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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
20


 とうてい自力では立てそうにないツバサを、カイルが抱きかかえて運んでくれることになった。
 狭くて暗い部屋の前には、ウィラードが立ち尽くしていた。司祭の姿がないことに安堵する。
「司祭様にはお帰りいただいたよ。今日のところはきみを閉じ込めたことで納得してくれたみたいだ。まぁすぐ出しちゃったわけだけど」
 内緒にしておけば分かるまい、とマティアスが笑う。その程度で引き下がってくれる相手とは思えなかったが、ひとまず今日のところはもう顔を見なくて済むようだ。
「……彼をエルーシャの部屋に運んで構いませんか、ウィラード様」
 どこか呆然とした様子でいるウィラードに向けて、カイルが尋ねる。
 エルーシャとは別の人間として、彼、と呼ばれた。大きくて力強い腕に抱きかかえられながら、胸がぎゅっと痛む。ついにこの時が来たのだ、と思った。
「しかし」
「マティアス様のお話では、身体は紛れもなくエルーシャのものとのことです。それならばまずは、彼の身体を休ませなければ。そう思うのですが」
 カイルの凜とした声に、ウィラードは言葉なく頷き返した。最愛の弟の魂が別の人間であると聞いて、頭がまだ追いついていないのが明らかだった。それも弟への愛情の深さゆえだろう。うろたえぶりに気の毒になってしまう。
「それでは、失礼します」
 対照的に、カイルは怖いくらいに落ち着いて見える。肩口あたりに触れている胸から伝わってくる心音も穏やかだった。物静かだけれどとても強い人なのかもしれない、と、そんなことを思う。
「部屋に、監視をつけさせてもらう。何かあっては司祭様にも合わせる顔がない」
 去り際、ウィラードはそう言った。その声は相変わらず戸惑いを含んでいたが、同時にほんの少しの敵意も込められているように感じた。
 監視。これまではそんなものは必要なかったが、中身が別人となれば、その行動を見張らなければならない、ということだろう。
 分かっていても、気持ちがしぼむ。一睡もできていないうえ、猛毒の苦しみにのたうち回って、ツバサの体力はもう底をついていた。そんな状態では物事を深く考えることもできないし、自分を励まし続けるのももう限界だった。いまはもう、ただ休みたい、の一心だった。
 ウィラードとマティアスを残し、カイルがひとりでツバサを運んでくれる。
 薬が効いてきたらしく、少しずつ息をするのが楽になってきた。抱え上げられた腕の中、おそるおそる、聞いてみた。
「マティアスから、どんな風に」
 まだ弱々しくしか息ができないとはいえ、我ながら、完全に怯えた声だった。ツバサよりも、得体の知れない存在と接しているカイルのほうが何倍も怖がってしかるべきだろうに。
「……エルーシャの息を吹き返す時に、別人の魂が入り込んだ、と」
 それを聞いて目眩がしそうになる。なぜかツバサが悪いように言われている。
 マティアスが自分の失敗を隠すため、ではない気がした。そんな体面を気にするような男ではないだろう。話を分かりやすくするためか、あるいは、エルーシャが生き返ることを拒否したのを伏せるためか、何らかの理由があって選ばれた言葉だとは思う。
「そっか」
 それにしてもよりによってそんな言い方、と、軽く笑ってしまう。
 そんなツバサを、カイルがじっと観察するように見ていた。何か言われるかと思ったが、それ以上は無言のままだった。静かなその表情が、どこか強ばって見えるのはたぶん、気のせいではないのだろう。

 カイルはツバサをベッドまで運んでくれた。怪我人を扱うように慎重な手で横たわらせ、履いていた靴も脱がせてくれる。
「着替えたほうがいいし、汗も拭くといい。手助けが必要なら屋敷のものに声を掛けておくが」
 何か考えるような間を置いてから、彼はそう言った。冷たくはないが、これまでに聞いたことのないような距離のある声音だった。エルーシャが相手なら、着替えもカイルが手伝ったのだろう。
「自分でできる。必要ない……」
 答える口調はエルーシャのものではなく、自然とツバサ自身のものになっていた。もう演じる必要がない、とツバサ自身が判断したからだろう。
 何をどう話したらいいのか分からなかった。好き好んでこの身体におさまっているわけではない、と事情をすべて話したかったけれど、いまはそんなそこまで長く話せる元気がない。
 それに、ツバサの事情をすべて分かってもらおうと思うと、どうしてもエルーシャが生き返るのを望んでいないことに触れざるを得ない。そうなれば、いまよりもっと彼らは衝撃を受けるだろう。
 何のかかわりもない第三者ではあるが、ツバサにとってカイルはこの世界で親切にしてくれた「いいやつ」だった。その人を悲しませてまで、自分は悪くないと弁明したくはなかった。少なくとも、いまは。彼は大事な親友が別人であることを知ったばかりなのだ。
 身体を起こす。痛みはもうぼんやりとして消えかけていたけれど、疲れ果てて全身ぐったりと脱力してしまう。ひと晩でかなり痩せた気がする。エルーシャの美しい顔がげっそりと痩せて、目の下に隈もできていることを思い描く。そんな姿を見せられるカイルやウィラードの心中は想像するにあまりある。
(ごめん、は、言うべきじゃない)
 友達をこんな目に遭わせてごめん、と謝りたい気持ちもあった。けれど謝ったところで、カイルを困らせるだろう。ツバサがこれまでに見てきた彼なら、きっと静かに首を振る。そうさせたくなかった。
「借りてた服、返すよ」
「いまでなくて構わない。気にしないでくれ」
 外出をした時に司祭に水を浴びせられ、濡れた服のかわりにカイルが自分の服を貸してくれた。それを借りたままになっていたことが気になっていた。けれど丁重に断られてしまう。
 その表情はどこか複雑そうにも見えた。あの時のエルーシャもエルーシャではなかったのか、と改めて考えているのかもしれない。
 当然のこととはいえ、カイルがエルーシャを相手にしていた時とは違い、一切笑顔を見せないことに胸が詰まった。無関係の自分がどれだけこの人を信頼していたのか、思い知らされた気がした。
「おれはウィラード様のところに戻る。疲れているだろうからよく休んでくれ」
 凜とした低い声で言って、カイルはツバサのもとを立ち去ろうとした。ありがとう、と礼を言おうとしたけれど、喉に引っかかったように声が出せなかった。
 立ち去るのを見送っていた背中が、ふいに振り返って寝台まで戻ってくる。ツバサと目線を合わせるように床に片膝をついて、カイルは厳かに口を開いた。
「エルーシャはおれにとって、たったひとりの大切な親友なんだ」
 こちらを見つめる瞳が澄み切って青く深い。こんなきれいな目をした人の語る思いは、きっとどこまでも純粋な、偽らざる本心だ。
「……だから頼む、エルーシャをおれたちに返してくれないか」
 静かな、毅然とした強い言葉だった。懇願、といってもいいほど、切実さを含んだ声。
 ツバサはぎこちなく頷くことしかできなかった。もとよりそのつもりだ、と言えたらカイルも喜んでくれるのかもしれない。けれどいまは、どんな言葉も口にできそうになかった。薬が効いているはずなのに、胸が引き裂かれたように鋭く痛む。
 カイルは戸惑いと悲しみが入り混じった、複雑そうな目をしていた。そんな顔ははじめて見た。ほんのわずか、怒りも含まれているかもしれない。きっとエルーシャの前では、見せなかった顔だろう。
 それでも語られる言葉は丁寧に選ばれたものだった。こんな得体の知れない相手にも誠実に接するなんて、ほんとうにどこまでもいい人、と痺れたようにぼんやりする頭で思う。
「頼む」
 ツバサが頷いたのを見て、カイルはもう一度繰り返す。そうして静かに立ち上がり、部屋を出て行った。今度は振り返らなかった。
(……着替えないと……)
 のろのろと重い身体を動かす。時間をかけて、力の入らない手で服を着替えた。汗も拭い、髪もとりあえず濡れた手布で拭っておく。爪を立てた手のひらに血が滲んでいた。とりあえず水に濡らして、できるかぎり血を洗い流す。ぼんやりとしたまま、何も考えられなかった。
 ――頼む。
 去り際に語られた言葉に、自分でも驚くほど、打ちのめされていた。
 カイルは何ひとつ間違っていない。エルーシャの魂はいまこの瞬間も彼らから遠ざけられている。それを返してほしいと願うことは、ごくごくまっとうなことだろう。
 ツバサだって、そうしたいとずっと望んできたはずだ。なのにこんなにも胸が痛む。
「がっかりしただろうな……」
 無意識のうちに、ひとりごとを呟いていた。
 もし自分が逆の立場だったら、それはもう落胆したはずだ。カイルのように理性的に振る舞う自信もない。親友を返せ、と泣いて飛びかかっていたかもしれない。
 だから気持ちは分かる。自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
 身体を支えていられずに横になる。ひとまず眠らなくては、と目を閉じた。
 ――エルーシャをおれたちに返してくれないか。
 けれど目を閉じても、一向に眠気が訪れない。へとへとに疲れ切ったはずなのに、さっきまでぼんやりとしていた頭は徐々にはっきりしていく。カイルに言われた言葉が、脳内をぐるぐる回っていた。それからこちらを呆然と見下ろしていたウィラードの落胆した顔も、なぜか得意げに笑うマティアスの言葉も。
 ――きみの心を楽にしてあげよう。
 もしマティアスが提案したとおり、ツバサの記憶や意思を消して限りなくエルーシャに近く上書きできたとしたら、カイルたちはあんなにがっかりした顔をすることもなかったのだろうか。
 エルーシャのために、と懸命に努力しようとしたところで、ほんとうに彼がそれを望んでいるのかどうかも分からない。もしかしたら大人しく嫁に行ってくれ、と願っているかもしれない。そうすれば丸く収まるから、と。カイルとの恋を叶えてほしいなんて、これっぽっちも望んでいないかもしれないのだ。
 もしかしたら、ツバサは余計な抵抗をしているのかもしれない。
 そんな、およそ生きていた頃の自分らしくないことを考えてしまう。あの暗くて狭い部屋からは開放されたのに、心だけをそこに置いてきてしまったようだった。どうしてもひとりだ、と思ってしまった。
 起き上がって、靴を履く。少しだけ横になったおかげで、どうにか動けはした。
「エルーシャ様」
 部屋の扉を開けると、そこにはウィラードの言っていたとおり、護衛らしき人物が立っていた。よく屋敷の玄関で見かける男だった。
 護衛はこちらの顔を見て、エルーシャ様、と呼んだ。その顔には別段警戒されている気配もなかった。おそらくウィラードは、エルーシャの中身が別人であることは話していないのだろう。わけあって護衛を部屋に付ける、としか説明していないのかもしれない。
 助かった、と思いながら彼に頼む。
「マティアスのところに行きたいんだ」
「しかし、部屋からは出さないように、と領主様からかたく言いつかっておりまして……」
「屋敷の外には出ない。彼の工房まで案内してほしいんだ」
 頼むよ、と、意識して相手の瞳をじっと見つめる。エルーシャの力をほんの少し借りたかった。油断していたのか、そもそも何も知らなかったのか、その人はすぐに夢を見ているような顔をして頷いた。
「ありがとう。案内してほしい、誰にも見つからないように」
「はい」
 とろん、とした目のまま、護衛は先に立って廊下を歩みはじめた。
 こんなに簡単に、と、改めてその力の凄さを知る。決して悪用はしないから、と心の中でエルーシャに謝った。
 誰にも見つからないように、という要望を守って、護衛はひっそりとツバサを裏口から外に連れ出してくれた。
 どうやらマティアスの工房とやらは、屋敷とは別棟にあるらしい。伸び盛るままに放置された草花の庭を少し歩くと、石造りの建物があった。ツバサの知る世界でいうと、よくある一戸建てくらいの大きさだ。
「少し話したいから、このままここで待っていてくれる?」
 ツバサが頼むと、護衛の男はかくんと人形のような動作で頷いた。はたしてどれだけ待っていてくれるだろうか、と思いながら、その建物の扉を叩いた。どうせツバサが訪れてきていることももう分かっているはずだ。だから遠慮せず、返事がかえってくる前に扉を開けた。
 工房の中は薄暗かった。窓がないのかカーテンが閉ざされているのか、外の光が一切差し込んでこない。その中にいくつかの蝋燭が橙色の光を淡く灯していた。不健康な部屋、が第一印象だった。
 壁はいずれもびっしりと書物に埋め尽くされている。魔術師はそれらに囲まれた古びた机に向かっていた。
「ようこそ」
 振り返りながらマティアスは言う。ツバサに起きた長いひと晩の出来事などなにひとつ知らない、とでも言いたげに屈託なく笑う。机の上にも床にも、何に使うのか分からない大小の道具が散乱している。怪しい男だ、と改めて思った。
「ひどい顔だ。眠れないのかな、それならよく効く薬を……」
「あんた、もしかして」
 やけに親切なその言葉を、ツバサは遮る。縛られて地下の部屋に放り込まれていた間に湧いた疑念があった。その疑いが、いまこうして楽しげに語る魔術師の顔を見ていると正しかった気がしてくる。
(もしかしたら、マティアスは)
 魔術師はこうなることをすべて見越していたのかもしれない。
 だからツバサに子どもたちとの迂闊な接触を許し、わざとエルーシャの力を発揮させた。そのことで町の人々や司祭が怒り、屋敷に押しかけてくる。薬の効果が切れて拘束されることも折り込み済みだろうか。身も心も弱ったところで効いてくるよう、あらかじめ「心を捨てる」という選択肢があることも提示済みだ。
 そうしてツバサのいない場所で、ウィラードとカイルにエルーシャが別人であることを告げる。その結果、ふたりからは偽物扱いを受けることになった。
 これらすべてを、ツバサの心を丁寧に丁寧に折るためにやっているのだと仮定する。そのうえでツバサ自身が記憶の上書きを依頼し、限りなく本物に近いエルーシャになることを願わせようとしている、のだとしたら。そこまでして、自分の望むようなエルーシャに仕立て上げたい、ということだろうか。
 この男ならやりかねないかもしれない。そのエルーシャには、カイルは以前のように優しく笑いかけてくれるだろうか。そんなことを考えてしまい、言葉はうまくまとまらなかった。
 けれど何を言いたいのかマティアスには伝わったのだろう。
「おれに未来視の能力はないよ。先のことなどなにひとつ分からない。きみと同じだ」
「分からないけど魔術師として考えはしたってことだろ。もういいよ。あんたがそういうやつだってことはよく知ってる」
 マティアスは答えず、肩をすくめるだけだった。どう受け止められても構わない、と言いたげだ。
 これから先も似たようなことが続くのだろうか。だとしたらほとんど嫌がらせだ。早いうちに屈服してしまったほうが楽なのかもしれない、と思わず心の中で笑ってしまう。
「ふたつめの『お願い』を使いに来たんだ。叶えてほしい」
考えるより先に、口を開いていた。


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