index > novel > かれてふるのはかれのはね > 月 /千年の檻


第二章 「月」
7. 千年の檻

 玄関には灯りが付いていた。
「誰か居る」
 耳打ちするように、捧がそれを見て教えてくる。それに頷いて、心配することはないのだと教えてやる。
「たぶん、下宿してる人が帰ってるんだと思う。捧さんも、一度、会った人だよ」
 確か、花羽の家から捧を連れ出した時に、顔を合わせたことがあるはずだ。捧から聞く限りでは、それほど、怪しまれてもいないようだった。その人が帰っていることに、安堵する。居てくれたらいい、と、少しだけ期待していた自分に気付いた。あの人ならば、きっとコウの味方になってくれるだろうと思った。
 コウがそう答えたことに納得した様子で、捧もひとつ頷いた。
 雨夜の屋敷からコウの家までは、ちょうど花羽の屋敷からと同じくらいの距離だった。まるで測ったように、正反対の位置にあるらしいふたつの家に、ほんとうに昔から対立する存在なのだと、そんなことを思い知った。きっと地図を広げてみたら、コウの住んでいる家のあたりが中心になるのだろう。
 送ろう、という雨夜の当主の申し出を断り、捧の手を引いて、暗くなりかけた道を延々と歩いて帰ってきた。今日は、雨も降っていない。それなのに、道を歩く人の姿がほとんど見られなくて、妙に静かな空気が不気味だった。もともとあまり口数の多くない捧は、歩き始めてすぐに、コウの傷が痛まないか尋ねてきたくらいで、あとはほとんど、黙っていた。身体を動かすと、まだ痛むところはいくつかあったけれど、そんなことに構っている気分ではなかったので、平気だと頷いただけで、コウもずっと黙っていた。何か言おうと思っても、自分が何を言い出すのか、それに捧が何を答えるのかが分からなくて、口を開く気になれなかった。
 繋いだ手を少しだけ強くして、玄関の戸をそっと開ける。コウの帰りを待っていたのだろうか、鍵は開いていた。そういえば、昨日おとついと、何も言わずに無断外泊のようなかたちになってしまった。制服のポケットには携帯電話が入りっぱなしになっていたけれど、ふとそれを思い出して見てみたときにはもう、充電が切れていた。
「……ただいま」
 捧を中に招き入れて、鍵を閉める。物音に気付いたのか、中から、出迎える人の足音がするのが聞こえた。心配することはないのだと言い聞かせるように捧を見上げると、彼は微笑んで頷いた。
 おかえり、と、聞きなれた声が言うのが聞こえた。
「コウくん、と、……この間の?」
 そんな風に呼ばれるのを、久し振りに耳にした気がした。その人はすぐに、コウの隣の捧に気付いたのだろう。少し不思議そうではあったものの、すぐに、気を取り直したように、こんばんは、と挨拶をした。捧もそれに、丁寧に頭を下げる。
「以前、お世話になりました」
「こちらこそ、と、言いたいところだけど……」
「八木さん、あの」
「……お客さんなんだから、とりあえず、上がってもらおうか。聞きたいことはたくさんあるけどさ」
 どう説明したものか、コウが言葉に迷っていると、下宿人はそう言って居間を指し示した。
「ちょうど、夕飯にしようと思っていたところだよ。だから良ければ、一緒にどうぞ。鍋だから、人数が増えても大丈夫」
 ひとりで鍋をしようとしていたのだろうか、と、そんなことを考えながらも、捧に上がるように伝える。彼は何か気になることがあるように、入るように言われた方を見ていた。
「捧さん?」
「来ている」
「……え?」
 その目を、見たことがある。警戒するような、ぴんと張った弓のような眼差し。誰が、と聞こうとするより先に、また別の声が新しく割り込んできた。
「聞くことなんて何もない。自分がなにをしたのかは、よく分かっているはずだからな」
 刺を含むその苛立った声には、確かに聞き覚えがあった。
「この裏切り者が」
 吐き捨てられるような罵りの言葉に、捧は小さく笑う。それが、尚更相手を苛立たせるものだったらしい。奥から姿を見せたその人物から、捧を隠すようなつもりでその前に立ちはだかる。どうして、この男がここにいるのだろうと思い、やがてすぐに、そういえば以前にもこうして彼は捧を連れ戻しに来ているのだと思い出す。あの時は、何も出来なかった。けれども今は違う。そう思って、相手を睨むようなつもりで見上げる。
 中から現れたのは、花羽未月だった。
「……おまえ、」
 すると未月は、コウの顔を目にしてすぐに、何故か顔をそむけた。何か言いかけたその声は、捧に向けられたものより少し弱く、何事かを尋ねようとするようなものでもあった。こうしてまともに顔を合わせるのは、ほとんど初めてのようなものだと、改めて気付く。白い家の「狩り」を継ぐ、次の当主。雨夜と対になる、花羽の息子。
「渡さない」
 挑むようなつもりで、そう言い放つ。未月は瞬間、何を言い出すのか、と呆れたような顔をして、そしてすぐに、コウの言いたいことを理解したのだろう。
「関係のない奴が口を挟むな。あれだけの目に遭ったのに、まだ懲りていないのか」
 言葉と眼差しは冷たかった。けれども何を言われても、負けるつもりはなかった。
「関係なくない。……おまえたちには、絶対に渡さない」
 コウのその言葉に、未月はすぐには何も言わず、ただ黙って睨むような眼を向けてきた。その眼がまるで、なにも分かっていないくせに、と言いたがっているようでもあった。いっそ、何も分からないままだったら良かったのに、と、未月のその真っ直ぐな敵意に、そんなことすら感じた。そうしたら、守ることにももっと躊躇いが無かったかもしれないのに。
「あのさ、喧嘩もいいけど」
 睨み合いを続けている剣呑な空気に水を差したのは、下宿人の呑気な声だった。
「とりあえず、御飯にしない?」

 下宿人の名前は、八木貴人という。コウがまだ中学に上がらない頃からこの家にいるから、もう十年近くは一緒に住んでいることになる。大学に進学するために自宅を離れて、それからずっと、社会人になってもこの家に下宿し続けているので、祖母にとっては、もうひとりの孫のようなものらしい。穏やかで、誰にでも優しい性格をしているこの人は、数年前に突然退職するまでは、警察官だった。だから、コウのことはあまりよく思っていない祖母の実の息子夫婦も、彼が住むことには賛成している。そんな人が一緒に住んでいてくれるのなら安心だから、と、そう言っているのを聞いたことがある。いまは、友人のつてを頼って、警備員として働いている、らしい。詳しく話を聞いているわけではないが、たぶん、そんな感じだろうとコウは思っていた。
「なんで、未月も?」
 座るように促された食卓には、ふたり分の皿と箸が置かれていて、まさに今これから食事をしようとしていたところらしかった。ひとつは八木だとしても、もうひとつは、未月のものなのだろう。まさか、捧に朝御飯を用意してくれたのと同じように、この家に来た未月のことも、食事に誘ったのだろうか。
 不思議に思って聞いたコウを、何故か未月自身が、その言葉に引っ掛かるものがあったように、何か言いたげに見てきた。言いたいことがあるのなら言えというつもりで、その顔を見返す。やがて未月は、諦めたように溜息をひとつつくだけで、顔を背けた。
 その呆れた溜息に、そういえば、とふと気付く。捧やヒカリが、あまりにも未月未月と自然に口にするから、コウも勝手に、そんな風に呼んでいた。ほとんど、初めて口をきくような相手に馴れ馴れしくそう呼ばれて、それが気に障ったのかもしれない。
「ちょっと、縁があってね。前々からの顔見知りなんだ」
 コウの問い掛けに、八木が答える。前々から、というその言葉を、もっと詳しく知りたいような気もしたが、知ったところで、どうにもならないだろうと思い、ふうん、とだけ頷く。雨夜の家もそうだったが、花羽の家は随分と大きな屋敷を持っている。どうやって生計をたてているのかは知らないが、間違いなく関わる人間の数も多くて、その中に、この人も含まれていただけのことだろうと、深くは考えなかった。
 未月は八木の言葉は聞き流しているように、何も言わなかった。大人しく卓の前に正座して、コウの傍に立ったままの捧に向かって苛立ったような声を上げる。
「突っ立っていないで、早く座れ」
「……おれは外そう。三人で食べてくれればいい」
「ここは家じゃない。母さんが見ているわけでもない。この家の者がそれを許しているのだから、従えばいい」
 捧は首を振って、その申し出を辞退しようとする。コウにはその理由が分からなかったが、未月が母親のことを引き合いに出したことで理解する。捧は以前、身の程知らず、という言葉を投げつけられていた。「狩り」の一族である本家の者と、「蝶」の一族との違い、なのだろうか。
 気にすることはないのだと、コウも捧の手を引いて、未月とは反対側になるように座る。捧は戸惑ったような顔をしていたが、コウが少しだけ笑って頷いてみせると、大人しく卓に着いた。
「助かるよ。なにしろ、また、いっぱい貰っちゃって」
 八木が嬉しそうに言いながら台所から抱えてきたものに、コウは思わず声を上げてしまう。
「八木さん、それ」
「コウくんも、もう、だいぶ飽きちゃったと思うけど。でも、おれがシフト代わってる奴の実家が豆腐屋でさ。お礼にこれならいくらでもあげられるから、って、毎日たくさんくれるんだよね」
「食べきれなくて困るような量を貰わなければ済むことだろう」
 困っちゃうよね、などと言う八木に、未月が冷たく言い放つ。コウが思いながらも口にしなかったことを言ってしまった。それでも八木は、そうだよねぇ、などと笑うだけだった。誰にでも分け隔てなく優しいこの人は、その分だけ、お人好しで言われたことを断れない性分でもあった。
 差し出された皿と箸を受取って、捧は食卓の上の鍋をじっと見ていた。豆腐を食べるために用意されたもののようではあるが、白菜や春菊も並んでいる。入れるつもりらしい肉も少しはあったが、この人数には明らかに足りていなかった。
 鍋から豆腐や野菜をすくって、捧の皿に入れてやる。彼はコウの一挙一動をじっと見ていた。
「鍋、初めて?」
 その様子があまりにも珍しげだったので、そんなことを聞いてみた。捧は眼鏡の硝子を湯気で少し曇らせながら、素直にそれに頷く。
「こんなに大勢で食事をしたこともない」
「……そっか」
 四人程度では、大勢とは言わないだろう。それでも、捧はいつもひとりきりであの離れで生活していたのだ。こんな風に、ひとつの食卓を誰かと囲むことも、彼にとっては新しい経験なのだろう。そう思うと、何故だかコウの方が寂しい気持ちになってしまった。
 コウの真似をして、捧もコウの皿に鍋の中身を入れてくれる。ありがとう、と、それを受取る。少しだけ緊張したような面持ちではあったが、捧は楽しそうだった。
「食べたら帰るからな」
 その空気に水を差すように、花羽未月がそんなことを言ってきた。やはり捧を連れ戻すために来たのだと思い知り、コウが睨むように見ても、冷やかな目で見返してくるだけだった。
「もう、呑気にしていられる時期じゃない。そんなことも分からない程馬鹿でも恩知らずでもないだろう」
「待てよ」
 勝手に話を進めようとする未月を、コウは遮る。
「おまえたちの好きにはさせない。帰るなら、ひとりで帰れ」
「だから無関係の奴が口を挟むなと、」
「無関係じゃない!」
 思わず声を荒らげて、手にしていた箸を食卓に叩き付けてしまう。八木が、そんな風に声を上げたコウを、驚いたように見ていた。
「……関係なくない。だって、おれも、」
「おまえも?」
 「狩り」の血を引いているのだから、と、言いかけたその言葉は呑み込む。花羽未月が訝しげに言葉の先を聞こうとしたが、それは知られたくなかった。代わりに、また、眼差しを強くして、白い蝶を狩る家の、次の当主を睨む。
「捧さんは、最後までおれの傍にいるって、そう言った」
「はあ?」
「だから、帰らない。……おれと一緒にいるんだ」
「何を、」
 さっきから散々、未月はコウの言動に呆れた顔をしている。それでも、捧の言葉を教えた瞬間のその顔は一層呆れていて、可笑しいほどだった。信じられない、と、コウの言葉を疑うように、未月は黙って遣り取りを見守るばかりの捧に目を遣った。何か言いたいことがあるなら言ってみろと言わんばかりのその眼差しを受けて、捧は静かに口を開いた。
「未月に、聞いてほしいことがある」
「……聞くだけなら、聞く」
「時間は取らせない。だから、出来れば二人だけで話したい」
 捧のその言葉を聞いて、未月はしばらく、何の反応も見せずに固まっていた。考えているのか、それとも、表情に表わせないほど驚いているのか、どちらとも取れそうな沈黙だった。コウも、未月ほどではないが、少し驚いた。捧から、未月にそんな風に話を持ち掛けたのが意外だった。
 分かった、と、その沈黙を挟んで、未月が早速立ち上がろうとする。それを、八木が引きとめた。
「食べてからにしたらいいじゃないか」
「そんな、呑気な、」
「きみも、まともに食事も取れていないんじゃないか。家を離れている時くらい、肩肘を張らずに、少しは気を緩めたらいいのに」
「……分かったように、言うな」
「うん。そうだね、ごめん」
 何か反論がありそうではあったが、それでも未月は大人しく、また腰を下ろす。いつも怒ってばかりのこの男の、そんな姿を初めて目の当たりにして、思わずコウはまじまじとその様子を見てしまう。それに気付いたのか、未月が面白くなさそうに息を漏らした。
「ほら、たくさんあるから、好きなだけ食べて」
 八木が、何事もなかったように鍋にまた豆腐を追加していく。未月と捧の間に漂う緊張感にも、コウが声を上げたことよりも、何より食事の方が大切だと、そうとでも言いたげだった。よく分からない人だと、今になって、そんなことを考えながら、箸で豆腐を小さくして、茶碗に盛ったご飯の上に乗せて食べる。味噌汁の具でもなんでも、コウにはそんな風にご飯の上に乗せて食べる癖があった。それを隣で見ていた捧に、笑われる。
 捧はその作業が気に入ったのか、鍋の中から豚肉やら、春菊やらをすくってはコウの皿に次々に入れてくれる。まるで子どもがままごと遊びをしているように、楽しそうだった。

 居間から廊下に首だけを出して、洗面所の方を覗く。何かを話しているらしい声があるのは分かるが、その内容はなにひとつ分からない。それでも、不安に思わずにはいられずにそのままの姿勢でいると、後から軽く頭を叩かれた。
「こら。盗み聞きしちゃ駄目だろ。二人だけで話したいって言ってたんだから」
 振り向くと、苦笑する八木がコウを見ていた。台所で片付けを済ませていたと思ったのに、もう終わったらしい。お茶を入れたからおいでと言われ、もう一度だけ洗面所の方を覗いて、居間の中へ戻る。
 食事が終わって、捧が未月と話をしたがったので、それならと洗面所に案内した。狭い家なので、あまり自由に使ってもらえるような所がなかった。かと言って、外に出てもらうのは、そのままいなくなってしまいそうで嫌だった。こんなところで、と未月には文句を言われるかと思ったが、何の不満もないらしく、早く立ち去れと言わんばかりに睨まれるだけだった。
 熱い湯呑を受け取って、少しだけ口を付ける。下宿人である八木は、こんな風に祖母がいない時はよくコウの面倒を見てくれる。昔から、ずっとそうだった。
 気にしたことがなかったせいだろうが、コウは八木について、知らないことの方が多かった。すらりとした長身で、性格を如実に表わすような、下がった眼尻の優しい顔立ちの人だから、女の人にもてないはずはないと思うのに、それらしい相手を見かけたこともない。休みの日は大体家にいて、祖母の買い物や、庭の掃除などを手伝っている。ぼんやりしてばかりのコウのこともよく気に掛けてくれて、勉強を見てくれたり、洋服を買いに行く時などは声を掛けてくれ、一緒に選んで貰ったりしていた。きっと、出来の悪い弟のように思ってくれているのだろうと思う。そんな八木に、花羽未月との関わりがあるなんて、思ったこともなかった。
 この人は何を、どこまで知っているのだろう、とそんなことを考えていると、そういえば、と話しかけられた。
「澄子さんから、昨日の夜電話があったよ。コウくんは元気にしているかと聞かれた」
「……それで?」
「変わりないと答えたよ。話したそうだったけれど、お風呂に入っているからって言っておいた。良かったかな」
 八木のその言葉に、うんと頷く。澄子は祖母の名前だ。何の連絡もなく家に帰らなかったことを祖母には言わないでいてくれたことに、素直に感謝する。ありがとうとコウが呟くと、湯呑を手にコウの真向かいに座った下宿人は、コウの顔をじっと見てきた。
「変わったね、コウくん」
「おれが?」
「そう。自分でも分かるだろ。表情が、全然違うから。……彼のおかげかな」
 そう言って八木は微笑む。彼、とは誰のことだろうと思いかけて、すぐに、捧のことだろうと気付いた。確かに、コウ自身でも、自分を取り巻く状況が、捧のことを知ってからは驚くほど変わったと思う。その変化は他人から見ても明らかなほど、見た目にも表れているのだろうか。自分では分からなくて、探ってみるように手のひらで頬に触れてみる。湯呑を持っていた手は温かくて、そんな風に熱をもつ捧の手のひらのことを思い出した。
 コウのそんな仕草を見て、八木はまた目を細めた。
「澄子さんが見たら、もっとびっくりするだろうね。まるで、別人だ」
「そう、かな」
「そうだよ。これまでは、全部のことがどうでもいい、って感じだった。誰が何を言っても、何をしてきても、自分を素通りさせてた。おれや澄子さんには、笑ってくれることもあったけれど、でも、あの彼と一緒にいる時とは、全然違う」
 そうかな、と、もう一度繰り返して、なんとなく気恥ずかしくてうつむく。そんな風に、微笑ましそうに見ないで欲しかった。コウが捧に向ける感情は、決して、綺麗なものだけではない。むしろ、どちらかというと、この人や祖母には決して知られてはならないような、どろどろとして醜いものの方が多く含まれているような気がした。身体を繋げて、溶かして、境目をなくして熱に溺れることや、蝶にさえ嫉妬して、赤い血を獣のように舐めては酔うことが普通でないことくらい、自分でもよく分かっている。だから、見られたくなかった。
「彼のことが、すごく大事なんだね」
 それを、照れたのだと思ったのだろう。八木の声は、労わるような優しさに満ちていた。言葉なく、それに頷いて答える。
「ほんとうに、とても好きなんだね」
 続けられた言葉にも、また頷く。そうか、と、コウのその反応を目にして、八木がそんな風に呟くのが聞こえた。優しかったその声が、少し、温度を下げた。
「……でも、駄目だよ」
 その言葉に、顔を上げる。八木はコウを見ていた。表情は、いつもと同じように、優しいままだった。それでも、そんな中にどこか、憐れむような目をされている気もした。
「忘れなさい。彼らとは、二度と関わってはいけない」
 ね、と、言い聞かせるように笑うその人に、言葉が咄嗟に出てこなかった。何を言おうとしているのか、分からなかった。どうして、ともつれた舌で尋ねると、同情するような声で、慰めるように言われた。
「きみの為に」
「……嫌だ、そんなの」
 忘れろと、これまでもそんな風に何度も言われた。その度に、それを跳ねのけてきた。この人ならばきっと、コウの味方になってくれるだろうと、そう思ったのに。それなのに、何も話さないうちから、先にそれを拒まれてしまうなんて。
「関わらないなんて無理だ。だって、……だって、おれも」
「それでもだ。誰が何をしようとしても、きみだけはこれ以上巻き込ませない。油断してたな。まさかきみが、こんなに変わるなんて」
「……八木さん、もしかして」
 愕然としながらも、それでも、確信に近いものを感じた。この人は、何もかも、分かっている。花羽のこと。儀式と「蝶」のこと。そうしてもしかしたら、雨夜と、コウのことも。
「全部、知ってるのか」
 下宿人は頷くことも否定することもせず、どこか困ったように、曖昧に笑うだけだった。


 どういう話し合いをしたのかは分からないが、未月は大人しく、ひとりで帰って行った。
「大丈夫だった?」
 叩いたり、引っ掻いたりされなかったかとコウが聞くと、捧はひとつ頷くだけだった。何を話したのか聞こうとして、それでも、聞いて教えてくれるようなことならば、最初から二人きりで、とは言い出さなかっただろうと思いなおして、止める。
 八木は風呂を入れてくれて、捧にも入って貰うようにと言ってきた。関わるなと言ってきたのに、そんな風に泊めることを容認する彼のことも、よく分からなかった。そうしてまた、捧のことも。雨夜の当主の言葉を聞いてから、捧が何を考えているのか、分からなくてずっと不安なままだった。どうしてあんなに嬉しそうな顔をしたのか、その理由を考えようとして、すぐに、考えたくなくなって、わざと忘れようとすることを繰り返していた。
「ああ、そうだ、これ。彼のものだろう。一緒に受け取ってきたよ」
 ふたりとも風呂から出て、コウが捧の髪を乾かしていると、八木が紙袋を差し出してきた。受取ると中には、捧が最初にこの家に来た時の着物が入っていた。クリーニングに出して、そのままになっていたものだ。
「随分良いものをお持ちなんですねって、おれが褒められちゃったよ」
 受取表はコウの財布に入ったままだったが、もともと、祖母も八木もよく利用する店で店員とも顔見知りなはずだ。だから、気を利かせて、何かのついでの用事があった八木に渡してくれたのだろう。
「有難うございます」
「いや、おれは持って帰って来ただけだし。……ええと、何て言ったらいいのかな。その、おれの部屋は二階だから、ご遠慮なく」
 頭を下げる捧に、八木は戸惑ったように、そんなことを言い出す。その意味が分かっているのかいないのか、捧はまた、有難うございますとまた丁寧に礼をした。礼儀正しい捧の所作に、八木は戸惑ったように笑い、コウを見た。おやすみ、と、いつものようにそう挨拶されるだけだった。

 雨夜の庭で蝶を呼ぶために付けた切り傷は塞がりかけていて、もう口に含んでも、あの血の甘さは残っていない。それでも、節くれ立ったその指を両手で捕まえて、止められないのをいいことに、赤ん坊のように吸い、舌でその皮膚を撫で続けた。
「……っ、は」
 捧はコウが捕まえているのと反対の手で、コウの髪を撫でて、そのまま指先で耳朶を摘んだり弾いたりして弄んでいた。舌に触れる骨の固さと、耳に触れられる指先の熱さに、身体が跳ねるように何度も震える。
 指から口を離して、まるでそうしないと息が出来ないように性急に、そのまま互いの唇を貪り合う。一番初めの情交から、捧は身体を重ねる度に器用に手順を覚えていく。どうすればいい、などと、冗談を言うようにそう聞いてきたのが嘘のように、今では彼の方が、まるですべてを知り尽くしているようにコウを蹂躙していく。
 自分ばかりが先に着ているものを全部剥がされ、唇は塞がれたまま、冷たい外気に触れる肌をくまなく愛撫される。
「や……!」
「可愛い」
 弱いところに触れられて思わず喉を逸らすと、耳元で、そんな風に低く笑われる。捧はこうしている時だけ、ひどく意地悪になる。コウがもう駄目だと音を上げても、まるで耳に入らないように目を細められるだけで、彼が満足するまでは手放してくれない。手荒に扱われたり、乱暴なことは決してされることはないが。
 みっともないくらい足を大きく開かされて、剥き出しの下肢を彼の前に晒される。寒いのと、それまでの愛撫で身をもたげて欲望をあからさまにしているものを見られる羞恥から身を縮めようとした。けれども足を閉じられないようにするように、捧の手で両膝を掴まれてしまう。
「ささぐ、さ、やだ、それ、嫌だ……っ」
 彼が何をしようとしているのか分かって、それを止めようとした。それでも、彼はわずかに顔を上げて笑うだけで、コウの制止を聞いてくれそうにもなかった。
「っ、あ!」
 捧にそんなことをさせるのは、彼を汚すようで嫌だった。それなのに、彼はなんの躊躇いもなく、コウの内股に数度唇で触れたあと、そのまま熱を持つ中心を口腔に含んでしまう。舌を使って舐め上げるその動きが、さっきまでコウが捧の指に施していたのとよく似ていて、まるで仕返しされているような気分になる。きつく吸い上げられたかと思うと緩められ、尖らせた舌で先端の方を突くようにされると身体が跳ねて、あられもない声を押さえるために自分の手の甲に歯を立てた。
「ふ、ぁ……っ!」
 跳ねる身体を宥めるように、口での愛撫はそのままで、手のひらで会陰部を撫でられる。ぞわりと全身に鳥肌が立つような感覚が走って、抑えきれずに声が溢れた。
「捧さん、やだ、も、」
「出したい?」
 泣き出しそうな、情けない声でそう訴えると、捧は口を離して、いつものように静かで淡い微笑みを見せた。綺麗で清らかで、とても、こんな淫らなことをしている最中の人とは思えないその笑みに、痙攣するようにがくがくと頷く。コウのその様を見て、捧は一度、嬉しそうに笑った。許してくれるのかと思い安堵しかけて、次の瞬間、息を詰める。
「は……!」
「まだ駄目。もう少し我慢して、コウ」
 低くそう囁かれ、強い力で根本を握り込まれる。出口を求めてわだかまっていた熱が、行き場を無くして逆流したように、全身を走る。反対の手の指が口の中に割入られて、呑みこめない唾液が口の端から零れた。指の腹で舌を撫でられて、それに応じるようにそれを咥えて舐め、濡らした。捧はよく出来ましたとでもいいたげに微笑み、濡れたその指先で、足を広げて晒したままの窄まりを慣らし始める。
「熱いな」
 満足気に漏らされる呟きに、耳が熱くなった。説明されなくても、自分のそこが蠢いて、慣らし広げるその指を奥へと誘おうとしているのがよく分かった。
「おれが、欲しい?」
 指を増やされ、悪戯に敏感な凝りを弾くようにされて、コウは答えることもままならなくて、目に涙を滲ませながら震えて頷く。
「ふ、ぁ」
「可愛い、コウ」
 寝間着代わりに貸した浴衣の腰紐を緩めるばかりで、捧はコウと同じようには肌を出さない。それが口惜しくて、掻き抱く腕で何度か剥がそうとした。それでもすぐに、その腕も掴まえられてしまう。
 十分にほぐれた後孔に熱があてがわれただけで、これから襲われる快楽を想像して腰が疼く。精を出せないようにと堰き止められているため、体温は上がる一方で苦しいほどだった。
「コウ、……おれを、」
 あてがわれた灼熱を、少しずつ埋められていく中で、そんな声が聞こえた。
「っ……あ!」
 ゆっくりと身体を割り開かれ、犯されていく。どれだけ性急で意地悪な求められ方をしても、この瞬間ばかりは捧はいつも優しく、慎重だった。コウの反応をうかがうようにしながら、時間を掛けて、奥まで埋める。
 捧は苦しさを逃がすために深く息をするコウを見下ろし、汗で張り付く前髪を払ってくれる。そのまま、内緒話をするように、囁かれた。
「おれを、殺してくれる?」
「……、え、……なに、言っ、て」
「コウが雨夜の血を引いていると、あの男が教えてくれた。おれが、おまえに羽を捧げることが出来ると」
「や、だ」
 こんな時に何を言い出すのだろうと思いながらも、必死に首を振る。そんなこと、絶対にしないと決めた。例え、捧が望んだとしても。それだけは絶対にしない。だから、まるで期待するように答えを待つ捧に、そう告げた。
「絶対に、そんなこと、しない」
 捧は哀しむだろうかと、そう思った。けれど、彼はコウの返事を聞いて、何故かまた、微笑んだ。雨夜の当主の言葉を聞いた時に見せた、あの素直な、喜びに満ちた表情だった。
「そうだと思った」
 まるで自分の予想が当たっていたのが嬉しかったように、笑って、耳の付け根から首筋にかけて、何度も噛みつくように強く口づけられる。コウの根元を戒めていた指も今は離れて、穿たれるもので軽く揺さぶられるだけで、先から堪え切れずに精が漏れた。もっと、強く貫いて、滅茶苦茶にしてほしかった。そんなおかしなことを、言うのではなくて。なにもかもを忘れて、この人の中に溺れてしまいたかった。
「おれは、コウが嫌がることをしたくない。コウは、優しいから」
 ひとが死ぬことを嫌がるコウなら、きっとそう答えるだろうと思った、と捧はコウの耳元で笑う。
「そ、んな、……ひ、あぁっ!」
 それは違うと言おうとして、言葉は嬌声に変わる。コウを黙らせようとするように開始された抽挿で、中を擦られる度、声を上げてしまう。こんなことではなくて、もっと、言わなくてはいけないことがある。それはコウが優しいからではなくて、当たり前のことなのだと、そう教えなくてはならないのに。
「だけど、おれも、コウのものに、なれるから」
 壊されそうな程、乱暴に抜き差しされて、最も弱い部分を掠められると頭が真っ白になった。腰を打ちつけられながら、捧の声が、まるで泣くように少しだけ震えているのを聞いた。顔を見たくても、覆い被さるように抱かれているので、見られなかった。
「おれの『狩り』で、……コウのことも、守れる、から」
 乱れる呼吸のさなかに、捧がそんな風に呟いた。
「っ、ぁ、あ……っ!」
 潰されそうに強く抱かれ、身体の奥に熱い迸りを受けたのを感じる。その蕩けるような感覚に身を震わせて、コウも果てた。荒い息を繰り返しながら、力の入らない指先で、捧の両頬を掴んだ。
「だめだよ」
 泣きそうな気分になりながら、その顔を見る。捧はコウの顔を見下ろして、微笑んだ。どこか弱い笑みではあったけれど、いつものような、あの哀しい目では無かった。彼は選んだのだと、そんなことを思った。
「だめだよ、そんなの……」
 守る、と彼は言った。それはつまり、儀式のことを言っているのだろう。蝶を捧げなければ、花羽も雨夜も、両方の一族に連なる者が死に絶えて滅びる。それはつまり、その中に、コウも含まれているということだ。だから、そうさせないためにも、「狩り」を。
「……おれは、コウに守って貰ってばかりだった。何かあると、コウがいつもおれを背中に庇って、守ろうとしてくれた。おれよりも小さい身体で、たくさん、痛い思いや辛い目に遭って耐えているコウに、何も出来なかった」
 だから、と捧は微笑む。そんなことはないと言おうとして、けれども胸が詰まってしまって、何も言えなくなってしまった。愛おしむ目で見られて、髪を撫でられて、行為の余韻の残る、熱い腕に抱かれる。
「今度はおれが、コウを守るから」
 その純粋な喜びの正体に、もう、何も口を挟むことは出来なかった。


 眠ってはならないと、そう言い聞かせたはずだった。予感はあった。花羽未月が大人しく帰って行ったことや、関わるなと言ってきた癖に、八木が捧を帰さなかったこと。そして捧の言葉を聞いて、決して目を離してはならないと、そう決めたはずだったのに。
 しっかり握り締めていたはずの手は、いつの間にか、空になっていた。
 起き上がり、隣を探る。着た覚えのない寝間着をまた、いつの間にか着ていた。この間は間違えなかったのに、今度はそれとは違うボタンで前を止めるものだったせいか、また、いくつかボタンが掛け違っていた。
「捧さん」
 この間は、部屋を出て、いつの間にか下宿人の八木と挨拶をしていた。部屋を出て、廊下を足音を立てて駆け、居間を探す。台所にも、洗面所にも、どこにもいなかった。玄関の、彼の履物がなくなっていた。
 立ち尽くしているところで、後からかかる声があった。
「おはよう、コウくん」
 振り向いて、声の主を見る。八木が、痛ましいものを見る目で、コウを見ていた。
「なんだい、その格好。ボタン、ずれてるよ」
 苦笑して、直そうと思ったのだろう、手を伸ばしてくる。その手を弾いて、仕事に行くつもりだったのか、スーツを着て身支度を整えた八木に、言葉を投げつける。
「八木さんが、連れて行ったのか」
「違うよ。彼の意志だ。自分自身で、ここを出て花羽の家に帰ることを決めたんだ」
「うそだ」
「嘘じゃない。だから未月くんも、最後の一晩を与えてくれた。……おれはきみのことを頼まれてる」
 コウに同情しているのだろう。内容はともかく、八木の声は優しい、いたわるような物言いだった。それが、余計に嫌だった。当たり散らして、怒鳴ることも出来ない。
 玄関にはコウと八木の靴しか並んでいない。まるで何事もなかったような、これまでとまったく変わらない、ただそれだけの光景だった。そんなものにさえ、無かったことにされようとしているようで、目を背けた。
「最後まで、傍にいるって言ったのに」
 なにが捧の、ほんとうの望みだったのだろう。
(「おれを、殺してくれる?」)
 コウが、それを拒んだからだろうか。ひとを殺すのは嫌だろうから、と、捧はそう言って笑っていた。だから彼は、コウを守ることを選んだ。花羽家に戻ったのは「狩り」の儀式のためだ。魂を捧げて、白の家も黒の家も、無事に存続していくために、殺されに。
 忘れなさい、と、八木がうなだれるコウを見て、そんな風に言うのが聞こえた。
 掛け違えて、余った一番下のボタン。きちんと整えて直してくれた、コウの制服のネクタイ。面白いかと尋ねて、頷いていた数学の教科書。良いものをあげる、とくれた、赤と紫の飴玉。
 一度に、たくさんのことを思い出した。力が抜けて、へたり込むように板張りの床に座り込む。
 檻の存在を、ずっと感じていた。目には見えない、透明な、それでも確実に在る何か。閉じ籠めるそこから自由にしたくて、あの手を取って、連れ出した。自由にした、つもりだったのに。けれども、結局、一歩もその外に出られていなかった。理由は簡単だ。コウ自身も、はじめからその中に居たのだから。
(「しあわせになる」)
 目を細めて、穏やかな低い声で、その拙い願いを読み上げたあの時。
(「……願い事だ」)
 思い出すのは何故だか、あの、下手な字で書かれた、古い七夕飾りの願いごとの言葉だった。


<< 戻    次 >>



月 / 千年の檻 <  かれてふるのはかれのはね <  novel < index