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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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21 それを聞いて魔術師は一瞬、動きを止める。どうやらほんの少し驚いた、らしい。 何もかも見通しているようなこの男にとって見えないものがあるとしたら、それはひとの心だ。だからツバサが何を言い出したのか、すぐにはたどり着けないのかもしれない。 「おれの提案を受け入れる気になったのかな?」 「違うよ。なんでも自分の都合のいいように考えるな」 やはりツバサの気持ちなど分からないし、想像するつもりもないのだろう。その傍若無人っぷりをいまは笑うことさえできた。 ツバサには自分の心を捨てる気などなかった。けれど、どうしようもなくひとりだ、と目の当たりにされた孤独に、いまはほんの少しだけ弱っている。 この世界でエルーシャの身体で在り続けようと思うなら、今後も似たようなことが続くのかもしれない。 「……おれの家族の姿を見せてほしいんだ。元気そうにしてるかどうか、その様子を見せてほしい」 だからその時のために、心の支えにできるものがほしかった。自分がかつて一緒だった優しい人たちの記憶をもう一度思い出して、しっかりと心にとどめたい。 「そんなことにお願いを使ってしまっていいのかな」 「そんなこと、じゃない。おれにとっては最善の使い方だよ。それに願いごとはあともうひとつ残るだろ。どうしようもなくなったら、それで最後にあんたの提案に乗るかもしれない」 いまのところその気はなかったが、マティアスに要求を呑んでもらうためにそう言った。 魔術師はいつものように何を考えているのか分からない目をして、なるほど、と頷いた。表情がほとんど動いていないのに、微笑まれた、と感じるのは何故だろう。ひとまずは、納得してくれたらしい。 「誰の姿を見たい? お兄さんかな」 「できるなら友達とかも見たいけど。でもそうだな、やっぱり兄ちゃんかな……」 みんな揃っていそうな場面を指定すれば一度にどちらの顔も見られるのかもしれない。でもそんな場所、ツバサの葬式くらいしか思いつかなかった。泣いている顔や悲しみに沈んでいる顔を見たいわけではない。 「兄ちゃんが笑ってるところを見たい。誰かと楽しそうにしてるところがいいな」 ツバサが言うと、了解、とマティアスは応じた。火のない暖炉の前の揺り椅子を示され、そこに座るよう言われる。言われたとおりにした。揺り椅子なんて、はじめて座るかもしれない。 「エルーシャもその場所がお気に入りだった。時折きみのようにここを訪れて、何をするでもなくそこで長い時間過ごしていたよ」 ツバサがその椅子に座った姿を見て、その時のことを思い出したのかもしれない。もうずいぶんと遠い昔のことを語るような口調で魔術師は言った。ツバサの目にもその光景が浮かぶ気がした。 退屈そうに肘をついて、信用は置けないけれど気が楽な相手と、とりとめのないお喋りをする。エルーシャにとって、マティアスは気晴らしのできる存在ではあったのだろう。 「目を閉じて」 足音をほとんど立てず、魔術師はツバサの前に身を屈めた。その指先がツバサの眉間を軽く叩く。 「会いたい人のことを考えなさい。それこそきみが最後に、傷を消してほしいと願っていたくらいの強さで」 目を閉じ、言われたとおりに兄のことを考える。 家を飛び出す前に喧嘩をしてしまった時の、どうして伝わらないんだ、ともどかしそうな悔しげな表情。もしいまからあの時間に戻ってやり直せるなら、どれだけいいだろう。 兄は毎日遅くまでツバサを養うために働いてくれた。どんなに帰りが遅くなっても、おかえり、を言うためにツバサは夜遅くまで待っていたし、兄も、必ず朝は早く起きて学校に行くツバサを見送ってくれた。 (兄ちゃん) 次から次へと、後悔と懐かしさで胸がいっぱいになる。 どうかひと目だけでも元気にしている姿が見られたら、と願っていると、眉間に触れていた冷たい指の感触が離れる。かわりに、顔のすぐ近くで花吹雪が舞ったような風を感じた。水気のある甘い香りがする。ふわっと舞った花びらが閉じた両目蓋の上に落ち、そこで雪のように溶けた感触がした。 甘い香りのする闇へ、意識が落ちていくのが分かった。 それは夢を見ている感覚に似ていた。 目を閉じているはずなのに、目の前に明るい光景が広がっている。自分がその場に立って見ているのではないと明らかに分かる、不自然な視点の高さ。気がつくとツバサは、はるか上空から地上を見下ろしていた。どこかに向かって落下を続けている、そのさなかのようだった。 不思議と怖い気持ちはなかった。限りなく夢に近いまぼろしに似た何かの中にいる、と分かっているからだろうか。 慣れ始めた長い髪が風にあおられる。落下する自分の手のひらを見た。そこにはさきほど傷つけてしまった爪の食い込んだ痕がある。ツバサの閉じ込められた、エルーシャという美しい別人の身体のままだ。 眼下の世界は霧に包まれたように白く煙っている。どこにいるのか何も分からない中、ふと白い霧を裂くように、細長い機械が進んでいくのが見えた。それは目に見えない線路の上を走っている電車だった。 見覚えのある車体だった。確か、ツバサも何度か乗ったことのある特急列車だ。懐かしい。 電車を見つけたことで、落下地点が定まったらしい。落ちる速度が一気に加速して、その車体めがけてまっすぐに落ちていく。 ぶつかる、と思って目を閉じたが、次の瞬間、ツバサはその天井をすり抜けていた。 臙脂色の座席が並んでいる。よほどひとの少ない日なのか、乗客は誰も乗っていない。まるで回送電車だ、と思っていると、二人がけの席に座っている人影をふたつ見つけた。 「悪いね、カズキくん。つきあってくれてありがとう」 息を飲む。知っている声だった。紛れもなく、会いたい、と強く願った人の声だった。 「いえ。おれこそ、家族じゃないのに図々しくお願いしちゃって……。ありがとうございます」 「そんなことないよ。顔もほとんど知らないような親戚に来てもらうより、きみに来てもらうほうがずっといい。こいつも喜ぶ」 兄と、それからいちばんの仲良しだった友人のカズキの声だった。 彼らの姿が見える場所まで駆け寄る。懐かしいふたりは、仲良く隣同士に並んで座っていた。その顔を見て、瞬間、目がくらんでしまう。まぶしすぎる光を見たようだった。 (兄ちゃん。カズキ……) 生きていた頃も、命を失ってしまったいまでも大好きなふたりの姿がそこにあった。わーっと大きな声を上げてしまいそうになって、寸前で抑える。何がきっかけで覚めてしまうか分からない夢の中にいるのだ。少しでも、いまこの時間を引き延ばしたかった。息を殺して、ふたりの会話に耳を傾ける。 (ふたりとも、元気そう) 兄もカズキも、笑顔で言葉を交わしていた。 彼らが自分の話をしているのがツバサには分かった。あの時はああで、とか、こんなことがあって、と、お互い家と学校での相手の知らないエピソードを披露しあっては笑っている。 本人としては、聞いていてちょっと恥ずかしい。けれど、ふたりの顔はいずれも澄んでいて明るかった。ほっと胸を撫で下ろす。元気そうでよかった。 それにしても、どうしてこのふたりが一緒に電車に乗っているのだろう。まさか何もかもがマティアスの見せる都合のいい幻というわけではないと思いたい。 いったいどうして、と思っていると、兄が膝に乗せているものが目につく。 (あ……) 紺色の風呂敷包み。その中には細かな刺繍がほどこされた布袋に、小さな箱が入っている。 ツバサはその箱が何なのか知っていた。幼い頃、両親と死に別れた時、兄とツバサでひとつずつ大事に抱きかかえて運んだ。 あれはツバサの遺骨だ。 「どうしてもさ」 膝の上の包みに手を触れながら、兄が言う。 「どうしても、手放せなくて……。だから今日まで引き延ばしてしまったんだけど」 その様子を見て、兄がなぜこの電車に乗っているのか、どこへ向かっているのかツバサには分かった。 兄はこれから、ツバサの骨を墓に納めに向かうのだ。 ツバサたちの両親の眠る墓は特急列車で三時間ほどかかる距離のところにあった。その旅路に、カズキが付き合ってくれているのだろう。 「よく、思い切れましたね」 労るようにカズキが応じる。その姿を見ているだけで、ふたりがツバサの死をどれだけ悲しんだかが目に浮かぶようだった。ごめん、と思わず心の中で謝る。 うん、とどこか上の空で兄は頷いた。しばらく何か迷うような間を挟んで、実はさ、と、膝の上の包みの中から紙を一枚取り出した。それをカズキに差し出す。 「三日前、これがポストに届いてたんだ」 「これは」 それは一枚の葉書だった。 離れているのに、ツバサの目にもそこに何が書かれているのか手に取るように分かる。表面には兄の名前だけが記されている。そして裏面には、ツバサのよく知る字が書かれていた。 「あいつの字だ……」 自分で言うのも恥ずかしいが、ツバサは癖のある字を書くほうだった。判読ができないほどではないが、すべての文字が斜めに傾く特徴的な字で、よく兄にもカズキにもからかわれたり逆に褒められたりしていた。 その葉書に書かれていた文字は確かに、ツバサの筆跡だった。あんなもの、書いた覚えはない。けれど内容には、覚えがあった。 ――ごめんって言いたいし、いままでありがとうも言いたかったし、あと。 幸せになってほしい。 かつて魔術師に伝えてほしいと願った、その言葉がツバサの声の代わりに文字として葉書に記されている。 手段を任せるのならば伝える、とマティアスは言っていた。その約束を、守ってくれていたのだ。 「誰かの悪戯かもしれないし、たぶんそうなんだろうけど……。なんかあいつなら、ほんとにそう言ってくれるんじゃないかって、そんな風に思って」 兄が膝の上に目を落として、ぽつりと呟く。そうだよ、ほんとうにそうだよ、とツバサはそれを見て頷くことしかできなかった。 ありがとうございます、とカズキが葉書を兄に返す。きちんと向きを正して渡すその仕草がカズキらしかった。 「きっと本物ですよ。だっていかにも言いそうなことだし。見てたら、声が聞こえてきそうじゃないですか」 ふたりが笑う。兄は葉書を受け取って、包みの中に大事そうにしまった。角を折らないように、少しの傷もつかないように、と気を遣った手つきだった。きっと兄は、この先もずっとその葉書を大切にしてくれるだろう。 「おっと」 とつぜん電車が揺れて車体が傾く。カーブのきつい箇所に差し掛かったのだ。 膝の上に乗せていた包みがあやうく滑り落ちそうになり、兄の手がそれを押さえる。隣のカズキも慌てて手を伸ばして支えた。 包みは無事だった。かわりにカズキの鞄が彼の膝から落ちて、床に荷物が散らばる。 その様子を見て、ふたりは顔を見合わせて笑った。無事でよかった、と言いながら荷物を拾う。 ツバサもその場に確かにいて、一緒に笑っていた。もう二度と伝えられないと分かっていても、ありがとう、と声に出さずにはいられなかった。 目覚めると、膝の上にささやかな重みを感じた。 「おかえり」 ツバサが身じろぎをしたせいだろう。膝の上にいた生き物が不満そうに小さく声を上げて鳴いた。 真っ白な猫だった。子猫と大人の猫のちょうど間くらいの大きさだろうか。ふさふさの毛並みと黄金色の瞳が、なんともいえず高貴だ。 「女王様もエルーシャの膝の上がお気に入りでね。久しぶりに会えて嬉しそうだ」 魔術師が言う。どうやらツバサが夢を見ていた間に、この白い猫があらわれて膝の上におさまっていたらしい。女王様、と呼ぶのがぴったりな気品のある姿で優雅に毛繕いをしている。その小さな頭を撫でさせてもらう。 「会いたい人の顔は見られたかな」 「……うん。ありがと」 「なに。お安いご用だ」 マティアスはそれ以上何も聞こうとしなかった。 瞬きをすると、雨に降られたように頬に雫が落ちる。夢を見ながら泣いていたらしい。指先でそれを拭い、猫をそっと持ち上げる。もう少し落ち着いていたかったのか、女王様が短く鼻を鳴らす。 立ち上がって揺り椅子に下ろしてやると、それはそれで構わない、と言いたげにまた丸まった。膝よりもこの椅子自体がお気に入りなのかもしれない。 魔術師はツバサに興味を失ったように背を向けていた。 「もう少し、続けさせてほしい」 その背中に向かって、静かに言う。 「地獄が待つだけかもしれないよ」 「分かってる。……でも、おれのままで続けたいんだ」 ツバサの遺骨を大切そうに膝に抱いていた兄の姿を思い出す。 兄もカズキも、骨の入った包みと葉書を何より大事な宝物のように扱っていた。 自分もそうしよう、と、そう思った。ツバサをあんな風に大事にしてくれていた人たちがいる。それと同じように、ツバサもエルーシャのことを大切にしたかった。だから記憶は捨てない。この心がある限り、ツバサはひとりではなかった。 いまの自分で、エルーシャの身体も魂も守りたかった。そのためなら、どんなことにだって耐えてみせる。 「好きにするといい」 こちらの顔を見て説得は無駄だと思ったのだろう。マティアスは軽く肩をすくめるだけだった。
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