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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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8 夢も見ずによく眠った。目を覚ましても相変わらずツバサは美少年の身体の中にいた。 しかしそのことにもう絶望はしない。なぜならやってみたいと思うことが、いくつもあるからだ。 ツバサが目を覚ますのを待ち構えていたように、何の前触れもなく部屋の扉を開けてマティアスが入ってくる。 「おはよう、エルーシャ」 きらめく青紫の瞳に光が遊ぶ。魔術師はなにひとつ疑いのない事実を口にするように、その名前でツバサを呼んだ。 「……おはよう」 その不思議な瞳をまっすぐに見返して応える。できることをやる、と決めた。怯む気持ちはどこにもなかった。 魔術師は言葉なく微笑むだけだった。 朝食は昨日と同じものだった。朝だけでなく、エルーシャの食事は昼も夜も似たようなものらしい。薬の味がする水と果物と、昼にはそれに加えてスープが、夜には麦に似た穀物が煮込まれた粥が付け加えられる。 ツバサにとっては泣きたくなるくらい質素な食事だった。本来の身体だったら、食後の数時間ももたず空腹で動けなくなっていた。エルーシャが華奢な身体の持ち主でよかった、と永遠に慣れそうにない味のする水を飲み込みながら思う。このか細い身体だからこそ、これっぽっちの食事で足りるのだろう。そう思っていた。 あれだけの食事で十分な理由に気付いたのは、エルーシャの中で目覚めて三晩が過ぎた日のことだった。 ようやくマティアスが部屋から出ることを許してくれたので、ツバサはお屋敷の中を探検することにした。 決して屋敷から出ないように、と魔術師には念を押された。それはエルーシャの兄の望み、というよりは命令だったらしい。部屋を出てまっすぐに外に出ようと扉に向かおうとしたところ、護衛らしき人物に丁重に退けられてしまった。 「お加減が優れないとうかがっております。お部屋にお戻りください、エルーシャ様」 表情も口調も穏やかだったが、決してここから先は通さない、という明確な仕草で部屋に戻るよう告げられてしまう。どう対応したらいいのか分からず、ツバサはとりあえず引き下がることしかできなかった。 (この風景を知っている気がする) 廊下にも、階段の段ひとつひとつにまできれいに絨毯が敷き詰められている。その上を音もなく歩きながら、ツバサの胸にはそんな思いが浮かんだ。 エルーシャの私室らしい部屋から廊下を抜けて階段を下り、玄関なのだろう大扉まで向かうまで、足は迷いなく進んだ。きっとその道筋を、この身体が数え切れないほど何度も繰り返して辿っている。 お加減が優れない、と今日は押し戻されたが。健康な時ならば、その先に自由に出られたのだろうか。そうではない気がした。 (……これじゃ、まるで) 決して狭いお屋敷ではない。マティアスにどこになにがあるかを教えてもらっているから、この館が以前いた世界でツバサが兄と暮らしていた部屋の何十倍も広いことは重々承知している。その中では自由を許されているのだとしても、けれどそこから出てはいけない。 (監禁。いや、縛られてるわけじゃないから軟禁?) まるで籠の鳥だ。エルーシャが宝石のように美しい人間だからこそ、余計にそんな風に思えてしまう。 なるほど確かにあれだけの食事で足りるわけだ。単純に、動ける範囲が狭いからエネルギーの消費量が少ないのだろう。 そんなことに気付いて、むやみに走りたくなってしまう。エルーシャがどんな性格だったのかは分からないが、ツバサにとっては確実に、ストレスの溜まる環境でしかない。 早くも鬱屈しそうになる気分を宥めたくて、廊下の途中にある窓から外を見る。差し込んでくる光を浴びながら、庭を眺めた。緑の草が好き放題に伸びていて、そこに自然と増えたらしい花がいくつか咲いている。かわいらしい風景ではあったが、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない。むかし見た廃屋の庭みたいだ。 よく見ると床に敷かれた絨毯も、清潔そうに保たれてはいるが若干色があちこち剥げて擦り切れている。これだけ広い館なのに、護衛らしき人物のほか使用人のような者も見ていない。 この立派なお屋敷に住む人々が、身分の高い家柄なのは間違いないだろうが。 (もしかしたら、あまりお金がないのかも) そんなことを思ってしまう。ほんの少し胸が痛んだので、エルーシャももしかしたら同じことを気にかけていたのかもしれない。 (それで政略結婚を?) だとしたら身売りと同じだ。 仲のいい兄弟だったとマティアスが言っていたし、意識を取り戻したエルーシャを前にして目を潤ませていたあの兄が弟思いなのは間違いないだろう。仲の良かった、信頼していた兄がいたツバサだから、そのことは直感で分かる。 (あるのかもしれない) だからこそ、それとこれとは別の話なのかもしれない、ということも分かる。 生きていくためには時々、身を裂くような苦しい選択をしなければならない。ウィラードが家のために最愛の弟を権力者に差し出さなければいけなかったのだとしたら、悲しい話だ。 絶望して毒も飲むというものだろうか。ツバサにはまだそのところは分からなかった。どちらかというとこの場合、政略結婚を望んできた相手の方が悪い奴に思えるな、と感じる程度だった。 情報がまったく足りていなかった。兄のウィラードに会って話してみようか、けれど余計なぼろを出してしまいそうで心配だ、と思っていた時、ふと窓の外の樹に目がとまる。 ふいに胸の中に風が吹いたように涼しさを感じた。凜とした声が耳に蘇る。 ――おれはおまえのためにできることがあるなら、どんなことでもする。 その人の声と言葉を思い出すだけで、ささやかに安心できた。味方がいる。わけもなく、そんな確信がある。 ――それを忘れないでくれ。 あの言葉をくれた人なら、きっとエルーシャの力になってくれるはずだ。
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