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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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9 「探検は楽しかったかい」 部屋に戻ると、魔術師が待ち構えていた。 退屈そうに机に肘を付いてはいるが、その瞳は相変わらず光り輝いて見える。ツバサが部屋を出た時も似たような姿勢だったから、思ったより時間が経っていないのかもしれない。 「ほとんど人がいなかったんだけど」 「厨房には何人かいるはずだよ。でも確かに、ほかのお屋敷に比べたら使用人の数は格段に少ない。自分たちにできることは自分で、という領主様の考え方もあるけれど」 あるけれど、の先をマティアスは口にしなかった。もしかしたらお金に困っているのでは、という疑りが見透かされているようで、ツバサは落ち着かない気分になる。よその家の事情を邪推するのは良いこととはいえない。 なかば無理矢理、話を変える。 「エルーシャはいつも何をして過ごしてたか知ってる?」 「本を読んだり、手紙を書いたりして過ごしていたようだよ。そこの窓から外を眺めるのも好きだった。鳴き声を真似て、鳥を呼んだりしてね」 この美しい外見に似合う時間の過ごし方だ。かつてのツバサの生活と照らし合わせてもほとんど重ならない。本は年に数冊読めばいいほうで手紙なんて書いたこともない。動物は好きだが、鳥に特別な親しみを感じたこともない。 ほんとうに籠の鳥のようだ、と、そんなことを思ってしまった。外に出ることを許されず、エルーシャはそれで満足していたのだろうか。 「手紙は誰に?」 「近頃は婚約者の皇孫殿下に。あちら様が送ってくるものに対するお返事、だったのだろうけど。毎回すごい贈り物つきでね。宝石やら珍しいお菓子やら、羨ましいったらなかった」 「頼めば譲ってくれたんじゃないか」 なんとなくエルーシャはそれを喜ばなかったように思う。贈り物だけでなく、婚約者そのものも譲れといわれたら喜んで差し出したかもしれない。 「そんな滅相もない。エルーシャもそれなりに喜んではいたよ。ウィラード様の手前、かもしれないけどね」 ほんとうのところは分からない、ということだろう。 ツバサは部屋を見回した。壁の一面が頑丈な書棚になっていて、そこにツバサには読めない文字で書かれた分厚い本が並んでいる。向かい合う壁には大きな窓があって、いまも木の扉が開け放たれている。あとは寝台と書き物机、暖炉がある程度で、ほとんど簡素といってもいい部屋だ。どこにもざくざくと贈られてきたらしき物は見当たらない。 (兄ちゃんにそっくりそのまま渡してた、とかかな……) お菓子は鳥にあげていたのかもしれない。 窓から身を乗り出してみると、太い枝を伸ばしている大きな樹が目に入った。緑の葉が頬をくすぐりそうな近さにある。 ──エルーシャ。 その場所からこちらに呼びかけていた人のことを思い出す。落ち着く声の持ち主だった。 (……カイル) 随分と慣れた調子でここまで昇ってきていた。エルーシャが鳥を呼んでいたというこの窓辺に、彼はああして何度も訪れていたのだろう。屋敷に入ることを禁じられている、と言っていたから、いつも部屋の中には入らずあの夜のような距離で言葉を交わしていたのかもしれない。 ほとんど何も知らない相手なのに、彼のことを思い出すと胸がかすかに痛む。この身体が、カイルという名の青年のことを恋しがっているのが分かる。きっとエルーシャにとって、彼は特別な人なのだ。 会いたい、と思った。はじめてこの身体で過ごした夜以来、彼には会えていない。毒の影響か夜になるとどうにも具合が悪く、身体を起こして窓を開くこともできなかった。 どのくらいの頻度で訪れていたのかは分からないが、今夜は会いに来てくれるだろうか。しかしそれまで、どう時間を潰していいのかも思いつかない。もう体調も万全だ。この狭い部屋にじっとしているだけなんて、ツバサにとっては拷問と同じだった。 「ちょっと外に出てもいい?」 大して期待もせず、マティアスに一応聞いてみる。魔術師は退屈そうに肘を付いた姿勢のまま、思いがけない答えを返してきた。 「できるものならやってみれば」 「ほんと?」 いいんだ、と思わぬ許しを得てツバサは窓枠に手を掛け、力を込めてそこに乗り上げる。……乗り上げようとした。思ったように腕に力が入らず、簡単にできそうな動作がやけに難しい。 「ほうら」 マティアスが妙に得意げな顔でこちらを見ているのが分かる。 悔しさより、いまの自分がどういう状況に置かれているのかを改めて痛感する。服や長い髪がしゃらしゃらと動きづらいのもあるが、何よりこの身体には圧倒的に筋肉が足りていない。ツバサなら簡単にできるはずの動作ひとつが、あまりにも困難だ。 「おっ。頑張るねぇ」 どうにか限界まで力を振り絞って、窓枠に立つところまで辿り着く。それだけの動きでもうか細い腕は痛み始めている。この身体を酷使することに気が引けるが、しばらくは耐えてもらおう。 あとはすぐそこの樹の枝に飛び移るだけだ。エルーシャよりずっと体格の立派だったカイルが乗って無事だったのだから、折れることはないだろう。 問題は、そこまで飛び移る運動神経がこの身体に備わっているかどうかだ。魂が中に入り込んでいるとはいえ、ツバサにとってエルーシャは他人だ。ひとさまの身体を危険な目には遭わせたくないし、怪我もさせたくはない。 「やめておいたら?」 躊躇いを見越したように、こちらを見て魔術師が笑っている。無理だと踏んでいるのか、あるいはどうなろうと構わないと思っているのか、立ち上がろうとさえしない。 「やってみる……っ、うわ!」 足を少し中に踏み出しかけただけで身体がぐらりと揺らぐ。バランスを崩して頭から落下しそうになって、慌てて窓枠を掴んだ。けれど爪の先が引っ掛かっただけで失敗する。 落ちる、と思って頭から血の気がぞっと引いた。 「エルーシャ!」 大声で名前を叫ばれるのと同時に、背後から力強い腕がツバサを抱え込んだ。 ほとんど絶叫のようなその声が誰のものか、すぐに気付く。エルーシャの兄、ウィラードだ。 落ちそうになっていた弟を発見し、その光景に慌てて抱えて室内に引き戻したのだろう。よほど動揺したらしく、なんてことを、と繰り返す声も身体も、細かく震えていた。 「兄さん……」 震える大きな腕に抱き込まれたまま、ツバサは自然とそう口にしていた。エルーシャが相手にどう接していたかはその身体が教えてくれる、とマティアスが言っていたのを思い出す。エルーシャは兄のことをそう呼んでいたようだ。 ウィラードはそれを聞いて、はっと我に返ったらしい。弾かれたように腕を離し、ツバサの、正確にはエルーシャの顔を見て確かめてきた。 「怪我はないか」 その声からは震えはもう消えていた。ひとまず弟の無事を確認できて安心できたらしい。こちらを見る緑色の瞳が、いまにも泣きそうに潤んでいた。 「平気です。心配を掛けるつもりはなかったのですが」 申し訳なく思うツバサの気持ちは、口を開くとそんな言葉になった。エルーシャは兄には敬語で喋っていたらしい。他人行儀、というよりは育ちや家柄の良さのあらわれのように思えた。 ツバサの言葉と見上げる眼差しを受けて、ウィラードは何故か目を逸らした。そのまま、弟ではなく相変わらず肘をついたままの魔術師に矛先を向ける。 「無事なら良い。……マティアス、おまえがついていながら何故あんなことに」 「弟君がどうしてもというので。間もなく昼食の時間でしたし、貴方がすぐにこちらにお顔を出されるのは分かっていました。おれが説得するより領主様に叱っていただいたほうがエルーシャも納得するだろうと思って」 どうやらマティアスはウィラードが現れることを知っていたらしい。昼食の時間、というからには一緒に食事をとる予定だったのだろうか。すぐにウィラードが訪れると分かっていたからこそ、ツバサが無茶しようとしたのを傍観していたのだ。 「どうしても……」 淡々としたマティアスの言葉を受けて、ウィラードは打ちのめされたように呻いた。エルーシャの兄は随分と素直な性質の持ち主のようで、顔にも声にも感情がくっきりと浮かび上がる。どうしても、と聞いて、ウィラードは明らかに悲しんでいた。あまりにも悲しそうだったから、ツバサにもその理由は分かった。 おそらく彼は、エルーシャが窓から身を投げようとしたと思ったのだろう。毒を飲んで死ぬことに失敗したから、今度はそんな方法を選んだのだと。どうしても、の意味をそう捉えたのだ。 それは違うと伝えたくて、首を振る。 「いいえ。外に出たかっただけです」 「外に?」 意外そうな声を上げられる。どうやら生前のエルーシャを知る者にとっては、予想外の発言らしい。この籠の鳥のような生活を、エルーシャは苦にしていなかったということだろうか。 「いけませんか?」 マティアスの術が手助けしてくれているから、おそらく言葉遣いだけは立派にエルーシャに成れているはずだ。しかし本物の彼ならきっと、そんな願いは口にしなかったのだろう。ウィラードはそれを聞いて、どうしたものやら、と言いたげに腕を組んで天を仰いだ。 「しかし」 「放っておくとまた同じことをしますよ。一度こうと決めたら絶対に譲らない、弟君のご気性は領主様もよくご存知でしょう。許すか地下に閉じ込めるか、どちらかしかありません」 「簡単に言うな。そのためのお目付け役だろう」 「おれはあくまでこのお屋敷付きの魔術師です。雇い主はウィラード様、貴方ではありますが、だからといってエルーシャの望みを全て突っぱねて良いものとは考えません」 「だからこそおまえはエルーシャに猛毒を調達した。それが魔術師の考え方なのは分かっている」 「いかにも。ご理解いただけて恐縮です」 マティアスは机に肘をついた姿勢のまま、いっこうに立ち上がる様子も見せない。ウィラードは深いため息を吐いた。 「……わたしがいま何より望むのは、エルーシャの身の安全と幸福だ。おまえがそれを守ってくれるのなら、何をしようと構わない。我が弟には傷ひとつ付けることも許されず、髪の一本も損なわれるべきではない。どうかそれだけは忘れないでくれ」 「承知いたしました」 椅子に腰掛けたまま、芝居じみた仕草で魔術師は礼をする。それを見てまたため息を吐いてから、ウィラードはこちらに向き直った。遣り切れない感情が心にわだかまったままであることは、その揺れる瞳から伝わってくる。 それでもその人は、大きな手のひらを弟の両肩に乗せて優しく告げた。 「なるべく町のものには姿を見られないように。日が暮れる前には必ず戻るように。……気を付けなさい」 「ありがとうございます」 兄さん、と付け加えると、ウィラードは泣き笑いのような顔を見せた。 ここにいるのはエルーシャではないのに、どうやらいまのところ、騙せてしまっている。兄の善良そのものの表情を見ていると、悪いことをしている気持ちになって仕方がなかった。
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