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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
11


 陰口を言われ水をかけられ、いったい目的地に着くまでにどんな目に遭うのか、とツバサは不安だった。
 しかし司祭を最後に、そこから先の道では誰にも会わなかった。人影はないのにじっとりと背中に張り付くような視線を感じてはいたから、もしかしたら皆、隠れてこちらを見ていたのかもしれない。
 舗装されていない道を歩き続けて、建物や畑といったひとの暮らしがうかがえるものが徐々に少なくなっていく。どうやらずいぶんと町外れまで来たようだった。
 頭から浴びせられた水は体を異様なほど冷やし、ツバサは歩きながら何度もくしゃみをした。羽織った上衣の濡れていない部分で顔を拭う程度のことしかできない。何でも持っていそうで何でも出来そうなマティアスは、まったくの無反応だった。頼まれない限りは手を出さない主義なのかもしれない。
(ほんとは聞いてみたいことがあったんだけど)
 ほんの少し風を感じただけで、その冷たさに身体が震えてしまう。歩き慣れていないのか、寒さのせいか、足が重くて思うように動かせない。屋敷を出た時はマティアスに聞きたいことがあったのだが、いまは歩くだけで精一杯だった。痩せているし筋肉のつきにくそうな身体だ、と思ってはいたが、エルーシャは想像以上に体力の乏しい人間らしい。あんな引きこもりのような生活をしているのだから、当然なのかもしれないが。
 とにかく先を歩くマティアスに追いつかなければ、と必死で足を進めた。
「あれだよ」
 魔術師が足を止める。顔をあげて彼の指さす方を見ると、何もない広々とした草原の中に木造の建物があった。草の緑と木の茶色だけでなく、そこにふわふわと目に入る白い色がいくつもある。簡素な木の枠に囲われた中に、もこもことした白い動物がたくさんいた。
(そういえば、あのカイルって人が何か言ってたっけ)
 確か、町の子どもたちはおろか飼っている羊たちにさえ馬鹿にされていた、と話していた。事情は何一つ分からなかったが、その言葉はやけに印象に残っている。あれがこの世界の羊なら、ツバサの知っている生きものとほとんど同じだ。
「おや。相変わらず、鈍いのか鋭いのか分からない男だな」
 隣でマティアスが息を漏らすように笑う。羊を見ていたツバサが彼の目線を追うと、ちょうど、建物の中から背の高い男がひとり出てきたところのようだった。町で見かけたほかの人々と同様、素朴な服を身につけている。少し離れた場所から見ていても、姿勢の良さがよく分かった。
「あれはカイル。エルーシャのたったひとりの友人だ」
 マティアスの声は離れているカイルには届かなかっただろう。それでも彼は、魔術師の言葉に応じるように手を上げて笑顔を見せた。普段は冷たそうに見えるその顔が、笑うと驚くくらい優しくなるのが、こんなに離れているのに何故か手に取るように分かった。
 懐かしい、とわけもなくそう思った。寒さに凍える身体のうちで、胸が弱い火を抱いたようにあたたかくなる。
 これはエルーシャの身体が抱く感情だろうか。あるいは彼がこの世界で最初にツバサに優しくしてくれた人だから、なのかもしれない。たとえツバサ自身に向けられた優しさではないと知っていても、何も分からない見知らぬ場所で触れた人の優しさは特別なものだった。
「エルーシャじゃないか、珍しい。身体はもういいのか」
 カイルが駆け寄ってくる。声は穏やかに低く、聞いていて心地がよい。その声が嬉しそうに弾んでいた。
 ツバサが何を言ったらいいか分からずにいると、マティアスが口を開く。
「どうしても外に出せと、きみに会いたいあまり暴れてね。ウィラード様もおれもお手上げだ。気の済むまでお相手してあげてくれないか」
「暴れてはいないだろ」
「いずれ暴れただろう」
 事実を脚色されたので口を挟んだが、魔術師はすました顔でツバサの背をカイルの方にそっと押しやる。
 ふたりのやり取りを聞いて、カイルが声を立てずに静かに笑った。エルーシャらしくない、と違和感を持たれている様子はなかった。もともとエルーシャとマティアスはこういった会話をしていたのかもしれない。
「カイル、きみがエルーシャを日が沈むまでに送り届けてくれないか」
「おれが?」
「そう。おれはこう見えても忙しい身でね。きみたちが仲良く遊んでいるのを見守る必要も感じないし、先に屋敷に戻らせてもらうよ」
「ウィラード様がお許しにならないだろう」
「この町にきみ以上に頼りになる人間がどこにいる? 領主様だってそのことは嫌というほどご存じさ。現におれがついていたって、エルーシャはこのとおり司祭様にひどい目に遭わされたからね」
 きみなら身を挺してでも守っただろう、という言葉を聞いて、カイルはツバサを確かめるように見てきた。ずぶ濡れなのが分かったのだろう。慌てて、自分の着ていた服を一枚脱いで肩から覆いかけてくれる。
「ひどい目には遭ってない。水をかけられただけだよ」
「おまえは何もしていないだろう。そんな相手に突然水をかけるなんてまともじゃない」
 何もしていないのに、とカイルはもう一度繰り返す。悔しさを静かに噛みしめるような声だった。
(いいやつ)
 布一枚を重ねただけなのに、その一枚が驚くくらいあたたかい。髪も肌も着ている服も濡れているのは変わらないのに、大きな火のそばに身を寄せているような安堵感があった。
「それじゃ、あとはよろしく」
 お役ごめん、とばかりにマティアスが背を向けて立ち去ってしまう。魔法で消えたりするのかとその背中を見送っていたが、案外普通に歩いて帰って行った。
 なんとなく拍子抜けしたような気持ちでいると、苦笑するカイルに手招かれる。
「……服を乾かそう。こちらへ、エルーシャ」
 羊たちの柵の近くに小ぶりな建物があって、そこに通される。倉庫にしている小屋らしく、中には何に使うのか分からない道具が並んでいた。
 かわりの服を手渡され、いったんそれに着替えるようカイルに言われる。
「外で待ってる」
 貸してくれたのはおそらく、カイルの服なのだろう。全体的にふたまわりほどサイズが大きい。歳はどのくらい離れているのだろう。ただの勘だが、ほぼ同じくらい、のような気がした。それなのにこの体格の違いよ、と思っていると、カイルはさっと小屋を出て行ってしまった。
 同性の友人であっても着替えるところは見ない、という気遣いだろうか。紳士だ。
 服だけでなく身体を拭くための布巾も添えられている。ありがたくそれで濡れたところを拭い、乾いた服に着替える。ほっとひとごこちつくが、身体の芯は冷えきっていて指先がうまく動かせないほどだった。
「ありがと……」
 重たい指で木の扉を押し開け、外に出る。カイルは濡れた服を受け取り、少し待っていてくれ、とどこかに行ってしまう。残されたツバサは、木の柵越しに羊たちを眺める。
 羊たちは白くてもこもことしていて、近くに寄るとめえと鳴いた。動物園のような匂いも懐かしい。もしかしたら毛の手触りや蹄のかたちなどが違っているのかもしれないが、ぱっと見はツバサの知っている羊とほぼ一致する。
 別の世界ではあるが、似通う部分も多いのかもしれない、とそれに安心しているとカイルが戻ってきた。服をどこかで干してきたのだろう。代わりに木製のカップを手にしている。
 これを、と差し出され受け取ると、そこには透明な液体が満たされていた。頬に触れる湯気の熱があたたかい。飲めってことかな、とおそるおそる口をつける。適度にあたためられたお湯だった。冷え切って強ばっていた身体が、中からじんわりほどけていく。
 お湯を飲むツバサの様子を、すぐ近くでカイルが見守っている眼差しを感じた。どこかいたましいものを見るような、優しさと心配の両方を含む視線だった。彼はこちらの顔を見て、わずかに安堵したようだった。
「少し顔色が戻ったな」
 きっとそんな目にならずにはいられないほど、真っ白な顔をしていたのだろう。
「うん……」
 聞きたいことがたくさんあったはずなのに、いざとなると何を話していいのか分からない。ただ、ツバサの心の中には純粋な信頼のようなものがすでにあった。
 司祭に水をかけられて、とそれだけ話しただけでカイルは事情を理解した様子だった。エルーシャは町の人々に避けられ、悪魔と罵られていた。きっとあれは、今日に限った出来事ではないのだ。
 そんな中でこの誠実で優しそうな友人の存在は、どれだけ救いになっていただろう。兄である領主の意向か、屋敷からもほとんど出られずに暮らしていたエルーシャを、木登りまでして訪ねてきてくれた。あれもきっと、いつものことだ。
 エルーシャの友人はたったひとりらしい。けれど相手がこの男なら、決して孤独ではなかっただろう。
「羊の世話はいいのか」
「平気だ。おれが気の毒で手伝わせてくれてはいるが、もともと両親たちでほとんどまかなえている。羊たちもおれの言うことはあまり聞いてくれない」
「そんなことないだろ……」
 思わずそう返してしまう。カイルは何も言わず、苦笑するだけだった。少なくとも彼の体感としてはそうなのだろう。両親に気の毒がられ、羊に馬鹿にされるようなことをした、とカイル自身が思っているのは確かなようだった。
 きっとエルーシャはそのあたりのことを、全部知っている。だから何があったのか聞くことはできなかった。
 


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