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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
12


 言葉がうまく見つからずツバサは黙り込んでしまう。カイルはそんな友人の姿を、黙って見守っているようだった。おそらく日頃から口数の多い人間ではないのだろう。
 エルーシャならこの沈黙すら心地よく感じていたのかもしれない。しかしツバサは何か話さねば、と心の中で焦ってしまう。次にいつ会えるか分からない相手なのだ。
(友達ってどんな風に話してたっけ)
 かつての自分のことを考える。親友、と呼んでよいのかは確かめ合ったことがないから分からないが、いちばん仲のよかったカズキのことを思い出してみる。背が高くて、勉強も運動もできて、男女問わずに誰にでも好かれる感じのいいやつだった。自分から進んで前に出るタイプではなかったけれど、気がついたらいろんな人から信頼を寄せられている、という存在だった。その「いいやつ」感はカイルに通じるものがあるかもしれない。ツバサとの身長差も、エルーシャとカイルの差に近い気がする。
 いまカズキに会えたなら、どんな話をしたいだろうか。そう思っていると、無意識のうちに言葉が口をついて出ていた。
「その……心配をかけて悪かった。それを謝りたくて」
 ほんとうにいま伝えられるのなら、とつぜんいなくなってごめん、というところだろうか。
 もしツバサが怪我止まりでしばらく学校を休む程度だったなら、と置き換えてみることにする。たぶん第一声で、そのことを詫びるはずだ。
 その言葉を聞いて、カイルは虚を突かれたような顔をした。
「無事に目を覚ましてくれたからそれでいい。おれに謝るようなことではない」
 その話をされるとは思わなかった、とでも言いたげな表情だった。気がかりではあったけれど、触れてはいけないと避けていたのかもしれない。
「それでも、ごめん」
 考えるより先に、言葉が出てくる。これはもしかしたらエルーシャの身体が伝えようとしているのかもしれない。彼もツバサと同じように、親友に謝りたいのだ。そう思っておくことにする。
 カイルはこちらの言葉を噛みしめるような間を置いたあとに答えた。
「おまえが意味なくあんなことをするとは思えない。きっと、何か理由があるんだろう」
 静かな表情で、静かな声だった。決して思いつきで言ったことではなく、たくさんの時間と思考が積み重ねられた上にある言葉なのだとその静けさで伝わってくる。
 あんなこと。ほかでもない、猛毒を飲んで、自ら命を絶とうとしたこと、だ。何故あんなことを、と嘆いていたウィラードの声を思い出す。きっとカイルもエルーシャの死を知った時、同じように驚いてそれを嘆いただろう。だからこそいま、無事でよかったと心から喜んでくれている。
「話してくれとは言わない。ただ、おれにできることがあるなら何だってする。何度でも言う。おまえの力になりたいんだ」
 それを忘れないでほしい、とカイルは言う。まっすぐな目とともに差し出される、まっすぐな言葉と声だった。いっさいの混じりけのない、純度の高い透明な石を見つめているような気持ちになる。真心が服を着て息をしているような人だと思った。
(ごめん)
 思わず、胸の中で謝ってしまう。エルーシャではなく、ツバサとして彼に謝りたくてたまらなかった。
 彼の救いたかった親友は、実際のところ失われ続けている。そこにツバサの責任はほんとうのところ無いのだが、それでもマティアスの計画の一端を担うことになっているのは事実だ。ツバサは偽りのエルーシャとして、カイルを騙している。
「どうすべきか悩んだが、これはいったん、返しておく」
 カイルはそう言って、白い封筒を差し出した。悩んだ、という言葉がそのままかたちになったような、あちこち皺の入った封筒だった。宛名らしきものは何も書かれていない。溶けた蝋で封がされていて、開封された形跡はなかった。
「これは」
 ツバサには覚えのないものだった。けれどカイルはその反応を違った意味でとらえたのだろう。どこかばつが悪そうな顔を見せる。
「必ず届けると約束したのにすまない。帝都に向かおうと町を出る直前、ウィラード様に呼び戻されて、おまえが……」
 すべて語る前に言葉が途切れる。何らかの記憶がよみがえったのだろう、カイルは口の端を固く結んで、しばらく無言になった。
 ただならぬ表情に、ツバサもなんとなく事情を察する。エルーシャが命を絶とうとした、その日に起こった出来事を語っているのだろう。受け取った手紙を手のひらに乗せる。おそらくこの手紙をカイルに渡したあと、エルーシャは毒を飲んだのだ。
 手紙を届ける、と約束していたカイルは、エルーシャの生命の危機によっていったんそれを保留にしたのだろう。動揺して衝撃を受けて、それどころではなかったのかもしれない。親友があんな目に遭ったのだから仕方がない、とツバサも思う。
 誰に届けてほしいと頼まれた手紙なのだろうか。知りたかったけれど、エルーシャとして尋ねるわけにもいかない。違う理由で無言にならざるを得ないツバサに、カイルは静かに口を開いた。
「一度、考えてみてほしい。その上でやはり届けてほしいと思うなら、今度こそ必ず帝都に届ける。迷いや悩みがあるのならいくらでも聞く。おれでは頼りにならないかもしれないが……」
「そんなことはないよ。ありがとう」
 あれだけ言葉に迷っていたのが嘘のように、気づいたらそう答えていた。カイルがどこか寂しげに微笑む。親友の選んだ道について、何も出来なかった、という後悔があるのかもしれない。何度も繰り返される「力になりたい」はツバサにとってはあたたかく響くけれど、同時に、カイル自身を責める言葉のようにも聞こえた。
「よく考えてみる。悩ませてすまない」
 自然とそんな口調になる。これがエルーシャの話し方なのだろう。ウィラードと話していた時よりも、声も幾分か柔らかい。この身体がカイルを深く信頼して気を許しているのが伝わってくる。
 そうしてくれ、とカイルは穏やかに頷いた。
 手紙を服のポケットに入れる。部屋に戻ったら読んでみよう。文字が判読できるのかどうか分からないが、なんとなく、マティアスにも兄にも内緒にしたほうがよい気がした。誰に宛てたものなのかはカイルしか知らず、書かれた内容はきっとエルーシャしか知らない。
 死ぬつもりだった時に、誰かに託した手紙。遺書、とそんな言葉が胸に浮かんだ。
「……ごめん、少し」
 おさまっていたはずの寒気がふたたび蘇る。水を浴びた時よりずっと深いところが凍えているようで、身体を震わせることもできない。立っていられなくて、カイルに詫びてその場に身をかがめた。
「どうした」
 カイルが膝をついてこちらを伺う。平気だと伝えようとしてどうにか首を振る。声が出せなかった。胸が塞がれたように息が苦しい。大きな手のひらが額に触れるのを感じた。頑丈そうな体格にふさわしい大きな手が、意外なほど柔らかくて涼しくて心地よかった。
「ひどい熱だ。屋敷に戻ろう」
 肩を支えられる。こちらが立てそうにないと判断したのか、カイルはそのままツバサを背負って立ち上がった。そんなことをしてもらわなくても大丈夫だ、と心の中では声を上げたものの、実のところ、息ひとつするのも一苦労だった。
 身体中あちこちが痛くてたまらない。ツバサはこの苦痛を知っていた。はじめてこの身体の中で目覚めた時、声も上げられないほど同じように痛くて苦しくてたまらなかった。解毒剤で消えたはずの、猛毒が全身を襲う痛みだった。
「本調子でない上に身体を冷やしたせいだろう。おれが、長く引き留めすぎた」
 まだ乾ききっていない上着の替わりか、母屋から持ってきた白いシーツをツバサの頭から被せてくれる。顔が見られないように、という気遣いだろう。完全に視界を覆われて、何も見えなくなった。どこもかしこも痛くて息苦しくてたまらない中、いまはそのことに安心してしまう。ありがとう、と伝えたいのに声が出ない。痛みに耐えているだけなのにこめかみを汗が伝い落ちる。
「できるだけ急ぐ。頑張れ」
 ツバサを背負って歩きながら、カイルがそっと声をかけてくれる。穏やかに低い声に励まされ、ツバサはどうにか意識を保っていた。四肢に力が入らず、大きな背中に頬を預ける。どうしてこの声を聞いているとこんなに安心するのだろう。声だけじゃない。身体のどこかを触れあわせているだけで、一緒にいるだけで、不思議なほど心が安らぐ。身体中を絞られるようなひどい苦痛の中でも、この人に触れている部分だけ痛みが安らぐようだった。
 頑張れ、とカイルは歩きながら何度も呼びかけてくれる。かろうじて言葉なくそれに頷き返しながら、広い背中に身を委ねる。服の布越しに、あたたかい温もりが頬に伝わってきた。何故か涙が出そうになる。
 ポケットの中に入れた手紙が、かさりと音を立てたような気がした。エルーシャの遺書。
(……もしも、相手が……)
 霞がかかってぼんやりとした意識の中で、ふと思う。たとえば結婚する相手が、遠く離れた場所に住む身分の高い男ではなくて、カイルだったなら。
(そうだったなら、たぶんエルーシャは死ななかった)
 もしもその相手がカイルならば、彼は死を選ばなかっただろう。そんな、気がした。


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