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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
5


 翌朝、マティアスはツバサの顔を見るなり、短く口笛を吹いた。
「さぞかし心細い夜を過ごしたろうなって心配して来てみれば、ずいぶん落ち着いた顔をしてるね。思ってたより気の強い子だったみたいだ」
 開口一番にそんな調子の良いことを言われる。
 この胡散臭い男が一筋縄ではいかない相手だということは、もうじゅうぶん分かっていた。
 有無を言わさず解毒剤を口に含ませ、一方的な「契約」とやらを迫って来た時も、その青紫の瞳はきらきらと明るく輝いていた。どう考えてもまともな人間性の持ち主ではない。
「朝食だよ。ご一緒しても?」
 しかし他に事情を知る人間もいなさそうな現状、この男から聞ける限りのことを引き出さなければならない。ツバサが頷くと、マティアスは手にしていたトレイを部屋の中央のテーブルに置く。
「召し上がれ」
 朝食だと言って出されたのは、白いカップに入った飲み物と、平らな皿に盛りつけられた果物らしきものだけだった。
 果物はツバサの知る林檎や梨に似ていて、瑞々しい甘い香りがした。カップの中身は水のように見える透明な液体だったが、薬が溶けたような苦い匂いが漂っている。
 鼻を近づけて匂いを確かめるツバサを見て、マティアスが笑った。
「これは毎朝、屋敷の調理人がエルーシャに拵えているものだ。今日からこれがきみの朝食だよ」
「これだけ?」
 これではダイエット中の女の子だ。ツバサもどちらかというと朝には弱く、寝起きから食欲旺盛な方ではないが、パンのひとつぐらいは口に入れていた。
 それっぽっちじゃ身体もろくに動かせないだろう、と、毎日のように、兄には言われていた。
(兄ちゃん……)
 水と食べ物を前にして感じる空腹は、かつてツバサが自分の身体を生きていた頃とまったく同じだった。だから、どうしてもその生活を思い出してしまう。何が何だか分からずわぁわぁと混乱していた間は感じずにいられたさまざまな思いが、一気に胸にこみ上げてくる。
「……いただきます」
 手を合わせるツバサの様子を、マティアスが興味深そうに見ていた。
 見ず知らずの食べ物たちを口に含むことに不安がないわけではない。けれどお腹が空いたし、喉も渇いている。何より残してきた兄のことを思い出して、泣きたくなってしまった。自分を誤魔化したくて、未知の食物に手を伸ばす。カップの中の水は、やはり薬のような味がして決して美味しくはなかった。
「説明をまだ聞いてない」
「そうだったね。じゃあ食べながら話そうか。何から聞きたい?」
「最初から全部」
 水は馴染みのない味だった。けれど果物は水気があってひんやりと甘く、空っぽだった胃に優しく染みる。見た目は林檎の実に似ているのに、歯ざわりは熟した柿のように柔らかくて、味は桃に近い。
 果物なんて、ずいぶん久しぶりに食べる気がした。男ふたりの兄弟では、もらい物でもない限りなかなか食卓には並ばない。そのせいか、知らないはずのその味はやけに懐かしく感じられた。
 これは好きかもしれない、と思いながら、ひと口ぶんの大きさに切り分けられた果物を、銀のフォークでゆっくりと口に運ぶ。
「じゃあ簡潔に。まず事の発端はいまから三日前のこと」
 つっけんどんなツバサの言葉に、マティアスは笑った。
「エルーシャというひとりの少年が毒を飲んで死んだ。この屋敷にいる連中には、エルーシャに死なれては困る事情があった。何とかして生き返らせろって、おれが呼ばれた」
 テーブルに片肘をついて、マティアスはにこやかに語りはじめた。
 食欲が一気になくなりそうな話をしているというのに、相変わらずその表情はにこやかで楽しげで、瞳は明るく光っている。
「身体の蘇生は容易かった。けれど残念ながら、肝心の魂が戻らなくて。だから、てきとうな魂を拾ってその身体に押し込んだんだ。それがたまたま、エルーシャとほぼ同じ瞬間に死んだきみだった」
 しゃりしゃりと味わっていた果物が、口の中で急に砂のかたまりに変わったような気がした。無理矢理飲み込んで、フォークを置く。まだ少し果物は残っていたけれど、いまはこれ以上食べられそうになかった。
 ――エルーシャとほぼ同じ瞬間に死んだ。
 分かっていた。きっとそうだろうと、覚悟はしていた。けれど改めて聞かされると、すぐには受け入れられない言葉だった。
「おれは、死んだのか」
「うん。残念ながら。打ちどころが悪かった」
 さすがに、本人の死について触れている時に笑顔はまずいと思ったらしい。神妙な顔をして、マティアスは答えた。
「そっか」
 ほんとに死んじゃったんだな、と心の中で呟く。そうするしかなかった。
 兄と言い争いして家を飛び出したのも、それで階段から落ちて頭を打ったのも、マティアスのせいではない。誰も責められることではなかった。
「おれが言うのもおかしい話だけど。それがきみの定めってやつだったんだよ。たぶんどこかで何か違う選択をしていても、あの時、きみが命を落とす事実は変わらなかった。まぁ多少の誤差はあったかもしれないけど」
 肩を落とすツバサの様子が目に余ったのか、マティアスが慰めてくる。
 その言葉がほんとうなのか、ツバサには確かめる術がない。けれどたとえそれが真実だとしても、もっと心残りのない状態で最後を迎えたかった、という後悔を消すことはできなかった。
「そういえば。……叶えてあげようか、って」
 死の瞬間に、耳元で囁かれた。てきとうな魂を拾った、とマティアスが言っていた。あれが、見つけられ拾い上げられた瞬間だったのかもしれない。
 だったらその言葉も、ツバサに向けられたものだろうか。
「ああ。傷だろう」
 ここの、とマティアスがくるくると指先を回して自らのこめかみを指し示す。右こめかみ。兄と言い争いをしていた最中、割れた硝子で傷つけてしまった。あの傷跡はツバサの心残りそのものだった。
 いずれ倒れたツバサを誰かが見つけてくれて、兄のもとに戻ることはできただろう。冷たくなったツバサを見た時、兄がどんな顔をするだろうと考えただけで、胸が苦しくなる。ツバサは兄の優しくて生真面目な性格をよく知っていた。
 血の流れたあとの残るこめかみの傷は、たぶん兄にとっても深い傷になる。喧嘩をしたまま二度と会えなくなってしまった。それ以上の後悔を抱えさせてしまいそうで、兄の気持ちを想像するだけで辛い。意識を失う直前まで、そのことを考えていたはずだ。
「兄ちゃんが死んだおれを見る前に、あの傷を消すことはできる?」
 魔法とか魔術とか、詳しいことはまったく分からない。けれど別の世界から魂を連れてきて他人の身体に押し込められるのだから、ほかにもツバサの常識では計れないこともできるだろう。やってくれるかどうかは別として。
「できるさ。もう消しておいたよ」
「えっ」
 しかしあっさりとマティアスは頷いた。
「何度もきみの魂に念押しされた。どうかそれだけは、って」
 覚えのないことではあったが、確かに、それはツバサの心からの願いだった。どこか見知らぬ世界に連れて行かれそうだと察知して、それならせめて、と伝え続けていたのかもしれない。
「生まれてから一度も傷ついたこともないかのように、美しく完璧に治しておいたから」
 それなら、誰もそんな傷があったことには気付かないだろう。兄だけが、不思議に思ってその箇所を指で触れてみるかもしれない。
 すべすべにきれいにしてくれたという肌は、きっともう冷たいのだろう。痛みをこらえるような目をした兄の顔が、目に浮かぶ気がした。
 ほんの数秒、目を閉じる。ゆっくりと目を開けて、マティアスを見た。
「……ありがとう」
 礼を言うと、魔術師は珍しいものを見た、とでも言いたげな顔をする。
「なに。あれくらいお安いご用さ。きみにはこれから頑張ってもらわないといけないし」
 後半には若干引っかかるものがあったが、傷を消してもらったことに感謝しているのは事実だ。曖昧に頷くだけで、その言葉を聞き流す。
「それにしても珍しいくらい無欲な人間だね。してほしいことがあんなちっぽけな傷ひとつを消してほしいだけ、なんて」
「おれにとっては大事なことだったから」
 いままさに死のうとしている人間の望みなんて、案外そんなものではないだろうか、という気もする。エルーシャもこの身体を捨てる瞬間、何か望んだだろうか。
「もっと時間があったら、ほかにもいろいろお願いしてたかもしれないけど」
「たとえば?」
「えっと……。ごめんって言いたいし、いままでありがとうも言いたかったし、あと」
 幸せになってほしい、と伝えたかった。
 傷よりこっちだっただろうか。けれど死んで魂になってからもどうか頼むとしつこく念押ししていたらしいから、あの時のツバサにとってはそれがなにより叶えてほしい願いだったのだ。
「きみはエルーシャに少し似ているよ」
 ふむ、と何か考え込むような表情でマティアスはこちらを見ていた。
「これからきみにしてもらわなきゃいけないことがたくさんある。引き換えに叶える願いがひとつだけ、それもそんな小さいものだなんて、あまりに不平等だ。魔術師は対等を何より重んじるからね」
 そう言って笑う。どこか皮肉げな笑みだった。反応に困る。
「だからそうだな、あとふたつお願いを叶えてあげよう。だいたいこういったものは三つが定番だからね」
 思いがけない提案をされて、ツバサは戸惑う。傷を消してくれたのを確認できたわけではないが、死んだ人間から抜き取った魂で他人を生かすことができているのだ。たいていのことは可能なように思う。
 そんな魔術師が、あともう二つ、ツバサの願いを叶えてくれるという。
「じゃあ兄ちゃんに、ありがとうとごめんと、あ、でも幸せになってほしいっても伝えてほしいし……」
 足りない。もらった願いをすぐさま使おうと悩み始めたツバサを見て、マティアスはことさら呆れたようにため息をつく。
「そんなしょうもないこと。いいよ。傷を消したおまけできみの兄にそれも伝えとく。ありがとうとごめんと幸せになってほしい、だね」
「いいのか」
「手段をこちらに任せてくれるのであれば」
「何でもいいよ」
 自分でもおかしいくらい、切羽詰まって早口になってしまう。
「おれからの言葉だって分かるのなら、なんでもいい……」
 残してきた兄にこの気持ちが伝わるのならば、どんなかたちであっても構わない。
 ほとんど懇願するような声に、マティアスは何も言わずに薄く微笑んだ。優雅に舞わせた手を胸にあて、頭を下げた。芝居じみた仕草ではあったが、了解した、と伝えたいのだろう。
 ありがとう、ともう一度口にしたが、魔術師は表情を一切変えなかった。自分への言葉だと思わなかったのかもしれない。
「魔術師って、なんでも出来るんだな」
 少しだけ、この怪しい男に対する見方が変わった。ほんの少しではあるが。
「それは買いかぶりすぎだね。現にエルーシャは生き返ってくれなかったし」
 マティアスは先ほどの説明のなかで、エルーシャの身体を生き返らせることはできたが、魂が戻らなかった、と言っていた。
 ツバサには魔術のことも、この世界での魂がどんなものかも分からない。それでもひとつ、気になっていたことはあった。
「どうしてわざわざ別人の魂を入れる必要があったんだ?」
 別人が中に入っていてもどうしようもないではないか。別の世界の、まったくの他人の魂を使うなんて魔法が使えるのなら、本人を生き返らせた方がよほど簡単な気がした。
「そんなことができるんなら、この人の……エルーシャの魂を戻せばよかったんだろ」
 ツバサの質問を、マティアスは鼻で笑った。
「できることならそうしてるさ。本人が拒んでるんだよ。その身体に戻って、エルーシャとして生きることを拒絶してる。まああんだけ気合い入れて死んだぐらいだからね。嫌なんだろうね」
「いったい、何がそんなに」
 猛毒を飲んで自分から死ぬことを選ぶほど、嫌なことがあったのだろう。生き返らせてやるという誘いさえ拒んで、この身体で生きることを拒絶する。
 ツバサならきっと、すぐにその手を取って息を吹き返すことを望んだ。短い生涯ではあったが、死んだほうがましだ、と思うような挫折も危機もなかった。その気持ちを完全に理解することは難しい。
 けれど、その毒のせいで身体が負った痛みはもう味わった。地獄のような苦しみだった。あんな思いをしても、避けたい何かがあったのだ。
 それは強烈な覚悟のように思えた。まるで少女のように可憐で美しい外見の持ち主なのに、このエルーシャという男は、もしかしたらツバサよりずっと強い心の持ち主だったのかもしれない。
「おれも全部知ってるわけじゃないけど。たぶん、嫁入りだろうね」
「よめ?」
「きみが目覚めた時に言っただろ。エルーシャには婚約者がいる。この大陸の――下手をしたらこの世界で最も豊かで大きな都を統べる一族のひとりだ。もうじきその御方に、花嫁として娶られることが決まっている」
 何を言っているのかツバサには理解できなかった。エルーシャの性別がツバサと同じものであることは、とっくに確認済だ。
「男だろ」
「うん。あれ、同性間での婚姻はきみのいた世界では禁忌だっけ」
「……時代と場所によって、違ってたとは思うけど。おれの暮らしてたところでは、少数派だって扱われてた」
 一般的なことを答えるしかなかった。
 ふぅん、と、マティアスはどうでも良さそうに頷く。
「こちらの世界では珍しいことじゃない。政略結婚も恋愛結婚も、幅が広くて助かるってわけ」
 あっけらかんとした口調で語られる。それを聞いて、別の世界、という言葉が改めて思い知らされた。昨夜の、あのどこまでも広がって見えた深い闇を目にした時とはまた別の実感で、背筋が寒くなる。
「でもエルーシャは、それが嫌だった」
「そう。ひとの心はそうやすやすとは操れないからね。魂はその尤もたるものだ。ましてエルーシャは高潔な人間だった。男相手が嫌だったのか婚約者が嫌だったのか、そこまでは分からないけど。とにかく『死んでも嫌』ってやつなんだろう」
 だから死を選んだ。けれど他の人間が、それを許さなかったのだ。別人の魂をつかまえてまで、この身体を生かそうとしている。
「つまり、あんたがおれにさせたいことは」
 目眩がした。美しい身体に押し込められたツバサの魂。この身体をよろしく頼むよ、と「契約」を迫ったマティアスの言葉。
 ――これからきみにしてもらわなきゃいけないことがたくさんある。
 その代償に叶えてくれる、三つのお願い。
 なんの目的があって自分が死からすくいあげられたのか、ようやくツバサは理解した。
「エルーシャになりすまして、見ず知らずの男と結婚しろってことなのか」
 声が小刻みに震えていた。
「理解が早くて助かるよ」
 ツバサのそんな様子にはまったく気づいていないかのように、きらきら青紫の瞳を輝かせて、マティアスは笑った。



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