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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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6 水と果物だけのささやかな朝食とともに、マティアスから、ツバサに起こった出来事について説明された。 ここはツバサが生まれ育ったのとは、別の世界だということ。 ツバサはほんとうならすでに死んだ人間で、エルーシャという価値ある人物を生かすために、かわりに魂を使われたのだということ。 そういった経緯に加え、ちょうど、エルーシャの家族やこの屋敷について説明されていた時のことだった。 「エルーシャ!」 突然、叫ぶような大声がしたかと思うと、勢いよく部屋の扉が開かれた。 食べ物を残すのはよくない、と、ツバサは朝食に出された果物を、時間をかけて少しずつ口に入れていた。あまりに突然の大声に、驚いてフォークを手から落としてしまう。 大きな声で、大きな物音を立てた男は、大股でずんずんと足を進め、ツバサの前に立った。ずいぶんと大柄な男だ。昨晩のカイルとよく似た服装だったが、全体的にいま目の前にいる男のほうが小ぎれいに見えた。 食事の途中だったツバサを、大男はしばらく無言で見下ろした。金色の髪が、ライオンのたてがみのように骨ばった輪郭を縁取っている。眉間には険しい皺が刻まれていて、やたらと迫力のある顔の男だった。 睨むようにこちらを見ている瞳の色は緑。髪と瞳の色がエルーシャと同じだ、とツバサが気付いた瞬間、それまで棒立ちになっていた大男が、がっくりと膝から崩れた。 「食事がとれるようになったんだな。起きて歩けるようになったんだな! 良かった。ほんとうに良かった……!」 ぐすん、と鼻を鳴らされる。床に膝をついたまま、大男は椅子に座ったツバサを見た。 緑色の瞳が、優しげに潤んで光っていた。ほんとうに良かった、と、その目が笑う。 「ウィラード様、弟君がご心配なのは分かりますが。彼はまだ少しばかり、身体と心が不安定なのです。落ち着くまでは刺激を与えてはいけません」 心から安堵して涙ぐんでいる様子の男に、マティアスが呆れた声をかける。それを聞いて、弾かれたようにウィラードと呼ばれた男は立ち上がった。 「すまん。扉の前に立っていたら、声が聞こえたものだから。つい」 「このとおり徐々に回復しています。いましばらくお時間をいただければ、きっともとどおり、優しく聡明なあなたの弟、エルーシャにまたお会いできますよ」 マティアスは笑顔で語る。その目線はあきらかにツバサに向いていて、それをやるのはおまえだからな、と念を押されているのだと分かった。 「ああ、ありがとうマティアス……! 両親がおまえの身元を引き受けた時は、なんて厄介者を押し付けられたものかと世を憂いたものだ。どうか許してくれ、おまえは最高の魔術師だ」 「この世すべての『厄介』は魔術師から生まれたようなものです。誉め言葉だと受け取っておきましょう」 涙ぐんだ大男は、立ち上がって細めた目でじっくりとツバサを見つめた。 そうして無言のまま何度も力強く頷き、最後にそっと、ツバサの肩に手のひらで触れる。 大きな手が華奢な肩を叩いた。とても大事なものに触れる、あたたかくて優しい手だった。 「明日にはお部屋を出られるようになるでしょう。お話はそれから」 「分かった。邪魔をしてすまなかった。ひと目、エルーシャの顔が見たかっただけだ」 大きな背中を半ば押しやるようにして、マティアスはその男を部屋から追い出した。鬱陶しそうな顔を隠しもしていない。 「あれが兄ちゃん?」 「そう。名前はウィラード。エルーシャより八つ年上の、唯一の肉親だ。ご両親は五年ほど前に亡くなられた。それからはずっと、ふたりきりの家族だ」 「ウィラード……」 その名前は、昨晩、カイルの口からも聞いていた。窓の外にとどまって、小さな菓子を与えてくれた時、これはウィラードには内緒だと彼は笑っていた。 「似てなくない?」 「見た目はね。でもまあ、仲の良い兄弟だったよ、おれの目から見た限りでは。ウィラード様は亡くなった御父上のあとを継いで、若いながらも懸命にこの土地を治めている。それをエルーシャは陰ながらよく支えていた。よそもののおれには入り込めないほど、強い絆があった」 「騙すなんて無理だろ、そんな人」 マティアスは、ツバサにあくまでエルーシャとして振舞わせたいようだった。たぶん、エルーシャ本人の魂を呼び戻せなかったことは、魔術師にとっては「失敗」なのだろう。その失敗を隠すため、エルーシャは身も心ももとどおりなのだと、何もかも上手くいったことにしたいのだ。 そんなのはマティアスの勝手な都合だ。だいいち、ツバサには誰かを騙せるほどの演技の才能はない。ましてやそれほど強い結びつきのあった兄弟なら、中身が別人だと簡単に見抜かれそうだ。 「いやー、大丈夫だろ。ウィラード様はわりかし大雑把だし。それに最近はエルーシャの方が兄を避けていた。嫁入りはエルーシャ本人の意志を問わずに、帝都の連中とウィラード様の間で決められた。信頼していた兄だからこそ、許せないと思う気持ちもあったはずだ。まだ怒ってるってことにして口きかなきゃ大丈夫」 「あんた適当すぎなんだよ、いろいろ」 この男がいることで、救われるものがあって、そしてそれ以上に、悩まされるものがあるのだろう。マティアスは涼しげな顔で、万事うまくいく、とでも言いたげに微笑んでいた。 「邪魔が入ったね。さっきの続きだ。エルーシャがどんな風にこの家で生活していたか。今日からきみが、どう動かなくちゃいけないか。しっかり覚えておいてくれよ」 そうして何事もなかったように、ツバサがエルーシャとして振舞うために必要なことを教える話に戻された。 ツバサには無謀な計画だとしか思えなかった。そもそも育ってきた世界から違うのだ。 そんな思いでいたから、魔術師の話はほとんど耳を通り抜けた。けれど、それを話していたマティアスが相変わらず胡散臭い笑顔を浮かべて、楽しそうだったのはよく覚えている。 きっとツバサの意志なんて必要ない。マティアスにとっては、最初にツバサの魂を拾った時から、こうするものだと決めていたことなのだろう。 その証拠に、魔術師はツバサのほんとうの名前を聞こうともしなかった。たぶん、必要ないのだ。かわりになるなら誰でもよかった、と言っていたくらいなのだから。 「ひとつ聞きたいんだけど」 「うん? 何かな」 屋敷の間取りと、エルーシャがどこをどんな風に利用していたか話していたマティアスを遮る。ツバサにはひとつ、気にかかっていたことがあった。ほんとうにそんなことができるか、できたとして自分がそれを選ぶかどうかは未定だったが。 「おれが何もかもを放り出してここを逃げ出したら、あんたどうするつもりなんだ。それにエルーシャの兄ちゃんや結婚する相手に、おれは偽物で悪いのは全部マティアスだ、ってばらすことだってできる」 ツバサは魂を使われただけだ。そのうえ縁もゆかりもない美少年の身代わりになれと突然言われている。 ほんとうの自分はもう死んでいるのだとしても、じゃあ次はこっちの身体で生きよう、とすんなり切り替えることはできない。選択の余地も与えずその役割を受け入れろというのなら、ずいぶん勝手な話だ。 最後の心残りである傷を消してくれたことについては感謝している。しかしそれとこれとは話が違うだろう。ツバサにだって自分の意志というものがある。 「きみはどこにも行けないさ。なにしろそのご面相だ。行く先々で目立って、どこに行ったとしてもすぐに居場所が分かる」 逃げても無駄だと、魔術師は笑顔で言う。確かにエルーシャの容姿では、多少変装したところで完全に身を隠すことはできないだろう。 「それにもう忘れたのかな? きみはおれと契約したんだよ。『たとえふたたび身体が死んでも、この魂はそれをエルーシャとして生かす』。きみに与えたその約束は、血に混じってもう全身に行きわたっている。目的が達せられるまで、誰かに真実を打ち明けることも、もう一度死を選ぶこともできやしないよ。約束に縛られたその身体が許さないからね」 他愛ない雑談だとでも言いたげに、マティアスはにこやかなままおぞましいことを言う。 解毒剤と引き換えに、マティアスの「お願い」を聞く。息をするのも困難なほどの苦痛から逃れたい一心で、目覚めてすぐのツバサは、この男の強引な誘導にあっさり負けた。 どうやらあれは思った以上に、ツバサの命運を変えてしまうものだったらしい。 「あれは、ただの解毒剤じゃなかったってことか」 「いや飲ませたのはただの解毒剤だけど。その時にきみが『契約します』って頷いて同意したからね。それに乗じて、ついでにちょっとまじないを混ぜただけ」 「だ、大悪人」 「人聞きの悪いことを言うなあ! きみがエルーシャとして不便なく生活できるよう、手助けするのもそのまじないなんだけど。言葉だって分かるし、あともうちょっと馴染めば、エルーシャらしく振る舞えるようになるはずだ。喋り方や相手をどう呼ぶか、きみが悩まなくてもその身体が思い出して助けてくれるさ」 まったく失礼しちゃうな、と言いながらも楽しげに魔術師は笑う。話にならない。 言葉は通じる。でも意思の疎通ができず一方通行だ。宇宙人がいたらこんな存在だっただろうか。 「目的っていうのは?」 「きみが無事に帝都に輿入れすること。おれが面倒を見られるのはそこまでだからね。その先はおれよりもっと質の悪い宮廷の連中がどうにかしてくれるだろうし」 逃げ道はない、ということだろうか。 にこにこ笑顔で語るマティアスを前に、ツバサはエルーシャが感じた絶望をほんの少し理解できた気がした。彼にとっては、死ぬことがたったひとつ自分の意志で選べる自由だったのかもしれない。 もっともその影響で、ツバサがいまこんな目に遭っているわけだが。 「婚約者の皇孫殿下も、好みはあるだろうがたいへんな美丈夫だ。予定どおり嫁げば、きみの生活はおろか、この家どころかこの領地についても、強力な後ろ盾を得られることになる。いいことづくしなんだけどな〜」 マティアスは、いったい何が不満なのか、とでも言いたげな口調だった。 単純に事実だけを見れば、そのとおりなのかもしれない。でも、それを厭ってエルーシャは死を選んだのだ。 「ウィラード様はふたたびエルーシャに会えて、たいそう喜んでおられただろう。それはきみのおかげだ。エルーシャが失われたら、悲しむ人間がたくさんいる。きみはそんな人々を救うことができるんだよ」 肩に置かれた、兄だという人の大きな手のぬくもりを思い出す。 ウィラードは目に涙を浮かべて、とても喜んでいた。それにあの、カイルという優しい友人も。 彼らがエルーシャの死をどれだけ嘆いていたか、ツバサはよく覚えている。ツバサがこの身体の中で目覚めた時、どれだけ安堵して喜んでいたかも。 「騙すわけじゃない。人助けだ。だからおれと一緒にがんばろう?」 反論しようとしたツバサの言葉は、むぐ、と声にならなかった。 それが「エルーシャとして生きる」ことを縛るまじないのせいなのか、あるいはツバサ自身の心が揺れているせいなのか、どちらかは分からなかった。
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