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第三章 「糸」 |
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4. 無限の出口 牧丘コウは青白い顔をしていた。 「何があった」 「具体的に何かってわけでは無さそうだけど。多分、いろいろ聞いて、気分が悪くなったんじゃないかな」 それを背負って運んできた八木貴人に尋ねると、困ったように、そんなことを答えられる。 「どうすればいい?」 「……こっちへ」 どこへ運べばいいのかと聞かれて、しばらく考える。雨夜に行っていたコウを無事に保護したと連絡を受けて、すぐにこの家に連れて来いと言ったのは未月だ。もう、八木ひとりには任せておけない。けれども、果たして、そのコウをどこに置いておけばいいだろうか。今は意識がないからいいものを、目が覚めて自分がどこにいるのか気付いた瞬間、きっとコウは捧を探すだろう。もしまた、連れて逃げられたりしたらと考えるだけで頭が痛くなる。 だからといって、母屋に連れて行くわけにもいかない。そこには姉の円の死体もまだあるし、部屋に籠りがちな母もいる。父ならば未月の味方になってくれそうだったが、いま屋敷にいる使用人は、父よりも未月よりも、母の喜美香を一番の主だと認識している。だから、影でこそこそやっていれば、誰かがすぐに報告するだろう。それは職務に忠実な証だから、責める方が間違っている。母は、この家の当主なのだから。 どちらの方がましかと考えたら、まだ、離れの方が良いだろうと思った。白い顔をしたコウと八木を導くように先に立ち、庭を歩く。儀式の準備が始まっているため、いつもならば人気の少ないこの庭にも、数日前から使用人たちが出入りするようになっていた。それでも、もともと「蝶」の住む離れには本家の人間以外は近寄ってはならない決まりになっているので、そこを目指す道順で歩けば、誰と顔を合わせることもない。 家に来た時には一緒にいたはずの「蜘蛛」は、未月が地下の座敷牢に閉じ込めた清川のことを話すと、珍しく真面目な顔をして聞いたあと、どこかに行ってしまった。鍵は未月が持っているので、勝手に出入りすることはないとは思うが。そのことが気にならないでもないが、今はこちらの方を優先したかった。 「あの男が、よく何もしないで帰したな」 「どうだろう。コウくんは何も言わなかったけど。でも、大丈夫には見えないよね。……ちょっと、顔が腫れてる。殴られたのかもしれない」 「余計なことを教えられたんだろう。今となっては、事が起こる前に知ることが出来て良かったと思う。何もかも、すべて終わってから知ったのでは遅すぎるからな。……そいつにとっては、どうだか分からないが」 今だって、もう時間があるわけではない。それでも、牧丘コウをこちらの手の内に置いて、千年を逃げ切るまで雨夜のあの男に触れさせなければ、すべてうまくいく。白と黒の蝶は、同じ数になって終わりなのだから。 「おまえは、会ったのか」 首を後ろに向けて、背中のコウの様子を窺っていた八木に、そう尋ねる。けれど、首を振られるだけだった。 花羽未月が八木貴人のことを知ったのは、高校に上がったばかりの頃だった。その頃の八木は警察官で、いわゆる殺人を扱う課に所属していたと聞いて違和感を覚えたのが記憶にある。顔つきも喋り方も柔らかく優しげで、そんな殺伐とした部署よりも、落し物をして困った人の話を聞いていたり、泣いている迷子を慰めてやるイメージの方がしっくりきたからだ。 呪術師の血を引く一族として、花羽の家は占いや祈祷を行う。表立って人に呼びかけることはしないが、昔からの習わいを頼りにこの家を訪れるものは未だ絶えない。その中には、国の中枢にいる者たちも少なくない。だから、ここの敷地の中で起こることには、半ば治外法権が認められているようなものだった。それは花羽だけでなく、雨夜も同じだ。そうでなければ、古来から続けてきたことであるとはいえ、「儀式」などと称して人を殺すことなど出来ない。 だから、最初にこの男に声を掛けられた時は驚いた。組織の中にいる人間が、花羽の人間に自分から接触してくることなど、あるはずがないと思っていた。学校の帰り道の途中のことだったと思う。突然、呼び止められて、話があるのだと言われた。 男は八木貴人と名乗り、未月たちの一族に害を及ぼすつもりはないのだと主張した。ただ、どうしても知りたいことがあって、もう他に方法が思いつかないのだと、そう言って笑った顔が、どこか途方に暮れているようにも見えた。 未月はいずれ、家を継ぐ。花羽の家も、それに連なる者たちの命も、すべてを預かることになる身だ。だから、この男が何をしようとしているのか、知らなければならないと思った。 八木は、雨夜の家について、調べていた。未月にとって、聞き流せない言葉だった。あの家ならば、叩けばいくらでも埃が出る。個人的な感情で言えば、いくらでもそれを調べて告発しようとしているこの男に手を貸したかった。けれど、そんなことは出来ない。千年の間に培ってきたものが、それを拒ませる。 だから八木にも、そんな馬鹿なことは止めるように警告した。八木自身も、自分のしていることが組織の本意に背いていることは了承していたし、何より、狩りの家にその存在を感じ取られれば、きっと目を付けられる。親切心でこれ以上は踏み込むなと言ってやったのに、その男は優しげな面持ちのまま、未月の言葉を素直に受け入れようとはしなかった。 この男とあの黒い家の間には何があったのだろうかと気になり、それに、このまま放置したのではろくなことにはならないと思い、それ以来、時たま連絡を取るようになっていた。八木の持つ空気は、花羽の家では決して手に入らないもので、それが恐れられずに自分に向けられることに、戸惑いつつも完全に無視をすることは出来ずにいた。 牧丘コウの住む家に下宿しているのだと聞いた時は、偶然だとしか思わなかった。八木が調べている雨夜の家と、コウを結びつけるものなど無いはずだったからだ。 もう少し詳しく聞いていれば、もっと早く、色々対処出来たのかもしれない。けれども、誰か他の人間に、牧丘コウの話をすることはなかった。中学だけでなく高校も同じ所だったから、廊下や、昇降口ですれ違う度に、いつもぼんやりとしているその姿を目で追うだけだった。誰にも、それを気付かせるつもりはなかった。 それがまさか、こんなことになるとは、思いもしなかった。 「離れには、あの彼がいるんだろう」 八木がそう確認してくる。振り向かずに頷くと、迷うような沈黙があった。 「おれはもう、この子を彼に会わせたくない」 「……心配しなくても、あいつも、そのつもりでいる。ただ、おまえの電話を受けた時、すぐ傍で聞いていて、それから、随分心配していたようだったからな。顔ぐらい、見せてやってもいいとは思わないか」 言外に、おまえのせいだと伝えるようなつもりでそう言うと、八木にもそれは分かったのか、う、と、呻くような声がして、何も言わなくなった。 捧からは、コウを守ることを頼まれている。完全ではないにしてもコウが「蝶」の血を持つものであると、誰に聞かずとも、捧はそれに気付いていた。「狩り」も知らず、また一族にも獲物として認識されていないコウの存在に驚き、そうして、自分と同じものを持つものに心を寄せた。他にはもう誰も残っていないはずの仲間に出会えた時、あの表情を滅多に揺るがせない「蝶」は、どんな顔をしたのだろうかとふと思う。そうしてすぐに、あの、ふざけた言葉を思い出した。強い意志のある、人間の眼差し。 千年目の儀式が終わるまでに、必要な供物はあとひとつだけだ。それは捧の役目だと決められていたし、それに、コウが「蝶」であることは、捧以外は、誰も分からなかった。当の、コウ本人でさえ。だから、コウに「狩り」の一族の手が伸びることはないと、それについての不安は無かっただろう。けれど、花羽の蝶として、決して顔を合わせることはなかったはずの雨夜の当主から教えられたことは、また別の、全く新しい事実だった。 だから、一度は抜け出し、捨てることさえ覚悟した花羽の家へ、また自ら戻ることを選んだ。「蝶」だけでなく、「狩り」の血も持つコウの為にも、儀式は執り行われなければならないからだ。未月に、千年目が過ぎるまでのコウを守るように頼んできた捧には、迷いは無かった。雨夜甚が、同数にひとつ余る「蝶」を得ることを考えているかどうかは分からない。それでも、その存在を知っていて、敢えて他には明らかにせずに秘めていたのだとしたら、その可能性は高い。それは捧にとっては、未月に頭を下げてまで依頼しなければならない程の危惧であるらしい。 「捧」 縁から離れの中に呼びかけるのとほぼ同時に、捧は表に出て来る。未月の顔を見るよりも先に、すぐに八木を見て、その背中に負うものへ目を遣った。 「コウ」 囁くように、低くそう名前を呟く。下ろすように八木に合図すると、余り気の進まない様子で、それでも、身守るようにコウから目を離さない捧に、力なく眠っているその身体を引き渡した。慎重な手つきでそれを受取り、捧は不安気に、コウの顔をじっと見る。 「……酷いことをされた」 腫れている頬をそっと撫でては、痛ましそうに眉を寄せる。その様子を、八木が複雑そうな顔で見ていた。その上着の裾を引っ張り、離れの中に入らせる。布団を敷いて、コウを抱いたまま縁側から動こうとしない捧も引っ張り、そこに寝かせるように言う。まだ手放したくないと言いたげな顔をされたが、しばらくして、大人しく頷いてその通りにした。牧丘コウは、まだ目を覚ます様子はない。 「どこか、悪いんじゃないのか。こんなに起きないなんて。もともと、眠りの深い子ではあるけど」 そのことを、八木も不安に思ったらしい。身動きひとつしないコウが息をしていることを確認して、それでもまだ釈然としないような顔をする。捧が静かに口を開いた。 「眠らされている」 「眠らされてる? この子が?」 聞き返す八木に、はい、と捧は頷く。 「おそらく、『蜘蛛』の力で」 顔色の悪いままの、それこそ死んだように眠るコウのすぐ近くに膝を揃えて座り、捧はその髪を撫でながら、抑揚のない声でそう続ける。どうして、と、その理由を知りたがる八木には、何も答えなかった。 「このまま、起きないでいてくれれば静かでいいけれどな」 「それは無い。余り、長いものではなさそうだから」 つい、意地の悪い言い方になってしまう。未月のその言葉にも、捧は首を振った。 「疲れてしまっているから、強制的に休ませたんだろう。だから、しばらくすれば、自然と目を覚ますはずだ」 それを聞いて、八木が安心したように息を吐く。未月のことも八木のことも目に入らないように、捧は静かに、コウの眠る顔を見ていた。どうしよう、と伺いを立てるように、八木が未月を見てくる。 「これからは、こいつの身柄は、花羽家で預かる。おまえにとっては複雑かもしれないが、外に置いておくよりは、安心だろう」 「……ありがとう」 捧は顔を上げて、未月を見た。その素直な反応に、咄嗟に、言葉が出なかった。捧の口から、そんなことを、言われたことは無かった。 「でも、この子は目を覚ましたら、きっとまた、彼を連れてどこかに行こうとするんじゃないか」 八木がそんな風に口を挟んでくる。それは確かに、未月も頭を痛めていたことではある。どうするべきか考えて、ふと、思い出す。庭で拾った、清川縁示。あの男も、今のコウのように意識を失っていて、それでどう扱っていいか分からずに、とりあえず地下の牢に放りこんである。あそこならば、簡単に出入りすることは出来ない。鍵はひとつしかないし、それは今は未月が持っている。 「地下牢だ」 口をついて出てきたその単語に、八木が息を呑む。コウをそんなところに入れるのか、と、そう言おうとしたのだろう。それよりも先に、捧を見て、続ける。 「捧。おまえが、座敷牢に入るんだ」 コウの髪を撫でていた手を止めて、捧も未月を静かに見返してきた。捧は頭の回転が速く、賢い。だから、未月の言いたいことを、すぐに理解したようだった。 「ほんとうならば、こいつを入れておくべきなんだろうが。それでは、おまえが嫌だろう」 捧が清川のように、あの牢の中に入り、鍵を掛ける。地下に降りる扉も閉めたままにしておいて、そうして鍵さえ渡さなければ、コウも入り込むことは出来ない。そうして、未月たちが外でコウを守ればいい。雨夜の力は、花羽の屋敷の中には入り込めないから、この敷地内に居れば、あの男も手を出して来ることは出来ない。 捧は一度頷いて、未月の提案を受け入れる。 「おれが掛けた鍵は、あの『蜘蛛』に簡単に外されてしまったけど」 「それはただの鍵だからだ。ここの屋敷や母屋のものは、母さんの、……花羽の当主のものだから、手を出すことは出来ない」 「蜘蛛」は呪術師の遣いだ。そして、未月たち「狩り」の一族はその呪術師の血を引く末裔になる為だろう、あの男は、当主にだけは逆らうことはしない。一族の、他の者たちにはいい加減な、ふざけているような態度しか取らないが、当主に対しては忠実で真面目だった。だから未月も、当主を継いだのなら、未月様と呼んであげるよ、とそんなことを言われたこともある。冗談のような話だと思った。 「……分かった」 捧はそう言って、最後にコウの顔のかたちを覚えておこうとするように、両頬を手のひらで包んで、わずかな間、目を閉じた。 「もうひとつだけ、頼みたい。コウが目を覚ましたら、伝えてほしいことがある」 手を離し、音もなく立ち上がる。そんなことを言われて、戸惑いながらも未月は頷く。恥ずかしいことだったらどうしようかと思ったが、頼まれたのは、意味のよく分からないことだった。そこの物入れに在るから、と、一緒に渡してほしいもののことも教えられて、何のことだか分からないまま、分かったと請け負った。 未月のその返事を聞いて安心したように、捧は少しだけ微笑んだ。 コウの傍には、八木に着いていて貰う。捧は八木にも丁寧に頭を下げて、コウの方はもう見ないで、離れを出て行く。その後を追った。 「おまえ、……ほんとうに、いいのか」 こんなことを聞くべきではないと思いながら、それでも、聞かずにはいられなかった。折角、すぐ近くに居るのに。自分で提案したことではあったのに、酷い悪人になったような気分になる。 捧は庭を母屋に向けて歩きながら、隣に並んだ未月を見て、静かに答えた。 「おれは、コウを守りたい。他の何より、コウが生きていてくれれば、それでいい」 未月の方を見てはいたものの、ほとんど独り言のような言葉だった。自分のことよりも、大事に思う誰かが生きている方が大事。 コウの方も、きっとそう思っている。けれども捧に、果たしてそれが理解出来るだろうかと考え、また、自分が酷いことをしたような気になった。実際に酷いことをするのだと思い直して、尚更、苦い気持ちになった。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ぱちぱちと鳴る音がする。小さな、泡のはじける音。光の粒になった火の玉が、音をたてて宙に舞っては地面に落ちて消えていく。その繰り返し。(「きれいだね」) 久しぶりに、その声を聞いた。 (「すごくきれいだね。……コウ」) 柔らかい、名前を呼ぶ声。捧の声に少し似ている。そうして、またもうひとつの、別のなにかの声にも。 この声を知っている。もう何度も、こんな風に断片だけを繰り返して思い出している。決して完全なかたちにならない、けれども確かに残っている記憶の一部。 線香花火のはじける橙色と、夏の空気。抱き締めてくれている、腕の穏やかな温もり。 あと、もう少しで、思い出せそうな気がした。 捧がすぐ近くに居るような気がして、目を開けるのとほとんど同時に、身を起こしてその姿を探した。 「……起きたか」 けれどもそう言ってこちらを見ていたのは、その人ではなかった。 「大丈夫?」 心配そうに覗きこんできたのは八木で、それまで外にいて、丁度戻ってきたところだったらしい未月が、少し離れたところに立っていた。自分がどこにいるのかよく分からなくて、周囲を見回す。花羽に行く、と、八木はそう言っていた。この部屋は、知っている。 自分がどこにいるのか気付いて、それで、先程が錯覚なのだと思い知った。ここは、捧の居た、あの花羽の庭にある離れだ。だから、コウが今まで横になっていたのは、捧が使っていた寝具なのだろう。掛け布団を引き寄せて胸に抱くと、彼の着物に顔を埋めたときによく似た、良い匂いがした。目を閉じてそれを胸一杯に満たそうとする。これも、やがては薄れて消えてしまうのだと思うと、布団を掴む指が柔らかい羽毛にどこまでも喰い込んだ。 「捧さんは」 気が付いたら、そんな風に尋ねていた。呆れたように未月が一度、息を吐く。 「おまえがしつこく追いかけてくるから、二度と会わない為に違う場所に隠れた」 「そんな、」 「いい加減、受け入れろ。雨夜の当主に、全部聞いてきたんだろう」 冷たく言い放たれた言葉に、頭から水を掛けられたように、ひやりと胸が寒くなる。コウの内側に混じる、ふたつの血。 「……未月も、知ってたのか」 その口ぶりからすると、おそらく、もう分かっているのだろう。コウだけが何も知らずにいたのかと思うと、悔しくなった。 「最初から知っていたのは、ぼくじゃなくて捧だ。だからあいつは、ぼくに、おまえを何があっても守って欲しいと言ってきたんだ」 「捧さんが……」 「あいつは、嬉しそうだっただろう。おまえの為に出来ることがあるのだと、それを喜んでいた。違うか」 違わない。未月の言う通り、捧は確かに、コウにもそう告げた。そんなこと、わざわざ言われなくても、嫌というほどはっきりと覚えている。 あれは、自分が「蝶」として命を捧げて、「狩り」の一族であるコウを祟りから守るという意味なのだと、そう思っていた。けれど、それだけではない。「蝶」の血を持つコウを、雨夜家の人間から守る、という、もうひとつの意味もあったのだ。コウを殺しても、羽を持つ蝶としての魂は手に入るのだと、あの男はそう言って笑った。 何かを思いついたような気がした。それを明らかにしようと、顔をうつむけて考えていると、その様子を、気分が沈んだのだと思ったのだろう、気遣うような八木が言ってくる。 「おれも、きみと一緒にここにいるよ。……朝は、ごめんね」 申し訳なさそうなその声に顔を上げると、八木は不安そうな表情をしていた。それに、首を振る。 「……おれが、悪いことをしたからだろ」 八木は、それを止めようとしただけだ。あんな遣り方をされるとは思わなかったけれど、真面目に、真剣に考えた末の選択だったのだろう。ヒカリが来たことで、その意味はなくなってしまったけれど、確かにああされれば、コウには何も出来なかった。全部終わる、最後まで。 コウ以外の人間にとっては、その方が、有難かったのかもしれない。皆、コウには何も出来ないのだし、何もされたくないのだと、そう言う。捧さえもが、それを望んで、コウの前からいなくなってしまった。 「しばらく、ひとりにしてほしい」 吐き捨てるようにコウがそう言うと、八木が、怯んだようにこちらに伸ばしかけていた手を引っ込める。困ったような顔をして、どうしようかと伺いを立てるように未月を見る。 花羽の次の当主は、しばらく何かを考えるように黙ってから、やがてひとつ頷いた。 「分かった。その代わり、見張りを付けさせて貰う。もう、あれこれ勝手に動かれては困るからな」 「……好きにすればいいよ」 冷たいその言葉に、自分ではそんなつもりはないのに、笑ってしまった。コウがひとりで動こうとしたところで、何も出来ないと思い知らされたばかりなのに、そんなことを言われるのがおかしかった。 未月は八木を引っ張り、おまえがここの外で見張っていろとそう命令する。八木は何か言いたそうな様子ではあったが、未月に睨まれて、大人しくそれに応じる。 ひとりになったところで、何か変わるわけではない。それでも、たくさんのことが起こりすぎて、何も考えられないような状態が続いていた。もうコウは全部知ることが出来たのだから、後は自分で選べばいい、と、ヒカリがそんなことを言っていたのを思い出す。何が選べるのかすら、今は分からないままではあるけれど。 「牧丘コウ、ひとつだけ」 名前を呼ばれて、その声に顔を上げる。八木を引っ張っていった未月が、ひとりで縁に立っていた。 まだ何かあるのかと思い、なにが言いたいのだというつもりで相手を見る。未月は言葉に迷うようにコウの視線から目を逸らして、そうしてすぐにまた戻す。 「捧から、おまえに謝らなくてはならないことがあると頼まれている」 「……捧さんが、おれに?」 「そうだ」 心当たりがなくて、それを不思議に思う。そんなことを言われるような覚えがなかった。 コウのその表情を目にして、未月も意外そうな顔をする。 「ぼくにも、詳しいことは言わなかった。ただ、謝らなくてはいけないのだと、おまえに返さなければならないものがあるのだと、そう言っていた。そこの物入れの中にあるそうだ」 そこまで言われても思い当たることがなくて、指差された方を見る。背の低い物入れは、この部屋にあるただひとつの家具らしいものだ。 「確かに伝えたからな」 コウがそちらを見ている間に、未月はそう言い残してまた帰って行く。八木が見張りを頼まれていたはずだが、閉められた障子には、誰の影も映っていなかった。外にいるのだろうか。 未月に伝えられたことの、意味が分からなかった。中に入っているのだと言われた、物入れを開けてみる。竹で編まれた、コウの膝くらいまでの深さの大きさのものだ。行李、というのだろうか。覗きこむと、衣服らしいものが入っている。捧の着物や寝間着なのだろう、暗くて濃い色のものが多い。それに指を伸ばして触れる。手触りの良い、きっと上等なものばかりだ。これは、違うだろう。勝手に漁るような真似は気が引けたけれど、それを少しずつ手に取って、丁寧に畳まれたものを崩さないように出してみる。 一番底に、何かがあるのが見えた。そっと触れてみた感じが冷たくて、不思議に思い、取りだしてみる。 深い緑色の、花の絵が描かれた四角い缶の入れ物だった。 「なんだろ」 他に入っているのは全て身に着けるものばかりで、捧の言おうとしているものではない気がした。畳の上にその缶を置いて、慎重に蓋を開けてみる。どこかで見覚えのあるもののような気がした。 中には、よく分からないものが、いくつか入っていた。 色の褪せ初めている紙切れが数枚あったのを見てみる。鋏を使わずに指で千切ったような切れ端の、新聞の写真の切り抜きらしかった。星空の写っているものがほとんどで、一枚だけ、白熊の子どもが雪の上で寝転がっているものが混じっていた。 女性用のアクセサリーの一部だろうか、透き通る青い石に、銀の装飾が付いているものも入っていた。地面に落ちていたのか、泥が付いて少し汚れている。すっかり色が変わってしまって、紙のように乾いてしまっているけれど、花びららしいもの。割れた硝子の、小さな破片。 黄色くて細長い紙切れを見つけて、それを手にしてみる。知っているもののような気がして、そこに黒字で印刷された文字を見てみた。コウの家の近くの、クリーニング屋の紙タグだった。洗濯されて、戻ってきた衣服に止められているものだ。……捧の着物を、雨に汚してしまって、持っていった。コウが外した覚えはないから、これは、捧が自分で気が付いて外したものなのだろうか。どうしてこんなものを、わざわざとっておいてあるのだろう。普通は、外して捨ててしまうものなのに。 そこまで考えて、けれど、一緒に街を歩いた時の捧のことを思い出した。すべてのものを目に焼き付けておこうとするように、いろいろなものをじっと見ていた。どこかに行きたいかと聞いたら、その少し前にコウが話していたクリーニング屋に行ってみたいと口にした。行ったことが、なかったからだ。 これは捧の宝物なのだと、ふいにそれに気付いた。きっとどれも、彼の、大切なものばかりだ。 「……これ、」 最後にもうひとつ、見覚えのあるものを発見する。どうしてここにあるのだろう、と思い、掴み上げて、それが自分の思うものに間違いないことを確かめる。ずっと、気が付かないうちに失くしたのだと思っていた。 プラスティックの、小さな丸いもの。コウの着ている、制服のシャツのボタンだった。 いつの間にか失くしたのだと思って、ずっと開けっぱなしにしていたのを寒そうだとヒカリがマフラーをくれた。残っている他のボタンと見比べてみて、同じものだと分かる。 (「謝らなくてはいけないのだと、おまえに返さなければならないものがあるのだと、そう言っていた」) 未月が、捧の言葉を、そんな風に伝えた。 「あ……」 その意味がやっと分かった。ボタンを握り、思わず息を漏らす。 これは、失くしたのではない。あの時、花羽の家に戻る前に、コウが気付かないうちに捧が持って行ったのだ。それを謝らなくてはいけないと、彼はそう言いたかったのだろう。勝手に持って行ってしまったものだから、返さなければならない。捧の、宝物。 「捧さん」 返さなくてもいい。こんなもの、いくらでもあげるのに。 「捧さん……」 小さくて硬いボタンを手のひらに握り締めて、その人の名前を呟いた。会いたかった。顔を見て、声を聞いて、触れたかった。謝る必要なんてないのだと、今すぐに教えたかった。他に何も許されないというのなら、せめて、生きてほしかった。 コウのことを守るのだと、嬉しそうに笑ったあの顔が忘れられない。自分が死ぬ話をしているのに、あんな顔をしてほしくなかった。澄んだ水のような、清らかな魂をもつ人。どうしたらいいのだろうかと、ボタンを握る手に力を込めて、心の中で叫んだ。 「蝶」が魂を捧げなければ、「狩り」の一族が皆、滅びて死に絶える。だから皆、多くの人間を生かすために、ひとりを犠牲にすることを選ぶ。それならば、 「……なんだ。そっか」 先程、思いつきそうだったことを、思い出す。方法はある。まだ、誰も口にしていないけれど。花羽も雨夜も死なずに、捧も生きていてくれる方法が、まだ残っている。どうして、こんなに簡単なことを思いつかなかったのだろう。 コウも「蝶」の血を引いているのに。 「そうだ。そうすればいいんだ」 捧ではなく、コウが「蝶」になればいい。未月にとっては、どちらでも、同じだろう。自分たちを助けるために、どうしても誰かの命が必要だというのならば、それはコウだっていいはずだ。もう、自分にもそれが出来ることを、コウは知っているのだから。 雨夜の家に生まれて、それなのに、儀式のための大切な存在としての「蝶」を盗んだ母は、どんな気持ちだったのだろう。いまはもういない。母も、父も。黒い羽の蝶がひとつ、残っているだけだ。 悲しくない。殺されるのが痛くて辛いことなのは知っているけれど、それでも、捧がいなくなるより、ずっといい。雨夜の当主は、コウのことを、あの男への捧げものなのだと言っていた。それでは、長い時間を掛けてきたふたつの家の均衡が崩れてしまう。だから、いくら父がそんなつもりでいたとしても、そうなってはいけない。 捧は生まれたときからずっと、人間として扱われてこなかった。死ぬために、獲物としての役割しか与えられず、ずっとこんな狭いところに閉じ込められていた。それから救い出して、自由にしたいと、ずっと思っていた。どうすればいいのか方法が分からなくて、ずっと、迷うばかりだった。けれども、もう、見つけた。 だから今度は、コウの番だ。
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