああこの人は眼鏡を掛けているのだ、と気付かされた。ようやく、目にしているものを、少しずつ理解出来るようになった。
 それはとても不思議な感覚だった。順番を間違えて、脳よりも先に心が認識してしまったような、だから、はじめて見たはずなのに、何故だかとても懐かしく感じてしまったような。あの姿を知ることを、ずっとずっと長い間待ち望んでいたような。それがようやく叶えられて、そのことがとても嬉しくて堪らないような、おかしな感覚だった。
 早く来い、と、小さく叫ぶように言って、制服の方が着物の男を引っ張る。引かれて立ち上がった男は、右手で脇腹の辺りを押さえていた。怪我、という言葉を思い出す。確かに元々濃いだろう布の色が、その周囲だけ、更に濡れたようになっているような気がした。怪我。
 あれは、血に濡れたの、だろうか。
 いつまで経っても自分からは足を進めようとしないその態度に苛立ったのだろう、和装の男の手を強引な動作で引き、制服の男は門の向こうに姿を消した。そうして並ぶと、着物の男の方がずいぶんと背丈が高かった。逆らう様子もなく、引かれるまま、その男も中に足を進めようとした。
 けれども、一度、振り返った。
 まるで自分の存在に気付かれたようなその仕草に、コウの心臓が瞬間、鳴るような音を立てて動きをおかしくした。そうだったらいいと思った。こっちを見て欲しいと思った。そうしたらきっと、もっと自分はおかしくなる。そう確信して、男の目がこちらに向いてくれることを切望した。
 その人が眼鏡の奥の目を、わずかに細める。
 暗い闇の中で照らす光が小さく、降り止まない雨が、糸のように視界を遮り邪魔することを、ひたすらに煩わしいと思った。瞬きも呼吸も、何もかも忘れた。息をとめて見つめたその人が浮かべたのは、静かで、綺麗で、淡い微笑みだった。それが自分に向けられているのではないことには気付いたが、そんなことは、どうでもよかった。
 来いと言っているだろう、と、またあの声が門の奥から呼んで、やがてその人も、光の差す方に完全に消えた。
 ふたりを呑み込むと、すぐに門が閉じられる。重い音を立てて完全に扉が閉じると同時に、周囲を照らしていた明かりも無くなった。
 それでもしばらく、コウは立ちつくしていた。頭が朦朧として、何も考えられなかった。
 もっと近付きたいと思った。ここからではあの門の向こうには遠い。たとえほんの少しでもいいから近くに行きたいと思い、ふらふらと引き寄せられるように、隠れていた角から身を離した。
 白い蝶は、まだそこにいた。コウが最初に見た時から、ずっと同じ場所にいる。
 どうして、あれほどまでに見失ってはならない気がしていたのか、分からなかった。自分が何をしていたのか、その結果何がどうなったのか、まだ理解しきれずに、蝶に近づく。
 あの人は、この蝶を見て、笑っていた。
 捕らえてみようと思った。あれほど、懸命になって追いかけた蝶だ。天鵞絨のような手触りをしていそうなその羽に触れたくなって、指を伸ばす。
 そして、気付いた。蝶が先程から、ずっと、何をしていたのか。
 花びらに似たその蝶は、地面に溜まった水を呑んでいた。細い管を伸ばして、羽を濡らす雨にも構わずに、触れようと手を伸ばすコウにも警戒する様子もなく、ただ、餓えを満たしている。
 気付いて、伸ばしていた指を戻す。これはきっと、見てはいけないものだと直感した。暗闇の中、雨の降る中、どうしてそんなに水を吸い続けなければならないのか。見てはならない。それを知ってはならない。自らの存在も、命さえも埒外に追い出してしまえる、蝶にとっての、身を滅ぼしても構わないほどに甘い蜜。
 知ってはならないと、何かが告げているような気がした。見てしまったら、きっともう、自分は二度と、忘れられなくなる。
 思わず、小さく声を上げた。悲鳴のような、呻きのような、そんな、意図せず湧いた感情を逃がすためのものだったはずのその声は、しかし何故だか、歓声じみて聞こえた。
 白い蝶が止まる水溜まりは、黒ずんだ赤い色をしていた。触らなくても分かる、粘着いた、鉄錆の匂いがする、赤い液体。蝶の甘露。地面に小さく輪を描くのは、ここで流された、ひとの血だ。
 そしてそれはきっと、静かな微笑みがとても美しい、あの人の。

 どうやって家に帰ってきたのか、よく覚えていない。気がついたら、玄関に座り込んで、ぼんやりとしていた。全身ずぶ濡れで、制服も鞄も泥だらけで、ひどい状態だった。
 重たい身体を引きずるようにして、ぼうっとする頭のままで、着替えて、雨と泥で濡れた身体と髪を洗って、制服も適当に洗った。そのまま、食事も取らずに布団に倒れ込んだ。ひどく疲れていた。
 窓を開け放ったまま寝てしまった。そのせいだろうか、夢の中でも、まだ、雨が降り続いていた。
 目の前には、あの白い蝶がいる。降り続ける雨と同じように、地面に溜まった赤い蜜を、吸い続けている。先程目にしたものと、同じだった。
 心に疼いて消えないものがある。脈を撃ち、そのたびに重い痛みが胸に走り、しかし痛みの後には、思わず目を閉じて息を漏らすような酩酊感が満ちた。涙が出そうだった。ひと呼吸ごとに交互に入れ替わる胸のうちに、目眩がして足下にくずおれる。何が自分を満たしているのか分からなかった。分からないけれども、どうか、このまま出て行かないで欲しいと強く思った。
 蜜を吸い続ける、蝶を見つめる。
 血溜まりはいつまでも雨に流されることなく、そこにある。あの人の流した、赤い血だ。
 怒りが湧いた。
(……、だ)
 もう見えない、あの人の姿を思い出す。静かで、きれいな、人だった。やわらかく細められて、微笑んだあの目。血に濡れて、色濃くなっていた宵闇色の着物。あの人のものだ。
(それは、)
 はっきりと自覚した、それは憎しみだった。
 咄嗟に手を伸ばし、手のひらに白い蝶を捕らえた。蜜を呑む蝶は羽ばたきひとつする間もなく、たやすく掴まえることが出来た。光を包み込んだような、頼りない手触り。憎らしい。こんなに小さな、生きものの癖に。
 あの人のものを、ああして、自分の一部にするなど。
 怒りに任せて、そのまま、手のひらを強く握りしめた。ぷちん、と、弾ける感触が手のひらに伝わる。潰れた、と思った。潰したと思った。それでもまだ強く、手のひらに力を込める。許さない。許さない、だってあれは、
(あれは、おれのものだ……!)
 開いた手には、蝶の残骸はかけらも残っていなかった。
 ただ、光の差さない闇の中でもはっきりと見えるほど、ひとの血の色に赤く濡れているだけだった。

 飛び起きて、最初に、自分の手を見た。何もない。額に浮かんだ汗を拭い、一度、深く息を吸う。
(……ああ、なんだ、そうか) 
 そうして、自分を捕らえているこの感情の、正体を知った。
(そうか、おれは、)
 あまりに鮮やかな感触が、まだそこには残っている。夢を手繰るように、蝶を掴んだ時と同じ動作で、手のひらを握り、そしてまた、ひらく。
(……おれは、あの蝶が、羨ましかったんだ……)
 夢の中では確かに赤く濡れていた、手のひらにそっと、唇をおとす。蜜のような、あの赤。
 あれはひどく、甘そうな、匂いをしていた。


 
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