index > novel > かれてふるのはかれのはね > 糸/蝶盗人


第三章 「糸」
2. 蝶盗人

 捧は空の缶を大事そうに抱えて帰ってきた。
 それはどうしたのかと聞くと、餞別に貰ったのだけ短く答えられる。中身になにかおかしなものが入ってはいないかと確認したが、空っぽだった。聞くと、貰った時から何も入ってはいなかったのだという。
 意味が分からなくて、そのままにしておいた。渡した方がいいかと捧に問われたが、持っていればいいとそれを許す。奪われなくて安心したような、少しだけ嬉しそうな顔をした。捧はおかしなものばかり欲しがる。他人から見たら、何がいいのか、よく分からないようなもの。空の缶や、牧丘コウ。
「姉さんが死んだ」
 丁度その時期に家を抜け出したのだから知らないはずだと、そのことを教える。屋敷に足を踏み入れた時から、空気の違いを感じてはいたのだろう。未月がそう言うのに、捧は一度静かに頷いただけで、それ以上聞きたがる様子もなかった。
「だから母さんは、おまえとは儀式までは会わないことにしている。抜け出したことも気付いてはいないはずだ。……おまえ、何か、知っているか」
 缶の蓋を開けて、何も入っていない中をじっと見ている捧に、そう聞いてみる。缶から顔を上げて、何のことなのかと問うように、静かに見返された。
「姉さんのことだ」
 そう付け加えると、捧は言葉なく首を振るだけだった。元々、芳しい返事があることを期待していたわけではないので、それに落胆するようなことはない。それに、そうか、とだけ呟いて話を終えようとすると、ふいに、捧が口を開いた。
「祟堂様のお怒りに触れたのか」
「軽々しくその名前を口にするな。それに、おそらく違う。あれはたぶん、別の、人間の手によるものだ」
 スドウ。祟りの字を持つその名は、千年の昔に呪いを定めた呪術師の名前だ。その存在を強く恐れ続ける一族のものたちは、みだりに彼の名を音にして呼ぶことはしない。だから未月も、そんな風に実際に呪術師のことをその名前で呼ぶことはない。未月だけでなく、当主である母でさえも、滅多なことでは口にしない。
 けれども捧は別だ。「蝶」の一族は、未月たち「狩り」の者たちとは異なり、呪術師のこともそれ程恐れてはいない。信仰の対象ではあるのだろうが、名前を出すことも怖がるような恐怖心を抱いてはいないはずだ。祟りを恐れて、供物を捧げなければならない立場と、供物として望まれる立場の違いだろうか。
「ひとの手?」
「呪いでも、祟りでもない。誰かが殺した、ということだ」
 しかもご丁寧に、「狩り」の時に用いる弓矢で。胸の中心を射抜かれて、姉がいつもそうして遊んでいた紙の蝶々と同じように、木に磔にされた。その姿を思い出して、すぐに振り払う。
 未月自身が、目の前にいるこの男を、ああして殺めなければならないのだ。そのことに、今まで気付かずにいた。
 殺された、と、捧が未月の言葉を繰り返す。驚いた調子でも、その行為への嫌悪を示すでもない、いつもの通りの静かな声だった。その意味を自分自身に理解させようとしているような物言いに、この男は果たして死というものをどんな物だと考えているのだろう、とふと思った。
「コウが、」
「また牧丘コウか。今は姉さんの話をしているんだろう」
 またコウの名前を出されたことに苛立ち、言いかけたことを遮ろうとする。
 捧は未月に真っ直ぐな目を向けてきた。
「円は、コウに酷いことをした」
「……知っていたのか」
 それが何のことなのかまでは、聞かなくても分かる。円と清川がふたりで、コウを庭の奥で弄んでいた。傷付いて意識のないコウを放り投げた時に見せた、あの強い目を思い出す。あの時、捧の目には確かに、憎悪があった。
 それが円の仕業によるものだと、いつ知ったのだろう。「蜘蛛」が一緒にいたのなら、あの男から聞いたのだろうか。そこまで考えて、ふと、嫌な予感にかられる。決して考えてはならない類のものだった。
「まさか、おまえじゃないだろうな」
「何がだ」
「姉さんを……」
 そんなはずはないと思いながらも、有り得ない想像に言葉は途切れた。捧は未月と一緒に、幼い頃から弓を習っている。
 捧は、言い淀む未月が先を続けるのを待つように、しばらく何も言わなかった。やがて、こちらが何を言おうとしたのか気付いたように、ああ、と低く呟く。
「おれが、円を殺したのかと、そう言いたいのか」
 それに頷くことも、違うと首を振ることも出来なかった。花羽の一族を生かすために在る「蝶」の存在が、逆に本家の者を傷つけて命を奪うなど、あってはならないことだ。
 捧は黙ったままの未月を見て、かすかに笑った。いつもの、淡い静かな笑みではない。どこか皮肉るような、自嘲するようなその表情は見慣れなくて、咄嗟に違和感を覚えるほどだった。
「もしそれが許されているなら、そうしたかもしれない」
「な……!」
「けれど、おれは違う。円には、あの雨の日以来、顔を合わせていないから」
 ふざけたことを言い出す「蝶」に息を呑んだが、すぐにそれは違うのだと否定される。どちらの言葉も嘘ではないだろうと、直感でそう分かった。
「本気でおまえがやったと思っているわけじゃない。許せ」
 ひとを無闇に疑い、悪人に仕立てようとするのは良くないことだ。未月がそう謝ると、捧も小さく首を振る。もう話は終わりだと言わんばかりに、今度は空の缶の蓋を閉めて、その表面に描かれている絵を見ていた。余程、気に入ったらしい。
 捧が花羽の家に戻ってきたことに、父は何故か驚いていた。「蝶」が戻らずに儀式を行えなければ困るのは自分も同じはずなのに、まるで、もう捧は帰ってこないのだとそう思っていたかのような驚きようだった。その父には、儀式までは徹底して余所者を屋敷には入れないように頼んだ。捧がどんな話をして別れてきたのかは知らないが、未月が見ていた様子では、きっと牧丘コウはまたここに来ようとするだろう。もう、会わせてはならない。
 話はすべて、捧から聞いていた。驚きはしたが、同時に、納得もした。だから、捧はコウを選んだのだ。そして、コウも。惹き合う血があってこその恋。互いにとっての、完璧な相手。
 しかしだからこそ、もう、一緒にはさせておけない。捧が与えられるべきは白い羽以外にないからだ。最後のひとりとして花羽の「蝶」が増えて、それで千年が終われば、蝶比べは同数になり均衡が保たれる。どちらの家も、滅んで絶えることはない。それ以外の道は、あってはならない。
 牧丘コウの存在は、すべてを予定調和から逸脱させて、別の道へと導きかねない。
 幸い、コウの傍にいたあの男と、未月とは利害が一致している。コウの命を守りたい八木貴人と、一族の命を守りたい未月と。お人好しで、頼りになるとはお世辞にも言えない男ではあるが、コウのことを真摯に守りたいと思っているのは確からしかった。だから、そちらのことは任せられるだろう。
 千年目の蝶狩りの儀式は、もう数日後に迫っている。その間の短い時間、もう何も起こらなければいいが。
 そう思った矢先に、緊張感のない電子音が鳴った。捧が、缶の蓋から顔を上げて未月を見る。
「出ないのか」
 鳴ったのは、未月の携帯電話だ。それを手に持って、画面を覗きこんだまま動きを止める未月に、捧が怪訝そうに声を掛ける。珍しくそんなことを言ってくるのは、その電話が、自分にも関係があることだと知っているからかもしれない、と、鳴り続ける着信音を聞きながら、そんなことを思った。
「……何だ」
 捧に背を向けて、電話に出る。それと同時にすぐに喋り出した相手に、思わず眉をひそめた。相手の声はいつもと変わらない穏やかな音程で、それでも焦りを滲ませて用件を伝えてくる。
「はあ?」
 告げられたことは半ば予想出来たことではあったが、それでも改めて言われると、つい呆れた声が出てしまう。八木に任せておけば安心だと考えた矢先に、こんな電話が掛ってくるとは。頼りないにも程がある。
「それで、その男は、……分かった。いい、大丈夫だ。何かあったらすぐに知らせてほしい」
 舌打ちしたいような気分だった。こんなことになるなら、人任せにするのではなかった。
「どこに行ったって構わない。うちに来るなら、捕まえて狭いところにでも閉じ籠めておく。どこに行かせてもいいから、絶対に、向こうにだけは行かせるな!」
 苛立ちのままに半分怒鳴るような勢いでそう言い放ち、相手が何か言い返してくる前に電話を切る。
「何があった」
 待ち構えていたように、捧がそう聞いてくる。向き直り、睨みつけるようなつもりで静かにこちらを見てくる「蝶」を見据えた。
「牧丘コウが家を抜け出した。どこに行ったのかは分からない、ついさっきのことらしい」
「コウが」
「それを手伝った奴がいる。『蜘蛛』だ。あの男は一体、何をしてくれるんだ」
 こんなことを捧に言ったところで仕方がないのは分かっている。捧はもう、花羽の蝶として務めを果たすことを選んで、こうして自ら戻ってきた。それなのに、他のことが上手くいかない。
「この家に来ようとしているならいいけれどな。……もし、」
「雨夜に行かせてはならない」
 息を吐く未月に、捧が張りつめた声でそう呟く。
「あの男はコウを欲しがっている。ずっと、自分の手の中に落ちてくるのを待っていた。何年も前から、ずっと」
「そんなことまで分かるのか」
 饒舌な捧に少しだけ気圧されながらそう聞くと、分かる、と頷かれた。
 未月の知らないところで、捧が牧丘コウと共に雨夜家に身を寄せていたと知ったときは、驚いて叱る気にもならなかった。それがどれほど危ういことか、一番思い知っていなければならないのが未月だからだ。傷ひとつも負わず、無事にこうして帰ってきたから良かったものの、相手が気まぐれに手を出せば、もう、蝶比べはそこで終わる。今の時点で、黒い蝶は、白い蝶よりもひとつ多いのだから。昔の人間は馬鹿だ、と、未月は常々そう思って止まなかった。どうして、最後になるのが花羽になるように順番を決めたのだろう。雨夜の血筋は昔から変わらないと「蜘蛛」が言っていたのを聞いたことがある。こんな事態に陥ることは、予測しなかったのだろうか。最後が雨夜ならば、もう今更、裏切ることは不可能だっただろうに。
 雨夜の当主には、未月も年に数回、顔を合わせる。毎年一度、これも一年ずつ両家が交代して行う「蝶供養」の時や、向こうのひとり娘の誕生日を祝う宴に招待されたりする。纏う雰囲気が真っ暗な夜そのもののような、不気味で底の知れないところが幼い頃から苦手でならなかった。あの男は、もしも現代でなくもっと昔の人間だったならば、きっと儀式の外で行われる蝶狩りを、誰よりも楽しんだのではないかと思う。具体的に、そんな言動を目にしたわけではない。それでも、笑みを浮かべて娘を抱き上げている時でさえ、見ているとそんな残虐さを容易に想像出来た。
 その男が、コウを欲しがっている。それがどういう意味なのか考えかけて、寒気がした。
 コウ、と、捧がもう一度低くその名前を呟く。不安そうな、どこかが痛むような声もまた、これまでに耳にしたこともないような、感情の滲むものだった。
「……八木が今、探している。あの男は間抜けだが、無能なわけじゃない」
 思わず、慰めるようにそんなことを言ってしまうのが自分らしくなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。捧は離れの縁に静かに座りこんだまま、膝の上に空の缶を乗せて、雨夜の家のある方角に目を遣っている。
 未月が自ら雨夜家に向かうわけにはいかない。まだ、雨夜の狙いが未月の考えている通りだと確定したわけではないから、裏切りだと断定することも出来ない。そんな危うい状況で乗り込んで行けば、それこそ罠に掛るようなものかもしれない。おまけに、未月はまだ正式に当主の座を継いだわけではないのだから。
 黙り込んだ捧に、大丈夫だ、と言おうとして、それでも言葉が出なかった。何も、言えない気がした。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 どうやって行けばいいのか、道はおぼろげだった。この間はいつのまにか連れて来られていて、目を覚ましたら既にそこにいた。自分の家まで帰る時は、適当にそれらしい方角を目指して歩くだけだったから、正確な道順は覚えていない。
 だから、少し先を舞う黒い蝶のあとを追って走った。待ちなさいとそう引きとめてきた八木の声に捕まりそうで、後を振りむくこともしなかった。八木はきっと、コウが花羽の家に行くと思っているだろう。だから、しばらくは時間を稼げるはずだ。どうしたらいいのか分からないのは変わらないが、雨夜の家の人間ならば、コウの知りたいようなことを何か知っているかもしれない。花羽と仲の悪い、黒い蝶を狩る一族。コウの母親の家。
 あの当主にまた会うことになるのかと思うとぞっとしたが、それでも、今は好き嫌いを言えるような時ではない。そう思って、思いだしただけで震えそうになる身体を宥めた。
 蝶はひらひらと、風に乗るように飛ぶ。そのあとを追って、背の高い立派な門構えの屋敷の前に立つと、何もしていないのに中から扉が開けられた。お待ちしておりました、と、揃いの灰色の着物を着たふたりの男にそう頭を下げられ、中に入るように言われる。
 待ち構えられていたとしか思えないその対応に戸惑い、なにか、自分がとても大きな間違いをしてしまったような気になった。けれど、コウが入るとすぐにまた門は閉められ、何も言わない男たちはコウの背中を押すように屋敷の方へと連れて行こうとする。見るからに荒事に慣れていそうな男ふたりに両脇を固められて、大人しくそれに従った。蝶はその風体に怯えるように、コウの制服の肩に止まる。
「お兄さま!」
 耳に覚えがある高い声に呼びかけられたような気がして、そちらの方を見る。庭から駆けてくる、赤いひらひらとした小さなものが目に入った。赤い振袖の、幼い少女。
「マリカ」
「また、いらしてくださったのですね。昨日はすぐにいなくなってしまって、マリカはちっともお話ができなかったんだもの」
 弾むようにひらひらと長い袖を揺らして、少女はコウの手を取った。
「この方はマリカのお兄さまよ。ですから、ご案内はマリカがします。おまえたちは下がりなさい」
 そう言って、ふたりの男を見上げてそう指示する。身の丈の半分ほどしかない小さな少女の言葉に丁寧に頭を下げて、男たちはそれに従った。その一連の遣り取りを見て、コウは思わず感心してしまう。
「マリカは、偉いんだな」
 何を当たり前なことを今更言うのか、とでも言いたげに、不思議そうにマリカは首を傾げた。
「だって、マリカはこの家の子だもの。マリカが自由に言うことを聞かせられないのは、ここではお父さまだけよ」
 けれど、と、無邪気な少女はそう続けて笑った。
「お兄さまは特別です。だって、マリカはずっと、お兄さまがほしかったんだもの」
「……おれは、マリカのお兄ちゃんじゃないよ」
 コウの母親は、マリカの父親である雨夜甚の妹なのだという。それならば、コウとマリカは従兄妹同士になる。そんなに近い親戚がいるとも考えたことがなかったから、実感が湧かなかった。
 首を振ったコウに、マリカは頬を膨らませた。
「お父さまがそう言ったもの!」
 その子どもらしい仕草に、どう反応したものか困惑しつつも、そうか、と頷く。マリカにとっては、父の言うことが絶対なのだろう。それにコウが何を言ったところで覆せるわけもないし、それに、実際に従兄妹であることは間違いないのだから、そう呼ばれてもおかしいことではないのかもしれない。コウが、そんな風に思われるのを慣れていないだけだ。
「マリカのお父さんは、今日は、何をしてるんだ」
「今日は、朝からずっとお家にいらっしゃるのよ。いいことがあるから楽しみにしていなさいって、朝、マリカに教えてくれたの」
「いいこと?」
「そう。きっと、お兄さまが帰っていらしたことよ」
 早く屋敷の中に連れて行きたいというように、マリカはコウの手を引っ張る。その弾む声と笑顔は、コウがこの家に来たことを心から喜んでいるもののように思えた。兄と呼べるようなものが、それ程嬉しいものだろうか、と、小さな頃からひとりだったコウにはその気持ちが分からない。八木は、コウのことをいつも弟のように思っているのだとよく口にしていたが。
 あの人は、ここにも追いかけてくるのだろうか、と、止めるのも聞かずに走って逃げてきたことを思い出す。だってあれは、八木が悪い。コウの言い分も聞かずに、守るためだと言いながら、あんな風に手錠を掛けるなんて。マリカに引かれていない方の手首をそっと見てみる。まだ、赤い痕が色濃く残っていた。
 屋敷の中に入ろうとすると、それまでコウの肩に大人しく止まっていた黒い蝶がふわりと飛び立ち、庭の方へと行ってしまった。
「ふつうの蝶は、お家には入れないのよ。入ることができるのは、いまはひとつだけなの」
「……ひとつだけ?」
「そう。お父さまの『蝶』よ」
 庭へ飛んでいく蝶を見ていたコウに、マリカがそんなことを教えてくれる。邪気のない、どこか誇らしげなものすら感じさせる少女の笑みと言葉に、何故か背筋に冷たいものが走る。当主の蝶。殺されて、魂を抉り取られた「誰か」。
「この間お兄さまといっしょにいたのは、白いお家の『蝶』ね。マリカはあのお家のひとも大好きよ。いつも、お誕生日にはすてきな贈りものをくださるもの」
 雨夜と花羽は対立していると聞いているが、子どもにとっては、そんなことは関係ないのかもしれない。コウが何も返事をしなくても、マリカは様々なことを話して聞かせてくれた。子どもの話なので余り要領を得なかったが、大体が父親と、この屋敷の使用人のことだった。学校には行かずに、勉強を教えてくれる先生が家に来るのだという。そのことも、マリカは自慢するように語った。
 捧にとってそうであったように、マリカにとっても、この屋敷が世界のすべてなのかもしれないと、そんな風に感じた。それならば、そこで最も力を持っているのだという存在は、少女にとっては神のようなものだろうか。
「お父さま、マリカです。お兄さまもいっしょよ」
 昨日はヒカリに背中を押されて歩いた廊下を、今は小さなマリカに手を引かれて進み、ほどなく奥座敷の前で足を止める。ぞくりと全身を襲った震えに、瞬間、息を呑む。この障子一枚を隔てたところに、あの男がいる。それだけのことに、身体が凍りついたように冷たく、重たくなる。門をくぐった時にも感じた小さな後悔が、改めて間違ってはいなかったことを思い知る。ここに来ては、いけなかった。あの男を、あんなに、怖いと思ったのに。
 逃げよう、と思った。どうすればいいのか分からなかったけれど、ここにいてはいけないのだけは確実だ。だから、固まったように重たい足を引きずるようにして、その場から逃げ出そうとした。
「どうぞ、お兄さま」
 それなのに、コウの手を引いたままのマリカの手を、振り払えなかった。こんなに、小さい手なのに。何の力も込められていないはずの少女の手は、繋いだコウの手から離れない。信じられない思いで、幼い従兄妹を見た。
 マリカはコウの顔をじっと見返して、少し首を傾げて、にこりと笑うだけだった。
「どうしたの?」
 同じだ、と、そう思った。雨夜の当主と、この娘は、何から何まで、同じもので出来ている。きっとそういう風に、あの男が作り上げた。小さくて、可愛らしい見た目をしたその中には、決して触れてはならない、理解してはならないものが棲んでいる。
 手を引かれる。逆らえずに、そのまま、座敷に足を踏み入れた。
「あ、……」
 そこから見えるものは、すべて、昨日と同じだった。細長い部屋の奥にある祭壇と、その後に掛る大きな絵のようなものと、そうして、黒い着物の男。男は祭壇の前に腰を下ろしていたから、昨日のように見下ろされることはなかった。傍らに置いた肘置きに腕を預け、煙管を手にこちらを見る。燻らせる紫煙が、部屋の端に立つコウのところにも流れてくる。その怠惰な姿勢と、軽く投げられた視線は重たげで、まるで享楽に耽ったあとのような緩い空気が部屋に満ちている。頭がくらくらとして、それだけで、何も考えられなくなりそうだった。
「随分と早く戻ってきたものだ。もう二度と来るまいと、昨日はそんな顔をしていたが?」
 立ち尽くしたままのコウを見て、雨夜甚は軽く声をたてて笑った。行儀よく膝をついて障子を閉めたマリカが、コウのことなどもう忘れたように、父に駆け寄る。
「わたしの言うことは正しかったろう、鞠花」
「はい、お父さま。とてもすてき」
 甘えるようにその膝に頬を預け、満面の笑みで少女は満足気に息を吐いた。当主は娘の艶やかな黒髪を戯れるように指先で撫でながら、煙管を持つもう片方の手で、コウに座るように指示する。膝が震えて、足がうまく動かせなかったはずなのに、その動作に操られるようにかくりと力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「『蝶』は、おまえを残していくことを選んだか。何も出来ぬ半端者があれだけ虚勢を張っておいて、その翌日に、捨て置かれた惨めな姿をわたしに晒すとはな」
 雨夜甚はコウのうなだれる姿を、喉の奥で低く笑う。嘲りに満ちた、コウのその様が愉快でたまらないとでも言いたげな言葉だった。その意味をどれだけ理解しているのか、当主の膝に子猫のようにじゃれつきながらマリカもくすくす笑う。
 顔を上げられないままでいると、自分の手が小さく震えているのが目に入った。それを見られまいと、力を込めて拳を握りしめる。奥歯を噛んで、コウを可笑しな見世物としか見ていない相手に目を合わせた。
「……顔立ちは母親似か。あれの、気の強い目とまるで同じだ」
 何かを言うために口を開きかけて、けれど声は出せなかった。顔を上げたコウを覗きこむように、雨夜の当主は大儀そうに身を起こした。興味が湧いたようなその物言いに、心臓が怯えたように鼓動を速くする。
 見分されるように、煙管の端で顎を持ち上げられた。
「そう、その目だ。よく似ている。嫌になるほどな」
 視線が這わされるのを、まるで蛇の細い舌で舐められているように、確かに感じた。煙管の細い柄で上向かされた顔を、どうしてもそこから逃してやることが出来ない。身体が動かなかった。それでも、爪が食い込むほどに強く拳に力を込めて、見下ろされる目を睨み返す。コウのその目を受け止めて、雨夜甚はほんの僅かに眼差しを緩めた。ほう、と、小さく感心したような息を漏らされる。
「鞠花。わたしがいいと言うまで、目を閉じていろ」
 煙管を外されたかと思うと、目線はコウに向けられたまま、当主が娘にそう言う。違和感を覚えるほど柔らかなその声に、マリカが一度、はい、と頷くのも聞こえた。
 次の瞬間、景色が引っ繰り返って、見ているものが変わった。
「……、っ、……!」
 何が起こったのか、咄嗟に分からなかった。数秒遅れて、左の頬の焼け付くような痛みと、勢いよく叩きつけられた背中の衝撃に、喉の奥から呻き声が漏れる。殴られたのだと気付く前に、倒れた身体を起こすまいとするように、強い力で上から踏み付けられた。
「は……!」
「折角、残り僅かな時間を好きに使えばいいと、逃がしてやったものを。おまえたちは、揃いも揃ってほんとうに愚か者ばかりで嫌になる」
 人間の身体の構造を完璧に理解していて、どこにどれだけの力を加えればそれを破壊することが出来るのか、この男は寸分違わず知っている。肺を潰すように胸を強く踏みにじられ、息をすることも吐くことも出来ない。呼吸が苦しいのと痛みで、頭が真っ白になる。
 その表情が気に入ったように、雨夜の当主が笑う。
「声を出すなよ。耐えてみせろ。おまえの、父のようにな」
 もがくように身を捩り、それから逃れようとする。ふと、当主のその言葉に、苦しくて少しでも逃れようと閉じていた目を開く。
「……、おとう、さん?」
 コウがそう呟いたことに満足したように、雨夜甚はまた、低く笑った。ここからすぐに逃げ出したいのに、それなのに、身体がどうしてもそれを許さない。こんな風に傷付けられることを、もうずっと待っていた。痛くて辛くて哀しいのに、それでも、どこかで、やっとそれが叶って安心する自分がいた。だから、逃げられなかった。
「おまえも、花羽の家から、あの『蝶』を盗み出して自分のものにしようとしたのだろう。血は争えぬ。盗人の子は、所詮盗人ということだ」
 伸ばされた指先で、また殴られるのかと思えば頬をなぞられる。まるで輪郭のかたちを確認して、そこに、かつて見知っていた別の何かを見出そうとしているようなその指に、暴力を振るわれるよりも遥かに強い痛みを与えられたように、目を見開いてすべてを受け入れるしかなかった。
「おまえの母親の繭花は、家が定めた許婚を裏切るだけでは飽き足らず、一族すべてを裏切り、千年破られてはならない禁忌を犯した」
 頬を撫でてくる指は、優しく愛しげですらある。こんなものではなくて、もっと、酷くしてほしかった。それが分かっていて、敢えて、もう与えてもらえないのだとそう気付く。
 この男は、コウを、憎んでいる。決して許すことの出来ない存在だから。
「おまえは、顔立ちこそ繭花に似ているが、表情は父親とまるで同じだな。虐げられて、安堵する。血というものは、ほんとうに争えぬ。……聞くがいい、コウ。おまえの母親は、」
 そこで初めて、雨夜甚は笑みを消した。輪郭を撫でていた手が、そのまま骨を砕こうとするように強い力で顎を掴む。目を逸らすことも、耳を塞ぐことも出来ずに、それを呑みこまされる。深い闇に潜む、凍えるような悪意。
「わたしの『蝶』を盗み、その血を受けた子を産んだ」
 強い憎悪を少しも隠そうとしない、呪いのような言葉だった。


<< 戻    次 >>



糸 / 蝶盗人 <  かれてふるのはかれのはね <  novel < index