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第三章 「糸」 |
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3. ひとかたひとり 初めて他人に身体を開かれたのは、十四の時だった。 中学生の頃のことで、相手は理科の先生だった。はっきりと覚えてはいないけれど、まだ若い、三十を少し過ぎたくらいの人だったような気がする。一年の時から教えてもらっていたのか、それとも二年になってからだったのかは分からない。何にも興味がなくて、ただ言われたことをその通りに実行しているだけの毎日だったから、その人のことも、元々は別にどうとも思っていなかった。ただ、授業のある時は毎回、教科書を読まされたり、当てられて答えたりしていた。その度に、牧丘、とこちらの名前を呼ぶその人の声があまり穏やかではない気がして、きっと自分はあまりよく思われてはいないのだ、と、そう感じていた。だからといって、そのことを、気にはしなかったけれど。 その日は、実験をするので、いつもの教室ではなくて理科室での授業だった。片付けをしている時に、手が滑って試験管をひとつ割ってしまった。どうしたらいいのか分からなくて、教壇の上から、硝子の割れた音にこちらを見ていたその先生に報告した。 割れました、と言ったら、叱られた。勝手に割れるわけがないだろう。おまえが割ったんだ。そんなことを言われて、放課後、片付けに来るように言われた。割ってしまった硝子の破片で指先が少し切れていて、血がぽたぽた床に落ちて汚してしまったことも、叱られた。 大人しく、言われた通りに放課後に掃除をしに行くと、その先生はまだ理科室にいた。また怒られるんだろうな、とぼんやり思いながら、それでも自分が悪いことをしたのだという自覚はあったので、頭を下げた。そうしたら、その頭を叩かれた。 突然暴力を振るわれて、痛いと感じるよりも、何をされたのかよく分からなくて、顔を上げてその人を見た。西日が差し込む教室で、こちらを見る目が、いつもよりもずっと暗く、どこか思いつめたような顔をしていた。 試験管をひとつ割ってしまったことがそんなに許せなかったのだろうか、と、少し不思議に思いはしたけれど、日頃からの雰囲気で、この人はそれほどこちらが嫌いなのだろうとすぐに思いなおした。そんな風に、特別深く関わりもない人から、目付きが気に入らないとか、可愛くないとか言われることは以前にもあった。だから、叩かれても、もう一度頭を下げるだけで、そのまま掃除を続けようとした。 けれど、その人に後ろから腕を掴まれて、何が起こったのかよく分からないうちに、口を塞がれて、理科室から繋がる小さな準備室の中に引っ張られた。絡んでくる腕の力が強くて、振りほどくことも出来ないまま、至近距離で顔を覗きこまれて、独り言のように色々なことを言われた。いつもそんな目でおれを見て、おまえはこんな風にされたかったんだろう。いつでも、怒られるのを待っていた癖に。何か叱る度に、物足りないようなねだるような顔をする癖に。 先生はその時、終わるまでずっとそんなことを言っていた。制服に手を掛けられて、引き裂くように剥き出しにされても、食べられるように唇を塞がれても、指やそれ以上のもので身体を犯されても、自分が何をされているのか、よく分からなかった。痛くて、触られるのが気持ちが悪くて、誰かに助けてほしいと思ったはずなのに、大きな声を上げたり、相手を強く押しのけてでも逃げようとはしなかった。最後まで、息を詰めて、なんでもいいから早く終わってほしいと願うような気持ちだった。終わったあとは、いつも呆然としてしばらく動けなかったけれど、そんな時は、何故だか少しだけ、自分が許されているような気がして心が穏やかになった。痛くて辛い罰を受けたから、だからもう、許してもらえた。ほんの一瞬だけ、そんなことを感じた。 その先生とは、中学を卒業するまで、そんな関係を続けた。いつも向こうから呼び出され、同じようなことをされ、こちらはずっとその間、早く終われと思いながら、けれどもそれを受け入れ続けた。嫌だったけれど、誰にも言わなかった。祖母や下宿人には、そんな汚い自分を知られたくなかった。家に帰って、夜、布団の中に包まってからそのことを思い出すと、身体が震えて、いくら抑えようとしても止められなかった。 先生は次第に、その最中に、可愛い、とか、好きだ、と口にするようになった。 痛くて酷くされると安心するような気持ちだったけれど、そんな風に言われるのだけは、吐き気がしそうなほどの違和感を覚えて、嫌いだった。 自分を見下ろす男の目に、ふと、そんなことを思い出していた。今ではほとんど思い出すこともない、何年も前のことだ。時々、夢でその時のことを見ることはあったけれど、ただそれだけのことだ。 あの先生は、コウが求めているものに気付いた。けれども、回数を重ねるに連れて、少しずつ優しいことを言われるようになって、それが嫌だった。その点では、清川は完璧だった。いつでも、酷くしてくれた。コウがほんとうに欲しいものを全部分かっていて、少しも、優しくなかった。 「支配されたいだろう。すべてを投げ出して、わたしに従いたいだろう。おまえはあれの血を引いている。どこまでも従順で、わたしのことしか考えられなかった『蝶』の血だ」 頬に触れる雨夜甚の指は冷たく、人間の皮膚というよりも無機物のように硬く感じた。 「……おれの、おとうさん?」 呟くようなコウの言葉に、雨夜の当主は何故か、面白くなさそうな顔をして、コウを畳の上に投げ出した。 そのまま、興味を失くしたように身体を離される。自由になった身体を少しずつ起こして、その背中を見上げた。雨夜甚はもうコウのことなど忘れたように、言いつけの通り大人しく目を閉じていたマリカを抱き上げ、いい子だと褒めている。 「おれは、……」 言われたことを、理解しようとした。それでも、思考の速度が追い付かなくて、なかなか先に進めない。中途半端に起き上がった姿勢のまま、どこを見るでもなく一生懸命に考えていると、低く笑う声に我に返った。 「だからおまえは、選べるということだ。あの花羽の『蝶』をもう一度盗み、おまえの手で仕留めるのなら、あれは生涯おまえに付き従う蝶になれる」 仕留める、という言葉に、それまで深くは気にしていなかった、部屋の奥にある祭壇の上に目を遣る。そこにあるのは、一振りの刀だ。花羽の狩りは弓矢で、そうして、雨夜の狩りは刀で仕留めるのだと、捧がそんなことを言っていた。 花羽の「蝶」を仕留める。雨夜甚の言っていることはつまり、コウがあの刀を捧に向けるということだ。そんなことは絶対にしないと決めた。それなのに、自分の心の中でそう繰り返した決意が、あの時と同じ強さではないことに気付く。 「そんなことしない」 「そうか。それならば、大人しく最後の花羽供儀を見守ればいい。その時は、特別におまえにも席を設けよう。あの『蝶』が最後のひとりとして、わたしたちの血を繋ぐその一切を見届けられるように」 「だから、そんなことしないって言ってるだろ! させない。儀式なんて、絶対に、」 「『蝶』を生かし、おまえ自らは滅ぶ道を選ぶと?」 コウが黒い蝶を狩る一族の者であるのならば、蝶狩りの儀式が行われず、魂が呪術師に捧げられなければ、その報いとして滅ぶことになる。未月たち花羽の一族も、目の前のこの男の一族も、全員が死に絶えて終わり。 それもいいだろう、と、雨夜の当主はまるで冗談を言うようにそう言って笑った。自分が死ぬことも、可愛がっているはずの娘が死ぬことも、この男にとっては笑って済ませられる物事なのだと、そう告げるような笑みだった。 「いずれにしても、おまえたちが共に在る未来はない。ただひとつを除いては」 「……ただ、ひとつ?」 「おまえは『蝶』だ。花羽の者共にしてみたら到底受け入れがたい事だろうが、狩りの血を引きながら、同時に贄の血も持ち合わせている。半端ものではあるが、狩ればおそらく、片羽ぐらいは手に入ろう」 何事もなかったように、また猫のように父親の膝に甘えるマリカの髪を指先で撫でながら、雨夜の当主はそんなことを言ってきた。話されていることの内容をどれほど理解しているのかは分からないが、撫でられて上機嫌な様子のマリカが、じっとコウの方を見ているのを不気味にすら感じる。 この男は、今度は、コウが死ぬ話をしている。雨の夜、地面に出来た血溜まりのような、黒く重たげな目でこちらを見て笑う父娘に、無意識のうちに後じさっていた。彼らと同じ血が、半分、コウの中にも流れている。そうして残りの半分は、また別の。 「おまえ自身もまた、わたしに狩られれば羽を得る。望むのならば、儀式を終えて定めを果たしたあの白の『蝶』と、つがいとしてずっと一緒に置いてやろう。おまえがそれを望むのならばな」 「そんなの……」 「おまえの父は、わたしを裏切った。だがな、コウ。わたしはそれを許している。あれのことを憎んではいない」 コウの考えていることなど手に取るように分かっているように、雨夜甚はそう続けた。あれ程の強い悪意と憎悪を持ってコウを見下ろしていた男には不似合いなその言葉に、逃げ腰になりながらも、じっと相手を見上げる。目を逸らして、その存在を無視したかったけれど、そんな弱い気持ちを押し潰すように奥歯を噛む。その強がりさえも、きっとお見通しだろうとは分かってはいた。 「あれはわたしに、新しい捧げものを残した。裏切って、別のものの手を取ってしまったその代償として、そこで生まれたものを、わたしのために残して死んだ」 最後の言葉に、弾かれるように身体が震えた。そうなのだろうと、最初に聞いた時から覚悟はしていた。この男の「蝶」は、美しい黒い羽を得たのだと、そう、言っていた。「狩り」によって命を奪われて、魂を抉り取られた。 雨夜甚はコウの表情の変化に、喉の奥で笑う。そうしてまた、あの、悪意を隠さない眼差しで、射抜くようにじっと見られて、そこから逃げられなくなった。 「おまえという、また新しい『蝶』をな」 それを聞いて、鈴を転がすように、マリカがくすくすと楽しそうに笑った。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 急いで家を出て、逃げたものを追おうとすると、何故だかその男もついてきた。「……自分で逃がした癖に、何がしたいんだ」 「きみひとりでは何も出来ないだろう。関係のない人間が深入りして被害を負うのは防ぎたいところだからね」 関係のない、という言葉が面白くなかった。自分でも、それが事実であることが分かっているから、何の反論も出来ない。 車を出そうとすると、当然のような顔で、コウを逃がした男が助手席に乗り込んでくる。聞きたいことは嫌というほどあったが、今は、コウを追うことのほうが先だ。大人しいあの子が、あんな行動に出るとは思わなかった。言い聞かせればすべてを諦めて、受け入れてくれるのだと、そんな風にどこか彼を見くびっていた。これまでのコウが、そうであったように。 けれども違った。あの子は、ほんとうに、変わった。 「そうだ、その前に」 慌ててしまい混乱していたが、まずするべきことを思い出す。何かあったらすぐに教えると約束していた。 ハンドルを握ったまま車を出す寸前で携帯電話を取り出す。助手席の男は、八木の忙しない一挙一動を見て、少しは落ち着きなさいと苦笑してくる。誰のせいだというようなつもりで、軽く睨みながら花羽未月へ電話した。 コウが家を逃げ出したこと、今から車で後を追うことを伝えると、未月は呆れたような声を上げたあと、絶対に向こうには行かせるな、と怒って電話を切ってしまった。 大きな声だったから、隣の男にもそれが伝わったのだろう。また怒っているな、と笑うその顔を見る。 「どうしたんだい。早く、追いかけるんだろう」 「……おまえは、おれの知っている男に、間違いないのか」 この男は八木のことを、貴人、と呼んだ。それに、大きくなったね、と、そんなことも言った。 確かに、見覚えはある。以前にもそんな風に、貴人と呼ばれていた。けれどもそれは、もう、十年以上も前のことだ。あれは、コウがまだやっと喋り出した頃のことなのだから。 「そうだよ。会うのはあの時以来だから、十五年振りになるかな。この家には何度か様子を窺いに来てはいたけれど、きみはあの後、ここを出てしまっただろう」 だから久しぶり、と、ごく軽い調子でそう挨拶するように言われる。眩暈がしたように、見ているものが揺れて信じられないような気持ちになった。今さら、何が起こってももう驚かない決意をしていたのに。 「だって、そんなわけないだろう。おまえが、あの時の男なら、」 八木が何を言いたいのか、この男はもう分かっているのだろう。悠々と笑みを浮かべたままで、続けてごらんとでも言いたげに小首を傾げられる。この仕草にも、見覚えがあった。あの時は、随分と高いところから見下ろされていたその目が、今は同じほどの高さにある。 「十五年前と、何も変わっていないなんて、おかしいじゃないか」 「別におかしくないよ。ぼくはそういうものだからね」 「説明になってない」 そう言って睨んでも、相手は笑うだけだった。その笑い方も、子どもの頃の記憶にあるものと、何も変わらない。姿かたちも声も、八木が知っている十五年前と、全く同じものだった。 それほどの時間が経てば、何も変わらないことなんて有り得ない。その当時既に、外見だけでいえば、今の八木くらいの年齢だったはずだ。それなのに、こちらだけが変わって、この男は何も変わっていない。小さくて、あんなに泣いてばかりいたコウでさえ、背も伸びたし、感情ひとつ表に出すことも稀になったのに。 「……おまえも、人間じゃなかったのか」 「元々はただの人間だよ。少しだけ、長生きをしているというだけだ。生きている、というのは、少し違うかもしれないけれど」 「長生き……、どのくらいなんだ?」 「千年に少し足りないくらい」 軽く答えられたその時間が余りにも大きくて、驚く気にもならなかった。 「十五年前には、そんなこと言ってなかった」 「だって、聞かれなかったし」 「当たり前だろう! ……もういい、とにかく、コウくんを追わないと。もしほんとうにあの男の所に行ってしまったのなら、大変なことになる。せっかく、全部忘れてるのに」 八木の知っているあの男ならば、コウが忘れているものを引き摺り起こし、そうしてそれがもたらすものを見て喜ぶだろう。ひとが怖がって、怯える顔を見てただ可笑しそうに笑った、あの残忍な表情は今でも忘れられない。動かなくなった血塗れの人の身体を、物のように扱い、それに泣いて縋ろうとする小さなコウを、邪魔だと足で蹴り飛ばしていた。もしまた、あんなことがあったら。 「思い出さない方が、あの子の為だと思うかい」 エンジンを掛けて車を発進させると、助手席に座る男がそんな風に尋ねてきた。 「それはそうだろう。辛くて、嫌な出来事だったから全部忘れてるんだ。小さかったからっていうのもあるかもしれないけど。そんなこと、思い出させたって、何の良いこともない」 「けれどそれでは、何も知らないまま、全部終わることになるよ。あの子にとって、果たしてそれがほんとうに幸せなことかな」 「……誰が何を言っても、おれは、そう決めたんだ。あの人に、約束してる。おれが守るからって」 「で、あの子の意思は無視して、手錠か。きみも、やることが極端だね」 「それなら一体、おまえは何をしたいんだ。あの時もそうだった。まるですっかり味方のような顔をしていて、だけど肝心な時は全く助けてくれなかった。……今度は、あの子をどうしたいんだ」 「納得する最後を迎えさせてあげたい。これでもうほんとうに、終わりだからね」 それだけ言って、千年ほど生きているのだという男はもう、何も言わなくなってしまった。 言っていることは、間違いではないのかもしれない。コウの意思を尊重するのならば、それは正しいのだろう。けれどもそれでは、コウが危険な目に遭うかもしれない。ひとつ選択を誤ればそのまま命を落としてしまうような、そんな危ない場所には、近寄らせたくなかった。 この男がしようとしていることは、そんな場所にコウを進んで招き入れているのと同じだ。そうしてまた、コウも、自分からその中に入り込もうとしている。引き離して、もう二度と近寄らないようにしなければならないのに。 通勤で込み合う時間帯はもう過ぎているので、道路は空いていて、すれ違う対向車もほとんどない。もともと、住宅街のこの辺りは細い道が入り組んでいて、大きな道に出るまではあまり車も走っていない。あの家までの道順は頭に入っているが、実際に車で近くまで乗り付けたことはない。確か屋敷の周辺のほとんどが私有地で、おまけに車の入れない細い道ばかりだから、実際の距離よりもかなり遠回りしなければ近づけないことを思い出して、小さく舌打ちする。 「近道を知ってるのなら、案内してくれないか」 「断ろうかな。もう少し、時間をあげたいし」 そんな風に頼むと、助手席の男はあっさりと首を振って悪びれない調子で笑った。 「何を呑気なことを言うんだ。早く行ってあげないと、あの子が、」 「甚様はそんな性急なことはしないよ。もう、十八年も待っていたんだ。それを、あっさりと簡単に終わりにしてしまうことはないだろう。あの方は何でも、時間を掛けて楽しむのがお好きだからね」 「……それなら、もっと急がないといけないじゃないか」 結局、隣の男は何も教えてくれなかった。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 迎えが来た、と短く言われて、呆気ないほど簡単に、その屋敷を出ることになる。ヒカリの姿を見つけて、マリカは嬉しそうに飛び跳ねては駆け寄って行った。そのすぐ後ろに、八木の姿があるのに気付く。こちらを見て心配そうな顔をするその人が、帰るよ、と小さく言ってきて、それに頷くしかなかった。 コウのうなだれた表情を見て、酷い顔色だ、とヒカリが笑う。 「紙みたいに真っ白だよ。……また、辛い目に遭ったかな」 口ではそう言いながらも、きっと、コウが何を言われたのかなんて、この男はきっと全部分かっているのだろうとそう思った。ヒカリだけではない。ずっと一緒に暮らしていた八木も、すべて知っていた。 コウのことなのに、どうして、自分ばかりが疎外されているのだろうと、そんなことを思っていた。けれども、違う。 今は、少し、その理由も分かる気がした。知られないように、敢えて疎外していたのだ。 大丈夫、と短く答えて、背中を支えようと伸ばされた八木の手から逃れる。マリカが、もう帰ってしまうの、と不満そうな声を上げているのにも振り向かずに、門を出て、その前に止められていた八木の車に乗った。後部座席に座ろうとすると、隣にヒカリが並んでくる。どうしてそっちなんだ、と八木が呆れたように言うのも聞き流された。 雨夜甚は、コウを止めなかった。何も言わずに去らせるその余裕が、かえって後味が悪かった。まるで、他に行けるところなどないことを知っていて、好きにすればいいと笑われているようだった。どこに行こうとも、コウが最後には自分のところに戻ってくるのだと、そう思われているようで、雨夜の屋敷を出ても、鉛の固まりを呑み込んだように胸が重たくて冷たい。 「怪我はしていない?」 車を走らせながら、運転席の八木がそんなことを聞いてくる。言葉にしては答えないで、首を振る。少し、痛い目には遭ったけれど、これまでに負ってきたものに比べれば、怪我のうちには入らない。 捧に会いたい、と、ふと、そんなことを思ってしまった。一度思い出すと、胸がいっぱいになって、他のことを少しだけ忘れられた。あの人と、コウには同じものが流れている。雨夜甚の言ってきたことは嫌なことばかりだったけれど、それだけは、素直に嬉しいと思った。 「花羽の家に行く」 窓の外を眺める振りをして、彼のことを考えていると、八木が意外なことを言ってきた。 あれほど、忘れなさいと、関わってはいけないと、そう言い聞かせようとしたのに。どういう心境の変化があったのだろうと思っていると、隣に座るヒカリが小さく笑うのが聞こえた。 それに気分を害したように、八木がどこか、不貞腐れたように続ける。 「未月くんに叱られた。おれでは頼りないから、花羽の家でコウくんの身柄を預かるってさ」 「……花羽で?」 その意味がよく分からなかった。気分が悪くて、頭が上手く働かなかった。あの人は、コウのことを守るのだと言って嬉しそうに笑っていた。捧は、何からコウを守るつもりだったのだろう、と、また彼のことを考えてしまう。 「蝶比べだよ、コウ」 コウの疑問に答えるように、ヒカリがそっと、囁くように教えてくる。 「あ、……」 「そう。今は、雨夜がひとつだけ多い。最後の『儀式』で捧が花羽にひとつ加わって、それでふたつの家は同数。それで、千年がちょうど終わる予定だった。けれど、実はもうひとつ、余りがあるのだとしたら?」 千年の呪いが終わるまで、もうあとほんの僅かな時間しかない。だから、もう、今いる以上に「蝶」の数を増やすのは不可能だ。上手に調整して、うまく引き分けになるように、互いにそう決めていたはずだったのに。 そこに、コウがいると、話がおかしくなる。 「だから、きみが雨夜に居るのは、花羽にとって非常に危険な状態だったわけだ。もし、今以上に蝶の数を増やされたら、いくら定めた通りに儀式を行っても、もう勝てるわけがないからね。それを、未月はこの彼を信頼してきみを任せたはずだったんだけれど。でも、こうなってしまった。もう他人には頼らないと、そういう気持ちなんだろうね」 「誰のせいだと思ってるんだ。おまえがコウくんを逃がした癖に」 「まあ、そうなんだけれど。……でも、知るべきだと思ったから」 刺のある八木の言葉に、ヒカリは小さく首を傾げて笑う。 「自分がなんなのか、きみは、やっと全部知ることが出来た。だから、ここから先は、きみ自身で選ぶことが出来る」 ね、と、子どもに言うような口調でそう語りかけられる。この男は、一体なんなのだろう。誰の敵でもないから、誰の味方でもない「蜘蛛」。「蝶」を餌にして食べてしまう、その呼び名の意味が、まだ分からない。 「……あんた、どうして、『蜘蛛』なんだ?」 気が付いたら、無意識のうちにそう尋ねていた。突然そんなことを言い出したコウにも、ヒカリは驚くことなく、いつものように軽く笑って、聞きたいかい、と逆に尋ねてくる。それに頷いた。 「きみはぼくの名前を知っているね。それは、どんな字を書くのだと思う?」 「え……」 考えたこともないようなことを聞かれて、反応に戸惑う。字なんて、意識したことがなかった。光、だろうと最初の時から勝手に思っていて、それ以外の意味があるとは考えることもしなかった。 コウがそう答えると、ヒカリは珍しく、どこか自嘲するように続けた。 「その字も美しいけれどね。ヒカリというのは、ほんとうは、緋色の狩りと書くんだよ」 「緋狩?」 「そう。ぼくの名前だ。狩りを定められた、緋色の衣を纏うもの、という意味だったらしい。今のぼくには、関係のない話だけれどね」 「狩りを、定められた」 「名前というのは、古来からその存在を縛って、定めるものだ。言霊信仰といえば、きみにも分かるだろう。今でも、特に花羽などはそれを重視するきらいがある。捧や未月が、そうであるようにね」 確かに、捧の名前などは、その存在を象徴するものだとは思う。良い悪いは別にして、彼がどういった意味を持つ者であるのかを、名付ける時点で既に定めている。けれども、未月がそうであるというのがよく分からなかった。 「未月というのは、満たない月という意味だ。空を刈り取る細い三日月だよ。咎人の首を斬る、鎌だ」 「……なんで、そんな名前、」 「自分の為すべきことを忘れないように、深くその存在に刻むのさ。人殺しの名前だね」 嫌な話だ。どうして未月の名前の話になったのだろうと思いかけて、ふと、気付く。 「あんたも、『狩り』を定められたって?」 「そうだよ。そのための名だった。見事に名前負けしたけれどね」 笑って、軽く肩をすくめられる。それならば、この得体の知れない男もまた、「狩り」の一族なのだということになる。花羽か、雨夜か。けれども、どちらの味方でもないはずなのに。 「ぼくはもっと昔の人間だよ。まだ、ふたつの色に分かれる前の、ただの『狩り』の一族だった頃の」 「光の色の蝶を狩っていた頃の?」 「そうそう。コウは余り驚かないね」 「……なんとなく、そんな気はしてたから」 この男に関しては、何を言われても、きっと驚かなかっただろう。幽霊だと言われても、もう死んでいる人間だと言われても、何でもおかしくない雰囲気を、最初からずっと感じていた。だから、そんなことを言われても、むしろ納得するような気持ちの方が強かった。 コウの反応に、ヒカリは八木の方に向けて言う。 「この子は随分と大物だよ、貴人」 「うるさいな。具合が良くなさそうなんだから、静かに休ませてあげてくれないか」 コウのことを気遣ってだろう、そんな風に言う八木に首を振る。続きを話せと、ヒカリを見上げた。 「ぼくは、コウと同じだ」 「おれと?」 「……そう。狩るものでありながら、『蝶』を愛した」 そう言って笑った顔は、これまでに目にしたことのないような、昔を懐かしむような、眩しさに目を細めるようなものだった。コウにも同じ気持ちがあるから、それがどんな感情の表れなのか分かるような気がした。 「それで、どうしたんだ」 「狩ったよ。ぼくは本家の長男坊だったし、それに、当の『蝶』は、ぼくのことを自分を殺す相手だとしか見ていなかった。蝶は、蝶しか求めないからね」 「そんな」 平然とそう語るヒカリに、息を呑む。 「ぼくも幼かった。そうすることしか、他に道を知らなかった。でも、その子の魂はとても綺麗でね。きみにも見せてあげたいくらい、ほんとうに美しかった。そんな『蝶』を、誰かにくれてやるなんて、嫌になった。だから、呪術師様に捧げるべきその『蝶』を、自分のものにしてしまった。他の誰にも渡したくなくて、そのまま、ここに」 語る声は、どこか得意気ですらある。ここ、と、ヒカリは自分の胸元を指す。 「そのまま、呑み込んでしまった」 「……え!」 とんでもないことを、さらりと言い放たれた。思わず声を上げてしまったコウの反応に、八木も驚いたようにバックミラー越しにこちらに目を遣ってくる。 「すごいことをしたんだな」 「勿論、大変な騒ぎになったよ。ぼくには弟が三人いたんだけれど、絶対に許さないと怒ったのと、別にいいだろうと容認しようとしたのと、黙っていたのと見事に反応が分かれてね。彼らはそのまま喧嘩して、ついには家を分ける事にまで発展した」 「ちょっと待てよ、それって、まさか」 「そう。それが、花羽と雨夜だ」 「あんたのせいなのか」 そんなことが発端だと、未月や雨夜甚は知っているのだろうか。雨夜はともかく、未月などは呆れて言葉も出ないだろう。コウも呆れていると、ヒカリはまた肩をすくめた。 「もともと、仲は悪かったんだよ。呪術師様も、ずっと喧嘩してろと呆れるほどだから」 呪術師、というその言葉が、また出てきた。コウや捧を、こんな目に遭わせている、その元凶だ。ヒカリは、その存在のことも知っている。 「黙っていた末の弟が、処断されようとしていたぼくを哀れに思って、呪術師様にお伺いを立ててくれてね。そのおかげで、ぼくはこうやって、『蜘蛛』として在り続けることになった。千年目まで滞りなく儀式が行われるために、彼の人の使いとしての役目を与えられている」 蝶を呑み込んだから「蜘蛛」。得体の知れない男だと思っていたヒカリの、その存在の根にあるのが、自分と同じものだと、そんな風に言われた。狩るものでありながら、その獲物を愛した。コウも、同じだ。 「それからずっと、ひとりで、生きてきたのか」 「ひとりじゃない。ぼくの中には、もうひとつの魂が在るから」 そんな風に笑う男のことを、少しだけ、羨ましいと感じてしまった。ずっと離れることなく、一緒なのだ。 「……着いたら起こしてあげるから、少しお休み」 ずっと話を聞いていて、重たかった気分は僅かに楽になった。その分、ずっと張り詰めていた緊張が緩む。車の振動が心地よくて、ヒカリがそっと耳元で言う声が優しかった。 捧に会いたい、とまたそんなことを思ってしまって、誰にも繋がらない指先が、冷たくて寂しかった。
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