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第三章 「糸」
1. 柔らかな楔

 明け方にまた来ると言い残して帰っていったもののために、早くに目を覚ました。
 しばらく夜勤と、そのまま続けて日中の仕事をするという強行軍を続けてきて、ようやく、今日の午後から休みを貰える。睡眠を取るといえばほとんどが事務所の安いソファの上で数時間仮眠を取る程度で、身体は疲れ切っていたはずだった。それでも、考えなければならないことがありすぎて、眠りは浅かった。
 布団から出て、服を着替える。足音を忍ばせながら階段を降りる。段を降り切ったところでしばらく立ち止まり耳を澄ましてみたが、家の中はしんと静まり返っていて、なんの音も聞こえてこなかった。思わず、もう誰もいないのではないかと疑ってしまいそうなほどだった。
 その不安を振り払うために首を軽く振る。時間はまだ、朝の六時前だ。花羽未月は、夜が明ける頃に迎えを寄こすと言っていた。それならば、もうそろそろだろう。
 玄関の鍵を開けて、新聞を取る。鍵は開けたままにして、暗い台所に明かりを灯し、珈琲を淹れた。いつもしているように新聞を広げたものの、文字は頭に入らない。ふと、壁にかかるカレンダーを見上げる。先日あった模試を、あの子はちゃんと受けたのだろうかとそんなことを考えた。結局、そのあとしばらく顔を合わせていなくて、聞きそびれてしまった。最も、あまり、いい返事は期待出来なさそうではあったが。
「……おはようございます」
 溜息をつくと、背後から、そんな声がかかった。耳慣れない、だが、聞き覚えはある声だった。
 首を振り向けて、その声の主を見る。コウが連れて歩いていた、あの「彼」だった。
「ああ、おはよう。ひとりかい」
 背の高い彼の着ている濃い藍色の着物は、クリーニングから受け取ってきたものだ。はい、と頷くその賢そうな目を見ながら、どうしたものかと戸惑う。なにを、会話すればいいのだろうか。
「飲む?」
 取りあえず、立ったままの彼に座るように促し、自分の飲んでいた珈琲のカップを掲げてみせる。彼はしばらく何事かを考えるような沈黙を挟んでから、やがて、静かに頷いた。
 台所に一旦引き返して、彼のためにもうひとつ珈琲を淹れてやる。好みが分からないので、砂糖とミルクも一緒に出すと、彼は差し出されたものを受け取ってから、じっとそれを眺めていた。
「……甘いのが好きなら、ふたつとも入れる。そうでないなら、そのままでどうぞ」
 そんな風に言ってやると、顔を上げて、こちらを見られた。頂きます、と丁寧に頭を下げられて、反応に困る。
 どうやら甘い方が好みだったらしく、彼は砂糖もミルクも入れた。余計なお世話かもしれないとは思ったが、混ぜるんだよと教えてやった。ひとつ頷かれて、教えたようにするその素直な動作が、何かを思い出させて、憐れむような気持ちになった。昨日の、未月と彼との遣り取りを思い出す。これは「蝶」だ。
「コウくんは」
「まだ寝ています。一度に色々なことがあって、身体よりも、心の方が傷付いて疲れているように思えました」
 尋ねると、そう答えられた。淡々としたその声の調子に、何か言いたいことがあるのかと思わず相手の表情をうかがったが、彼は湯呑を持つようにカップを手にして、やけに品のある動作で珈琲を飲むだけだった。別に、含むところはないらしい。
「あなたはコウのことを、昔から知っているとうかがいました」
「うん。まあ、知ってる時間だけは長いかな。あの子は誰に対してもあんな調子だから、あんまり、仲がいいわけじゃないけどね」
「そんなことはないと思います」
 苦笑しながら言ったこちらに、彼は首を振る。
「コウは、よくお祖母様や、あなたの話をしてくれました。とても優しくしてくれるのだと、そのことを感謝しているような気持ちだったのではないかと、そう感じます。……赤の他人からこんなことを言うのは、失礼なのかもしれませんが」
 淡々と話す彼の声は抑揚が少なく、そこから感情はほとんど読み取れない。それでも、言われたことは、嘘ではないだろうとそう思った。きっと彼は、嘘をつくようなことはしない。
 八木貴人の知っている「蝶」とは、そういうものだった。
「きみは、コウくんと、随分仲がいいようだけど」
 聞かない方がいいような気もしつつも、その素直さを見ていると、つい聞いてしまった。コウは大家の孫という、ただほんの小さな頃から知っているというだけの存在だ。弟のように思っているとはいえ、コウ自身にそのことをどう思われているかは何年たっても分からない。
 そのコウに、あんな顔をさせる彼が、少しだけ羨ましかった。声を上げて誰かに怒ったり、気遣うように笑ってみせたり、甘えるように傍にいて自分から相手の身体に触れたり、そんなコウを、見たことがなかった。
 そんな立場になったことはないけれど、自分の娘に恋人を見せられたらこんな気持ちになるのかもしれない。一抹の寂しさと、その相手へのわずかな嫉妬。
 彼は八木の言葉には答えず、代わりに淡く微笑むだけだった。そのことについては、教えてくれないらしい。
「……あなたは、コウのことが、大切なのですね」
 逆に、そう返される。珈琲を全部飲んでしまったらしく、空になったカップを音を立てずに卓の上に置いて、彼は見据えるように八木に目を向けてきた。その目を見返して、頷く。
「そうだよ。だから、あの子ときみとは一緒にいるべきではないと思っている」
 言われて、嬉しい言葉ではないはずだった。それなのに、目の前の相手は、その眼鏡の奥の瞳を細めて微笑んだ。
「安心しました」
「……何が?」
 どうしてそんな顔をされるのか、分からなかった。コウが彼に心を許していて、他の誰にも渡したくないほど思いを寄せているのは、面と向かって告げられなくてもその様子を見ていれば一目瞭然だった。けれども、それを向けられている相手である彼にとっては、そうではないのだろうか。一緒にいることを許さないと告げて、引き離そうとされて、それでどうしてそんな風に嬉しそうに目を細められるのかが分からなかった。
「おれはこれから花羽の家に戻ります。務めを果たし、儀式を終えるために」
 怪訝な思いはきっと顔に出ていただろう。彼は笑みを消し、また元のような、静かな何もうかがわせない表情で、そんなことを言い出した。
 知っていたことのはずだった。それなのに、当事者である「蝶」の口からそのことを出されると、八木が悪いわけではないのに、居たたまれなさを覚える。人道的に大いに間違っていることだとは思う。けれども、その儀式が為されなければ、コウもまた、「狩り」の人間と同じ目に遭うことも知っていた。
 だから、何か、別のものが命を落とすとしても、そうすればコウが助かるのなら。そうしなければ彼が助からないのならば、間違っていると分かっていても、その道を選ぶしかない。
「そうすれば、コウを守ることが出来る。呪いは千年で終わるから、おれで最後です」
「……きみは、何が言いたいんだ?」
「だからあなたは、千年の呪いではないものから、コウを守ってください」
 声も表情も、静かで平らなものだった。ただ、八木を見てくる目だけが真っ直ぐで強い。彼は、頼んでいるのだとそう気付いた。
「それは、おれには出来ない役目です。だから」
「分かったよ」
 彼がすべてを口にする前に、それに同意してしまい、遮る。言われなくても、そのつもりでいる。コウを守ることは、ずっと昔に、決めていたことだ。
 八木の答えを聞いて、捧は安心したようにひとつ頷き、もう一度丁寧に頭を下げた。未月を見ていても思ったことだが、花羽の家は、ずいぶん躾が厳しいらしい。
「珈琲というものを、初めて頂きました」
「え……、ああ、そうなんだ」
 そうして突然、また別の話をされる。空になったカップを見下ろして、彼は淡々とそんなことを言う。
「写真では何度も見たことがありますし、本を読んでいても、よく目にします。……ありがとうございました」
「いや、別に。そんなに丁寧にお礼してもらえるほど立派なものじゃないよ。インスタントだし」
 どう言ったらいいのか分からなくて、そう返す。軽い気持ちで出してしまったものに、そんなに深く感じ入るとは思わなかった。雰囲気は大人びてひどく賢そうなのに、そんな風にぽつりぽつりと語られる言葉が、まるで子どものようだった。見たところ、二十を少し越えたところだろうとは思ったが、それだけの時間をどんな風に生きてきたのだろうと、そんな余計なことを考えてしまいそうになる。
「お世話になりました。お会いすることは出来ませんでしたが、コウのお祖母様にもどうか、宜しくお伝えください」
 彼はまた深く礼をして、立ち上がる。時計を見ると、もう六時だった。未月が迎えに来ると言っていた時間だ。
 外に出ようというのだろう。八木に背を向けて、足を踏み出しかけた彼のその姿に、ふと違和感を覚えて、そうしてすぐに、その理由に気付く。
「……きみも、足が悪いのか」
 姿勢の良いその立ち姿のせいで分かり辛いが、彼は少し、右足を引くようにして歩く癖があるらしかった。その歩き方には見覚えがあった。そんな風に言っていいような類のことではなかったが、ふいに蘇った子どもの頃の記憶に、思わず言葉にしてしまった。
 彼は八木の言葉に足を止めて、頷くこともせず、しかし首を振って否定することもしなかった。
「あの子にはもう会わなくていいのか」
「……顔を見ればきっと、また離れがたくなります」
 彼らを一緒にいさせたくないと思うのに、それでも、気が付いたらそう聞いていた。ここで離れてしまえば、きっとおそらく彼らはもう二度と会えない。彼の言う「守る」とはそういうことなのだから。
 だから、最後にもう一度くらい、顔を見させてあげてもいいのではないかと思った。
 それでも彼は首を振った。それでは、と別れの挨拶を口にしかけた彼に、咄嗟に、辺りを見渡す。自分が、ひどい悪者になったような気分だった。何かしなければならないような気になり、目についたものを掴んで、彼に差し出した。
「あげるよ。持っていきなさい、餞別だ」
「これは?」
 自分でも何を渡してしまったのかよく分からなかった。不思議そうな彼の声に、一緒にそれに目を落とす。深い緑色に塗られた、両手のひらに載せると少し端がはみ出るくらいの大きさの、背の低い、四角い缶の入れ物。蓋には蔦が伸びて金色の額飾りに絡んでいる、様々な色で咲く花の絵が描かれていた。その絵を見て、思いだす。あれはお菓子の入っていた缶だ。澄子が着付け教室の生徒から貰ったもので、確か中身はとうに空になっている。台所の隅に置いてあったのは、それを捨てるかどうしようか使い道に迷っていたからだ。
 咄嗟のこととはいえ、どうしてあんなものを渡してしまったのだろう。じっと渡された缶を見ている彼からそれを取り返さなければと、自分に呆れる。渡すにしても、もっとましなものをあげなくては。
「ええと、それは」
 弁解するように手を振りながら自分の行いを取り消そうとすると、それまで缶を黙って見ていた彼が顔を上げた。
「ありがとうございます」
 返してもらわなければと思ったのに、それより先に、相手にそんな風に礼を言われる。彼は缶の蓋を指で撫でて、そこに描かれている絵を見ていた。何を考えているのか分からない、静かなままの目だった。彼はもう一度礼を言って、缶を両手で大事そうに持ったまま、また頭を下げた。
「どうか、コウを」
「……おれはずっと、そのつもりでいたよ。コウくんがまだ言葉も喋れない頃、そう約束したから」
 そんなことを伝えて、まるで牽制しようとでもするような自分の言葉がおかしかった。空の缶を大事に抱えるような相手に、無意味だとは思いながら、意地の悪いことを言う自分が嫌だった。
 命を捧げる以上のことが、出来るわけもないことは分かりきっているのに。
 彼はほんの少しだけ、まるで眩しいものを見るように目を細めた。そうして静かに、居間を出て行く。
 玄関の戸が開いて、すぐにまた閉まる音を聞いてから、八木もその後をなんとなく追った。車の音らしきものは聞こえなかったが、迎えはほんとうに来ているのだろうか。
 引き戸を開けて、外に出てみる。先ほど新聞を取りに出た時よりは少しは明るい。表には誰の姿もなかった。随分と、静かに帰って行った。
 コウのことを守るのだと、約束をした。彼にも、それから、もうずっと昔にも。忘れたことなどない。自分には、彼らとは違ってなんの力もないけれど。だからといって、何も出来ないわけではない。
 目覚めたコウが、どんな顔をするかを想像してみる。きっと、哀しむだろう。あれほど大事そうにしていた彼がいなくなっていて、それも、もう二度と会えないとそう教えなければならないのだ。もしかしたら、そんなことを言う八木のことを怒って睨むかもしれない。そう考えはしたが、これまでに見てきたコウの顔はぼうっとしたどこか遠くを見るようなものばかりで、そんな顔しか思い浮かべられなかった。

 ばたばたと音を立てて走るのが聞こえたかと思うと、すぐにまた静まり返る。その足音で、コウが目を覚ましたのだとすぐに気が付いた。目覚めて、そして隣にいたはずのものがもういなくて、それで慌てて、家の中を探したのだろう。二階から、階段の下を覗きこむ。あまりに静かなので、心配になってその様子を見に行った。
 コウは玄関の床に座り込んでいた。呆然としたようなその顔を見ると、可哀想なことをしたのだと改めて思いそうになる。けれどもこれは、すべてコウのためだ。
 コウは、あの「蝶」がいなくなったのは八木のせいかと問い詰めるように聞いてきた。睨みつけるような強い目で見上げられて、それに首を振った。彼は、自分から花羽の家に戻った。これはほんとうのことだ。
 そう教えても、信じないとその目で告げられる。そんな顔をさせる、あの「蝶」をまた少しだけ妬ましく思った。
「嘘じゃない。だから未月くんも、最後の一晩を与えてくれた。……おれはきみのことを頼まれてる」
 認めたくないと思いながらも、コウ自身も、心のどこかではそうなる予感はあったはずだ。彼らがどんな境遇にあるものたちなのか、おそらくコウも教えられて知っている。自分も無関係ではないのだと、花羽未月に強い口調でそう言っていた。あれはつまり、コウの母親のことだ。
 誰がそんなことを教えたのか知らないが、余計なことをするものがいる。コウには何も知らないままでいてほしかった。この一年さえ過ぎれば、すべて終わる。ほんの数日前までは、そうなることを疑いもしなかったのに。
「だから、忘れなさい」
 首をうつむけたまま顔を上げないコウに、そっと言う。出来るだけ、優しい声になるように自分でも気を付けた。それが、コウにとっては辛い言葉だろうということが分かっていた。何を言っても、今は受け入れられないだろうと思い、座り込んだままのコウを見守る。
「ほら、いい加減に着替えないと。学校、遅刻するよ」
 放っておくと、一時間でも、一日中でもそのままの姿勢でいそうなコウの肩に手を置いてそう声をかける。コウはその言葉に、うつむいたまま呟いた。
「行かない」
「そんな子どもみたいなことを言わない。澄子さんにも、留守の間、普段通りの生活をするって約束しただろう」
「……もう、とっくに破ってるよ。そんな約束」
 祖母の名前を出す自分を卑怯だと思いながらも、そうやってコウの反応を窺う。コウは昔から、祖母の言うことには素直に頷いた。元々、何かに逆らうような元気のある子どもでは無かったけれど、祖母の教えたことや言ったことは、特によく聞いていた。だから物を大事にするし、勉強もよくするし、学校にも休まずに通った。悪口や陰口を言うこともないし、困っている人がいたら淡々と手を貸す。すべて、祖母にそう教わったからだ。
 その約束を、コウは破ったのだという。自嘲するように呟くその言葉に驚いていると、コウはようやく顔を上げて八木を見た。笑おうとして、少しも笑顔を作れていない、そんな固い表情のまま、じっと見上げられる。
「八木さんはずっと家にいなかったから知らないだけだ。学校にも行ってないし、この間の模試だって受けてない。それだけじゃない、もっと悪いこともしたよ」
「何をしたんだ」
 口早に告げられたことは、予想していたことの範疇ではあった。澄子には何も変わりないとは言ったものの、コウの様子が変わったことには、何日か前から気付いていた。その理由までは、思い至らなかったが。
 嫌な予感がして、思わず責めるような口調になってしまう。コウは八木を見上げたまま、ようやくそこで硬直が溶けたように笑った。
「泥棒」
 口元を歪めるような、いびつな笑みだった。
「ひとの家に忍び込んで、大事にしてるものを勝手に盗んだよ」
 それが何のことを言っているのか理解した瞬間、頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 下宿人は優しい人で、これまで一度も、誰かや何かに怒っているところを見たことがなかった。
 だから、この人は怒っているのだという、そんな単純なことにも、しばらくは気が付かなかった。
「……っ、なにするんだよ、離せ……っ!」
 強い力で掴まれて、両腕が動かせない。あんなに優しい人に、こんなに力があるなんて思いもしなかった。振りほどこうとしても、少しもそれが揺るがない。後ろ手にされた両方の手首に、強く掴む八木の指ではない冷たい感触があったかと思うと、しばらくして固い金属音が聞こえた。どこか場違いなその音が、やけに部屋に響いて、わけも分からずにぞっとした。背後に立つ八木が、さっきから何も言わないのが不自然だった。何をされているのだろうと振り向こうとして、背中が何かにぶつかる。もう随分と古びてきた、居間の木の柱だった。自分がどんな事態に陥っているのか分からず、すぐ後ろにいるはずの八木から離れようとした。それでも、出来なかった。
 がちゃり、と金属の鳴る音がして、手が動かせない。勢い込んで、それでも身体が前には進まなくて、そのまま転ぶように畳の上に崩れる。細い柱を背にしたまま、両方の手首を何かで繋がれているのだと気付き、愕然とする。こんなことをされたら、ここから、動けない。
「八木、さん」
 そうしたのは他の誰でもない、この下宿人だ。未だに何も言わないその人を見上げるために、身体の向きを少し変える。それまでコウの後に立っていた人が、その仕草を見咎めたように、座り込むコウと同じ目線に身を屈めてきた。
「ごめんね。こんなこと、したくないけど」
「なんだよ、これ。なんで、こんなこと」
「だってそうしないと、きみはまた、彼のところに行くだろう」
 ごめんと謝ってくる声は、こちらを気遣うような柔らかいものだった。
「彼らが、一方的にきみを巻き込んだのだと思っていた。でも、違った。きみが自分から、あの中に入っていくなんて、どうしてそんなことをしたんだ。何が起こるか、分からなかったのに」
「何、言って」
「澄子さんがいない時に、おれが目を離したのがいけなかったんだ。絶対に、近寄らせちゃ駄目だったのに」
 だけどもう大丈夫、と、そう付け加えて八木は笑う。笑顔も、話す声も、これまでコウに向けられてきたものと何も変わらないのが、怖かった。
 柱を巻き込んで動けない手首にあるものを、指先で触ってみる。滑らかな手触りの、冷たいもの。両手の間を繋ぐ金属の鎖が、コウが少し身動きするだけで音を立てて揺れた。手錠だ、と、それの正体に気付く。本物を目にしたこともないようなものが、自分の手首に止められている。その理由も、八木が切々と話すことの意味も分からなくて、とにかくこの戒めから自由になりたかった。こうしておかなければ彼のところに行くだろう、と言われた。それは当たっている。八木に捕まえられなければ、また花羽の家に行くつもりでいた。だってそうしなければ、もうほんとうに、あの人を失くしてしまう。何もしないでそれを待つなんて、考えただけで気が狂いそうだった。
「無理だよ、鍵がないと外せない。手に傷が付くだけだから、止めなさい」
「どうして、こんなもの」
「どこで手に入れたんだって? 仕事道具だから、こんなの、会社に行けばすぐに手に入るよ。万が一のことを考えて、家にもいくつか用意していた。まさか、コウくんに使わなきゃいけなくなるなんて考えたことはなかったけどね」
 がちゃがちゃと派手に音を立てて手錠を外そうとするコウを、八木は子どもに注意するような口調で諌める。鎖を引き千切ろうとしてみたけれど、言われた通りに手首に金属が食い込んで、先に手の方が千切れてしまいそうだった。
「もう、ほんのしばらくの間のはずなんだ。だから、仕事もそれまで休みを貰うよ。丁度、シフトをずっと代わってた奴が復帰してきたところだし」
 八木はそう言って、暴れたせいで乱れたコウの寝間着の裾を直す。衿元も直そうとして、何かを見つけたのか、じっと一点で目を止めた。その反応には、覚えがある。きっと、捧が付けた首筋の痕を見ているのだ。
 見られたくなくて、顔を背ける。すると八木は、労わるような、同情するような声で続けた。
「可哀想に。せっかく、好きな人が出来たのに」
 その言葉に、耳が熱くなる。自分でもそれがどうしてなのか分からなくて、けれど、恥ずかしいからではないことは分かった。そんな風に言うなと八木の言葉を取り消させたかった。
 まるで、もう会えないことが決まっているように、憐れまれている。
 そのことが、許せなかった。
「事務所の鍵だけ開けに行ってくるよ。簡単な引き継ぎだけしたら、すぐに帰ってくる。大人しく待ってて」
 睨んでも、八木はそれを無視するようにそう言うだけだった。手錠に繋いだコウの周囲を見回して、これなら絶対に逃げ出せないと確認するように一度頷いて、立ち上がる。
 すぐに戻るからね、と念を押すように言ってから、下宿人は少しだけ申し訳なさそうに笑って、居間を出て行った。

 ひとり残されて、また手首の戒めを解けないかと一通り暴れてみる。思う通りに動けなくて悔しさに上がる息と、がちゃがちゃと鳴る鎖の耳障りな音だけが部屋に響く。さっきから散々同じ動作を繰り返していて、手錠が食い込んだ箇所が疼くように痛みはじめていた。どうなっているのか、目で見て確かめることも出来ない。
 八木はどうして、こんなことまでするのだろう。コウが捧のところに行くのを止めるため、だろうか。
 あとひとつ、白い蝶が増えればすべて終わり。そうすれば花羽も雨夜も、無事に千年目の呪いから抜け出せる。雨夜の血を引くのだというコウも生き延びることが出来る。けれども、その時には、捧はいない。
「……っ」
 鎖を千切るために力を入れていた手首が痛んで痺れる。柱を壊すことが出来ないかと、肩をぶつけてみる。思い切りぶつけてみたつもりでも、あまり距離を取れなくて、大した力にはならない。何度目かで、そのまま肩がずるりと滑って、みっともなく畳の上に倒れる。手を無理な方向に捻ることになってしまい、痛みに思わず呻いた。
 死ぬのは、もっと痛い。ずっと長い時間狩られ続けた「蝶」の苦しみは、こんなものではなかった。時間が経つにつれて、赤くて重たい夢の中で繰り返し殺された記憶はおぼろげになっている。それでも、どんなに悲しくて、痛かったか、その深さは決して忘れられない。最後は、捧の番。
 あんなものと引き換えにしなければ手に入らないのなら、命などいらない。
「捧さん……」
 呟く自分の声が弱々しくて情けなかった。目を閉じて息を吐く。と、静かだった家の中に、物音が聞こえるのに気付いた。
 八木が戻ってきたのだろうと思い、こんな姿を見られまいと、起き上がろうと肘に力を入れかけた時だった。
「これはまた、随分と、凄いことになっているな」
 聞こえてきたのは、妙に楽しげな声だった。八木のものではない。弾かれたように顔を上げて、その声の主を見た。
「ヒカリ!」
「そんなことをするのは、きみと一緒に暮らしていたあの子だろう。真面目な人間は、思い詰めると何をするか分からないから恐ろしいね」
 コウが手錠に繋がれている姿を見て、「蜘蛛」はくすくすと笑った。あの子、とは八木のことだろうか。この男にとっては捧も八木も、皆等しく子ども扱いなのだと、手助けして起こしてもらいながら、そんなことを思った。
「鍵、閉まってただろ」
「たぶんね。でも、それだけだったから」
 いつものような華やかな装いのヒカリは、コウの手首に嵌る手錠を見て呆れたように肩をすくめた。
「そこまでさせるなんてね。きみには男を狂わせる才能があるよ。親譲りかな」
「……おれの、親?」
 この男は八木のことも知っているような口ぶりだった。それなら、コウの両親のことも知っているのだろうか。雨夜の当主の妹だという母親と、そうしてその母が家を裏切ってまで手を取った、父親。知りたいような気もしたが、何も知りたくないような気もした。ヒカリは軽く笑っただけで、何も言わない。
 「蜘蛛」の肩に、黒い蝶がひとつ止まっていた。雨夜の家から、連れてきたのだろうか。コウが見ていると、それに気付いたようにふわりと舞い上がり、こちらの方に飛んできた。
「あんた、あの後も雨夜にいたのか」
「ああ、そうだよ。甚様がお帰りになるまで、マリカ嬢と一緒にいた。きみが帰ってしまったことを寂しがっていて、また来てほしいと伝えてくれと頼まれた」
 ヒカリは後ろ手に繋がれたコウの手錠を見ながら、そんなことを言ってくる。何かしているらしいが、見えないので分からない。
「おれに?」
「そう。あの子はひとりっ子だからね。兄が出来たようで嬉しかったんだろう。……はい、出来た。もう動いていいよ」
 そう言われるのと同時に、それまで感じていた金属の感触が外れた。ずっと後に回していた肩と腕を少しずつ動かしてみる。筋違いをしたように痛む腕を撫でてさすり、手首を見てみる。真赤に、鬱血したような跡がたくさん付いていた。
「きみは毎日新しい傷を増やすな」
 それを、ヒカリに笑われる。黒い蝶がひらひらと飛んで、その傷痕のひとつに止まった。
「どうやって外したんだ」
「一応まだ、ぼくにも出来ることがあるということだ。……捧が未月のところへ戻ったようだね」
 手錠を外してくれたことへの礼を言おうとしていた矢先に、そんなことを言われる。
「きみは、どうしたい?」
「わからない」
 とりあえずこの格好をなんとかしようと、部屋に戻って服を着替える。ヒカリはコウの後を付いてきた。気にせずに、寝間着を脱ぐ。掛け違えて一番下のボタンが余っているのをそのままにして脱ぎ、代わりに制服を着た。選んでいる余裕がなくて、洋服入れの一番上にあったからだ。
「でも、とりあえずここを出ないと」
 最後に、ヒカリから貰った黄色のマフラーを首に巻く。それを目を細めて眺められているのを感じながら、そう呟く。八木は今、少しおかしい。コウのことを心配しているのかもしれないが、また、あんな風に繋がれるのは御免だった。あれでは、何も出来なくなってしまう。
「ここで大人しくしていれば、たぶん全部終わるよ。きみの安全は、あの子たちが守ってくれるだろうし」
「……そんなの、嬉しくもなんともない」
「だろうと思った。だから、こうして来てあげたんだけれどね」
 また黒い蝶を肩に乗せて、ヒカリは笑う。それを見て、ふと疑問にかられて尋ねてみた。
「あんた、どっちの味方でもないんだろ」
 花羽と、雨夜。そのふたつの家のどちらの味方でも敵でもないのだと、この男は自分のことをそんな風に言っていた。そうだよ、とヒカリはそれに頷く。
「だったら、おれのことをこんな風に助けたりして、いいのか」
 コウは一応、雨夜の血筋にあるらしいのに。それは、味方になるということではないのだろうか。
「いいよ、別に。だってきみを今自由にすることで、どちらかの家に利益や損害があるわけでもない。きみ個人の、感情的な問題のためだし」
「そういうの、誰が決めるんだ?」
「細かいことを考えるのが好きな奴」
 はぐらかすような答えだったが、それよりも気になったのは、どちらの家にも影響がないと言われたことだった。コウが自由になったところで、何も出来ないと遠回しに言われたのと同じだ。
「ぼくは一度、花羽の方へ行こうと思うけれど、どうする? 一緒に来るかい」
 部屋を出て、玄関までの廊下を歩きながらヒカリにそう誘われる。しばらく考えて、それには首を振った。未月と八木には、繋がりがある。見つかってしまったらお終いだ。
 それなら、行けるところはもうあと、ひとつしかない。
「……おや、丁度鉢合わせになってしまったな」
 コウが靴を履きながらそんなことを考えていると、ヒカリがそう言うのが聞こえた。顔を上げるより先に、玄関の扉が開く。出たついでに何やら買い込んで来たのか、大きな袋を抱えた八木と、目が合った。
「な……!」
 咄嗟に身を翻して、荷物を投げ捨てた彼がこちらに手を伸ばしてきたのを避けようとする。けれども、元々の鍛え方がまるで違う人には適わずに、八木の方が少し早かった。捕まる、と思った瞬間、それでもその寸前で、それから逃れられた。
 八木の肩を捕まえて動けなくしているのは、ヒカリだった。目が合って、笑われる。
「行きなさい。ああ、この子を頼むよ。あちらの家には連れていけないからね」
 そう言って、黒い蝶に目で合図する。それを理解したように蝶はこちらに飛んできた。手のひらで受け止めて、ヒカリに頷き返した。
 八木はしばらく、自分を止めているのが誰なのか、事態を呑み込めていないような怪訝な表情をしていた。コウに向けたその声に、首を捻ってその顔を見たのだろう瞬間、彼が息を呑むのが聞こえた。
「……、おまえ……!」
「久しぶり。随分と大きくなったね、貴人」
 その遣り取りに背を向けて、駆け足で家を出る。待ちなさいと聞こえた気がしたが、後ろは振り返らずにそのまま走りだした。黒い蝶はひらりと宙に舞い、まるでコウがどこに向かおうとしているのか知っているように、先導するように少し先を飛ぶ。黒の家を、目指して。
 蝶の後を追って、コウは足を緩めずにただ前だけを見て走った。
 花羽には近寄れない。あの家に行っても、きっと何も変わらない。だから、もうひとつの家へ行くしかない。
 黒い蝶を狩る一族、雨夜家に。


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