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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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4 薬の効果はてきめんだった。 次に目を覚ました時には、あれだけツバサを苦しめていた痛みは幻のように消えていた。見た目も言動も、なにもかもが怪しい男だったが、どうやら解毒剤という言葉は嘘ではなかったようだ。 部屋は暗く、静かだった。あのお喋りなマティアスという男も、いまは近くにいない。 目が慣れるのを待って、部屋の中を見回す。 ふかふかでやわらかなベッドに、奥の壁に見えるのは暖炉だろうか。ここがどこなのかはいまだに分からないが、ツバサのこれまでの暮らしでは縁のなかったものばかりだ。 もしかしたらすべて夢の中で起こった出来事なのかもしれない、とささやかな期待を抱いて身を起こす。けれどその動きにあわせてさらりと長い金色の髪が揺れて、あっけなくその希望もついえた。 (長い髪。男なのに……いや、女?) 苦痛にうなされながら見た、鏡に映っていた姿を思い出す。金色の髪に、緑色の瞳。 美しい人だった。なんて綺麗なんだろうと見惚れるあまり、ほんの一瞬、地獄のような苦痛も忘れたほどだ。 ツバサが着ているのはつるつるした手ざわりの、裾が長いシャツに似た服だった。身体を締め付けない楽なつくりだから、きっとパジャマのようなものなのだろう。 その布地の上から、おそるおそる触れて確かめる。 (あ。男だ) 胸は平らで硬い。そうして足の間には、ツバサにも馴染みのあるものが備わっていた。一見したところは優しげで線が細く、美少女のようにも見えたこの身体は、男性で間違いないようだった。 よかった、と、ツバサは安心する。分からないことだらけのいま、性別まで本来のものと変わっていたら、声を上げて子どものように泣いていたかもしれない。 物音を立てたら誰かに見つかりそうで、息をひそめながら立ち上がり、ベッドを出る。 分厚い絨毯に素足が触れた。暗い中で見ても、この部屋に置かれた家具や壁紙が豪華で、お金がかかっていそうなのはよく分かる。なのに天井には照明らしきものがない。ベッドの枕元にあるサイドテーブルに、火の消えた蝋燭があるだけだ。 腕をぐるぐる回したり、軽くその場で飛び跳ねてみたりする。 動きも、それにともなう感覚もとてつもなくリアルだった。ツバサがツバサの身体で過ごしていた頃と、何ひとつ変わらない。 自分の身体じゃないのに、と、それが怖くもあった。 そろりそろりと足音を殺しながら、窓辺にたどりつく。いまどき珍しい木製の扉が、硝子の代わりに外と室内を隔てている。手探りで錠を外し、おそるおそる開いた隙間から外をのぞいた。 そこに見えているのは深い闇だった。 黒く塗りつぶされているのかと思うほど濃い闇が、窓の外に広がっている。ぞっとして、ツバサは思わず一歩ぶん身体を引いてしまった。 時刻の分かるものが部屋にはない。けれどこれだけ暗いのだから、深夜だろう。 いま目の当たりにしたような暗い夜を、ツバサはこれまで知らなかった。 どんなに遅い時間になっても、外に出れば必ずどこかに灯りがともっている。コンビニや二十四時間営業の店に行けば店員や客がいる。それがツバサの知っている世界だった。 どんなにひと気の少ない所にだって、必ず何らかの、誰かがそこにいる光が見つけられるはずなのに――。 (……ちがう。ちがう場所に来た?) ここはツバサがこれまで生きてきた場所ではない。それはほとんど直感だった。空気に、見知らぬ場所の気配が濃密に満ちている。 いまツバサが見ている夜は、ツバサの知らないどこか別の世界の夜だった。 (魔術師。毒。おれじゃない違う人。エルーシャ。ちがう、違う世界……) 頭が混乱した。解毒剤を飲んだはずなのに、また息が苦しくなる。 愕然としたまま、ツバサは小さく震える指で窓枠に手をかけた。闇に向かって窓を開くところまで開く。その先を見るのは怖かった。けれど何も確かめないまま恐怖に負けてベッドの中に戻ることもできなかった。 どうせ怖いのなら、目を背けないほうを選びたかった。 せめてここがどこなのかヒントになるような何か見えないか、と、すくみそうになる足に力を入れ、顔を上げる。 窓のふちに両手をかけて、そっと頭半分だけ窓の外に出してみた。 「あ……」 最初に感じたのは風だった。 黒一色の深い闇から、風が吹いて来た。それを受けて、ツバサの――いまはツバサのものではない、長く伸びた金色の髪が舞う。 何も見えない、いちめんの暗闇から届いた風は、清々しく涼しかった。見知らぬ闇に顔を晒している恐怖が、少しやわらぐ。ひさしぶりに新鮮な空気を吸う気がして、深く息をする。 その闇の中、粒のような、ほんとうに小さな光が見えた気がした。 (……何かある。誰かいる?) 目を大きく開いて、目を凝らす。 するとその光が揺れて、同時に、ざり、と、音が聞こえた。ツバサのいる位置からずっと下の方の、低いところからだ。 「エルーシャ?」 錯覚ではなかったらしい。そこに、誰かいるのだ。 (この声) こちらに向かって呼びかける声に、ツバサは固まった。 闇の中から届いた声は凜としていて低い。応えようにも、ツバサには相手の名前も分からなかった。 「おれだ。カイルだ」 どう返事するべきか言いよどんでいると、そんな声が返ってきた。 カイル。それが彼の名前のようだった。 「いまそっちに行く。少し待っていてくれ」 張りのある低い声は朗らかで、無言のままのツバサを不審に思っている様子ではなかった。その声が足音とともに近づいてくる。 瞬きを繰り返し、音の在処を目で追う。一面の闇かと思われていた窓の外の風景には、いくつもの影があることが分かる。窓のすぐそばにある大きな影が、かすかに揺れた。 そこからばさばさと鳥が羽を揺らすような音がしたかと思うと、ふいに、橙色の小さな灯りが目に入った。さきほどツバサが見つけたのも、その光だったのだろう。 どうしたものやら判断できないまま、その光をじっと見ていた。光はふわふわと舞い上がり、やがてツバサの目の高さに並んだ。 吹いた風がざわりと音を立てる。ツバサのいる窓辺のすぐそばにある影は、一本の大きな樹だった。ざわざわ鳴るのは、この樹の葉が揺れた音だ。 「もう起きても平気なのか」 カイルはその樹を伝って、ここまで上がってきたようだ。橙色の小さな光の正体は、彼が腰に下げた灯りだった。それを取り、こちらの顔が見えるように掲げられる。 「……まだ顔色が悪いな」 あたたかい色の光で、その人の姿もぼんやり照らされる。この身体で最初に目覚めた時、すぐそばにいた男だ。 短い黒い髪。意志の強そうな凜々しい眉と切れ長の瞳。肩幅も広いし、引き締まった首筋の筋肉がきれいだ。本来のツバサよりも、そしていまツバサの心がおさまっている美しい身体よりも、全体的に一回り大きいだろう。飾りけのない白いシャツという服装が、その体格のよさを引き立てている。 彼はツバサの――エルーシャの容態を気に掛けて、顔色を確かめたのだろう。こちらをうかがい見るその眼差しは心配そうで、とても優しかった。 (カイル) 心の中で知ったばかりの名前を繰り返す。 彼とエルーシャはおそらく親しい間柄なのだろう。未知のものごとばかりの場所で、ようやく親しんだ人に会えたように胸が懐かしい。 ツバサは彼のことなど何一つ知らない。だからわけもなく安心するこの気持ちは、きっとエルーシャという身体が感じているものだ。 信頼していいのだと、この身体が教えてくれている気がした。 「ありがとう」 どう応えるのが正解か分からないまま、とりあえずお礼を言う。 喋り方が違うと怪しまれないだろうか。薄く張った氷の上を歩くような緊張感を感じながら、カイルと言葉を交わす。 魔術師から詳しい話を何も聞けていない。そんな状況で他の人間と接することに不安がないわけではないが、いまはそれ以上に、この人ともっと話をしてみたかった。 「外で、何を?」 「夜の見回りに行ってきた帰りだ。マティアス様がおまえを誰にも会わせないというから、まだ具合が悪いのだろうかと心配になった」 「お見舞いに来てくれたのか」 ツバサの言葉に、カイルは少し笑った。目元と口の端をかすかに緩めるだけの、どこか寂しそうな笑い方だった。 「おれはこの屋敷には立ち入れない。分かってはいるんだが」 それでも来ずにはいられなかったんだ、と、息を漏らすように彼は言った。 カイルの持っている灯りのおかげで、ツバサにも外の風景がようやく少しずつ見えてくる。 ちょうどこの窓辺に向かって太い幹が張り出しているらしく、カイルはそこに膝をついてこちらと目線を合わせているようだった。 ここまで上ってくるほどの運動神経の持ち主なのだから、あと数歩分近づいてツバサのいる部屋に入ってくることなんて造作も無いだろう。それでも、カイルはあえてその不安定な場所にとどまっている。 屋敷に立ち入れない、という言葉も、ふたりの間に距離があることを示している気がした。 どういう知り合いなんだろう、とツバサが答えの出ない疑問を抱いていると、カイルがこちらに向けて手を差し出した。 「これを」 窓枠から身を乗り出して、小さな包みを受け取る。半透明の紙で包まれた、堅い手触りの何か。クッキーに似ている気がする。焼き菓子、だろうか。 「ウィラード様には内緒だ」 また新しい名前が出されるが、それは誰かと尋ねるわけにもいかず、わかった、と頷いてみせる。 「ありがとう」 お見舞いの品かな、と思い、両手で小さな包みを握りしめた。そこからほのかに甘い香りが漂ってくる。 強張っていた肩から力が抜け、息をするのが少し楽になる。 「エルーシャ」 きっとこの身体の持ち主は甘いものが好きなのだろう、と思っているツバサに、カイルは真面目そのものの声で言った。 「おれはいつでも、おまえの助けになりたいと思っている。覚えているだろうが、帝都から戻った頃、おれは町の子どもたちはおろか、飼っている羊たちにまで馬鹿にされていた」 切々と語られる彼の事情は、ツバサには分からないことばかりだ。 (何やったんだよ) 思わず心の中でそんな反応をしてしまう。 カイルは生真面目な表情のまま続けた。 「そんな中、おまえだけが唯一、以前と変わらず接してくれた。……何度でも言う。おれはおまえのためにできることがあるなら、どんなことでもする。それを忘れないでくれ」 最後に、目と目を合わせて、ひとつ頷くように微笑まれる。 青く透き通った瞳が、橙色の灯りを受けてきらりと光った。 「……ありがとう……」 胸が痛んだ。無意識のうちに、ぎゅっと焼き菓子を持つ手のひらに力を入れてしまう。 彼はエルーシャが毒を飲んだことを知っているのだ。だから、どうかそんなことはもうしないでほしいと願っている。自分にできることがあるのなら、と、力になりたいと思ってくれている。 優しい人だ。エルーシャが命をとりとめたことを、心から喜んでいる。いまここにいるのが、エルーシャの姿かたちをした別人だなんて、知りもせずに。 「また来る。よく休んで、早く良くなってくれ」 うつむいたツバサを心配そうに労わる言葉を残し、カイルは帰って行った。 暗い闇の中たったひとつ見つけた小さな灯りが遠ざかり、やがて見えなくなる。それをいつまでも、目で追っていた。 あのカイルという男はたぶん、いい人だ。 (まだ、何も分からないけど。でも) そしてそんな人に優しい目を向けてもらえるエルーシャという人間も、きっと悪いやつではないのだろう。 (たぶん) そう思えることは、ツバサにとって大きな救いだった。
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