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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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10 話の流れからいって当然のことと思われたが、外出にはお供をつけることが絶対条件だった。 あの護衛に立っていた強そうな人かな、と思っていたが、「じゃあ行こうか」と軽く声をかけてきたのはマティアスだった。あんな態度を取っていても、ウィラードにある程度信頼されているらしい。人間的には問題があっても、魔術師としての腕が確かなのかもしれない。 面識のない相手よりは気が楽だ。それに、マティアスにはちょうど聞きたいこともあった。 白い一枚布のような上着を渡され、それを頭から被る。全身をすっぽり覆うような格好になり、大きなフードは顔のほとんどを隠した。着慣れないその服装に、ツバサはウィラードの言葉を思い出す。 (姿を見られないように……) エルーシャの容姿が美しすぎるから、それを隠すため、だろうか。しかしこんな格好では、逆に目立ってしまわないだろうか。 長すぎる髪の扱いに慣れず、せめてひとまとめにするため紐か何かを借りられないだろうか、と頼んだところ、ウィラードは渋い顔をした。 ――兄さん。 このままでは動きづらくてかなわない。どうかお願いします、という気持ちを込めてウィラードの顔をじっと見つめると、兄は気まずそうな表情をして目をそらした。 ――緩く結うように。ソール様はおまえの髪を美しいと、たいへんお気に入りのご様子だから……。 渋々、といった様子ではあったが、そう言って手触りのよい天鵞絨の紐を渡してくれた。 おそらく話の流れ的に、ソール様、というのが婚約者の名前だろう。 領主であるというウィラードより、ずいぶん身分の高い相手のようだ。たかが髪を結ぶ程度のことにそんなに渋るのも、その男がエルーシャの髪を気に入っているのが理由らしい。癖などつけられたくない、ということだろうか。 だとしたら髪をここまで長く伸ばしているのも、その婚約者の要望なのかもしれない。エルーシャ自身がどう考えていたのかは分からないが、自分の身体の一部分について他人の望むようにしなければならないなんて、ツバサには窮屈で仕方がなかった。 その窮屈さの象徴のような屋敷から外に出られて、ツバサは一気に気持ちが明るくなるのを感じた。 「ほら、こっち。きみはどうしても目立つんだ、もう少し気配を潜められるよう努力しなさい」 久しぶりに全身に光を浴びられる。解放感から身体を大きく伸ばしていると、マティアスに呆れた声で注意される。屋敷の方を振り向くと、門のすぐそばでウィラードがこちらを見ているのが分かった。それに小さく、礼のつもりで頭を下げる。気をつけなさい、と念を押すように、エルーシャの兄は片手をあげて応じてくれた。 悪い人ではない、と、改めて先ほどのやりとりを思い返しながら感じる。しかし同時に、婚約者の思惑をエルーシャ本人の意志よりも優先しているらしい、こともなんとなく伝わってきた。 「どうしてエルーシャは外に出られなかったんだ?」 抜け出た屋敷は高い石塀で囲まれていたようだった。そこから少しずつ遠ざかりながら、先を歩くマティアスに確かめる。 「これから分かるよ。頼むからもう少し落ち着いて歩いてくれないかな。転んで怪我でもされたら責任を負うのはおれなんだから」 苦言を呈されるが、落ち着いて、なんて無理な話だった。だってようやく、外の空気に全身触れることができたのだ。どのくらいあんな生活を続けていたのかは分からないが、エルーシャの身体だってそれを喜んでいる。そんな気がした。 顔は出せないので、せめて手のひらをいっぱいに開いて降り注ぐ光を受け止める。ぽかぽかとあたたかかった。それだけで幸福な気持ちになる。被ったフードが落ちそうになるのもお構いなしに、ツバサは上空を見上げた。 空は青く、そこに目映く輝く光の塊も存在している。あれは太陽、でいいのだろうか。空気はほんの少し甘く、生きていた頃、田舎に行った時の記憶を思い起こさせる。草の匂いだろうか。やわらかい靴が踏みしめるのは剥き出しの地面で、土の色も感触も、ツバサの知っているものとほとんど変わらない。目の前に広がっている世界は、ツバサのかつて暮らしていたところによく似ていた。ただし機械や人工物――車や信号機やコンクリート造りの建物、が一切存在していない。 屋敷はどうやら小高い場所に建っているらしい。緩やかな坂になっている道を下っていくと、町、と呼ばれているらしい場所が少しずつ見えてきた。ちらほらと動くものが見えて、ツバサはにわかに緊張する。人だ。 「エルーシャ」 囁くようにマティアスに名前を呼ばれ、顔をできるだけ隠すよう被った布を直された。町のものに姿を見られないように、とウィラードが言っていた。こんなに美しい姿をしているのに、なぜそれを人前から隠さなければいけないのか、ツバサにはその理由がまだ分からなかった。 農作物を育てているのだろうか。素朴な造りの石造りの建物の間に背の低い緑色の葉がいくつも植えられている。ファンタジーの世界というよりはむしろ、少し昔のヨーロッパをイメージした方が近いのかもしれない。そんな、見も知りもしないのにどこか懐かしい風景だった。 そこに集まって、建物と同じように素朴な服装の人たちが数人集まって何やら作業をしていた。男もいるし、女もいる。髪の色は黒から茶色までさまざまだ。ツバサが異世界と聞いて想像するような奇抜な色合いの持ち主はいないようだった。 そのうちのひとりが、こちらの気配に気づいたらしく顔をあげる。距離があるのでその表情までは分からないが、はっと動きを強張らせたことは分かった。思いがけないものを見た、といった様子の人は、すぐに顔を伏せて近くにいた人々に何やら声をかける。それを受けて、そばにいた人々もこちらを見てきた。 ツバサは被ったフードの下から見返そうとした。すると、それから逃れるようにすぐに顔をそらされてしまった。あまり気分のよい反応ではない。 それきり、ちらちら目線を投げかけられるだけで、こちらに近づこうとする様子もなかったし挨拶をしてくれそうにもなかった。 ツバサは隣で同じものを見ているマティアスに声をかける。 「あんた、町の人たちにも避けられてるのか」 ウィラードが魔術師のことを「厄介者」と言っていたのを思い出す。見るからにただものではない出で立ちのマティアスは、嫌でも目立つ。その姿を目にして顔をそむけ、ひそひそと囁き合っている。それはまさに、厄介者を目の当たりにした人々の反応に見えた。 しかしマティアスは心外だ、といいたげに肩をすくめてみせる。 「彼らが誰を見ているのか分からないのかい」 皮肉げな声と仕草だった。 ツバサは改めて、ひとかたまりになっている町の人々に目をやる。今度は少しだけフードを下げてみた。視界を広くしたかったのだが、そうすると同時に顔を晒すことになる。 遠くで目の合った人が、口元を両手で覆う。声を上げてしまったのを抑えようとした、ように見えた。怯えた仕草だった。 (おれを……エルーシャを見てる?) 彼らははっきりと、ツバサの姿を見ていた。そのうえで、見てはいけないものを見てしまった、といいたげに忌々しそうな顔をしている。 できるだけ顔を見られないように、というウィラードの言葉を思い出す。あれは、こういう目に遭うから、だったのだろうか。 「ほら、行くよ。行きたいところがあるんだろう」 「あ……、うん」 ここで立ち止まっていてもどうにもならない。マティアスに促され、ツバサは彼のあとに続いた。 カイルという男に会いたい、という話はしていない。それでも魔術師は、ツバサが何を求めているのかすでに把握しているようだった。しょせん手のひらの上、ということなのかもしれない。 しかし案内してもらわなければツバサはどこにも行けない。なにしろここは、生まれ育った場所とはまったく別の見知らぬ世界なのだ。 その見知らぬ場所で、会ったこともない人々から遠巻きにされてひそひそと(おそらく)良からぬことを囁かれている。たとえ知らない相手でも、気が滅入った。まだ遠くから視線で追われているのを感じる。 「あれは、いったい」 どういう理由があってあんな反応をとられるのか、とマティアスに尋ねてみようとした。すべて言い終わるより先に、マティアスは足を止めないままさらりと答えてくる。 「皆、きみが恐ろしいのさ」 「恐ろしい?」 その言葉はツバサには理解できなかった。まだこちらの世界に来てから日は浅いが、これまでに出会った人たちと比較しても、エルーシャが特別恐れられるような何かを持った存在には思えない。強いていうならば、顔立ちが際だって美しいことぐらいだろうか。 「顔がきれいすぎるから、とか?」 「まさか。美しいものはどの世界でも愛されるものだ。きみのいた世界だってそうだろう」 美しさが恐怖の対象になる世界だというのならば話は分かるが、そういうわけでもないらしい。しかし遠巻きにしている人々の反応は、およそ、美しいものを前にしたから、とは思えない。どちらかというと。 (……化け物、みたいな) そんな気がした。 行こう、ともう一度マティアスに促される。曖昧に頷いて、心持ち重くなった足を進めた。 どちらも無言のまま、しばらく舗装されていない道を歩いた。気分晴れ晴れ、とまではいえないが、それでも身体を動かせることがツバサには嬉しい。 こういう性質が魂に由来するものでないのなら、エルーシャも歩いたり走ったりが好きな人なのかもしれない。それならあの籠の鳥生活は身体にも心にも良くないよな、とそんなことを考えていた時だった。 前を歩いていたマティアスが立ち止まる。並んで歩くと意外なくらい上背のある魔術師の姿に隠れ、ツバサからその先は見えなかった。 「ちょうどよかった。この町の司祭様だ。ご挨拶を、エルーシャ」 どこか不自然さのある明るい声で言われ、肩を抱かれるように押し出される。有無を言わせぬ仕草だった。 「ご挨拶って」 「いいから。顔を見せて、頭でも下げておきなさい」 小声で抗議すると、同じく小声で言い返される。 偉い人、なのだろうか。よく分からないから、言われたとおりにすることにした。 マティアスの言う司祭様らしき人が、ふたりの前に立ちはだかっていた。 司祭、とは神に仕える人の役職だった気がする。この世界の神がどういった存在なのかは分からないが、いま目の前に立っている人の服装はツバサが聖職者と聞いて思い浮かべるものに近かった。黒い詰め襟の服は、どこか懐かしの学生服にも似ている。 司祭や神父というと、何もかもを許し受け入れてくれる物静かで穏やかな雰囲気を思い浮かべる。しかしその人の浮かべている表情は、穏やかとはほど遠かった。初老といって差し支えのない年齢に見える司祭は、眉間にくっきりと皺を刻ませてこちらを睨み付けている。 明らかに、不機嫌そうだった。 「こんにちは」 とりあえず頭を下げる。そんなつもりはなかったのに、なぜかふてくされているような声になってしまう。エルーシャの身体としての反応なのかもしれない。 自分のいる身体から出たその声と、こちらをひたと睨み付けている人の顔だけで、じゅうぶん伝わってくるものがある。関係が良好ではない。 その直感を裏付けるように、司祭は手にしていた何かを振りかざした。 「悪魔め!」 振り上げられた腕も、嫌悪感に満ちていたその声も震えていた。投げつけられる声と同時に、ばしゃりと音を立ててツバサに襲いかかるものがあった。震えるその手にあるのは硝子瓶らしい。そこに入っていた水をかけられた、ようだった。避ける間もなかった。 「忌々しい悪魔、早く消え失せるがいい……!」 声が震えているのは恐怖からではなく、どうやら怒りのあまり、のようだった。真っ赤に紅潮した顔色で、司祭は口早にツバサを罵る。 「仰せのとおり、失礼いたします。ご機嫌よう」 何事もなかったように、にこやかにマティアスが応じる。芝居じみた一礼をしながら、ツバサの顔を隠すために再びフードを被らせる。 濡れた前髪から水の雫がぽたぽた落ちる。呆気にとられて、何も言えなかった。ほら行くよ、とマティアスが背を押してくるままに、ぎこちなく足を動かす。 焼け付くような睨み付ける眼差しが、いつまでも背中を追いかけてくるのを感じた。 「いや参った。参ったね、ほんと。冷たいだろうけどもう少し我慢してくれるかな。とりあえずここから離れないと」 ちっとも参っていなさそうな口調で、マティアスが言う。 「おれは、何を」 何をしたのだ、と言いたかった。道を歩いて顔を見せて挨拶をしただけで、ひそひそと陰口を言われ罵られ水をかけられて、もう散々だった。 ツバサの呆然とした独り言を、魔術師は違う意味でとらえたようだった。 「聖水だろうね。まぁ口に入っても害のあるものではないから」 「こうなることが分かっていて、挨拶させたのか」 「自分がどう思われているのかを知りたかったんだろう。あれが答えだよ」 投げつけられた、悪魔、という言葉が耳に蘇る。心の底から憎んでいる、とでも言いたげな声だった。忌々しい悪魔だから、聖水で清めようとしたのだろうか。 ――皆、きみが恐ろしいのさ。 マティアスはそう言っていた。ほんとうにそうなのだろう、と、たったあれだけの短い時間で、理解できてしまった。 首筋から入り込んだ水が背筋を伝って落ちる。寒い、と思った。
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