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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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22 夢を見ていたのはそれほど長い時間ではなかったらしい。 マティアスの工房を出ると、扉のすぐ近くに護衛の男が待機していた。相変わらずぼんやりとした不安になるような目線のままだった。礼を言って、また部屋まで送り届けてもらう。 昨夜からずっと泣いたり暴れたりで、さすがにもうへとへとに疲れ切っていた。 マティアスが叶えてくれた願いのおかげで、今度はよく眠れそうだ。次に食事をとって薬を飲むまで眠らせてもらおう、と寝台に横たわろうとした時だった。 ふと、物音が聞こえた気がした。 閉ざした窓のほうから聞こえた。また雨でも降り出したのだろうか、と思うほどささやかな音だった。内鍵を外し、窓を開く。その隙間からさあっと光が差し込んで、ツバサを照らした。 「カイル」 外は明るく晴れていた。爽やかな風が樹の葉を揺らす中、その人がこちらを見ていた。 鍵を開け、窓をひらく物音でツバサがそこに来たことは伝わっていたのだろう。さほど驚いた様子もなく、どこか気まずそうな表情で、静かに樹の上にたたずんでいる。 カイルはツバサの顔を見て、迷いを振り切るようにまっすぐな声で言った。 「少し話したい。構わないだろうか」 「いいよ。入って」 先ほどはエルーシャの部屋にも足を踏み入れていたが、あれは非常時の特別な措置だったのだろう。カイルはこの屋敷への立ち入りを許されていない。それはいまも変わらないようで、会おうと思ったらやはりこうして少しばかり危ない手法をとらざるを得ないのだ。 ツバサの元を去る時、カイルはウィラードのところに向かう、と言っていた。そこでどれだけ話をしたのかは分からないが、もしかしたら、ツバサが部屋を出て戻ってくるまで、樹の上で待っていたのだろうか。 窓の外から聞こえてきた音は、樹をのぼる音ではなかったように思う。しばらくひとりでその場にたたずみ、何かを考えて過ごしていたのではないか、と、そんな気がした。 入って、という言葉に、カイルはしばし躊躇った様子だった。それに首を振る。 「おれはエルーシャじゃないんだ。だからあなたと接触を禁じられているわけじゃない。少しぐらい、構わないと思うよ」 ただの屁理屈ではある。しかしそれを聞いてカイルも頷いた。 危なげのない動作で窓枠を掴み、そこから部屋の中に滑り込んでくる。無駄のないその動きからは運動神経の良さが伝わってくる。 この身体もあれだけ鍛えることができれば、とほんの少し羨ましくなる。勝手にそんなことをしたらエルーシャは困るだろうか、と想像してつい笑ってしまう。 カイルはそんなツバサをじっと見ていた。 寝不足が明らかに顔に出ているだろうし、顔にも身体にもあちこち擦り傷だらけだ。おまけに先ほど懐かしい人たちの姿を見て泣いたばかりだ。もしかしたら、涙の痕も残っているかもしれない。 親友の姿がそんな有様をしているからだろう。カイルは涼しい顔立ちの中で眉間に皺を寄せる。 「これを」 話って、と聞こうとするより先に、カイルがツバサに丸い缶を差し出す。やけに小さな缶だと思ったが、カイルの手からツバサの手に渡された途端、そうでもない、と気づく。缶が小さいのではなく、カイルの手が大きいのだ。 缶にはほのかに熱が残っていた。カイルの手の温もりだろう。 「これは?」 受け取って、匂いを確かめてみる。食べ物ではなさそうな、すうっと息がよく通りそうな香りがした。 「塗り薬だ。傷に、もしかしたら必要かと思って……」 「ありがとう。助かる」 わざわざこれを渡すために、窓から訪れてくれたのだろう。 カイルはウィラードと、子どもたちがいなくなって無事に発見された顛末だけではなく、ツバサのことについても話し合ったはずだ。エルーシャの身体に入り込んだ、偽物の誰かの存在。 そこでどんな話がされたのかは分からないが、誰にも傷の治療を求められないだろう、と思うような処遇が決まっていたのかもしれない。だから傷薬を差し入れてくれたのだ。 ツバサも特に手のひらの傷のことは気になっていた。明確に、ツバサがエルーシャにつけてしまった傷のひとつだからだ。とりあえず出来ることがありそうで安心する。この薬を塗ることで、痕が残らなければいいのだが。 「ほかに必要なものがあれば届けるが」 「いまのところは無いよ。それに、マティアスもいるし」 だから大丈夫、と言って笑った。 擦り傷だらけの身体に熱いお湯を浴びているような気分になる。この人の優しさが、いまは全身に痛かった。 そうか、とは言ったものの、カイルはどこか納得していないらしい気配があった。 彼もエルーシャと同様、魔術師のことはあまり信用していないのだろうか。それはほんとうに大丈夫なのか、と思っているのかもしれない。 「その、ずいぶんと疲れている様子なのに、申し訳ないとは思うんだが」 せめて掛けてくれ、と、寝台に座るように頼まれる。 そんなに疲れた顔をしているだろうか、と思いながら、言われた通りにする。どうやら用事は傷薬だけではないらしい。話したいことがある、と言っていた。 カイルは先ほどと同じく、床に片膝をついた。騎士のようなその仕草が自然で、彼にとても似合っている。ひざまずかれて近くなった目線で、まっすぐに青い瞳を向けられた。 その表情は先ほどとは異なり、語るべき言葉を探しあぐねているように、どこか弱々しかった。 「……先ほどはすまなかった。きみに、ひどいことを言った」 凜とした響きの声で伝えられた言葉に、ツバサは思わず、手に持っていた缶を落としそうになってしまう。カイルがそれに気づき、大きな手のひらで受け止めた。もう一度、傷薬を受け取る。 「きみにも事情や立場というものがあるんだろう。それを何も聞かず、一方的にこちらの要望だけを押しつけた。許してほしい」 ツバサは声が出なかった。ただ動揺して、まっすぐに見つめてくる青い瞳を受け止めることしかできなかった。 カイルの表情からはもう迷いは消えていた。許してほしい、という言葉に、どうにか頷く。 「おれがエルーシャの身体を乗っ取ってるのは事実だし」 だからカイルの言っていたことは決して間違いではない。たったひとりの大切な親友なのだ。その魂を返してほしい、と思って当然だろう。 謝る必要はない、と伝えようとするより先に、静かに首を振られた。 「……息を吹き返してからのエルーシャの様子を、おかしいと思わなかったと言えば嘘になる。正直なところ、違和感はいくつもあった。様子がおかしい、とも、エルーシャはこんな顔をしていただろうか、と思ったことも何度かある。その度に、あんなことをしようとしたのだから多少の影響はあるだろう、と自分に言い聞かせていた気がする」 それを聞いてツバサは頭を抱えたくなる。全然なりきれていなかったのだ。 マティアスに聞かせてやりたい、と思う。やはり口調やその場しのぎの知識だけ取り繕ったところで、親しい人の目をごまかすことなんてとうてい無理な話なのだ。 「騙してごめん」 カイルはまた、首を振った。 「違和感はあった。けれど、それを深く考えようとしなかったのは、その変化が危険だと感じなかったからだ。たとえ以前のエルーシャとは異なっていたとしても、おれに対する受け答えも、羊たちを見る目も、子どもたちがいなくなってしまった時の反応も、どれもおれにとっては好ましいものだった。それはきみが悪い人間ではないからだろう」 彼はおそらく、普段から多くを語る人ではないのだろう。ところどころ言葉に迷うような間を挟みながら、静かな声で続ける。 「エルーシャを返してほしい、と言った時、きみはとても痛そうな顔をした。エルーシャのあんな顔は見たことがない。……傷つけたのだとすぐに分かったはずなのに、それに見ないふりをしようとした。すまなかった」 「気にしないで」 声が震える。どうしてこんなに動揺してしまうのか、ツバサにはやっと理由が分かった。 この人はまっすぐにツバサ自身を見て話してくれているからだ。エルーシャではなく、その身体の中にいるツバサの魂に届くように、丁寧に、伝わるように。 カイルはエルーシャではなく「ツバサ」と話してくれているのだ。 「おれは別の世界の人間なんだ。マティアスがエルーシャの魂をうまく呼び戻せなくて、この身体を生かしておくために代わりに魂を使われている」 カイルにこれ以上謝らせたくなかった。だから自分のことを、少しずつ話す。 別の世界、と聞いてもカイルはさほど驚かなかった。魔術が存在している世界なのだ。もしかしたら、ツバサのような状況も珍しくはないのかもしれない。 「ほんとうのきみの身体は、いまどこに」 「眠ってる。もとの世界で家族が守ってくれてるんだ」 さすがに骨になったとは言えず、言葉を濁す。 「そうか」 それを聞いて、カイルは安堵したようだった。 ほんとうのことをこの人に伝えるのは躊躇われた。こんなに優しい人なのだ。知れば、きっと悲しむし苦しむだろう。なんてひどいことを言ったんだ、とさらに自分を責めるかもしれない。 だからツバサがすでに命を落とした人間であることは伝えずにいよう、と決める。そもそも彼らは知らなくてもいいことだ。 「マティアスは代わりにおれを嫁入りさせようと考えてるみたいだけど、おれはそれには反対してる。嫌とか行きたくないとかそういう話じゃなくて、おれも、エルーシャにはこの身体に戻ってきてほしいと思ってるから」 そうなればツバサの魂は今度こそ消えてなくなるだろう。けれどそんなことは隠したまま、カイルに笑いかける。 「あなたたちと考えていることは同じなんだ。だから、協力してほしい」 それまで強ばった生真面目な表情を崩さなかったカイルが、ふっと口元を緩めた。かつてエルーシャとして彼と接していた時に何度も見せていた、彼の静かな笑い方だった。 同じ笑みを、いまツバサに向けている。 「きみのほんとうの名前は?」 「ツバサ」 この世界の人に、はじめて名前を聞かれた。それがカイルであることに、何故だかむしょうに胸が痛む。 ツバサ、と、凜とした低い声が繰り返した。久しぶりに呼びかけられた自分の名前に、喉の奥がぐっと熱くなる。こみ上げてくるものを堪えていると、カイルが生真面目な顔と声で続けた。 「おれはカイル」 「知ってるよ……」 あまりにも真面目に言われるので、つい笑ってしまった。 ほんとうは名前を教えてくれて嬉しかった。ほんの少し目の端に涙が滲んでしまい、瞬きをしてそれをかき消した。 存在も、名前も知ってくれた。そのことを嬉しいと思うけれど、同時に切なくもあった。これ以上、ツバサに望めることは何もないからだ。そんな事実に、改めて直面した思いでもあった。 「そうか」 笑うツバサを見て、カイルも微笑む。 「そうだったな」 胸が痛んだ。いまようやく気づいた。 この痛みはエルーシャのものではなく、ツバサ自身のものだ。 自分自身として彼と言葉が交わせて嬉しかった。その喜びに、気づいてしまった。 (叶わない、恋のために……) エルーシャの文字を思い出す。それはツバサ自身の胸にもあるのだ、と、いまそのことに気づいてしまった。
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