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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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3 次にツバサが目を開くと、あれだけ騒がしかった室内は静まり返っていた。 最初に目に入ったのは見覚えのない天井だった。白い天井には細い蔦が絡まったような、繊細な模様が浮き彫りにされている。 その絵柄をぼんやりと目で追っているうちに、自分の身に起こったことが少しずつ思い出された。 おかしな夢でも見た気分だ。階段から落ちて、頭を打って死んだ。と思ったらどこか知らない誰かになった夢を見て、そうしてまた目を覚ました。 これは次の夢か、あるいは来世かどちらだろう。 「よっ。起きたな」 静かだと思ったが、部屋に人がいないわけではなかったらしい。声がした。明るい、呑気な声だ。 「いやー良かった良かった。とっさのこととはいえ、なんでこんな弱っちぃの連れてきちまったんだって後悔しきりでさ。あんまり起きないから、やばいなーそろそろ夜逃げの荷物まとめに戻ろうかなーって思ってたとこだったんだ!」 鳥がさえずるように、ご機嫌な調子で言う。語るというより歌うといった方が近いかもしれない。 目覚めた身体はいまだ重く、縫い付けられたように横たわった状態から動けない。のろのろと錆びついたように鈍い動きで首を横向かせる。 ベッドの傍らには、男がひとり佇んでいた。声から受ける調子そのままにご機嫌な様子で、小躍りするように小さく飛び跳ねて身体を揺らしている。 肩口でゆるく結ばれた髪が、その動作にあわせてふわふわとやわらかそうに波打っていた。その見事に透き通った白銀の髪に、ずいぶん言動の若々しい老人だと勘違いしそうになる。 「説明しろって顔してる。いいね。それこそきみがあいつとは違うって証拠だ」 くるりとこちらを振り向いた男は、想像よりずっと若かった。とはいえ、年齢の読みにくい顔つきをしている。ツバサよりは確実に年上だろうが、それが十歳なのか、二十歳なのか、見当がつかない。 うっすらと浮かべた微笑みには、老人のような落ち着きと、幼い子どものような好奇心の両方が矛盾なく浮かんでいた。 不思議な雰囲気の男だった。ずるずると裾を引きずるほどの、大きな布をそのまま巻き付けたような怪しげな服を着ているせいかもしれない。 この男の声は、耳に残っている。命を手放そうとした瞬間、風のようにツバサに囁きかけてきた声だ。先ほどの賑やかしい夢の中にも混じっていた。 ということは、ここはまださっきの夢の途中ということだろうか。 「起きなくていいから、話聞いてな。身体中、冗談みたいに痛いだろ」 一体なにが起こっているのか。ここはどこなのか。 たぶんこの男に聞いたら、答えが得られるだろう。訳知りな様子からそう判断しつつも、聞きたいことを問う声が出せなかった。 息をすると胸が痛む。胸だけでなく、指の先から爪先まで、全身どこもかしこも痛かった。 体内の血が沸騰しているように熱い。額に触れて確かめる必要もないほど、高い熱が出ているのがわかった。瞬きひとつするのも億劫だった。 「おれはマティアス。この家に招かれた魔術師。きみのいた世界は不思議だね。魔術の存在しない世界線なのに、魔術についての知識や概念が広く膾炙している。おかげで話が早い」 イチから説明するのは面倒だからな、と言いながら、マティアスと名乗った男はツバサの眠るベッドに腰を下ろした。そうして、上からのぞき込まれる。 「性別と、年齢は月齢まで同じ。急場しのぎの人選にしては上出来だ。あとはきみの協力にかかってる」 青と紫のふたつが溶け合った、夕暮れ途中の空に似た色の瞳がきらきら光って輝いている。 その不思議な色にも、語られる言葉にも、なにひとつ現実感がなかった。 (魔術師……?) そんなのはつくりごとの中だけの存在だ。自称魔術師のあやしげな男マティアスは、ツバサが内心で抱いた疑念を見通したように、肩をすくめて笑った。 じゃらじゃらと謎の飾りをたくさんぶらさげた、どこが縫い目なのか分からない奇妙な服の胸元に手を差し入れ、そこから小さな瓶を取り出して見せる。 「これがいま、きみを苦しめている猛毒」 今度はもうひとつ、また別の瓶を取り出し、見せつけるようにツバサの目の上で揺らす。 「そしてこれが、その解毒剤」 猛毒。ツバサがいま感じている、全身を殴られ続けているような痛みと苦しみの元は、どうやらその小瓶に詰まっているらしい。頭を打って倒れ、次に目覚めたら知らない人々に囲まれていた。意識のないうちに、そんなものを飲まされたのか。 けれどツバサには、自分がそんな目に遭わなければならない理由が、なにひとつ思いつかなかった。 「息ひとつするのも苦しいだろ? 当然だよ、本来その身体ひとつなら五度は殺せる毒だ。まったくどんだけ死にたかったんだか。おかげで何の関係もないきみがこんなに苦しむことになって――かわいそうだね」 そう言いながらも、青紫の瞳はきらきらと明るい光を浮かべたまま輝いている。この男は明らかに、ツバサが苛まれている痛みがどれほどのものか理解している。 嘘っぽい同情の顔を作って、マティアスはツバサの目の前で解毒剤だという瓶を揺らした。 「欲しい?」 何も考えられず、ツバサは頷いていた。見ず知らずの相手にすがる不安も、助けを乞うことを嫌がるプライドも、気の遠くなりそうな痛みの前では存在しない。 はじめからツバサが頷くことなんて分かっていたのだろう。マティアスは満面の笑みで、すぐに瓶の蓋を開け、ツバサの口元に近づけた。 「じゃあその代わりに、おれのお願い聞いてもらうからね。交換条件。嫌なら吐き出して」 有無を言わさず、瓶の中に液体を口に流し込まれる。 わずかにとろみのあるその液体は冷たくて、まだ口の中に含んだだけなのに、すでにその箇所が浄化されたように、ほんの少し呼吸が楽になった気がした。 吐き出すことなど、できるわけがなかった。心より身体がその液体を求めていた。 マティアスがじっとこちらを見つめる眼差しの中、ツバサはそれを飲み込んだ。 「はいありがとう、契約成立。すぐに眠くなるはずだから、詳しいことはまた目覚めたあとに説明するとして――寝てる間に、これからの自分の顔を覚えておいてもらおうかな」 喉を通って、澄んだ光が全身に染み渡って行くようだった。たった一滴で、痛みも苦しみも感じなくなった。 とろりと意識が溶けそうな眠気と、指一本動かせないほど重くなった体に、これはもしかしたらただ単に痛みを感じる神経が麻痺しただけでは、と疑いたくなる。けれど苦痛から解放された安堵感のほうが強かった。 「……じぶん、の、かお?」 だから声が出せた。久しぶりに聞くその声に、違和感を覚えた。喉がつらくて息するのもやっとだとはいえ、自分はこんな声をしていただろうか。 「その通り。さあ、見てごらん。これが今日からのきみだ」 毒の瓶を掲げた時と同じような明るさで、マティアスはツバサの前に楕円形のものを差し出す。 その薄い板の中で、ぱちりと見知らぬ人物が瞬きした。 まっすぐに、艶やかに流れ落ちる金色の髪。夢見るように濡れた、エメラルドに似た透き通った緑色の瞳。眠いのか、長い睫毛にふちどられた目蓋がやけに重たげだ。肌は白く、少し薄い唇が、口づけを待つように瑞々しく潤んでいる。人形のように整った造作。 男とも女ともつかない、その区別さえ無意味に感じられるほどの、ただただ美しい存在。 自分が見ているものが理解できず瞬きをすると、同じ動作を目の前の美しい人が真似る。 「その身体を頼むよ。これがおれからのお願いね。どうぞよろしく」 愕然と緑の瞳を見開いた人に顔を並べるように、マティアスが映り込む。 これは、鏡だ。髪の色も目の色も、顔だちも体格も何もかも違う。けれど、いまツバサが見ているきれいな顔は、確かにツバサの意識に応じて目を揺らし、瞬きをし、小さく首を振っている。 「きみの名前はエルーシャ」 絹糸のような金の髪をひとふさ指ですくい、さらりと流しながらマティアスが囁く。 「やがてこの地を離れ帝都に上る、皇孫殿下に望まれた花嫁だ」 かわいそうだね、と、口にされず、もう一度繰り返された気がした。
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