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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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7 ――もう大事なことはだいたい話し終わったし、あと必要なのはきみが心を決める時間かな。それじゃ明日からよろしく、エルーシャ。 憎らしいほど清々しい笑顔を見せて、マティアスは部屋を去って行った。 (あいつはむしろ、魔術師じゃなくて詐欺師なのでは) ふつふつと呆れたような怒りが胸に膨れ上がって、そうしてすぐに萎んで消える。何に腹を立てればいいのか、分からなくなっていた。 もう一度目を閉じて眠りに落ちたら、今度こそ悪夢から醒めるだろうか。この期に及んでまだ抵抗する心を抱えながら、ベッドに倒れ込む。 顔をシーツに押しつけてうつ伏せになると、頬にさらさらと長い髪が触れる。 かつての自分ではありえなかったその感覚に憂鬱になりながら、ツバサは枕の下に隠しておいたものを取り出した。 窓の外から渡された、小さなお菓子の包み。この先どうなるか分からない状況だったから、食べ物を取っておくつもりでここに隠しておいたのだ。 (昨日、あの人……カイルが言ってた。ウィラードには内緒だ、って) この屋敷には立ち入れない、と言いながら、それでもエルーシャにひと目会おうと、深い夜の中にたたずんでいた人。 内緒だ、とほんの少しいたずらっぽく笑っていた、透き通った水のような印象の男のことを思い出す。 その清々しい顔立ちを心に描くと、よどんだ胸がすっと涼しくなって、わずかに鬱屈が晴れるような気がした。 (ウィラード。……エルーシャの兄。その男には、こんなものを貰ったことを内緒にしなくちゃいけない。朝の食事だって、薬みたいな水と果物だけだった。食べるものもほかの誰かが決めてる? あの兄が? いい人そうに見えたけど) ウィラードという兄にとって、エルーシャはほんとうに大切な家族だったのだろう。それはツバサにももう十分伝わってきた。 (でも、エルーシャにとっては?) 食べ物を制限し、友人らしき人物も遠ざける。望まない結婚を決めたのも、ウィラードだという。 仲のよい兄弟だったとマティアスは言っていたが、この身体の持ち主は、ほんとうのところ、兄のことをどう思っていたのだろう。敵か、味方か。 問いかけるつもりで、胸に手を当ててみる。手触りのよい布地越しに心臓の鼓動が伝わってきて、そんな当たり前のことにとても不思議な気持ちになった。 ツバサは死んだ。エルーシャという男も死んだ。 でもこの身体と、ツバサの魂はまだ生きて動いている。 相当身分の高いらしい男と結婚する。たったひとつ、その目的のためだけに生かされている。 (そしてそれは、おれが代わりになってやらないといけないこと……) 寝そべっていた身体を起こす。さらりと長い髪が揺れ、頬に流れた。きれいな髪だと、つくづく思う。絹糸のような髪をすくって流す指先も、すんなりと白く細い。軽くキャッチボールしただけでも、簡単にぽきりと折れそうだ。 花嫁として男に望まれるほどの、美しい男。 ツバサは生きていた頃、外見を褒められることはほとんどなかった。背も期待していたほどには伸びず、癖のある髪をいつも短くしていたから、目のくりくりしたお猿さんのようだとよく言われていた。 誰かにそう言われるたび、いつもむきになったふりをして相手に言い返していた。別に心から腹を立てたわけじゃない。ただそんな風にじゃれ合うのが、楽しかったからだ。 誰もいない部屋は、やけに広くて静かだった。そのせいで、空耳が聞こえそうだった。もう会えなくなった人たちの声や、かつての暮らしの風景が、いくつも記憶の中で反響して音になって聞こえる。 放課後、部活が終わったあとに、いつも寄り道して買い食いしたコンビニ。みんなと歩いているうちに、最後にはいちばん仲の良かった友人、カズキとふたりになって、並んで帰った。 夏は夕焼け空の下だったし、冬は息を白くしながら、星空の下、どうでもいいつまらないことばかり話し続けた。 家に帰ると、珍しく早く帰宅していた兄がカレーを作ってくれていた。友達も呼べば、と言われ、さっき別れたばかりのカズキを誘って、三人で一緒にカレーを食べて、またどうでもいい他愛もない話ばかりして、たくさん笑って。 毎日、同じことの繰り返しだった。楽しいのが当たり前の毎日だった。 あの時間にも、あの場所にも、もう二度と戻れない。そう思うと、胸が詰まった。カズキにも、兄にも。 (もう、誰にも会えない) マティアスが言っていた通り、ツバサが死んだのは、避けることのできない運命だったのかもしれない。 そう思えば多少の慰めにはなるだろう。それでも、息がつまるほどの悲しみはあっという間に身体じゅう、指の先まで流れ広がっていく。目に涙が滲んだ。 ツバサのものじゃない、宝石みたいにきれいだった緑色の瞳のことを思い出す。なんだか自分がこの美しい人を泣かせているようで、悪いことをしている気になる。でも悲しい気持ちはどうすることもできず、ごめん、と心の中で謝りながら、ぽろぽろと少しだけ泣いた。 涙の粒が落ちる。宝石みたいな瞳から零れると、涙も透き通った石のようにきれいに光って見えた。 「ごめん」 最後にもう一度、声に出して謝る。自分のものじゃない白い指で、やわらかな頬に伝う涙をぬぐった。 小さな頃から外で遊んでばかりいたせいか、ツバサの頬には、そばかすが点々と浮き出ていた。大人になったら自然と目立たなくなる、と、ひそかに内心で気にしていたツバサに、兄が言ってくれたこともあった。 この頬はあまりに白い。陽の光なんて、浴びたこともないかもしれない。 エルーシャはどんな人間だったのだろう。誇り高い人だったようだから、いまこうして、ツバサという別の男に身体に入られていることも、彼にとっては屈辱だろうか。 だとしたらエルーシャも、ツバサと同じマティアスの被害者だ。話が合ったかもしれない。 叶うことなら、彼と話してみたかった。そんなことを思って、ふたたび、胸に手を当てて語りかけてみる。 「よっぽど、結婚する相手が嫌な男だったのか」 死んだほうがマシだと思うほど、婚約者のことが嫌いだったのだろうか。 それとも、あるいは。 「……ほかに、もっと大事にしたいものがあった?」 たとえば自分の心とか、プライドとか。命と引き換えにしても構わないと思うくらい、彼にとっては大切な何かがあったとしたら。 答えが返ってくるわけもない。分かっていながら、ツバサはエルーシャの胸に問いかけた。 そうだ、と頷くように、心臓が一度、とくんと跳ねた。 「そっか」 錯覚かもしれない。けれど不思議と、それがエルーシャの真意なのだと感じられた。猛毒を飲もうという強い決意を、彼の身体が覚えているのかもしれない。 少なくとも、結婚を嫌がって死ぬという気持ちより、そうすることでしか守れないものがあったのだ、という思いのほうが、ツバサには理解できる気がした。 「それが何なのか、おれには分からないけど、でも」 ツバサとエルーシャは少し似ている、とマティアスが言っていた。兄がいて、友達がいた。いまのところ共通点はそれぐらいしか見つかっていない。姿かたちも育った世界も、たぶん性格だって違うだろうけれど。 「おれはきみにはなれない。きみの家族だって、結婚したがってた相手だって、おれを必要としてるわけじゃない。見た目じゃないだろ、大事なのは」 あの人間性の欠如した魔術師は、中身が別の誰かでもエルーシャが生きていればいいと思っているらしい。それで何もかもうまくいくのだと、ひとり満足そうな顔をしていた。 ツバサはエルーシャではない。彼が兄のことを、友人のことを、彼自身のことさえ、どう思っていたのか何も知らないのだ。好きなものも嫌いなものも、大事な思い出さえ、何ひとつ持っていない。 そんなのは顔が同じなだけの、ただの別人だ。 ――エルーシャ。 夜の闇の中で聞いた、凜とした低い声を思い出す。 少なくとも、あの涼しげな目をしたカイルという男は、ここにほんとうのエルーシャがいないことを悲しむだろう。顔色が優れない、と、それだけのことであんなに心配そうだったのだ。 「だから、やっぱりきみが戻ってくるのがいちばんなんだと思う。嫌かもしれないけど」 エルーシャの魂は身体に戻るのを拒んだ、とマティアスは言っていた。その魂はいまどこにいるのだろう。もしかしたら目に見えないだけで、すぐ近くに存在してツバサを見ているのかもしれない。 とくとくと穏やかに脈打つ鼓動を手のひらに感じながら、彼に聞こえていることを願って話しかける。 「おれが選ばれたのはただの偶然みたいだけど。でもたぶん、生きてるうちにきみのことを知ってたら、死ぬより他に何かできなかったのかって思ったはずだ。だってきみには、いなくなったら悲しむ人たちが……」 ぎゅっと強く握られたように胸が痛んで、言葉は途切れた。 ツバサが家族や友人を思い出すと感じるこの痛みは、きっと、残されたもののことを思ったエルーシャの痛みでもあるはずだ。 「おれに何ができるのかは分からない。でも、少しだけ、考えてみる。だってきみの兄ちゃんも友達も、エルーシャが死んですごく悲しそうだったんだ。かわいそうだろ」 そんなことは出来ないようにしてある、とマティアスは言ってはいたが。もしツバサがこの身体で生きることを放棄したら、エルーシャはどうなるのだろう。今度こそ、完全に死ぬことになるのだろうか。 ひとと死に別れる悲しさを、いまやツバサはよく知っている。もう二度と戻れない世界で、ツバサの兄や友人もきっと同じ悲しみを抱えている。 それをウィラードやカイルが二度も味わうことになるのだと思うと、まだ何も知らない彼らのことでさえ、気の毒でならなかった。たぶん、また泣かせてしまうだろう。次はもう、泣き止むことさえ出来ないかもしれない。 エルーシャには、エルーシャの事情があったのかもしれないが。 「だからおれは、おれにできることがあるか、これから探す。きみも、聞こえてるなら、どうしたいのか考えてみてほしい」 嫌だ嫌だと暴れていたって、たぶん何もはじまらない。 本来ならツバサはもう死んで、その先どうなっていたのか分からない命だ。そもそもこんな荒唐無稽な話、すべてツバサの見ている夢か、幻なのかもしれない。 けれど、いまここにツバサの意識があることだけは確かだ。動く手足も、考える頭もある。だったらツバサは、自分のできることをしたかった。 一緒に頑張ろう、と、マティアスは朗らかに微笑みかけてきたが。ツバサが頑張るべきことがあるとすれば、それはエルーシャの身代わりになって見知らぬ男と結婚することではない気がした。 傷を消してもらったことに関しては心から有難いと思っている。だからその分の恩は返そう。ただしマティアスが望むようなやり方ではなく、ツバサなりに考えて、より良い道がないか探る方法で。 「みんなが、きみを取り戻せるように」 エルーシャというひとりの人間の魂を、この身体の中に正しく取り戻す。 それがたぶん、ツバサのやるべきことだ。他の誰の望みでもなく、自分自身がそうしたいと思ったから。 「少しだけこの身体を借りるよ。よろしく、エルーシャ」
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