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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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19 悶え苦しむツバサを前に、ふたりは半ば呆然と立ち尽くしていたようだった。 やがて気を取り直したように、どうする、と小声で相談をはじめた。その結果、とりあえずツバサを拘束することに決めたらしい。ウィラードも最初は渋っていたものの、司祭の勢いに押し負けて従っていた。どうも、優しくはあるが気の弱いところのある兄らしい。 「どこか、外から鍵の掛けられる所に……」 「……地下へ……いまはもう使われていないものだが、かつて……」 ふたりが小声で話す声が、途切れ途切れに聞こえてくる。 反りが合わなさそうだったふたりなのに、ツバサを縛める時だけはやけに息が合っていた。あっという間に後ろ手に縛られてしまった。 ツバサは身体に力が入らず、自分の力で立ち上がることもできない。無理矢理立たされ、どこかに引きずって連れて行かれそうになる。さすがにそこまで無体なことはできないと思ったのか、ウィラードが背負ってツバサを運んだ。 「……大丈夫か」 背負うことで、こちらの呼吸が苦しげなことがはっきりと伝わったのだろう。ウィラードは時折、司祭の目を盗むようにひっそりと尋ねてきた。 聞かれたツバサは大丈夫どころではなく、返答さえできなかった。背負われた背中の大きさに、カイルに同じように運んでもらったことを思い出す。あの時は、苦しみながらも頬に触れる温もりに心が寂しさを感じていた。いまはただ、寒い、と背中のあたたかさが余計に寒気を掻き立てるように感じるだけだった。 やがて暗い階段を下ったのち、ツバサは小さな部屋に運ばれる。埃と黴の匂いがする、窓のない狭い部屋だった。その床にそっと下ろされる。弟の身が心配ではあるらしく、ウィラードが傍らでこちらの様子をうかがっていた。 「エルーシャ……」 小声でそう囁かれる。どうしたらいいのか分からない、とその声は如実に語っていた。司祭もウィラードも、聖水を浴びたことで様子を一変させたと思い込んでいる。ツバサが苦しんでいる様子を見て、ウィラードも司祭の主張を徐々に受け入れつつあるのだろう。 (……でもたぶん、それだけじゃない……) マティアスの言うように、ツバサは「失敗」したのだ。 司祭が訪れてからの短い時間でも、ウィラードがツバサの発言に違和感を覚えている様子は明らかだった。自分の目の前にいるのはほんとうに最愛の弟なのだろうか、と、一度疑念を感じてしまったら司祭の言葉こそが真実に思えてしまうかもしれない。ほんとうのエルーシャなら、兄にこんな顔はさせなかった。 「マティアスを、呼んでください」 息も絶え絶えに、ウィラードに頼む。 この場をおさめられるのはあの魔術師しかいない。まずは解毒剤を飲ませてもらって、こんなに苦しんでいるのはあの猛毒の影響だと分かってもらう。ツバサの存在についてはともかく、エルーシャが「悪魔」でないことはそれで分かってもらえるだろう。 しかし司祭もウィラードも、硬い表情をしたままこちらをじっと見下ろすだけだった。 心臓が引き絞られるように痛む。後ろ手に縛られたまま身体を丸め、息を荒くしてただのたうち回ることしかできない。神様がいるならこんな姿を見て同情するだろう、と思わずにいられないほどの激痛だった。 いっそ痛みで気を失ってしまえたらいいのに、状況が逼迫しているせいか、意識だけは嫌というほどはっきりとしている。 「……呼んでもよろしいですか、司祭様。マティアスは宮廷にいたこともある身です。何が起こっているのか、どうすればよいのか、わたしより遙かに詳しいはずです」 「あの胡散臭い男の言うことを信じるおつもりか。かねてからわたしはずっと疑っておりました、あの男こそが『悪魔』を招き寄せたのではないかと」 「そんなことは」 「だとすれば説明がつくでしょう。これまでこのようなことはなかったとあなたは仰った。それならばあなたの弟君は、あの者によって悪魔に身体を乗っ取られてしまったのでは?」 「魔術師はそのようなことを為す存在では……、いや、しかし……」 演説するように高らかに語る司祭に、ウィラードがそっと口を挟む。しかし言っている途中で自信がなくなったのか、最後まで言い終わらずにやめてしまった。ない話ではない、と思ってしまったのかもしれない。なにしろエルーシャが自死を選ぶための猛毒を調達したのもマティアスなのだ。 (悪魔……) 悪魔に身体を乗っ取られている。その言葉はツバサにとってもまたこのうえもなく痛いものだった。 司祭はある意味、正しいことを言っている。ツバサは悪魔ではないが、大事な家族や友人の中に見知らぬ何かの魂が入り込んでいると知れば、それを恐ろしいと思っても自然なことだろう。 予感はあった。いずれ隠しきれなくなると、分かってはいたが。 「ならばこのまましかるべき機関に引き渡すべきです。これ以上、何人たりともこの者と会わせてはならない」 「待ってください。まずは帝都にお伺いを立てないと」 いきり立って何もかも思うように進めてしまいそうな司祭に、ウィラードが慌てて言い返す。 こんな時にも帝都、だ。このまま放っておいたらもう誰にも会えずどことも知れない場所に連れて行かれてしまうのかもしれない。それに、この苦痛は解毒剤を飲むか、将来毒の効果が消えるまでずっと続く。 それまで自分の心が保ってくれるか分からなかった。喉を塞がれたような息苦しさがなければ、大声で悲鳴を上げ続けていただろう。 何らかの話し合いがついたらしい。部屋を出て行こうとして、ウィラードが意を決したように引き返してくる。床に倒れ込んだツバサの傍らに膝をつき、そっと手のひらで背中に触れた。 「聞こえているか、エルーシャ……。必ず助ける。おまえはわたしが必ず助けてみせるから」 だからそれまではどうか辛抱してくれ、と、祈るような声でそう言われる。背中に触れる手は撫でるようで優しくも力強かった。 足音が遠ざかり、鍵が掛けられたらしい重々しい金属音が響く。閉じ込められてしまった。 うう、と呻る。痛いのも、苦しいのもつらい。けれどいまはそれ以上に、心が潰れそうだった。黴臭い暗い部屋で、硬い床に横たわる全身がどんどんと冷えていく。 必ず助ける、とウィラードは言った。あれはツバサではなく、エルーシャに向けた言葉だ。 ツバサも同じ思いでいたはずだった。この身体には自分のような他人ではなく、エルーシャが戻ってくるべきだとずっと思っていた。そのためにできることがあるなら何でもしよう、と。悩みがあるなら解消して、不自由な環境からも解放して、叶わない恋も叶えてあげたい。 (けれどそんなの、ぜんぶ) 全部、ツバサが勝手にひとりでしていることなのだ。そもそもエルーシャがそれを望んでいるのかどうかも分からない。 そこまで考えて、また心臓が激しく痛む。丸めていた身体をさらに小さくするように丸め、大事にしなければならない他人の身体だということも忘れ、頬を何度か床に打ち付ける。自分の考えたことを取り消したかった。 後ろ手に縛られた縄は固く、ぎゅっと力を入れて握りしめた拳の中で爪が手のひらに食い込む。そこから血が流れているのも感じた。皆が大切なエルーシャの身体がこんなにも痛めつけられている。 心がとんでもなく弱っていた。こんな暗い場所に閉じ込められて、全身どこもかしこも痛くて、分かってくれる人もいなくて。涙が出そうになって、泣くな、と自分に必死に言い聞かせる。 どうしようもなく孤独だと、自分の置かれた状況をいまはじめて突きつけられた気分だった。大好きだった兄とも、友人とも、もう二度と会えない。そんな中で見知らぬ他人のために頑張って何になるのだろう、と、心が弱った本音を漏らす。 泣くな、と何度も歯を食いしばった。泣いても何も変わらない。そう言い聞かせて自分を保つしかなかった。 ――きみの心を楽にしてあげよう。 弱い本音に負けたら、その誘惑に負けてしまいそうだった。 ツバサの心をすべて消してしまったら、こんなに苦しむことも、かつての自分を恋しく思うことも、寂しくてたまらないことも、何もかも感じずに済むのかもしれない。限りなく本物のエルーシャに近い存在として、自分の在り方を何も迷わずに受け入れられるようになる。 それはもしかしたらツバサにとっても幸福なのかもしれない。そうなった頃には、ツバサという存在なんてどこにもいなくなっているのかもしれないけれど。 それも幸せなのかもしれない。そんなことを考えてしまって、また床に頬を打ち付ける。こうすることでしか自分を叱咤できなかった。 一切の光も差し込まない部屋の中で、小刻みに震え続けることしかできなかった。 その後も気が遠くなりそうになってはまた激痛に目覚めて、その繰り返しだった。死にかけのエビのように床の上で小さく震えながら耐えることしかできなかった。 冷や汗だか脂汗だかのせいで、全身ぐっしょりと濡れている。額や首筋に張り付く長い髪の感触が不快だった。手が使えないので取り払うこともできない。 もう呻く元気もなかった。どのくらいの時間が経過したのか分からないまま床の上で震えていた時、ふと、閉ざされた扉の向こうで重々しい金属音が響く。 鍵が外されているのだ、と朦朧とした意識の中で思った。ツバサの身をどうするか話がまとまったのだろうか。帝都とやらに運ばれるのならば、なんとかして隙を見て逃げ出さなければ、と考えた時だった。 「エルーシャ……!」 開かれた扉の隙間から淡い光が差し込んでくる。それと同時に、駆け寄ってくる人の影があった。 彼が呼んだのはツバサの名前ではなかった。けれど、その声を聞いた瞬間、強張って張り詰めていた身体からふっと力が抜けるのが分かった。もう大丈夫だ、助かった、とこの身体が安堵しているのが分かる。 駆け寄ってきた人にそっと抱き起こされる。一目で尋常でない状態だと見抜いたのだろう。触れてくる手は力強く、同時にどこまでも丁寧で労るようだった。その手で、後ろ手に縛られた縄も解いてくれる。 「これを。マティアス様から渡されたものだ」 安心させるように声をかけながら、小さな瓶を手渡される。ずっと求めていたものだ。けれど受け取ろうとした手に力が入らず、あやうく落としそうになってしまう。 「カイル」 力の入らない身体で、自然と名前を呼んでいた。カイルは落としかけた瓶を受け取り、目を合わせてひとつ頷く。瓶の蓋を開け、ツバサの口元に瓶を押し当てて飲ませてくれた。背中を支えてくれる腕に身体を任せて、子どものように与えられた薬をゆっくりと飲み干した。 薬の効き目が出るにはまだ早い。それでも、口に含むことができた、という事実だけでほんの少し息が楽になったような気がした。何よりいまは、そばにいてくれる人の存在が大きかった。 ありがとう、と礼を言いたいのに呼吸が整わず声がうまく出せない。こちらのそんな様子を、カイルはいたましい目で見ていた。マティアスやウィラードに、どこまで話を聞いたのだろう。聞きたいけれど、聞くのが怖い気もした。 「大変な目に遭ったな」 別の声が降ってくる。顔をゆっくり上げると、もうひとりの男がツバサを見下ろしていた。暗くても、どんな表情もそこに浮かんでいないのが分かる。そんな声だった。実際のところ、ツバサがどうなろうと魔術師は自分のやりたいことをやるだけなのだろう。同情的な言葉でさえ、どこか他人事だった。 「領主様とその男にはすべて話しておいた。安心して、眠るといい」 口調だけは朗らかに、マティアスはそう言った。 すべて、という言葉に、思わずかたわらのカイルを見てしまう。彼はいたましげな目をしたまま、静かに歯を食いしばるような表情をしていた。その顔はどこか悔しそうで、彼の波立つ内心が伝わってくる気がした。
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