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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
2


 死の瞬間は、思った以上に安らかだった。
 ほんの一瞬、ふわっとした浮遊感で身体が浮き上がった。そして浮かんだ自分の身体には、何の重みもなかった。感覚もない。
 そこに広がるのは、冷たい暗闇だった。その冷たさが魂の容れ物だった肉体を浸し、少しずつ闇に向けてほどけていく。自分だったものが次第にかたちを失って、とろとろに無に溶けていくのは、なんともいえず心地がよかった。
 これが死後の世界なら悪くない、とその居心地のよさに陶酔して身を委ねる。傷の痛みも、いまはまったく感じない。
 風にふわふわ漂う、小さな羽になったように暗闇をたゆたう。
 目を閉じていてもまだ眠くてたまらなくて、これ以上どうやれば眠れるのだろう、とぼんやりと考えた。あと少しで完全に包まれている闇に溶けてしまえそうなのに、何かがツバサを邪魔している。
 一体なにが、と、それを知りたくて耳を澄ました。
 ひとの声がする。ひとりではなく、複数の。いずれも姿は見えず、ただ耳に声だけが響く。
「……なんとしてでも……」
 すぐ近くで聞こえる男の声は、まるで泣いているように震えていた。悲痛な声が、その場にいるのだろう誰かに懇願を繰り返している。
「なんとしてでも、救ってくれ。でなければこの家は……」
 救いを求める声は、滔々と続く。
 ツバサは目を閉じたまま、闇の中でその声を聞いていた。
「頼む。ただひとりの弟なんだ。それだけじゃない、エルーシャは他でもない、大切な……」
 弟。その言葉が、耳にまっすぐ届いた。
 声はまだ張りがあって若々しいが、もう成長しきった男のものだ。そんな男が、涙混じりに懸命に願っている様子はただただ哀れだった。
 きっと大切な家族なのだろう。大事なものを失いかけている人の声が悲しそうで、かわいそうだと思った。
「頼む、マティアス」
 震える声で呼びかける、マティアスというのはどうやら人の名前のようだった。その人物が近くにいて、家族を救ってくれ、と頼まれているのだ。
 交わされる会話の中で飛び交う名前は、いずれも聞き慣れない響きのものばかりだった。それなのに、何故かごく自然に、それらの音が自分の中に落ちてくる。
 はじめて聞くその名前たちも、その声も、やけに懐かしかった。
 感覚をなくしたはずの胸に、ちくりと小さな痛みが生じる。
 悲嘆にさざめくものたちの気配を切り裂くように、ふいに風が舞う。
 冷たい闇に浮かんでたゆたっていたはずのツバサは、ふと、あたたかな熱がかたわらに寄り添っていることに気付いた。
 自分よりも大きな身体の持つぬくもり。その誰かが手を伸ばし、ツバサに触れた。
「貴様、何をしている。気安く弟に触れるな!」
「……いま、わずかに指先が動いたような気がしたのです」
 さきほどから懇願を繰り返していた声が、ツバサに触れた誰かを咎める。それに、また新しい声が答えた。
 凜とした低い声は、まるでぴんと張った弓の弦のようだ。たったひと声聞いただけなのに、その人のまっすぐに立つ姿まで目に浮かぶような清々しさだった。
 この人の声も知らない。けれど、受け止めた耳と、それ以上に心が、懐かしさに似た強い感情でいっぱいになる。
 ――この人に会いたい。もう一度、会って話したいことがある……。
 強い思いが胸を突き動かす。その思いは、ツバサが目を閉じる前に抱いていた気持ちにとてもよく似ていた。
 穏やかで優しい闇に溶け落ちかけた手のひらを、声のする方へ伸ばそうとした。ぬかるんだ深い泥の中にいるように身体は重く、そこからもがき出るため、懸命に腕をかざす。
「エルーシャ」
 たとえ呼ばれたのは違う名前でも、それは確かにツバサに向けられた声だった。
 会いたい。もう一度会って話したいことがある。ツバサの胸にあふれるその思いと寸分違わぬ同じ気持ちを、この人も抱いている。
 触れた手はあたたかく大きく、そしてかすかに震えていた。エルーシャ、と、張り詰めた声を揺らがせて、ふたたび繰り返される。
 それが誰なのか分からないまま、ツバサは重い身体を無理矢理動かし、頷いて応えた。
 ここに集まった人々に悲しんでほしくない。ただその一心だった。
「……ほんとうだ! ああ、エルーシャ、エルーシャ……! どうしてこんな馬鹿なことを……!」 
 ばたばたと駆け寄ってくる足音が続く。頭上から伸びてきたもうひとつの手が、無遠慮にツバサの頭から頬を撫で回した。感極まった声で、意味のまとまらない歓喜の言葉をひたすら繰り返している。
 その勢いに、最初にツバサに触れていた人はすっと静かに身を下げたようだった。
「あーよかった。無事成功ですねこれ」
 緊張と安堵がない混ぜになった空気の中、やけに呑気な声がそう言った。
 知らないものばかりの声の中、それは唯一、聞き覚えのあるものだった。
(あの時、の)
 冷たいアスファルトの上で倒れ、意識を失いかけていた時に耳元で囁いた声だった。
 ――叶えてあげようか。
 あれはいったい何だったのか。そしていま、いったい何が起こっているのか。
 あんなに心地よく安らかだったはずの身体は、いまは息を吸うのも吐くのも苦しい。ひと呼吸するたびに、胸の内側を刃物で切り裂かれているように痛くてたまらない。階段から落ちるよりひどい重傷を負ったとしか思えなかった。しかもツバサの知らない人々に囲まれて、聞いたこともない名前で呼ばれて、おまけにみんな泣いている。
 いったい何が起こっているというのだろう。苦しさの中、知りたい気持ちに抗えず、ゆっくりと目蓋を開く。
 目がくらむほど光が明るい。瞬きにさえ痛みを感じながら、かたわらで身を屈めている誰かを探した。
 反対側でおいおいと泣いている、大きな声で騒いでいた人。そして、もうひとり。
「エルーシャ」
 こちらだ、と導くように、低い声が呼ぶ。ゆっくり首を捻ってその声を追う。
 若い男が床に膝をつき、ツバサを見ていた。ツバサより少し年上の、二十歳前後だろうか。短く刈り込んだ黒髪。意志の強そうな、引き締まった唇。精悍な顔つきのなか、切れ長の瞳がまるでいまにも泣き出しそうなほど潤んでいた。その瞳の色は、青かった。
 目が合ったのが分かったのだろう。彼は、安心させるように微笑んだ。
 どちらかというと冷たそうな顔だちなのに、そんな表情をすると、とても優しい。
 手を伸ばそうとした。けれど痛みと息苦しさに苛まれる身体はすでに限界で、ほんの少し指先を動かすこともできず、ツバサはまた意識を失った。 


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